【連載小説】アイネちゃん、隣に座っていいですか?|②愛音の一日
✳️前回のお話(第1話)→
あらすじ:スタイリストとして働く愛音は、完璧な仕事ぶりで周囲の信頼を得ているが、職場には複雑な人間関係が渦巻いていた。ある日、愛音の有能な右腕である後輩・遥が、女優や同僚を巻き込む大規模な「修羅場」を起こす。彼に振り回される女性たちの姿を目の当たりにした愛音は、相談に乗る中で遥の孤独な素顔を知る。心に不器用さを抱える遥を放っておけず、愛音は彼を自宅の夕食会へ招待することに。お酒を買いに出かけた帰り道、遥から突然の愛の告白を受け、愛音は戸惑う。波乱の幕開けとなった一日の終わり、彼らを待つ葉山家の温かい食卓で、物語は新たな局面へ動き出す。
朝の通勤ラッシュをかいくぐって、都心のオフィスビルにある、私の職場であるスタイリスト事務所「Avenir(アヴニール)」の扉を開ける。
ここへ来ると、さっきまでの「溶けた餅」のような自分から、きちんとした仕事用の顔へとスイッチが入る。
兄の心配をよそに、自分でも不思議なほど、家と職場とで私は変わる。この仕事に向いているからまともな人間に変わるのか、逆に、実は職場ですごく無理して頑張るから、家でその分ダラッとしてしまうのか、どっちなのかはよくわからない。
私は、ファッションとヘアスタイリングとメイクアップと、一応トータルで出来るので、職場ではけっこう重宝されている。……やっぱり幼い頃に玲央くんで練習してたのが、生きてるのかな。仕事は、楽しいと思っている。
「……おはようございまーす」
フロアに入ると、すでに独特の緊張感が漂っていた。ラックには次の撮影のために用意された衣装が整然と並び、スチームアイロンの湯気が立ち上っている。
「あ、愛音さん、おはようございます!」
メイク道具を準備しながら、元気な声で駆け寄ってきたのは、後輩の遥(はるか)くんだ。
今日は、マッシュボブの髪の毛を、耳の高さでハーフアップのお団子にしている。袖先を少しくしゅっとさせた白のカットソーに、くたびれた風合いのダメージジーンズ。腰元には太めの、使い込まれたようなオフホワイトのベルトが少しだけ自己主張して、そこから仕事用のスタイリストポーチと、ジャラジャラと音を立てる無骨なカラビナが下がっている。それをブラックのチェルシーブーツで締めて、彼は小動物みたいに目を細めながら、ニコニコ笑っている。そのアンバランスなシルエットが、"今にも消えてしまいそうな儚さ"と、いつまでも追いかけてしまいたくなるような、"危うい男らしさ"を兼ね備えちゃってるんだよな……さすが遥くん。参考になる。思わずちょっと、見入ってしまったよ。
彼は私より2年後輩の若手くんで、最近は私のアシスタントに入ってくれている。持ち前の器用さと、誰に対しても物怖じしない人懐っこさで、事務所の潤滑油になっている。技術もすばらしい。私はいつも彼のお陰で助かっている。しかし……。
「おはよう、遥くん。……今日はもう衣装のチェック終わってる?」
「はい!完璧です。ただ、昨日の現場で使った小物の返却リスト、まだ少し手直しが必要で……あと、メインのブラウスなんですけど、ちょっと汚れが見つかっちゃって、これから染み抜きしなきゃいけなくて」
遥くんは早口で報告しながら、私の手から鞄を受け取ってくれた。その身のこなしはいつも丁寧だ。
「お、カバンまで悪いね……。そうか、ありがとう。……じゃあ、汚れの方は私が見るから、君はリストの修正を頼める?」
「もちろんです!……あ、そういえば愛音さん、今朝のお顔……いえ、もしかしてちょっと、お疲れじゃないですか?昨日の夜の飲み会のせいですか?」
遥くんはクスクスと笑いながら、わざとらしく小首をかしげた。私が朝から浮腫んでいることなんて、若手指名No.1スタイリストの彼には、お見通しなのだ。誰よりよく気付くし、優しい。マメで、細やかな人だ。普段ガサツな私は、年下のこの人に見習うことが沢山ある。きっと兄が見ていたら、「彼の爪の垢でも煎じて飲め」、と言うにちがいない。
「……言わないで。わかってるの。……お肉と、塩分と、アルコールと……次の日のために調整できないなんて、スタイリスト失格だよね」
「大丈夫。そんなことないですよ。愛音さんの作るスタイリング、いつも本当に素敵ですから。……愛音さんのとなりで楽しくって、僕が調子にのって沢山お酒、ついじゃったせいかも……すいません。実は僕も、今日はちょっと寝不足で」
