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「頑張れば報われる」は誰のための言葉か?

――努力が踏みにじられる社会で、私たちは何を信じればいいのか?

本noteはシリーズ『怒りから始める哲学エッセイ』の第4弾です。本作から読み始めても問題ありません。

Vol.1 “安くて便利”の時代に人間だけが安売りされる理由
Vol.2 “空気”が民主主義を殺した日
Vol.3 怒ることが、なぜこんなにも怖いのか?
Vol.4 「頑張れば報われる」は誰のための言葉か?
Vol.5 その光は誰を照らし、誰を見えなくしているのか?
Vol.6 私は誰かの怒りを、笑っていなかったか?
Vol.7 感情を捨てることで、何かを守っていないか?
Vol.8 なぜ私たちは、“普通”に苦しめられるのか?
Vol.9 沈黙に加担しないために - 怒りを手放さずに生きる術



序章:「痛みに耐える」は幻想ではなかったか?


「痛みに耐えて頑張れば、いつか報われる」
そう信じて、私たちは生きてきた。


小泉純一郎が総理だった頃、こんな言葉が繰り返された。

「痛みをともなう改革」――だから仕方がない、我慢しよう。


だがあれから20年、私たちの暮らしは、本当に良くなっただろうか?


努力しても報われない。
真面目に働いても生活が苦しい。
正社員になれない若者たち。
年金に不安を抱える高齢者。
子どもの給食費を払えない家庭。


それでもこの国は言い続ける。

「自己責任だ」
「努力が足りない」
「甘えるな」――と。


いつからだろう。
「頑張れば報われる」が、「報われないのはお前のせいだ」にすり替わったのは。


私たちは、その痛みに本当に耐える必要があったのだろうか?
それは、一部の人々の都合によって作られた幻想ではなかったか?



第1章:「努力すれば報われる」は本当か?


「努力すれば夢は叶う」「頑張れば報われる」

そんな言葉に励まされた人もいるだろう。
だが同時に、その言葉に押しつぶされた人も確かにいた。


背景には、「報われないのは努力が足りないから」という自己責任の論理がある。

「貧困はその人の努力不足」
「ブラック企業で働いてるのは転職しない本人のせい」
「うまくいかないのは、あなたが甘いから」

――この論理は、とても便利だ。
構造や制度の欠陥をすべて“個人”に押しつけることができるから。


だが本当は逆だ。
努力だけでは超えられない壁がある。
不平等に生まれた土壌があり、
制度や政治がつくった格差がある。


スタート地点の違い、制度が生む格差――それを無視して「努力が足りない」と言い切る社会は、弱い者を切り捨てる仕組みそのものだ。



第2章:「改革」によって壊されたもの


2000年代前半、小泉純一郎元首相が繰り返したキャッチコピー。

「構造改革なくして成長なし」
「聖域なき構造改革」
「民でできることは民で」

響きのいい言葉が、次々と流れてきた。


私も一時期、信じていた。「古い日本を変えなければ」と。


だが今ならはっきりと言える。
あれは“改革”ではなく、“破壊”だった。
「改革」の名のもとに、福祉や雇用の安全網が削り取られた。


郵政民営化はその象徴だった。
郵便局は、日本中どこでも人々の暮らしを支えるインフラだった。
年配者にとっては頼れる窓口であり、地方では銀行の代わりでもあった。


それが「民営化」の名のもとに切り売りされ、郵便局は民間企業として効率性を追求するようになり、その過程で、かつての公共サービスとしての側面が損なわれた。


「小さな政府」と聞こえはいいが、国が責任を放棄しただけだった。


それを主導したのは、竹中平蔵のような“構造改革の請負人”たちだ。
彼は労働市場を緩和させ、派遣社員という不安定な働き方を一般化させた。
正社員という安定は過去のものとなり、「自由な働き方」という言葉が、“使い捨て可能な労働”の言い換えになった。


そして、当時の空気に私たちも加担していた。
痛みに耐えることが賢さ」と信じ、「国の借金」という言葉に不安を煽られ、疑問を呑み込んだ。


今また、小泉進次郎農林水産大臣が父の言葉をなぞるように、

「聖域なく、あらゆることを考えコメ価格の安定を実現する」

と言い出した。明らかに「聖域」という父親の使った単語を意識している。選挙が近いことを意識してのパフォーマンスだろうか?


再び幻想が作られようとしている。
私たちはまた、同じ幻想に騙されるのか?



第3章: “努力できる環境”の不平等


「本気でやればなんとかなる」
「やる気の問題だろ?」
――そんな言葉が、社会に溢れている。


だが、“努力できる環境”に恵まれない人に、努力だけを求めるのは公平なのか?

家庭の経済状況、親の支援、健康状態、情報アクセスの有無――それらが整わない中で、努力だけでなんとかなる社会ではない。


「みんな大変なんだから」「甘えるな」――そうした言葉は、構造的な問題から目を背けさせる装置として機能する


今、思い詰める若者や子どもたちに伝えたい。

その重荷は、あなたが背負うべきものじゃない。



第4章:「努力すれば報われる」は何をごまかしたか?


「努力すれば報われる」は、もともと希望の言葉だった。

だが、その言葉は時に現実を覆い隠す麻酔になる
努力する場すら不安定にされた中で、「報われるはず」と信じることは、かえって人を追い詰める。


改革という言葉で、国の責任は放棄され、民営化の名の下で社会の基盤が削られていった。


その中で「もっと努力しろ」と言い続けられた。
それは、制度や構造が生んだ痛みをごまかすための言葉だったのではないか?



第5章:それでも、努力という言葉を守るために


「頑張っても報われないなら、もう信じられない」

そう感じるのは、自然なことだ。


だが、私たちが向き合うべきなのは「努力」という言葉そのものではない。
“努力すれば報われる”という前提が、平等な土壌の上に成り立っているのかを問うことだ。

努力が報われる社会とは、誰もが同じスタートラインに立てる社会だ。


だからこそ、こう問い続けたい。

その人は“努力しなかった”のか?
それとも、“努力させてもらえなかった”のか?


そして私たち大人は、その幻想に加担してきた。
だからこそ、こう言いたい。

「報われない努力」に耐えることを強いられる社会に、怒っていい。


怒りは破壊ではない。
「おかしい」と思った感情を、そのままにせず、行動へとつなげていくこと。

それが、自分自身と誰かの未来を守る力になる。



選挙が近い。

「どうせ変わらない」なんて言わずに、せめて一票を投じてほしい。

痛みに耐えることより、社会のかたちを問うことのほうが、ずっと意味がある。


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