見出し画像

The Dance of Eternity (23)

前回の投稿エピジェネティックな文化伝達について紹介しながら生物の個体が次世代に形質を遺伝させる際の、遺伝子変異の遺伝とエピジェネティックな遺伝の両方をにらみつつ、後天的に獲得した形質の世代間伝達の難しさについて考えてみました。今回は個体間の遺伝からズームアウトして、生物の集団レベルでの遺伝(=情報伝達・文化継承)について考えてみましょう。

個体と社会集団の進化

生物進化研究の知見を企業組織の進化に応用することにはメリットがある一方、優生思想の例が示すように、素朴すぎる適用には危険も潜んでいます。『The Dance of Eternity(16)』では、個体に存在する遺伝子の多様性を、組織構成員の多様性や個人の内面におけるアイデアの階層的多様性に重ねて捉える方法について考えてみたことを思い出してください。

組織における個人と個人のなかで絶えず代替わりするアイデアの相似性

進化には、遺伝子(個体)レベルと集団レベルの複層性があることについては、長いあいだ議論されてきました。生物進化の理論には「集団選択」や「マルチレベル選択」という概念があり、自然選択が個体と集団のどのレベルで作用するのか〜個体なのか、集団なのか、もっと上位の単位があるのか〜を考えることが、とりわけ企業におけるノウハウや文化の伝承に応用する際に重要になってきます。

集団選択

集団選択理論は、自然選択は個体ではなく「集団」に対して働くと考えます。個体の環境適応度は集団全体の適応度に左右されるので自然選択が働く対象は個体ではなく集団と考えることで、個体が自己という個体より集団の生存を優先する「利他的行動」が合理的に理解できるというわけです。この考え方に立てば利他的な構成員が多い集団ほど、利己的な個体が集まった集団より優位に立つ可能性が大きいということになります。

2025年夏現在、世界中で大はやり(!)の「自国ファースト」「自国民ファースト」という利己的行動(ゼロサムを前提として他者との縄張りを争う戦略)は、こうした研究の観点からみると、短期的には成果がでるかもしれないけど、ゲーム理論でいう「長い目でみれば損な近視眼的戦略」と評価されます。

ジョージ・C・ウィリアムズやV.C.ウィン=エドワーズは、動物が集団的に行動を制御することで生活環境を安定させる性質を説明するために集団選択の概念を掘り下げました。「適者生存=自己中心的で強い個体が生き残る」というわかりやすいイメージではなく、「(一見回りくどい)社会的・利他的な行動の方がむしろ進化を促すうえで有利だ」と主張したのです。個体の生存に直接結びつかない行動でも、集団全体に利益をもたらすことで、その集団が優位に立つことがあるというのです。

集団内の助け合い

このような集団選択理論は、遺伝子中心の進化論の研究者からは一貫して批判を受けてきました。単純なところでは「利己的な個体」こそが(短期的に)集団内で有利になるはずなので「気長なメリット」は結局勝ち残れない、というものです。W.D.ハミルトンやリチャード・ドーキンスは、選択の真の単位は集団ではなく「遺伝子」であると主張し、特にドーキンスは有名な著書『利己的な遺伝子』で「進化は遺伝子レベルで起きているのであって、集団レベルの行動はその結果に過ぎない」と断じています。

マルチレベル選択

遺伝子・個体・集団のどれか一つの階層で進化が働くと考えると辻褄が合わないと考えた研究者がマルチレベル選択を唱えました。彼らは自然選択は遺伝子、個体、集団といった複数の階層に同時に働く、と考えます。進化はこれら階層間の相互作用で進むという考え方で、エドワード・O・ウィルソンデイビッド・スローン・ウィルソンはこの立場です。彼らは、個体の行動は遺伝子の自己保存欲求だけでなく、個体が属する集団や生態系のダイナミクスによっても形作られている、と主張します。

でも一見して分かる通り、この理論は進化のプロセスを包括的・巨視的に捉えているといえば聞こえはいいけど、その代償として複層性・相互性を腑分けして理解しているわけではないので、各階層で選択がどのように作用し、どのような効果を持つかを明確にできない憾みがあり、リチャード・ドーキンスやジョン・メイナード=スミスは、そのような曖昧さを批判し「選択の主たる単位は遺伝子しかありえないのだ!」と反論しています。

