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【短編小説】 ヒカにおちる

*こちらは、なみさん主催 #noteでBL企画の応募作です。BL・ブロマンス要素を含みます。

*今回はかし子さんの激重感情仄暗不穏企画です!「可哀想な過去話NG!治安のいい不穏を!」「ベタ惚れ攻め×誘い受け」「2人だけが幸せな倒錯した世界」というのがお題です!

*ジャンル:SF

*あらすじ:ヒカは14歳の誕生日に飛べなくなった。療養所に入って一年になる。夏至を間近に控えた週末、幼馴染の空知(そらち)は療養所を訪ねる。ヒカは痩せ細っていた。空知はヒカを連れ出そうとするが、ヒカは「ここにいたい」と訴える。近未来SF+ジュヴナイル+ほんのりホラー風味、9,000字の短編小説です。


✏︎✏︎✏︎本編はこちらから✏︎✏︎✏︎

 落下したヒカは療養所に入った。
 もうすぐ一年経つ。
 夏至も目前となった週末の午後、僕はヒカを訪ねた。
 療養所は岬の先端に建つ。灯台のような姿をしている。僕らの街からは療養所の灯を見ることが出来る。たどり着くには海岸線を回り込むか、船で行くしかない。
 快晴の空は水平線で海と混じり合う。海上を飛んでいる白いジャンプスーツの一群がある。
 僕はその中にヒカを見つけた。
 ヒカは別格だ。
 反作用リングを両手首と両足首に装着し、一定の練習を積めば、誰でも飛ぶこと自体は出来るようになる。しかし、ヒカのように浮遊することは出来ない。
 仲間うちでヒカほどの飛び手はいなかった。
 ヒカはいずれヒカの父の後を継いで、トラペジオの選手になるのだ、と誰もが疑わなかった。
 
 僕は荷物を背負い直し、再度頭上に目を向けた。見上げすぎて首が疲れた。
 どう考えても高すぎる。
 反作用リングの効果は地表から二百メートルほどだ。波の上ではもっと効果が弱まるはずだ。
 ヒカは急降下と急上昇を繰り返していた。白い点のように小さくなるまで昇る。
 危ない、と思ったときには降下が始まっていた。きりもみして落ちてくる。
 僕は手に嫌な汗をかく。ヒカが落ちる姿を見るのは一年ぶりだ。
 ヒカは十四歳の誕生日に落下したのだ。
 何者か、おそらく医師と思われる人影が、海上でヒカを抱き留めた。
 僕は安堵し、大きく息をつく。

 目を地上に戻したところで、音もなく、療養所の門が開いた。

 療養所の建物は、昔は実際に灯台として使われていたらしい。
 床は古風な市松模様のタイル貼りになっている。重厚な木製カウンターで来訪予約の確認をする。
「空知」
 カウンター内の女性が僕の名を読み上げた。
「良い名前ね」
 どうも、と僕はうなずく。
 彼女はエレベーターを指し示した。
「ヒカの部屋は1033号室よ。地下十階まで降りれば案内表示があるわ」

 療養所は地下に延びていた。館内は清潔で無機質だった。
 エレベーターを下り、床も壁もクリーム色の廊下を歩き、1033号室のブザーを押した。扉は左右にスライドして開いた。
 部屋の入り口からは奥まったベッドルームまでが見渡せた。右手にミニキッチン、左手にバスルームがあり、部屋の中央には睡眠装置を備えた楕円形のベッドが鎮座している。
 僕はベッドに腰掛けて、ヒカが部屋に戻ってくるのを待った。
 飛翔して落ちたヒカは、怪我をしていないだろうか。

 再度扉が開き、医師に抱きかかえられたヒカが入ってきた。
 その男性医師は、大柄というわけでもないのにヒカを軽々と運んでいた。
 ベッドに下ろされたヒカを見て、僕は理由が分かった。
 ヒカは一年前よりずっと痩せていた。元々、飛ぶのにふさわしい華奢な身体つきだったけれど、今は寒々しいほどに細い。
「君が空知だね。ヒカから聞いているよ。幼なじみなんだって?」
 医師が僕に確認した。
 医師は、黒いフレームの眼鏡をかけ、真っ白なシャツを着ていた。
「ヒカの反作用リングを外しておいてやってくれないか。そのうち目覚めるはずだから」
 彼はヒカの前髪の乱れを整えた。
 さらさらした栗色の髪は昔と変わらない。伏せられたまぶたの裏には、血管が紫色に透けている。
「ヒカは眠れないんだ。だから時々、意識を失う高さまで飛ぶ。そうやって気絶して眠る」
 医師はベッドヘッド部分のモニターを指で弾いた。睡眠装置のモニターだ。
 ヒカにはオートスリープが効かないのだろうか。だったら何のために一年間も療養所にいるのだろう。
 医師は、僕のもの問いたげな顔を一瞥して、部屋を出て行った。
 