「ありがと。ああ…….そういえば遥くんもいつもよりすこし、顔色悪いかもね。私も朝からレモネード飲んで、かっさ、やってさ。朝起きた時よりは、いくらかいいんだけどさ。……歳って言わないで」
「いいませんよ。歳なんて僕もそんなに変わらないじゃないですか……あ、レモネード、美味しそう。朝からレモンのすっぱいの、いいですよね。かっさか……あ、そうだ、これも、もしよければ」
遥くんがジャーに入れて差し出してきたのは、彼が朝一番で淹れたという、少し濃いめの真っ赤なハーブティーだった。おしゃれ。すごいな。意識高い。
「わあ、何これ!きれい!真っ赤だね」
「これ、ローズヒップとハイビスカスです。肌とか浮腫みにいいって、こないだ担当した女優さんに、箱で沢山、もらっちゃって。飲もうと思ってついさっき入れて。良ければ飲みながら仕事しましょう。今日はカロリーオフで、ノンシュガーですけど」
「わあ。……ありがとう、いただく。遥くんすごいね。助かるよ」
「良かった。じゃあ…………はい、どうぞ。まだ熱いから、気をつけて下さいね」
朝から兄に怒られ、律と玲央くんにからかわれ、少しだけ荒んでいた心が、遥くんの心遣いですっと軽くなる。こういう仕事してるからか、遥くんは女子のときめくものも、悩みもけっこう、分かってくれる気がする。だから、女の子は皆、話していてすごく、楽かもしれないと思う。コーヒー用の白い紙コップについで貰った鮮やかな赤は、なんだかいきなり薔薇の花束を貰ったみたいで、見ているだけで元気がでるな。
「いただきます……うぁ、これ、すっぱい!」
けっこうパンチのある酸味に、私は目をつぶった。
「ははは。でしょ。これは、"ビタミンCの爆弾"らしいんで。……おお、今日もすっぱいですね。うう。……でも、効いてる感じしませんか、なんか」
「うん、ほんとだね。シャキッとするわ」
ふと、オフィスの大きな窓から見える空を見上げた。昨日の夜はあんなに雨が降っていたのに、今は驚くほど青い。抜けるようだわ。そんな爽やかな空を見ていたら、玲央くんのあの、寂しげな仮面のような横顔が、また、ふと頭をよぎる。彼はいつも私の側にいて、笑って、ときどき私をドキドキさせる。でも、あの瞳の奥にあるものは、一体なんなんだろう。うーん。今夜も顔を合わせるんだなあ。……また、色々考えちゃうよ。
「愛音さん?どうしましたか、考え事?」
「……ううん、なんでもないよ。さ、仕事に戻りましょう。今日は衣装合わせが3件もあるんだから。美々子先輩が今週末、研修と仕入れ兼ねてフランス行くからお休みする、って言うんで、代わりに引き受けちゃってさ。あ、確か遥くんも金曜はいなかったよね……有休になってた。あーあ、右腕居なくなると痛いなあ」
私は気を引き締めたつもりで、デスクに向かった。けれど、心の中のどこかで、レモネードの甘酸っぱい余韻と、玲央くんの石鹸の香り、律の生意気な顔、そして今朝の何気ない兄の背中が、混ざり合って溶けて、私はまだぼんやりしながら、薄っすら頭がいたい。集中しなきゃ。私たちの日常は、モーツァルトのあの旋律のように、ときには調和し、ときには不協和音を奏でながら、今日も続いているんだなと思う。
「はい、僕も、色々勉強させてもらおうと思ってて。すいません。わあ。右腕だなんて……光栄です。そんな風に言われると、僕頑張っちゃいますよ。愛音さん、今日のクライアント、結構こだわりが強いタイプなんで、このスワッチ(生地見本)も念のため追加で持っていきましょうか?」
「ああ、それはいいアイデアだね。うん、そうしようか!」
「わかりました」
遥くんはテキパキと準備を進めながら、ふっと柔らかく微笑む。調子が悪いこんな日は、その姿が頼もしくて、なんだか、癒される。彼はでかい律や玲央くんよりはちょっと小柄で、まさに"優しいお兄さん"って感じがする。本当に気が利くし、物腰が柔らかくてルックスもいいので、撮影現場で彼を指名してくるモデルやタレントが多いのも、わかるよなあ。
……すると急に、遥くんが近づいて来て、仕事の手を動かしながら、小声でボソボソと呟くように言った。
「…….あ、そうだ。愛音さん、昨日飲み会、すぐ終わっちゃったじゃないですか?また、飲み直しに行きません?……あの、勉強になりました。仕事の話とか、ご家族の話とかすごく。楽しかったし、なんだか話しやすいんです、愛音さんは。飾らない、というか、気が置けないというか……ちょっと、今悩んでて相談したいこともあるし、……今度は僕、会社の人抜きで、愛音さんとゆっくり飲みに行きたいなって、思って。ふたりだけで」
「……はい?」
……なんて言った?今?
