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読・休日~『ツールの司祭/赤い宿屋』(バルザック)

はじめに

 今回もフランスの文豪、バルザック(Honoré de Balzac)の中編二作を収めた文庫本のご紹介です。
 「ツールの司祭」は、文字どおり、聖職者とその界隈世界を描いたもの、「赤い宿屋」は、歴史に名高いブリュメール18日のクーデターの直前にライン川畔の宿屋で起こった殺人事件を題材にしたものです。
 なんの予備知識もなく読みだしたのですが、それだけに、思わぬ拾い物をしたようなよろこびに浸されて、頁を閉じることができました。
 それでは以下に、その所以を記していきましょう。


「ツールの司祭」

「ツールの司祭」

 ツールと云いましても、フランスで行われる自転車競技のいわゆる「ツール・ド・フランス」とはなんの関係もありません。
 アンドル=エ=ロワール県の県庁所在地となっている、フランス中部に位置する都市のことです(Wikipedia/「トゥール (アンドル=エ=ロワール県)」より)。
 現在はどうだか知りませんが、この物語の時代――1826年の当時は、いわゆる地方都市、はっきり云えば、フランスでよく見かける田舎町のひとつだったようです。
 この田舎町を舞台に、ガマールと云う老嬢と、彼女の持家に寄宿する3人の聖職者を中心に、町の上流階級と中産階級との葛藤確執、張り巡らされた蜘蛛の巣を思わせて周密に囲繞された陰湿な謀略と陥穽が、さながらサイコロジカル・ミステリを読むような緊迫感を与えてくれます。
 キリスト教の聖職者と云えば、清貧に甘んじて神に仕え、神の愛と福音を伝えて衆生を善導する存在と云うイメージですが、この作品ではそんな聖職者であるビロトー師が、ボルジア家と結託して聖俗両界に陰険狡猾な政治力を駆使した教皇アレクサンデル6世を思わせる同宿のトルーベール師と、彼に籠絡されてその手先の如くになったガマール老嬢の両名によって追い詰められ、町の上流階級を構成する友人たちに見放され、住み慣れたツールの町からも、教会からも放逐されていくさまが、偏執的に、ニューロティカルなまでに描かれています。
 トルーベール師とガマール老嬢両者の、お人好しで少々抜けたところのある(それゆえに我知らず恨みを買い、また両者の陰湿な策謀に気づかず、それを回避するすべもない)ビロトー師に対する遺恨は、いかにも田舎臭い社会生活から醸成されたであろうような、いかにも田舎町の人士に相応しく小市民的で、ある意味いじましく、第三者的にはじつにちっぽけでくだらないものなのですが、それだけにいっそう、その遺恨に濃密な現実味が彩色され、その計略策謀が、一面、滑稽でバカバカしくありながらも、一面では却って陰湿陰険で、遣る瀬無いものとなって迫ってきます。
 少々ニブイだけで悪意と云っては微塵もなく、お人好しの好々爺とも云える人物が、ツマラヌことで他人の遺恨を買って、猫がネズミをいたぶるような執拗さをもってじりじりと追い詰められ、すべてを失って零落していく一方で、その奸計をもって彼を陥れた人物は着実に世俗の地位、財産、権力を手中に収めていき、栄華の絶頂を極めんとして行くさまは、心優しき人には後味の悪い読後感を残すことと思われます。しかし翻って考えみますれば、それこそが、本作品においてバルザックが企図した効果なのではないでしょうか。
 いわゆる戦前のかつて、我が国の探偵小説界に活躍した人たちのなかには、このバルザックや、ロシアのドストエフスキーの作物をもって、探偵小説の到達し得るひとつの極致と断じた人たちがいましたが、この作品などは、それもむべなるかなと思わせる筆致と魅力に富んでいます。
 一種の悪漢小説(ピカレスク・ロマン)と称するにふさわしい作品と云えましょう。
 なお、本編の主要人物の一人、ビロトー師は、『セザール・ビロトー 〔ある香水商の隆盛と凋落〕』のタイトル・ロールとなっているセザール・ビロトー氏(「毬打つ猫の店」に名のみ登場していた香水商です)の兄であり、『谷間の百合』では懺悔聴聞僧として、モルソーフ伯爵夫人の臨終に立ち会っています。それが1817年のことですから、この話はそれから9年後のことになります。ちなみに本作は1832年に、『谷間の百合』は1835年に発表されていますから、やはりこのビロトー師の場合も、時を遡って登場させられたことになりますね。
 また、ビロトー師の後援者のひとりとなり、後にトルーベール師の奸計によって彼を裏切らざるを得なくなるリストメール男爵夫人は、すでにその家名が「マダム・フィルミアーニ」に登場していることを、同作をお読みいただいたかたならば、ご存じのはずですね。

