香りをまとって、さようなら|珈琲掌編
「美樹さん、なんだか最近、ご機嫌ですね」
「え? なんのはなしですか?」
「……それ、最近よく言いますよね。なんなんでしょうか、それ」
さあ? とはにかんで、彼女はそのまま話を包み込んで終わりにしてしまう。
目の前のカフェカウンターの奥。やわらかそうな茶色いセミロングが揺れているのを、ぼう、と見つめていた。あたりには深い珈琲の香りが立ち込めている。午前10時。客はぼく以外だれもいない。
珈琲豆を力強く挽く彼女の腕は、今日も白くてたくましい。浮き上がる血管と筋肉が、これまで乗り越えてきた苦楽の模様を描いているように見える。
「もう、嫌なのよ、この姿を見られるの。強そうでしょ、わたしの腕」
彼女はいつものように言いながら、それでも豪快にコーヒーミルをまわし続ける。そんなことない、の意味をこめて、ぼくは首を2回横にふった。
彼女の、朝も昼も夕刻もいつも明るい陽だまりのような、その空気に。包まれ、巻き取られ、手も足も出ないように丸め込まれていたい。ぼくはいつも、勝手に期待している。期待しては、その希望を声に出して言うことはできずにいる。
そんな自分が嫌いだ。大嫌い。ガキくさくて、生意気で、なにもできやしない。そのくせに、彼女のやさしい世界の一端を担っている気になっている。
「慧ちゃん、珈琲はいつもの感じでお砂糖2杯でいいよね。ミルクどうする? たっぷり入れちゃってもいいよん」
「……ナシでいいですよ。今日は」
「ええ? 待ってよ待ってよ。だっていつもは、ブラックは無理っていうじゃない。カフェのお姉さまのいうことは、聞いておいた方がいいわよ~」
「……だからですよ」
「ええ? なに? どゆこと? なんのはなしですかっ?」
「もう……もう、なんでもいいです。いや、とにかく今日はブラックでいいです」
なあにい、もう。と笑いながら、美樹さんがまあるく、挽いたばかりの珈琲豆にお湯を注ぐ。
空気を介して香ってくる香りが、いつもよりも心なしか重くて甘い。
コポコポポポ……
お湯を与えられ、立ち昇ってくる珈琲豆。その様子はまるで生きているかのように見える。
「みて。呼吸しているでしょう。こうやって、空気と水分をたくさんあげることで、おいしくなるんだよ。手間と時間をかければかけるだけ……。なんだか。赤ちゃんみたいでしょう」
美樹さんはいつものようにそういって、無邪気に笑う。
美樹さん。
赤ちゃんを、育ててみたいのですか?
家族をつくりたいと、いつから思っていたのですか?
彼女が珈琲豆を「赤ちゃん」と評するたびに、ぼくはそんなことを聞いてみたくなるところを、ぐっとこらえる。さすがに。……さすがに、聞いていいこととわるいことがあるのは、ぼくにも理解できる。
「慧ちゃん。はやく大人になりたいんでしょう。お年頃ね。でも、まあ、ちょうどいいかもっ。今日の豆はベリー系で、飲みやすいと思うよ。じゃあ……はい。『なんのはなしです珈』」
「また……なんなんですか、それ」
「そういう豆の名前だよ。正式には今日のやつは……なんのはなしです珈、『Merry Merry Berry』」
ぼく専用だと、そういって美樹さんが特別に置いてくれている小さな白いマグに、半分程度注がれたそれをまじまじと見つめる。苦かったらミルクを足してね。そんな気遣いが手に取って伝わってくる。いつも以上に強く鼻をついてくる珈琲の香りが、ほんの少しぼくを大人にしてくれる気がする。
「……え。……甘い」
「そうでしょうそうでしょう。重厚な深みはありつつ、味わうと奥にいちごの甘みを感じるでしょう?」
ぼくは小さく頷いて、もう一度少し口にそれを含んだ。味わったことのない苦みが舌をびりつかせるけれど、それもすぐに甘みに変わる。苦い! と感じるのは一瞬で、そのあとに、その経験も必要なものだったのだと言い聞かせるように包み込んでくる、甘みと深い香り。
……大人になるって、こういうこと、なんだろうか?