血縁淘汰と互恵的利他主義:集団選択・多層選択の理論

ドーキンスやメイナード=スミスの批判にも関わらず残る「進化において利他行動が(非合理的だとしたら)なぜなくならないのか?」という疑問に答えるため「血縁淘汰」や「互恵的利他主義」といった理論が登場しました。

進化は遺伝子の突然変異によって新しい形質が現れ、自然選択のフィルターを経て世代を超えて受け継がれる過程なので、ドーキンスが言う通り、基本的には個体レベルでの変化に注目すべきですが「利己的な行動の方が有利なはずなのに、なぜ多くの動物に利他的行動が見られるのか?」という疑問が残ります。

W.D.ハミルトンが1964年に提唱した血縁淘汰理論は「個体が自らの遺伝子を直接伝えるのではなく、同じ遺伝子を共有する近縁の個体(親戚)を助けることで間接的に自らの遺伝子の存続を図る」という考え方です。

アリやミツバチのような社会性昆虫では、女王だけが繁殖し、働きアリや働きバチは繁殖せずせっせと女王を助けるだけで一生を終えますが、これを自分の直接の子孫を残す代わりに、近縁の個体である「女王」を助けることで間接的に遺伝子を次世代に残そうとする戦略と考えるのです。「ハミルトンの法則」といい「血縁関係の深さに応じて加重された利益が個体を犠牲にするコストを上回るとき、利他行動が選択される」というものです。

女王バチ、働きバチ、兵隊バチ(source: bioninja)

プレーリードッグの一種のベルディング・ジリスは、天敵や捕食者が近づいてくると周りの仲間に知らせる警戒鳴きをします。鳴き声を発した個体は、それによって天敵や捕食者に見つかるリスクを引き受けることになる(=囮行動)ことで自らの命を危険に晒すことになるにも関わらず、近くの血縁個体を救うことで遺伝子の存続を図ろうとするのです。

ベルディング・ジリスの警戒鳴きは身を犠牲にして仲間を守る泣ける行動

ライオンの群れでは、血縁関係のある雌たちが協力して狩りや子育てを行うことで、グループ全体としての生存率を高めています。

自分を犠牲にして集団を利する行動は、グループ全体を個体の延長にある一種の「超個体」と認識し、それを繁殖単位として維持しようとする生き残り戦略とみなすことができます。一見すると自己犠牲的に見える利他行動も、遺伝的には高度な利己主義の現れにすぎないと解釈するのです。

血縁を超えた「ギブ&テイク」が成立する条件としての信頼

ところが生物の世界には血縁淘汰を超える協力行動が頻繁に見られます。この例として興味深いのが吸血コウモリの行動です。彼らは他の動物の血を摂取して生きていますが、毎晩必ず食料にありつけるわけではありません。そうした制約下で生きるコウモリの集団では、狩りによって空腹を満たせた幸運なコウモリが、狩りに失敗した空腹な仲間に血液を吐き出して分け与える行動が観察されます。これは「互恵的利他主義」の典型例で「今は与えるが、そうすることでいずれ自分も助けられるだろう」という期待に基づいているとされます。この相互扶助の仕組みが生物集団に対して血縁関係を超えた保険の役割を果たしているのです。

名前は怖いし姿もイカついけど、実は仲間想いな吸血コウモリ

ただ、この仕組みには「タダ乗り」のリスクがつきまといます。取るだけ取って返礼しない自己中心的な個体が出てくると制度が崩壊してしまうのです。こうして吸血コウモリの群れでは互恵性のルールを守らないわがままな個体には次回から食料を与えないペナルティが科され、集団内の互恵性が維持される仕組みとなっています。

バンドウイルカ血縁関係のない個体同士で集団で協力して魚群を追い込んで狩りを行います。集団で協力することで集団としての効率が上がるだけでなく社会的結びつきも強化されるわけです。こうなってくると血縁関係を感じ取って近親者の遺伝子を残す、という本能とすら呼べない集団としての生存本能の様相を呈してきます。

バンドウイルカは仲間で協力して狩りを行う

もっと進めると、異種生物間の共生関係という協力戦略もあります。アカシアの木はアリに住処と食料を提供し、返礼としてアリは草食動物から木を守っています。種を超えた協力・共生関係は、無数にみられますが、生物進化における柔軟で適応的な戦略の好例といえます。