 僕はヒカの手首から反作用リングを外した。僕も以前はヒカと飛んでいたから、付け外しの方法は心得ている。
 ヒカのリングは超硬質ジュラルミンで出来た競技用のものだ。シューズを脱がせて足首からもリングを抜く。下肢のか細さに愕然とする。
 まるで小鳥の足みたいだ。
 
 足首と手首に内出血の痕があった。首筋にもほのかに朱い痕が走っている。
 その意味が分からないほど、僕は子どもじゃない。折檻をされたようにも愛されたようにも見える。

 目を閉じたままのヒカはよそよそしく冷たかった。一年も離れていた。ヒカはその間に子どもではなくなっていた。
 誰かがヒカを、殻を外側から食い破るようなやり方で、羽化させたのだ。
 僕ではない何者かが。

「ソラ」
 ヒカが起き上がった。
 黒目がちな瞳にうっすらと皮膜がかかっている。温めすぎたミルクの表面のよう。
 一年ぶりに、ヒカに触れた。
 
 僕は、ヒカのうなじとおとがいに手を添え、舌先で瞳に触れた。皮膜を舌で舐めて取った。
 幼い頃、このやり方で、ヒカの瞳をきれいにしてあげたことを思い出した。
 ヒカは泣き疲れて眠った後に、瞳が曇るのだ。

「ソラ」
 ヒカは僕のことを空知、と呼んでいたのに。
 僕はヒカに名を呼ばれるのが好きだった。
 僕の名が明確にそこにある、という感覚が好きだった。
 こんなふうに、危うげな声音で呼ばれたことはなかった。
 
 ヒカは僕の首に手を回し、僕の耳を甘噛みした。
「ソラ。抱いて」
 ヒカの舌が僕の外耳を這う。
 花弁に潜り込んで蜜を吸うハチドリの羽ばたきを思う。
 無音のホバリングに高まる心拍。
 僕たちは唇を合わせた。
 わずかに触れただけ。蝶つがいがかけ合わさるような、まばたき一つぶんにしか満たない、くちづけだった。

「空知」
 ヒカが濁りの抜けた目を見開いた。
「本物の空知?」
 ヒカは後退った。ベッドから転げ落ちるようにして床に降り、バスルームに駆け込んだ。
 何かが落ちて割れる音がした。

 
 ヒカは飛行用のジャンプスーツを脱いで、丈の長い白いシャツに着替えた。シャツの裾からは紺色のトラウザーズの膝下が覗く。首元までしっかりとボタンをかけている。
 顔はまだ少し青ざめている。
 食堂は地上にあった。
 元々は灯台として使われていた部分だ。宇宙船の内部を思わせる地下部分に比べて、地上階は、高い天井と梁がクラシックな印象を与える。
 開け放した窓から潮騒が入ってくる。
 食堂では、白いシャツを着た子どもたちが、それぞれ静かに夕食をとっていた。
 ヒカは僕の隣で丸パンをちぎっていた。
 パンの外側だけ食べて、中の白い部分をこよりのようにして遊ぶのは、ヒカの癖だ。何かを言いたくて言えないときの。
「白いシチューは苦手?」
「ん」
 ヒカが唇をとがらせる。
「じゃあ僕が食べてあげるから、ヒカは僕の豆サラダを食べて」
 こうしていると学校のカフェテリアにいるみたいだ。僕たちはずっと隣で過ごしてきたのに。

「空知は、ユリと続いているの?」
 ユリは去年、ヒカの誕生日の前日に、僕に告白してきた。
「ついこの間、振られたよ」
 ユリがどういう食べ物を好きか嫌いか、結局のところ知らないままだった。
「ユリの、アカウントのステータスがパートナー有りになってたから、まだ付き合っているんだと思ってた」
 ヒカの言葉に、僕は肩をすくめた。
 たぶんユリには新しい相手が出来たんだろう。
 ヒカが、女の子だとか恋愛関係のことに興味を持っていることの方が新鮮だった。ヒカは地上のこととは無関係に見えてしまうのだ。
「ヒカもここを出てガールフレンドをつくればいい」
 僕はヒカを迎えに来たつもりだった。
 一年は長い。
 夏休みが終わったら街の学校に戻っておいでよ、と伝えたかった。