「これなら……いけそうです」
ぼくは笑って美樹さんにいった。そう、と、ほっとしたような表情で美樹さんがエプロンを取り、カウンター裏から持ち出したハンガーにかけた。
「さて今日は、どうする? 中学のほうは、いけそうかい?」
「えっと……それは…………」
「……もし、ちょっと行けそうなら、また校門前までいっしょにいくよ。すぐそこだし、お客さんもこの時間は来ないしねえ」
そういいながら、彼女がカフェの入り口を見やる。視界に入る「OPEN」の文字。つまり、外から見れば「CLOSE」だ。
「……いつもすいません」
「いえ、いえ。私があなたに、校門前でうろうろしていたのを声かけたのが最初だしね。私も学校は好きじゃなかったよ。だからつい、ね。みんなで足並みそろえるってさ、難しいよね」
「このままじゃ……いけないとは思ってるんです」
「そうなの? まあ、いつかは変わる日はくるとは思う。思うけど……それを『今』だと思わなくっても、いいんじゃないの?」
「いや……ぼくは……はやく大人になりたくって……だから……」
マグに沈む珈琲が、音もなくゆらいでいる。塩気をふくむ水分がひと粒、そこに注がれた。
ぼくにもっと。もっともっともっと、勇気があったら。
美樹さんは、そっとティッシュの入った箱をカウンターに差し出した。ぺこりと会釈をしてから一枚取り出して、大げさに鼻をかんでみる。鼻をかむときですら、珈琲の苦くて甘い香りが後をひくので、少しおどろいてしまう。
「なんか……。珈琲って。すごいですね……」
まるで芸のない感想に、自分でも恥ずかしくなる。でも、今は素直にその言葉を残したくなった。
「ね! すごいよね!」
美樹さんは、花が舞うように、ぱあっと笑った。どうしてこの人は、そんな風に笑顔になれるのだろう。不思議でたまらない。
「慧ちゃん。今日は、それ飲んだら、帰りな。そしてまた、校門を抜けられなかった日には、ここにおいで」
ぼくは静かに頷いて、残り数センチの珈琲を飲み干した。さっきよりも、ほんの少しだけ切なくてしょっぱい味だ。美樹さんはエプロンを付けなおして、カウンターの奥にひっこんだと思ったら、なにかを手にとりもどってきた。
「はい。お土産だよ。『なんのはなしです珈』の『ロジウラーズブレンド』」
パッケージには、かわいらしいピンク色のキャラクターが描かれている。
「これって、ドリップコーヒーですか?」
「ううん。コーヒーバック! 緑茶とか、紅茶のティーバックあるでしょ。それのコーヒー版だよ。珍しくない? 簡単に本格的な珈琲を味わえるから、やってみて! ブラックももちろん、いい感じだし……一度ブラックでいれて、2回目にミルクと混ぜてカフェオレもおいしいよ」
ぼくがそれを受け取って「ありがとうございます」と言い終わるよりも前に、美樹さんが付け足す。
「わたし。今度の結婚式で、これ引き出物にするんだ。旦那さんが描いたイラストを載せてもらおうって思うの」
「わたしは絵が下手だからねえ……」と、照れくさそうに笑う彼女を、どこか他人事のように見ていた。引き出物の意味はまったくわからなかった。めでたいものだとは思ったけれど、わからないままでいたいと思った。ぼくは「わあ、いいですね」と、そういった。笑うことはできなかったかもしれない。でも、笑ってあげたいとは思った。
幸せになってください。そう、思った。
伝えることはできなかったけど。強く強く、そう願った。
「慧ちゃん。困ったときはね。『なんのはなしですか』、だよ。学校で、だれかに、なにかいわれたときは。そういって、跳ね返してやるんだよ。そして、さみしくなったら、またいってごらん。『なんのはなしですか』って。きっときっと、だれかが見つけてくれるからね」
「……なんのはなしですか?」
「そうだよ。その調子だ!」
美樹さんに、ぱしん、と背中をたたかれて、ぼくはカフェをあとにした。たぶん、いつものように手を大きくふっているであろう美樹さんを振り返らずに、まっすぐに家に帰った。
彼女の旦那さんがもうすぐ、あのカフェに業務用のコーヒーマシンを導入してくれるそうだ。だからもう、彼女のたくましい腕から挽かれる珈琲豆の香りには、出会うことはできないだろう。
これ以上私の腕が太くならなくてすむのよ、と、彼女がうれしそうに話していたのを思い出す。
ぼくなら。ぼくだったら。
彼女の手から挽かれる珈琲のほうがよかった。彼女の腕の疲れをサポートすることに徹するほうが、よほど有意義で意味のあることだと思った。
そしてそれが、ぼくと旦那さんの、決定的な違いなんだ。
ロジウラーズブレンドを取り出し、お湯を注ぐ。あてもないことを考えこんでいたら、4分をとうに超えていた。あわててコーヒーバックを取り出した。鼻を近づけると、今朝のMerry Merry Berryとはまた違う、さわやかで甘い香りが心にしみ込んでくる。
「にがい」
砂糖や、ミルクや、彼女との思い出や。甘いものは一切含めずに、まっすぐに珈琲に向きあい、声にだしてみる。にがい、と口にした瞬間に、追ってくる酸味と、甘み。ぼくは彼らになにも足していない。けれど、珈琲そのものはこんなにも個性を持ち合わせている。ひとくちに「珈琲」といっても、こんなにも違う。そのことに今更ながら、気がつく。
今更気づいたって遅いのに。なにもかも。
「……なんのはなしですか」
ぼくはロジウラーズブレンドに、そっとそっとささやいた。
それは少しだけゆれて、たゆたい、ぼくに微笑みをかえした。
見つけてくれた。
ここに、いたんだ。
そんな気がした。
もうきっと、ぼくはカフェには行かない。カフェを横目に、校門を通っていってやろう。制服に腕をとおして。前を見て。背中をぴんとのばして。
ほんとはぼくになんてちっとも興味のないクラスメイトたちに、「ずいぶん久しぶりじゃん」なんて、いわれるかもしれない。
そしたら笑っていってやろう。
なんのはなしですかって。
素敵な珈琲に出会い、私も物語をしたためたくなりました。
冬の珈琲はより甘く深くしみわたります。
じっくりとこの冬のあいだ、楽しませていただいています。
なんのはなしです珈がZINEになったぞ。
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