「赤い宿屋」

「赤い宿屋」

 中編にもかかわらず、この作品はいわゆる「箱構造」をなして展開しています。
 物語は大きく前段と後段に分かれ、前段がまた、晩餐会に招かれたニュルンベルクのとある商会主が、むかし遭遇した殺人事件と、無実の罪で処刑された哀れな若き軍医補の話を物語るご趣向になっています。
 ヘルマンと云うその商会主は、青白い顔をした金髪の若い娘から、お別れする前にゾッとするようなドイツのお話を伺いたいとの申し出により、以前自分が遭遇した若き軍医補にまつわる事件について物語り始めるのですが、その晩餐会に同席していたひとりの男――破産にでも直面したのかと心配されるような優れぬ顔色をしているが、帝政時代には陸軍の御用商人だった男で、土地で百万フランも所有しており、破産するなんてとても考えられない男――が、この話に大きなかかわりを持っています。
 その男にはひとりの綺麗な娘がいましたが、その娘は長い間認知されずにいました。ところが、その男の息子――件の娘にとっては兄――が決闘沙汰で落命したため、その娘はようよう認知され、パリでも屈指の財産の相続人となって、現在では父親なるその男と一緒に住んでいます。
 その男の顔色が優れないのは、そのような経緯のためだろう、と、この物語の語り手の隣に座っている女は推察します。
 ここでうれしくなりましたのは、この顔色優れぬ男――タイユフェルと云う名であることが後に判明しますが――、この男も、『ゴリオ爺さん』にその名のみが出て来る人物なのです。上述の経緯は『ゴリオ爺さん』のひとつの挿話をなしておりますし、彼の認知せざる娘は、『ゴリオ爺さん』の主要な登場人物のひとりです。
 さて、本編のほうですが、このヘルマンなるドイツの商会主の口から、奇怪な殺人の話が物語られるのですが、奇怪な殺人事件と申しましても、犯人を当てろの密室の謎を解けのと云う、いわゆる推理小説ではもちろんありません。
 とある若き軍医補が宿屋で知り合ったドイツ人の携える金品に目が眩み、強盗殺人の誘惑にかられるのですが、すんでのところで思いとどまり、眠りに落ちます。
 ところが目が覚めてみますと、件のドイツ人は首を掻き切られて死んでおり、その携えていた金品は影も形も見えなくなっています。
 てっきりその若き軍医補が犯人であるとみなに看做されるのですが、本人にはもちろんおぼえがありません。さらに、一緒に旅をしていた竹馬の友の同じ軍医補の姿も見えなくなっているのですが、誰もそのことに気をとめようはしません。
 物語の興味は、罪に関するこの若き軍医補の心の葛藤にあります。
 記憶になくても、いわゆる夢遊病のような状態で、このドイツ人を殺してその金品を奪ったのではないのか。
 強盗殺人に対する思いが強すぎて、睡眠の無意識中に、その思いに身体が支配され、操られたのではないか。
 もしそうなら、犯行当時覚醒はしていなくても、やはり罪はあるのではないか。いやいや、それ以前に、心に強く犯意を抱いた以上、それだけですでに罪を犯しているのではないか。
 そのような思いが、この若く純粋な軍医補の心を苦しめます。
 ちなみにヘルマン氏は、この若き軍医補に対する軍法会議の評決が下るまでの拘留中に、同じ牢獄に起居する囚人として知り合い、その胸中を打ち明けられてこの事件を知りました。