 さっきベッドの上で、抱いて、と僕にすがりついてきたヒカがよみがえった。
 驚いた。
 全く抵抗感が無かった自分にも驚いた。ヒカと抱き合うことは当然だという気もした。

「別に、ヒカがボーイフレンドが欲しければ、そっちでもいいけど。ヒカがそうでも、僕は気にしない。誰も気にしないさ。もう百年以上も前から、多様性の時代だ」
 
 ヒカはフォークを置いて両手で顔を覆った。「ぼくは気にするよ」
 ヒカはひとつひとつの所作が優美に見えてしまうのだ。
 飛ぶための一家に生まれた所以だろうか、テーブルに肘をついてうなだれていても、可憐に見える。
 幼い頃はその容姿のせいで同級生から揶揄われていた。ヒカが誰よりも速く飛ぶようになるまでは。
 十四歳になる頃、誰もヒカに追いつけなくなった。ヒカが僕の隣にいなくなった頃に、たまたまユリが現れた。
 結局はそれだけのことだった。

 
 夜はヒカの部屋に泊めてもらった。僕はソファで寝ることにして、ヒカがベッドを使った。
 睡眠装置を必要としているのはヒカなのだから。
 オートスリープを起動させるとベッドパッドが蛍光グリーンに発光するのだと知った。
 僕はベッドサイドに立った。ヒカの顔は仄暗く見える。
「この装置、効いているの?」
 眠れないの? と尋ねるのは、何故だか、はばかられた。
「効くこともあるよ」
「効かないことも?」
 ヒカは答えずに目を閉じた。

 真夜中にヒカはベッドから出て行った。
 僕の手に触れて出て行った。ヒカの手が離れていく感触で僕は目を覚ました。
 廊下の低い位置に、ところどころ常夜灯が光っている。ヒカの裸足のつるりとした足裏が見える。
 僕はスニーカーに足を突っ込んで後を追った。
ヒカの乗ったエレベーターは地下一階で止まった。僕は迷った末に、もう一基のエレベーターで地下十階から一階まで上がった。
 地下一階の廊下は真っ暗だった。エレベーターの扉が閉まると何も見えない。エレベーターの階数表示が唯一の明かりだ。
 暗がりに目が慣れるのを待つ。耳を澄ます。
 かすかに波の音が聞こえる。
 どこかで重そうな扉が開いて閉まったようだ。わずかな軋みと空気の揺れを感じた。
 手探りで歩き出す。

「ソラ」
 呼びかけられて僕は足を止めた。
 ざらついた壁の手触りが途切れる。そこに金属製の扉があることが分かった。レバー型のドアノブがついている。声はそこから漏れていた。

「ソラ。抱いて」

 ヒカは溺れるひとのような声を出していた。 
 ヒカは誰に、抱いて、とねだっているんだろう。鳴き声が漏れ聞こえてくる。
 むせび泣く声は悲痛なほどか細く、それでいて扇情的だった。
 中で何が起こっているのか分からないほど、僕は愚かじゃない。むしろ踏み込むほどの無神経さを持っていたらよかったのに、と思う。
 ヒカの、過呼吸発作にも似た吐息が、僕の脳内にも波紋を広げる。反響する。
 触れたドアノブは冷たくて、逆流した血液は、身体の一部に流れ込んでくる。指先は冷えているのに、そこだけが熱くなる。
 自分では制御できないほどに、欲望と嫉妬心が、どす黒く膨れ上がる。
 誰かがヒカの首筋に唇をつけ、朱い痕をつけているのだ。この扉の向こうで。
 今、このときに。

 ヒカが部屋に戻ってきたとき、僕はソファで寝たふりをしていた。
 ヒカは床にしゃがみ込んで僕の手を握った。ヒカの手は冷たく湿っていた。
 幼い頃は冷え性のヒカの手を包んで温めてあげていたことを思い出した。
 僕は寝たふりをしたまま、その手を握り返した。

