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読・休日~『谷間の百合』(バルザック)

はじめに

 今回もフランスの文豪、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)の作品です。いままでの短編、中編とちがいまして、今回は長編――それも、新潮社による文庫版データで592頁とありますから、かなりの分量です。
 正直に告白しますと、この作品を読むのは、実は今回で3回目です。たぶん、そのはずです……と、表現がアイマイになるのは、この作品に対する偏見と云いますか、先入見と云いますか、そのせいです。
 どうせフランス文学などは、愛だの恋だのと甘ったるくてベタベタした作品ばがりだろうと思っていたところへこの題名では、たしかに食わず嫌いになる価値はあろうと思います。さすがに田園を舞台にした女性の同性愛を描いた作品とまでは思いませんでしたが……。
 もうひとつ、この作品を忌避していた理由は、この作品の結末部分が「La Mort d'Henriette(アンリエットの死)」と題されて教科書にまとめられており、それが学生時代にフランス語の授業で使用されていたことにあります。
 いたって勤勉ならざる、非真面目な学生であったところの吾人としましては、語学などと云う、あまたある学問分野のなかでも、特に根気と辛抱のいる学問なぞは大の苦手で、いまでも当時のことを回顧するにつけ、冷汗三斗に脂汗七斗の思いがします。
 そんなわけで、過去に2回も読んでおきながら、感想と云ってはいたって曖昧で漠然としており、それよりもむしろ、一体なんだってこんな本を読もうなんて思ったのかと、そっちのほうが疑問に思われるありさまでした。
 それでも今回は、この原稿のこともありましたし、少しは注意して読んだつもりです。それではその感想を以下に記していきますので、どうかよろしくお目とおしください。


1.ストーリー

 この作品はフェリックス・ド・ヴァンドネスと云う青年伯爵が、恋人である伯爵夫人ナタリー・ド・マネルヴィルの求めに応じて、自らの半生を書き送る体裁で進展します。
 それによりますと、このフェリックス君は、その兄や姉とちがって両親に疎んじられ、また兄や姉からも冷たくあしらわれて育ちました。その幼少年時代は親の都合や気紛れで寄宿舎のついた学校に放り込まれ、必要最低限ギリギリの仕送りしか貰えず、自由になる小遣いなど思いもよらない、惨めなものでした。
 あくまで個人的な見解(偏見と云われても構いません)ですが、こうした子どもはその成長において、両極端に分枝する傾向を示すように思います。すなわち、人情や愛情を懐疑してそれを素直に受け入れることのできない冷たい人間になるか、幼少期に得られなかった母親の愛を求めてやまぬ、いわゆるマザコン人間になるかです。フェリックス君は後者です。

 フェリックス君はナポレオンの再追放直後に、故郷の町トゥールで催されたアングレーム公の帰国歓迎会で、周囲を圧する女王然とした美しさの女性と出会い、巨大な惑星の引力に引き込まれる小衛星のようにその魅力に惹き込まれ、我知らず彼女の剥き出しになった白く滑らかな光沢をした豊満艶麗たる白い肩にくちづけしてしまいます。
 学生時代にお世話になったフランス語の先生の話によりますと、フランス文学史上でも有名な、いわゆる名場面らしいのですが、現在の基準で云いますと、間違いなく、チカン、セクハラ、性犯罪です。
 実際この挙動は19世紀フランスの上流社会でもあるまじき振る舞いだったらしく、後にこの被害女性(?)自身がじかにフェリックス君にむかって、非難の言葉を(やんわりとではありますが)投げかけています。

 話が前後しましたが、このときフェリックス君が思わずその肩にくちづけした女性こそ、この物語のいまひとりの主人公、モルソフ伯爵夫人アンリエットです。
 若きフェリックス君(当時21歳)の、このモルソフ伯爵夫人アンリエット(当時28歳〔推定〕)に対する恋心と、モルソフ伯爵夫人アンリエットのフェリックス君への思慕の情が、物語の主軸をなして展開するのですが……。

 私事わたしくごとで恐縮ですが、ものごころついて以来、幼稚園のときに当時中学生だったいとこのお姉ちゃんに淡い憧憬あこがれを抱いたのを最初で最後として、以後いっさい年上の女性には興味がなく、興味を惹くのは同年齢以下であり、また豊満な肉体で、いわゆるセックス・アピールの強い艶麗な女性を敬遠し、瘦身美軀でニンフェットな魅力を有した女性(と云うより、女のコ)に惹かれる傾向にある吾人としましては、まったく感情移入のできないキャラクターであります。