「……あの、愛音さんはいつなら、僕と一緒に飲みに行ってくれますか?あ、もし飲むのが嫌なら、お食事でもいいんですけど……ふたりがいいんです。どうですか?」
その時だった。事務所の重いスチールドアが、荒々しく開け放たれた。
「……ちょっと、あんた!どういうことよ!!」
皆が振り返る。事務所の空気を一瞬で切り裂いたのは、その叫び声と、彼女が纏う鮮烈な『赤』だった。
長いウェーブの髪。全身を包む、真っ赤なとろみのあるシルク素材のセットアップ。その情熱の赤を、あえて真っ白なジャケットで封じ込めるスタイル。赤い口紅に、赤い靴。その潔いコントラストは、まさに"女優"だった。……怒鳴りながら入ってきたのはなんと、先月、遥くんが担当したCM撮影で、一緒に仕事をしたばかりの、若手女優のRiSA(リイサ)さんだった。今日も立ち姿から美人だ。彼女は大きなサングラスを外すと、怒りで顔まで真っ赤にして、遥くんに詰め寄る。
「……RiSAさん? 今日は打ち合わせの日じゃないはずですけど……」
「とぼけないで!私のSNSに誰かからメッセージが来たの。『遥くんは、私のものだから手を出さないで』って……これ、きっとあんたの元カノよね!? しかも、昨日も深夜に、別の事務所の子と飲んで、そのまま一緒に帰ったって噂聞いたわよ!」
……その剣幕に、オフィスの空気が、氷のように冷え切る。ラックの横でアイロンをかけていたスタッフたちも、一斉に動きを止めて息を潜めた。
「え?いやいや……違う、それは誤解です。RiSAさん、ちゃんと説明するから、……あっちで話しません?」
遥くんはいつもの人懐っこい笑顔を瞬時に消し、困ったような、それでいてどこか冷ややかな瞳でRiSAさんをなだめようとする。その仕草があまりにも手慣れていて、私はつい、彼の手元を見つめてしまった。
すると今度は、事務室の奥にある更衣室の扉が、ガチャッ!と勢いよく開いた。そこから出てきたのは、事務所の受付をしている事務スタッフの美咲ちゃんだ。彼女は遥くんの一年後輩で、いつも大人しく、メガネで、清楚で、真面目で、遥くんの恋の噂になんて一番縁遠そうな子だったのに、今は目元を黒く滲ませて震えている。
「……遥くん、RiSAさんとのこと、やっぱり本当だったんだ……私には『誰とも付き合ってないし、遊んでない』って……毎日私とLINEしてたのに、……あのメッセージも全部、適当だったのね……ひどい!!」
「…….いや、美咲ちゃん……。だから、誤解だよ。今は仕事中だよ?」
「仕事中だから何なの!? 私たちふたりのことは、ただの『仕事の息抜き』だったってこと!?」
「いや息抜きって……ちょっと美咲ちゃん……困ったな」
……おお。これは、……絵にかいたような"修羅場"だ。
事務所内は、まさにカオスと化した。
……本当にあるんだ、こういうこと。
私はなんだか胃が痛くなってきた。
女優と受付スタッフが対峙し、遥くんはその中心で、これまで見たこともない「計算高い」ような冷静な表情で、二人を交互に見ている。
すると、フロアの隅から静かに声が響いた。
「……ねえ、遥?……これってどういうこと?……週末は、私と海外に出かける約束してたよね?一緒に行きたいって言ってたのに、おかしいじゃない!!」
「えっ」
私は耳を疑って、声をあげてしまった。
……美々子先輩だった。
先輩は遥くんより、10も歳上だ。
……そこまで手を広げていたの、この子は。
「……いや、美々子さん、ちょっとそれは……」
おいおい。まさか。……もう、こうなるとなんだか笑えてきた。さっきまでの爽やかで優しい遥くんは、どこへ行ってしまったのだろう。私は呆然として、手に持っていたハーブティーのカップを握りしめた。……以前から色々、彼の噂はきいていなくもなかった。彼は魅力的だし、まあ、そんなこともあるのかなあなんて、噂は噂として、気にもとめていなかった。
だけど、これを実際目の当たりにするとなあ……。
「……愛音さん、すみません。ちょっと……トラブルです。だけど全部、誤解なんです。でも、なんとかなりますから。信じてください」
遥くんは、修羅場の中でふと私の方を向き、申し訳なさそうに、でも少しだけ口角を上げて言った。
なんとかなるって……。信じろって言ったって、あんた。
その瞬間、私は背筋に冷たいものが走った。彼は、この修羅場すらも、自分の支配下に置こうとしている……?いや、でも、信じてくれって言ってるしな……。彼の仕事振りはいつだって真面目だし……。