 
 朝食の後でヒカを飛行に誘った。
 僕も愛用の反作用リングを持ってきていた。
 ヒカは白いジャンプスーツを身につけた。この色で飛ぶことが療養所の決まりだそうだ。
 着替えるときにヒカの裸身を盗み見た。腰骨と、肋骨の浮いた胸回りを目でたどり、鎖骨の上部に新しい朱い痕跡を認めて、僕はひとりざわつく。
 ヒカは淡々とジッパーを顎下まで引っ張り上げた。
 
 崖の途切れるところにジャンプ台があった。
 ヒカは海上に浮かんだ三つのブイを指し示した。飛行許可区域はこのトライアングルの中だ。街では、僕たちは決められたパークの中で飛ぶ。

 僕はヒカに手を差し伸べた。
 ふたり初めて飛んだ日のように、ヒカと一緒に飛びたかった。
 ヒカは目を細め、リングの上から僕の手首を握った。僕もヒカの手首を握った。僕たちの好むやり方だ。
 決して離れないように。
 崖下から潮風が吹き上がってきて、ヒカの栗色の髪を乱す。
 言葉にする必要もない。どの風で踏み出せばいいのか、ヒカを見れば分かる。社交ダンスのステップのようにつま先が動いた。
 
 反作用リングは重力と浮力と空気抵抗を操って飛ぶ。
 僕たちは水面すれすれまで下降した。
 眼球の裏側を風のつぶてが通り抜け、前頭葉に刺さる。目を閉じそうになる。
 ヒカが力強く僕の手首を引いた。直後に舞い上がる。
 ヒカは宇宙の法則を知っているかのように飛ぶ。身体を風の層の隙間に滑り込ませ、さらに浮力を得る。羽毛のようにふわりと漂うことも、木の葉のように風に翻弄されて見せることも、自在にやってのける。
 僕はただヒカと手をつないでいる。

「今日は空気がよく見えるよ」
 ヒカの瞳には濁りがなかった。
「自然の摂理に逆らわなければいいんだ。難しいことじゃないよ。空知も空気をよく見てごらん。境目がある。そこを通ればいいんだ」
 涼しげなヒカの横顔を僕は誇らしく思う。

「帰ってこいよ」
 僕はヒカの耳に唇を寄せた。
「ヒカはこんなに飛べるんだ。療養所にいる必要なんて無いだろう。僕と帰ろう」
 僕はバランスを失ってふらついた。ヒカが手を離したのだ。自身の手首から僕の手を振りほどく。
「ぼくは帰らないよ。ここにいたい」
 ハチドリのホバリングのように、ヒカは空中でもゆるがない。僕は四苦八苦の末、やっと体勢を立て直した。

「誰なんだ」
 言ってしまったそばから僕は後悔する。
 いったん口に出してしまった言葉は、巻き戻すことが出来ないのに。
「ヒカが昨夜誰かと会ってた。それは知ってるんだ。何をしていたのかも」
 ヒカが唇を噛む。こぶしをきゅっと握る。
「空知は、見たの?」
 見ていない。
「見たよ」
 僕は嘘をついた。卑怯な嘘だ。
「見たよ。何だよ。誰だよ、あれ。ヒカは僕よりもあいつを選ぶの?」
 ヒカの唇が切れて、赤いしみが散った。かくんと首が落ちた。ヒカは視界から消えていた。

 永遠と一瞬はこんなにも似ている。

 一年前にもそう思った。そんなことを思い出している自分に腹が立った。
 一年前、ヒカの十四歳の誕生日に、ヒカが初めて落下したときだ。トラペジオの試合中のことだった。

 圧力を下げて急旋回し、僕はヒカの後を追った。自然の摂理に逆らうには僕はあまりに無力だ。重力に抗い、その先を行く。
 重力を超えなければ、ヒカの降下に追いつけない。
 スピードに耐えかねてこめかみが痛む。かろうじて片目を開けて狙いを定める。
 海面すれすれで僕はヒカを抱き留めた。
 水しぶきが当たって頬が激しく痛んだ。鼻血が喉まで流れ込んでくる。
 僕はヒカを抱いて背中から海に落ちた。

 僕たちを海面から救出したのは黒縁眼鏡の医師だった。彼はこうなることを予期していたらしく、救命ボートに乗って現れた。療養所の地下十五階にあたるエリアの桟橋から、ヒカは医務室へ運び込まれた。