アカシアは樹液でアリを誘引して相互依存的な協力関係を作っている

利己性と利他性のバランス

集団選択やマルチレベル選択の理論は「利己性と利他性のバランス」を重視しています。利己的な行動は短期的には個体に利益をもたらすものの、過剰になると集団の長期的存続を脅かす一方、個体にとって一見コストが大きいように見える利他行動が、長期的には集団の結束を強化し、集団を生存競争上優位に導くこともあるのです。このバランスは吸血コウモリの例のように「利他性に報酬を、利己性に罰を」という社会的な仕組みによって維持されています。

文化進化論

アリやハチのような社会性昆虫、コウモリやイルカのような哺乳類の例を挙げてきましたが、もちろん人間も社会的動物なので集団選択やマルチレベル選択、血縁淘汰、互恵的利他主義を体現しているのに加えて、人間社会には「文化的要素」が世代を超えて継承されるという、さらに上位の進化の層があります。これが前稿でも触れた「文化進化」です。

文化人類学者ロバート・ボイドピーター・リチャーソンが1985年の著書『Culture and the Evolutionary Process』で文化進化理論を体系化し「人間の行動や社会規範は、遺伝だけでなく学習や模倣を通じて文化的に伝達され、集団内の利他性の進化にも影響を与えている」と論じました。人間社会では文化的・社会的な圧力によって利他性や協力が促され、年長者や指導者、ロールモデルから学習することで協力的な規範が固定化されます。

競争が激しい環境ほど協力的な集団が勝ち残りやすいので、そうした協力的な文化的価値観が強化されます。ゲーム理論で説明される通り、人間同士の協力は、その場の即時的な見返り(即時の価値交換=取引)がなくても行われることがあり、長期的な信頼や相互扶助という文化的に進化した価値に支えられています。

返報性についての議論は奥深くて、近いところでは「Give & Take」というベストセラーを出したアダム・グラントが「Taker、Matcher、Giver」という表現で議論している(詳細と僕の考えはいずれ別稿で投稿します)し、古くはアリストテレスが人間の徳性について語るなかに「「贈与を受けた者には、返礼の義務がある」という構造が社会の協力関係や信頼を生む」というくだりがあります。他にも、マルセル・モースの『贈与論』やナサニエル・ブランドンの『自尊心の心理学』のようにいろいろな論客が「他人に生かされているという謙虚さや負債意識の重要性」を雄弁に論じています。また禅や仏教にも「自分は多くの存在のおかげで生かされている」という負債意識が重要視されています。最近の「◯◯ファースト!」という政治的な流行には逆らう姿勢ですね。

文化進化論への批判

文化進化理論には批判もあります。第一に遺伝的進化の役割を過小評価しているという批判です。進化心理学者は利他性の行動には、まず遺伝的な基盤があって、それが文化的要因と連動していると主張し、文化の従属性を強調します。

また、文化の伝達プロセスは常に安定しているという前提に疑問が呈されており、文化的規範は頻繁に変化するので、どのように維持され進化的にどのような意義を持つのかについては議論の余地があるというわけです。昨今の政治的流行りをみていても、文化の伝達プロセス自体のゆらぎは、まあ、明らかなので過度な単純化は禁物と言われればその通りですが。

文化進化理論と集団選択理論の間の重複や混同の問題も指摘されます。これらが、どのように関係し、どこで分岐しているか必ずしも明確になっていない、というのが現状です。

文化進化理論の中核にある「個人を犠牲にして集団の利益を優先する方が集団の長期的生存に資する」という考え方は、全体主義的イデオロギーに悪用されるリスクも孕んでいます。歴史的に全体主義体制は「国家」や「民族」の発展を個人の幸福より優先すべきという論理を用いて、個人の権利を抑圧してきました。文化進化論者はそういう全体主義を支持しているわけではかいけど、意図的な混同が可能であることは否定できません。

一方、文化進化の理論は、協力や利他性が長期的には個人にも集団にも利益をもたらすことを強調し、進化プロセスにおける自由意志と多様性の両立余地を認めています。協力は強制ではなく、あくまで自発的であるべきだとするのが基本的な立場です。

今後の議論では、こうした集団選択、多層選択、文化進化の理論を、企業組織内での人間行動の理解と制御にどのように応用できるかについて掘り下げていきます。

いいなと思ったら応援しよう!