誰かの note をちょっと読む⑨
好きな人や記事を、読む。時々、ちょっと付き合ってもらえませんか。
うがった見方で、無断で勝手なこと書いてますけども。
隅々まで揺るぎなさを感じさせる、謹厳な祖母であった。在るべきものを在るべき場所に置くためのような、生き方だった。役割を完璧に生きるために、生きているようであった。その顔には常に孫のための笑顔が湛えられていたが、孫はその背に冷たさも見るのだった。完璧な佇まい。祖母が帰ると、ホッとした。そんな子ども時代の記憶が、確かに今もある。
祖母の家に行くのは、その祖母に見られながら花の手入れをする、という経験だった。どうしても背筋は伸びた。しかし読んだ本の話を共有するひとときに孫は、祖母に少女のような一面も見ていたのだ。ゆるさんは全部、覚えている。
祖母が亡くなっても涙は出なかった。
でもなぜだかこの文章を書きながら、涙があふれる。
私と祖母の関係は、もしかしたらこれから始まるのかもしれない。
関係性には、例えばどちらかの死という出来事によって途切れた後にも続き、広がり、深まりさえしながら、残された一方の中で育ち続けるような一面があるのかもしれない。それは可能性の話だが、確実にそうだと言う人も多いにちがいない。鼻の奥がツンとした。希望をもらった時のやつだ。
RYOJI あと出し
私自身の祖母を思い出す。たくさん孫がいる中で、ただ一人の孫を選び取った人だった。私にはたった一人の祖母だったが「私の祖母」ではなかった。しかし小さな私が訪うのも心から楽しみにしてくれていたし、そこに寝かせるための布団が屋根いっぱいに干されている光景は敷地に入って最初に目にするもので、歓迎の意そのものだった。実際、歓待だった。汁椀に一個しか入らないほど大粒のハマグリ。大皿に溢れんばかりの新鮮なカツオの刺身。何を食っても旨かった。夢中で米を何杯でもおかわりした。今でも私はあの刺身が食べたくてならないのだ。なぜ東京にはあれほど旨い刺身がないのか。アサリと見紛う小粒のハマグリを皆が有難がっている。
しかし長じて、軋轢は誰の目にも隠せないものになって行った。「家族と食べるクリスマスケーキ」とは別に、自分ひとり用のクリスマスケーキを祖母から用意されているような環境で育った孫は、やはりまっすぐ成長することができなかった。次々と問題を起こすようになって行った。祖母は周囲からの批判に耳を傾けるのではなく、ひたすらその孫を庇った。まだ腕に抱えて守れるほど孫が小さいままであるというように。孤立。祖母はいよいよ私の手が届かない人になった。だから祖母の死の直前まで、会わなかった期間がある。
それでも祖母が入所した施設で、ふたりきりになれる時間があった。もうこれを逃して機会はないと、お互いが理解していた。高校生だった私が病床で何を話せばよいのか思いあぐねていると、祖母から私に問うた。私の家の竹林について、今年の筍はどうかと。もうダメだよ、と私は答えた。竹の根は塀を壊しアスファルトの道路を割る。断絶状態のせいで祖母には報告していなかったが、実はその年に竹は全て切り倒していた。
「近所からうるさく言われて、全部切っちゃったからさ。ダメだよ」
しかし祖母は、そんなことはねえど、と私に教えた。
「竹を切った後の春は、筍がよく育つの」
壊れた関係についての示唆であるとまでは、さすがに思わない。しかし私にとって、何と象徴的な言葉であったことだろうか——それが私たちにとって最後の会話だったという、状況的な装置も含めて。私は今も、根こぎにされることを恐れない。
祖母は私の祖母ではなかった。生涯そうだった。その拙さを許すことが、幼い頃から孫としての私の務めだった。しかしこの日、私は「私の祖母の」言葉を授けられた気がする。私に残すための言葉が、祖母にはちゃんと用意されていた。でも、いつでもそうだったのかもしれない、とも思う。私が覚えていればよいことは、屋根いっぱいに広げられた布団であり、山と盛られた刺身であり、別れに用意された、恵みのような一日なのだ。私には祖母がいた。私ひとりの祖母だった。
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