「君は身体が丈夫だね。毛細血管が多少切れたくらいで」
「多少?」
 僕は医師をにらみ返した。
 鼻血でガーゼが何枚も汚れる。
「ヒカは?」
「意識を失っているだけだ。水も飲んでない。バイタルも正常。彼はね、意識の回路を自分で切ってしまうんだよ。飛んでいる最中に」
 そんなの自殺行為だ。
「ここは飛ぶための療養所じゃないってことですか?」
 僕は気になっていたことを尋ねた。
「飛ぶことは治療の一環だけどね」
 眼鏡の医師は、自分は精神科が専門だ、と明かした。

「一階には誰がいるんですか?」
 僕は質問を変えた。
 ヒカが意識を失っている間でないと尋ねられないことだ、と思った。
「誰もいないよ」
 医師はこともなげに言った。
 僕はこの医師を疑っていた。こいつが、夜ごとヒカの身体を好きなようにしているのではないかと。
「一階は倉庫になっている。壊れたり古くなったりした睡眠装置や催眠装置が置かれているだけだよ」
 僕は眠るヒカを医務室に残し、海水で濡れた髪のまま一階へ上がった。

 エレベーターを出て、廊下を右手に進む。
 夜中には気が付かなかったが、高い位置に、はめ込み式の小窓がある。そのため、薄暗くはあったが、手探りで進む必要はなかった。
 ざらついた手触りの廊下の突き当たりにエメラルドグリーンに塗られたドアがあった。ここがきっと、昨夜ヒカが入っていった倉庫だ。
 ドアノブに手をかける。
 扉の中で機構がカチリとかみ合う音がする。重い扉を押し開ける。半身を滑り込ませる。出られなくなったらどうしよう、とふいに頭によぎり、スニーカーを片方脱いでドアストッパーのように挟んでおいた。
 
 室内は想像していたより狭苦しかった。
 ひと一人がかろうじて通れる通路を残して、両脇に、謎の計器類が積まれていた。さらに奥には壊れたベッドフレームやストレッチャーが積み重なっている。
 蛍光グリーンの光が微細な埃を浮かび上がらせている。
 僕は光源に近付いた。
 小児用と思われる、金属柵で囲われた小ぶりなベッドの中で、ベッドパッドが発光していた。オートスリープが作動したままになっているようだ。ベッドの柵の上には場違いな印象のオーガンジーの薄布がかかっていた。簡素なベッドに天蓋を付けたようなアンバランスな感じがする。
 僕は柵を乗り越えてベッドの中に入った。

 ベッドパッドに裸足のかかとがめり込んだ。蛍光グリーンの中で、何かがうごめいて僕の足首に吸い付いてくる。
 これは睡眠装置じゃない。
 僕は慌ててベッドの外に出ようとしたが、ねばつく腕に引き留められた。
 ゲル状のものは蛍光グリーンに発光したままで、ひとの形をとりつつあった。
 肋骨の浮いた頼りない胸回りと華奢な鎖骨、そこに続く首と小さな顔。黒目がちな瞳がわずかに濁っているところまで分かる。
 角度によって、それは、蛍光グリーンに光り、角度によっては、僕のよく知っている栗色の髪と白い肌を現した。
 
 ゲル状のヒカが僕の首に腕を回した。
 生温い半固形状のものが僕のジャンプスーツに侵入してくる。圧迫感に身をよじる。
 胸に吸い付かれ、腹部を撫で回されている。
 不快と快の狭間に堕ちる。
 
 これはヒカじゃない。
 でも、このヒカは実際のヒカがしてくれないような、いやらしいことを僕にけしかける。
 
 偽物のヒカが僕に唇を押しつけた。
 舌が喉にまで侵入してくる。鉄を含ませたゼリーを流しこまれているみたいだ。
 呼吸が苦しくて、喉が痛くて、行き場のない唾液を飲み下すと、下腹部が煮え立つように熱くなる。
 ヒカの下半身はどろどろのゲル状のまま僕に絡みついている。このヒカは、女とも男とも知れない、奇妙な生命体だ。
 温かくもったりとした塊に包み込まれる。昂ぶって弾けそうだ。このまま、張り詰めたまま、昇り詰めたい。
 窒息しそうなくちづけを受け止める。
 僕には分かる。このヒカは、僕がヒカにしたいこと、して欲しいことを言葉にせず、叶えてくれる。

