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読・休日~『グランド・ブルテーシュ奇譚』(バルザック)

はじめに

 本書にはフランスの文豪、オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)の手になる、以下の諸短編が収められています。
「グランド・ブルテーシュ綺譚」
「ことづて」
「ファチーノ・カーネ」
「マダム・フィルミアーニ」
「書籍業の現状について」
 これらについての読後感を、簡単に記していきます。


「グランド・ブルテーシュ奇譚」

グランド・ブルテーシュ奇譚

 主題と云うか、核となる「事件」は、ポーの短編ですでにおなじみになっていたものなので、読書の興味は、そこにいたるまでの話の運び――作者がこの材料をいかように料理するのか、そのお手並み、包丁さばき――にありました。
 語り手は「とある金持ちの婦人の治療を任せられ」て、この地に滞在している医師(バルザックの諸作でおなじみのビアンション)です。
 彼はこの物語の舞台となる廃墟に興味をもち、いかにもいわくありげなその城館跡を逍遥しながら、さまざまな小説的空想をもてあそぶのを日々のたのしみとしています。
 そんなある日、見知らぬ公証人がやってきて、今後件の廃墟に近づかぬよう警告し、その理由(最後の持ち主であった伯爵夫人の臨終の様子)を話してくれます。
 公証人の話に興味を惹かれた語り手は、今度は滞在している宿屋の女将さんから、より詳しい話を引き出します。
 そして最後、かつて亡き伯爵夫人の小間使いをしていた宿屋の手伝い娘を口説いて、事の真相を聞き出します。
 いわくありげな廃墟――伯爵夫人の謎の遺言――多額の金貨とダイヤモンドを残して失踪した色男のスペイン人――そして、伯爵夫妻の私生活……と、徐々に核心に迫っていく手腕は、さながら練達した探偵小説作家――江戸川乱歩氏や横溝正史さん――のようにみごとです。
 伯爵が取った手段自体は、冒頭に述べましたように、個人的にすでにおなじみになっていたものですが、それよりもこの作品の白眉たるものは、最後の一行――伯爵の放ったひと言にあります。
 そのゾッとするひと言が画竜点睛となって、この作品を引き締めています。
 同趣向のポーの有名な短編「アモンティラードの樽」と読み比べてみるのも一興でしょう。
 ちなみに、「アモンティラードの樽」は1846年の発表、この作品は1832年初出ですので、こちらのほうが14年早いですね。

「ことづて」

ことづて

 学生時代のサークルで採り上げられた作品で、そういう意味では懐かしい短編です。
 当時、テキストとして使用したのは、岩波文庫版でした。
 今回この光文社古典新訳文庫で読み返してみて気づいたのは、憶えているつもりでいた内容について、ほとんど憶えていなかったということでした。憶えていたのは筋立て――いわゆるストーリーと、乗合馬車の事故で亡くなった若者の身体に鍵がめりこんで、それを抜き取ると血まみれになったという場面だけでした。
 そのストーリーはと云いますと――
 同じ馬車の屋上席に乗り合わせた旅中の若者ふたりが仲良くなり、たがいに自分の恋人について、さかんにノロケあうまでになりますが、突然の横転事故で相手の若者は死んでしまいます。
 語り手の「わたし」は、死んだ友人の遺言執行人として、彼が恋人から受けとった手紙を彼女に返すとともに、その死を伝える役目を負わざるを得なくなります。
 死んだ友人の遺言執行者として、その恋人の住まう城館におもむいた「わたし」ですが……
 と、この作品の魅力は、その筋立て――ストーリーにあるのではありません。
 思いもしない運命の悪戯から行きずりの友人の遺言執行者となってしまった「わたし」の心の動き、善良ではあるけれども退屈で俗な田舎貴族の様子と、その妻である若い女性の遣る瀬無さ、倦怠と停滞に澱んだ田舎の生活の中で、唯一心の慰めとも生きる希望ともなっていた恋人の死を受け入れざるを得ない彼女の悲哀、それらの織り成すタペストリーが、この作品の魅力になっています。
 今回読み返してみて、学生時代、「二人とも若く、つまり三五歳から四〇歳ぐらいまでの年増女に魅力を感じてしまうような年頃だった」というくだりでまったく共感できず、鼻で笑い飛ばしてしまった記憶がよみがえってきました。なにしろ年上の女性に恋心を抱いたことなど、人生において一度もなかった人間ですので(笑)