 で、このマザコン青年のフェリックス君と、人妻であるモルソフ伯爵夫人アンリエットとの恋模様ですが、モルソフ伯爵夫人としましては当然のことながら、フェリックス君の熱い想いに応えるわけにはまいりません。
 なにしろ夫もあればふたりの子どももいる身なのです。夫人はフェリックス君にたいして、慈しみに満ちた母として、あるいは心優しい姉として、またはかけがえのない友人として接します。
 フェリックス君はモルソフ伯爵夫人アンリエットを高貴な女性と崇め尊んでその意に従おうと決意しますが、やはり若き情熱が噴出しそうになるのを如何ともしがたく、悶え苦しむことも少なくありません。
 しかしそれは――後に明らかになるのですが――モルソフ伯爵夫人としておなじことでした。

 夫人の夫であるモルソフ伯爵は1789年のフランス大革命によって亡命を余儀なくされ、それによって世に出る機会と、健康と気力と財産とをすっかり失ってしまいました。亡命中の、おそらくは懶惰で頽廃的かつ自暴自棄な生活の代償としてその健康が損なわれた(性病に罹患したものと推測されますが)ばかりでなく、生まれてきた子どもはふたりとも病弱で、健やかな成長が危ぶまれる有様でした。そして伯爵自身も精神が疲弊してしまったのか、身勝手かつ横暴な振る舞いが目立つようになり、なにかその機嫌を損なうことが生じますと夫人にその責めを負わせ、ねちっこく攻撃してくるのですから、現在で云うところのモラハラです。

 無事な成長が危ぶまれる病弱な二人の子どもと生活能力のないモラハラ夫を抱えて、灰色の絶望に塗り潰された日々の生活を送っているモルソフ伯爵夫人が、初心うぶで純真、若く情熱的な美青年から焦がれるような恋心を抱かれたのですから、ふらふらとよろめいて道を踏み外しても仕方のない展開なのですが、そこを道徳と宗教の掟に従って踏みとどまり、内心に業火の如き愛の焔を燃やしながらその炎熱に耐えてプラトニックな愛を貫こうとするモルソフ伯爵夫人アンリアットにはそぞろ憐れの念を抱かずにはいられません。

 いっぽう、マザコン青年のフェリックス君はと云いますと、清らかで高貴な女性としてモルソフ伯爵夫人アンリアットに強い憧れとその訓導に従うことを誓い、彼女の後ろ盾を得てパリの出ます。そして、復古王政政府の要人としてルイ18世のお側近く仕え、社交界にも出入りしますが、そこで魅惑的なイギリス人女性であるダドレー夫人の誘惑に打ち勝つことができず、悶々たる苦悩の末、「深い関係」になってしまいます。

 気の毒なのはモルソフ伯爵夫人アンリエットです。このフェリックス君の裏切り(?)を耳にしてからは、その苦悩がさらに深まったのは云うまでもありません。実際よくもこの打撃に耐えられたものだと、こちらは皮肉ではなく、感嘆します。
 とある小説家の曰くに、作家は主人公を徹底的に苦しめなければならない、とありますが、この作品におけるバルザックの筆は、まさにその言葉の忠実な履行です。
 で、アンリエットはその苦しみのあまり胃の病を発症して亡くなってしまうのですが、重篤の際に錯乱したのか、いままで堅固な信仰と道徳心によって抑制していた心の声がほとばしる場面は、じつに感動的です。
“ Je veux être aimeé, je ferai des folies comme lady Dudley, j'apprendrai l'anglais pour bien dire : my dee ”
「わたしは愛されたいの、そのためならダドレー夫人みたいなムチャもするわ、英語だって勉強して上手に『マイ・ディー』と云って見せるわ」
 愛の苦悩ゆえにほとばしり出た言葉であり、お世話になったフランス語の先生によりますと、この言葉を憶えたいがために、フランス語を専攻した女性がけっこういたとかで、そしてなによりも大切なことは、吾人が暗記している数少ないフランス語の一節であることです。
 それまで身を焦がす嫉妬心を抑えつけ、あくまで貞潔に、淑やかに振る舞っていたアンリエットの言葉だけに、身をつらぬく痛ましさと燃えるあがる愛情の深さが感じ取られます。

 一方フェリックス君のほうはと云いますと――これはもう、当然のことながら、その云うところ為すところ、優柔不断と言い訳のオン・パレードですね。それを美辞麗句で絢爛と仰々しく装飾して、マザコン青年の甘ったれた優柔不断ぶりが、余すところなく描かれています。その描写はときに、濃密なチョコレートを食べ過ぎたときに感じる胸の悪さを感じさせます。
 それを救ってくれているのが、アンリエットの荘厳な死の描写です。病に侵されながらも、毅然たる態度を失うとしまいとし、しかしときに湧き上がる恋情を抑えることができなくなりそうになり、最後まで苦悩する彼女の様子には、人間の尊厳の美しさが美事に描出されていると云えましょう。