「空知」
 切り取ったように明確な発語が耳を打った。「空知」
 ヒカが平手で僕の耳を打った。
 僕たちは小児用ベッドの上でもつれあっていた。僕の手にはオーガンジーの薄布があり、僕は、僕自身の首にそれを巻き付けていた。
 息が詰まるのはそのせいだった。自分で自分の首を絞めるなんて。

「空知」
 僕は泣きじゃくるヒカの身体を抱いた。
 骨張って固い、男の子の身体をした、本物のヒカだった。
 ベッドパッドは発光を止めていた。
 僕は薄布をベッドの外に投げた。首回りがひりひりする。きっと痕になっているだろう。

「行こう」
 僕はヒカの手を取ってベッド柵を乗り越えた。睡眠だか催眠だか知らないが、壊れて暴走している装置が作動する前に、逃げ出さなければと思った。
「ぼくはここにいる」
 僕の身体だけがベッド柵を乗り越え、ヒカはベッドの中で足を踏ん張って抵抗した。
「空知は街に帰って。もうここに来てはダメだ。ぼくはここに残る」
 自殺行為だ。
 身体を痛めつけながら、壊れた装置の快楽にしがみつくなんて。
「ヒカ。どうして?」

「空知も分かっただろう? このオートスリーパーは特別なんだ。これがあれば、もう飛べなくたっていい。だって夢を見させてくれるんだもの」

 僕はヒカの手首をつかんだ。
 ヒカはまだ反作用リングを装着したままだ。超硬質ジュラルミンの乾いた冷たい手触りが、生温かいゲルの感触を肌から追い払ってくれる。

「ヒカ。僕がさっき誰の夢を見たか、知りたい?」

 まともに視線がぶつかり合った。
 ヒカの瞳の中に僕が映っている。
 ヒカの、淡い虹彩と深い黒の瞳孔は、曇りなく僕を映している。まつげの先に涙のしずくがぶら下がって、震えている。
 僕はヒカを柵の上に引っ張り上げて、抱き上げた。僕もリングを付けたままだったから、二人とも五センチほど床から浮いていた。
 屋内で反作用リングを作動させるのはルール違反だ。でも、かまっている余裕はなかった。
 僕はヒカのまつげにくっついた涙を、唇で受け取った。

 
 トラペジオは五人一チームで行う球技だ。レベルが上がるにつれて、ボールの数とゴールの数が増える。
 Sクラスになると十個のボールで四つのゴールを狙う。ゴールは空中を垂直と平行方向に移動する。
 競技に復帰したヒカは、すぐにSクラスの強化選手になった。
 僕にはヒカの飛翔を追うだけで精一杯で、正直、試合の展開さえよく分からなくなることがある。

「大事なのは目だよ」
 練習を終えた後の、やや興奮の残るヒカの身体を抱き留める。
「空気と空気の間に境目がある。見えるんだ。そこに入ったり出たりするだけ。ゴールが見えたら、浮遊層の隙間にボールをくぐらせればいいんだ」
 涼しげに語るヒカの横顔を誇りに思う。

 僕には空気の境目が見えたことはない。
 ヒカの瞳が曇ってしまったら、きれいにしてあげるのは僕の役割だ。それを知った。
 大事なのはそこだと思う。
 ヒカのうなじとおとがいに手を添え、僕たちは小鳥のようなキスを交わす。

          ◆

 療養所は岬の先端に建っている。
 地下一階の倉庫には医師がいた。医師は黒いフレームの眼鏡をかけて、白いシャツを身につけている。
 細く長い指先でゲル状の生物をもてあそぶ。

「空腹かい?」
 医師はそれを愛おしげに撫で回す。
「お前はだいぶ膨らんだね。あの少年の精気は美味しかったかい?」

 蛍光グリーンの生物は、ひとの形をとろうとするが、叶えられずに終わる。
 性別もさだかでないどろりとした塊に戻り、ベッドの中に横たわる。
「久しぶりに私の精気を食べる気はないか?」
 医師は答えを待たず、白いシャツのボタンに指をかけた。
 長い付き合いなので、言葉に出さずとも伝わるのだ。ひとの願望に忠実なこの生物は、自らの欲望を隠すのは上手いのだ。
 
 医師は剥き身の自分自身を、それに預けた。
 医師の肌は蛍光グリーンのゼリーに包み込まれていく。

「眠らせてくれるかい」



《 完 》


 読んでくださってありがとうございました!
 なみさん✨かし子さん✨いつも素晴らしい企画をありがとうございます!


 あとがきはこちらです!


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