 罪とは何か、罪はいつ発生するのか、そのような問いがいかにもキリスト教らしく、およそ不信心者でバチアタリを以て任じている吾人でも、その葛藤に興味が湧いてきたのですから、やはりバルザックの筆はすごいものだと感心せずにはいられません。
 後半はまた別の若者(この物語の語り手)の葛藤が主題になります。
 それはすなわち、不正な手段で財産を築いたことを知りながら、その財産の相続人と結婚するのは道徳的に許されるのかどうか、と、云うことです。
 しかもその相続人が、保護者が蓄財した経緯を知らない(法的にいわゆる「善意の第三者」と云うのでしょうか?)のですから、なおさら話はややこしくなります。
 慧眼なみなさまにはお察しのこととは思いますが、作品に沿って具体的に申しますと、帝政時代には陸軍の御用商人だった男で、土地で百万フランも所有しており、破産するなんてとても考えられない男――タイユフェル氏こそ、ライン川畔の宿屋で件のドイツ人を殺害してその所持していた金品を奪い去ったもうひとりの軍医補で、彼は奪い去ったその金品を元手に財を成しました。
 そしてこの物語の語り手が、三日前にナポリ王国大使館の舞踏会で会ってたちまち夢中になってしまった娘が、このタイユフェル氏の娘、その財産をそっくり相続することになっている、ヴィクトリーヌ・タイユフェル嬢なのです。
 さて「仮にも人を殺したような男と親子の縁を結ぶということは、たとえその男がどんなによき父よき夫でありえようと、名誉と潔癖が許すものではなかった」という一方で、自分の「正当な恋」、ヴィクトリーヌに対する愛の焔を鎮められないでいるのです。しかしその愛情の窮極するところが彼女と結婚することにあるとしたら、それはすなわち、「タイユフェル家の豪富の基を築き上げたあの犯罪の共犯者となる」に等しいと(この物語の語り手には)思わるのです。
 さてこの葛藤をいかに捌き、いかに解決するのか――ハッキリ申しまして、吾人にはよく分からないラスト・シーンでした。訳が悪いのか、バルザックが手を抜いたのか、あるいは吾人の知識が不足していたのか……おそらく最後が一番ありそうですが、いずれどなたかのご教示を賜らんことを願いまして、とりあえず今回の寸感の幕を閉じることにいたします。

あとがき

 最初そのようなこととは知らずに読みだしたのですが、どちらの作も、探偵小説を愛読する吾人の嗜好にピッタリの好編でした。
 現在では「推理小説」という呼び方が一般的ですが、その呼び方ですと、犯人あてや、密室やアリバイなどの謎解きを主眼とした、いわゆる「推理」の興味を中心としたものにその語義が狭まり、サスペンスやドタバタ、犯人追跡の興味などを中心とした作品などが排除されるような気がしまして、吾人としましては昔ながらの「探偵小説」と云う表記のほうが好ましく思われるのです。
 本文でも触れましたように、戦前の我が国探偵小説界では、ドストエフスキーやバルザックの作品の一部を、探偵小説が到達し得る極致のひとつ、目指すべき探偵小説のありかたのひとつ、と、考える人たちが結構いたものです。
 その可否適切云々は措きましても、この両者が、犯罪や犯罪的な心理を扱って魅力的な作品をものしていることは、どなたも異論のないところと思われます。
 バルザックに関しましては、この本に収められた二編が、その手頃の証となりましょう。


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