「ファチーノ・カーネ」

ファチーノ・カーネ

 「カーネ」と云うだけあって、「金」にまつわる話です――と云うのは冗談ですが、本文庫の解説にも「黄金への欲望と透視力」と書かれていますので、あながち冗談でもないかも知れません。
 本作で印象に残ったのは、老いた盲目のクラリネット奏者の「黄金への欲望と透視力」ではなく、その数奇な履歴の背後に一貫して流れている、故国ヴェネツィア(公国)にたいする強烈な望郷の念です。
 黄金への欲望は、むしろ故国へのそれにたいする代替物、あるいは比喩として、用いられているにすぎないように思われるのです。
 つまり、黄金への欲望、執着と、故国ヴェネツィアにたいするそれとがオーバーラップ(二重焼付け)して、その執念をいや増す効果を発揮しているのです。バルザックは強烈な「情念」を描いて定評のある作家ですが、なるほどむべなるかな、と、首肯させてくれる佳作――好短編です。
 冒頭の下町の生活情景や、そこに住まう人びとが織りなす婚礼宴会のどんちゃん騒ぎなどは、いかにも下町らしい、素朴で粗野な魅力に満ち満ちていて、そこらのプロレタリア文学なんかよりも、よっぽどプロレタリア文学らしい味わいがあります。
 その喧騒から逃れた夜の川べりで、盲目のクラリネット奏者が自身の数奇な身上話を語り紡ぐ場面は、その前の婚礼宴会の賑やかな場面と好対照を成しており、心憎いばかりのみごとな構成です。
 この盲目のクラリネット奏者が語る数奇な身上話は、さながら『モンテ・クリスト伯』の一場面を思い起こさせてゾクゾクさせるものがあります。
 ちなみに、『モンテ・クリスト伯』は1844年から1846年にかけての新聞連載、バルザックのこの作品は1836年の初出ですから、やはりこちらのほうが先輩ですね。
 最後(オチ)があまりにもあっさりしていて、拍子抜けと云いますか、勿体ないと云いますか、残念な思いを禁じ得ません。これから波瀾万丈の冒険物語が展開されるであろうを予想させるに充分な内容でしたので……。
 しかし、だからこそ逆に、ここで話を打ち切って読者に意外の肩透かしを食らわせ、してやられたりと苦笑せしめるバルザックの力量には、感歎のほかありません。

「マダム・フィルミアーニ」

マダム・フィルミアーニ

 「解説」の文章から引用します。
 「冒頭、フィルミアーニ夫人の世間での評判をめぐって、パリのさまざまな人種の発話が紹介」されます。その数なんと「十七種族」!
 「十七通りの答えによっても」、「青年オクターヴが、遺産をつぎ込んでまでして、愛しているという人妻フィルミアーニ夫人……(略)……の正体は不明のまま」です。
 青年オクターヴは、「真相をつきとめようとしてパリに出てきた伯父」の前で、なぜ慣習に背いてまで(伯父に相談もせず)、フィルミアーニ夫人のためにその財産をつぎ込んでしまったのか、その秘密を告白するのですが……
 訳者も述べておりますように、どうも釈然としない部分が残る憾みを歎ぜざるを得ません。おそらく、作者に与えられた時間と紙幅の関係から、やむを得なかったのでしょう。
 それよりも、冒頭、バリに蠢くさまざまな種類の人びとによってフィルミアーニ夫人の人物像を紹介してく手法は――その結論が、結局夫人の正体が不明のままに終わるのでなおさらですが――、ややもすれば平板に流れて退屈な印象を与えることになりかねないところを、そうは思わせずに、謎は謎ながら、多面的にフィルミアーニ夫人像を描き出すのに成功しているところなど、やはりバルザックの描写技倆と云いますか、人物観察眼の鋭さに、あらためて舌を巻く思いがします。
 なおこの作品にも、バルザックの特徴である〈人物再登場〉の手法が反映されており、モーフリニューズ公爵、リストメール侯爵夫人、ルノンクール家、ヴァンドネス家など、他のバルザック作品に登場する人物名や家名が頻出します。
 「真相をつきとめようとしてパリに出てきた伯父」自体が、『トゥールの司祭』にも登場する人物なのですから、そのような面でも、興味深い一篇と云えるでしょう。

「書籍業の現状について」

書籍業の現状について

 本書唯一の「評論」であり、訳者曰く「雑文」です。
 バルザックの作家としての自負と商売っ気(事業欲)が垣間見えて、当時の出版業界の事情を知り得る資料であると同時に、小説とはまた違った魅力を感じさせる一文となっています。
 中間搾取の問題を論じるなど、現在の日本の流通機構と考え併せてみましても、なかなかに興味深いものがあります。
 会員制の予約直販形式や、書籍商の大同団結に言及するなど、バルザックが現代に生きていたら、作家協会や書籍商組合の設立、クラウドファンディングの活用など、それこそ水を得た魚のように嬉々として動き回っているのではないでしょうか。
 そのさまを想像してみますと、なにやら微笑ましくて、思わず頬が緩んでしまいます。

あとがき

 文字どおり、簡単な感想――寸感です。
 本編(?)では割愛しましたが、「グランド・ブルテーシュ綺譚」、「ことづて」、「マダム・フィルミアーニ」と、まるでフランスの貴族階級は、不倫して当たり前、みたいな描かれかたをしていますね。
 それも、若い恋人を拵える(不倫する)女性に同情的で、妻を寝取られる(不倫される)夫側にはしごく冷淡です。男女を問わず、不倫した側を問答無用で叩きがちな現代日本とは、真逆の感覚です。
 この感覚を理解するためには、当時のフランスにおける貴族階級の結婚事情、その歴史的な背景や、習慣などを知る必要があるのかもしれません。
 そのことを念頭において――あるいは調査して――あらためて読み直してみたら、もうちょっと面白い感想が浮かんでくるのかも知れませんが、今回はこのへんで、失礼させていただきます。

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