 冒頭に記しましたように、この物語は、フェリックス君からその恋人である伯爵夫人ナタリー・ド・マネルヴィルに宛てて書かれたものと云う体裁をとっているのですが――それにしては長すぎるという現実離れのした設定はこの際さておいて――、これまた当然のことと云いますか、彼女からコテンパンのケチョンケチョンに貶されてしまいます。
 淑やかでおとなしく、それでいて内に燃え上がる恋慕の情を押し隠して、世に出るに際しては惜しみない後援をしてくれた、アンリエット
 活溌で周囲の視線も世間体も気にせず、大胆不敵とも云えるほどの態度で愛情を示し官能の焔を燃やし、ともに快楽の頂点を極めたダドレー夫人
 相異なる個性の、相異なる女性から同様に愛されながら、どちらつかずの態度に終始し、惰弱と感傷に満ちた手紙を現在の恋人に送るフェリックス君
 その心情に同情する向きもなくはないでしょうが、どうも吾人には最後まで、感情移入のできない主人公です。

2.読みどころ

 前回読んだときは、フェリックス君のあまりの情けなさに反発を感じたのと、(個人的に抱いていた偏見どおりの)フランス文学らしく、やたら「あなたのためなら死ねる」、「あなたを失ったら生きていけない」などと云いながら、平然と生きているその大仰さ、太々しさ、厚顔さに、いったい誠実さと云うものがないのだろうかと呆れ返りまた腹の立った覚えがあるのですが、今回読み返してみますと、それほど腹も立たなかったのは、いわゆる免疫ができたせいでしょうか。
 それよりも今回感心したのは、その自然描写の美しさと、それをフェリックス君やモルソフ伯爵夫人アンリアットの心情とうまく絡み合わせて描写するその技倆でした。
 Wikipediaの『谷間の百合』の「出典・脚注」に、
 金原瑞人は「小説は、“圧縮”されていない情報である」(『サリンジャーに、マティーニを教わった』潮出版社 2015年)の中でフランスの作家・評論家アンドレ・モーロワが「この作品の風景描写を読み飛ばす読者は、バルザックのよさがわかっていない」という内容のことを書いているという。
 とありますが、吾人もこの意見に賛成です。
 またこの大自然のなかでフェリックス君がアンリエットのために花束を拵える場面が幾たびかあるのですが、その描写も心がこもっていて見事なものです。これらの場面だけでも――アンリエットの臨終の場面をはじめとして他にも素晴らしい場面は数多あるのですが――読む価値はあろうかと思います。

3.人物再登場

 さて、バルザック作品の魅力のひとつとなっているのが、いわゆる「人物再登場」の手法です。
 これまでも何度か触れてきましたが、この作品にもその手法が存分に発揮されています。
 主人公であるフェリックス君の「従兄のリストメール侯爵と結婚した上の姉」と、モルソフ伯爵夫人の実家であるルノンクール家は、「マダム・フェルミアーニ」に出てきますし、『ゴリオ爺さん』のボーセアン夫人とアジュダ=ピント侯爵は、不釣り合いな男女の例として、フェリックス君によって引き合いに出されます。
 また、アンリエットの告解師としてその臨終に立ち会ったビロトー師は、「ツールの司祭」の主人公としてすでに見たところです。
 そのほかにも多くの人物が他の作品に登場していることが、あるいは訳注によって示され、あるいは想像によってさもあらんと思われるように仕組まれています。
 例えばモルソフ伯爵夫人のふたりの子どもなど、成長の暁にふたたびどこかの物語に登場しそうな気がしますし、ダドレー夫人が他の作品中の登場人物に影響を与える形で登場していることなども示されています。
 吾人は『ゴリオ爺さん』のラスティニャックが大臣となってモルソフ伯爵夫人アンリアットの臨終の枕頭に佇んでいたように思っていたのですが、どうやらそれは誤解だったようです。

あとがき

 なかなかにこってりした作品で読みごたえはありますが、どうにも愛だの恋だのと甘ったるいのが苦手なかたにはおススメしかねます。
 恋に焦がれて鳴くセミよりも/鳴かぬ蛍が身を焦がす
 そんな日本の奥床しい情緒、あるいはハードボイルドと呼ばれる分野の簡潔ながらも深味を感じさせる文体描写を好まれるかたには、このあけっぴろげで、露骨ともいえる過剰爛漫な愛情表現に食傷されるかもしれません。
 しかしこれがまた、19世紀フランスの作品ながらも、両親――ことに母親――の愛に飢えて育ったマザコン青年、その青年に激しく惹かれながらも、人妻であり母親である身の貞節を守りとおそうとする女性、そんな彼女の神経を苛み、その人生を破壊するモラハラ夫、等々、現代的な要素も結構含まれていることに驚かされます。
 肌合いの如何はやむを得ませんが、やはり一読の価値はある名作である、と、いえるのではないかと思います。


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