「……遥、くん」
私は震える声で彼を呼ぼうとしたが、言葉が詰まった。事務所のあちこちで女性たちの泣き声や怒号が飛び交う中、彼だけが、まるで嵐の目の中にいるように平然としていた。
………その後、騒ぎを聞き付けた事務所の偉い人が出てきて、遥くんと、遥くんに泣かされたとおぼしき女性3人は、皆で偉い人の部屋に呼ばれて行った。
「……さあ、持ち場にもどって!!皆、通常通りよろしくね!もう最初のクライアント来るわよ!」
様子を見ていた奈那先輩がパンパン、と手をたたいて、面食らって硬直していたスタッフの皆に、檄を飛ばした。
その合図で皆我に返り、業務に戻った。
でも何となくしこりを残しつつ。
「愛音、ちょっと大変だけど、ひとりで頼むわ。あんたなら出来るから」
「……はい、わかりました」
私は仕事に穴を開けるわけにはいかないので、とりあえず遥くんが手伝ってくれていた部分も1人で頑張って、午前中、ものすごく、疲れた。
--昼前に、なんとかその場はおさまったようで、遥くんは偉い人の部屋から戻ってきた。
美咲ちゃんはわんわん泣きながら、美々子先輩は気分が悪くなった、と言って、2人とも、早退したらしい。
「もう、この事務所には二度とお願いしないわ!バカにしないでよ!!」
フロアに現れて大声でそう言い放つと、RiSAさんはまた大きなサングラスをチャッ、と掛け直した。そして長い艶のあるウェーブの髪を翻し、赤いハイヒールをカツカツ鳴らしながら、プンスカして帰って行った。ついさっき。
……後ろ姿、絵になってたなあ。
……遥くんは皆に絞られたのか、ちょっと、肩を落としていたようだった。昼休みに、私は遥くんを屋上に呼び出した。一応、今は直属の部下、みたいなもんなので。
……屋上に行くと、遥くんはもう来ていた。ハーフアップをほどいて、桜色に、赤い毛先の髪を風に靡かせながら、屋上の柵にもたれかかって、遠くのビルの景色を見ている。その姿はちょこんとしていて、だけどおしゃれで、空の青と一緒に見ると、なんだかみずいろの金魚鉢の中でヒラヒラ泳ぐ、金魚ちゃんみたい。
しかし、遠い目。浮かない顔だ。
私は遥くんに声をかけた。
「……お疲れ様。呼び出してごめんね。……まずはこれでも飲んで。ハイ。朝のハーブティーのお礼だよ」
私は遥くんに、ペットボトルの冷たいミルクティーをあげた。
「あ、愛音さん。……ありがとうございます。あ、"午前の紅茶"……僕、これ好きなんです。嬉しい。……今日は、すみませんでした」
遥くんがふっと肩の力を抜いた。
「……今日のことはさ、何か、理由があるんだよね?……私でよかったら、話、聞けることあるかな?」
私はどんなゴシップが飛んでくるのか、少しだけドキドキしつつも、覚悟をきめて、ここぞとばかりにサラリと先輩風を吹かせた。実は昔から、屋上でやってみたかったんだ。こういうの。
すると、「……はは、」と苦笑しながら、彼は言った。
「愛音さんは、僕のこと、分かってくれますかね?信じてくれますか?」
「うん、……出来るだけ、信じるよ」
私がそういうと、彼は抱えている悩みを、ポツリ、ポツリと話始めた。
「……僕は、優しすぎるんでしょうか。頼まれると、断れないんです。それで、毎回結果的に人を傷つける。……RiSAさんは、こないだお仕事でお会いしたあとに僕の連絡先、勝手に誰かから聞いたみたいで、突然連絡してきて。それで、話を聞いてたらどんどん、距離つめてきて。実は僕、そういうこと、今までもよくあるんで、嫌な予感はしてたんですけど。自信がある人だし、上得意さんなんでどうしても断れなくて、一回お食事に行ったんです。そしたら付き合ってくれって言われて。いや、それは無理です、って言ったら、怒りだして。"それなら、今度デートしなかったら仕事降りる、遊園地に行きたい"って」
「ほう」
女優からアプローチを受けるなんて、贅沢な悩みだ。思わずそう思ってしまった。
「困って、思い切って信頼してた上司に相談したんですけど……『仕事上の付き合いって割り切ればいい』って、全然取り合ってもらえなくて。むしろ勧められちゃって……なので仕方なくチケット用意して、指定された遊園地に行ったら、"付き合いOK"だと思われたのか、もう、なんていうか彼女みたいに振る舞われて、今日もあんな感じで。……僕はただ、RiSAさんに言われた通りチケット用意して遊園地行って、帰っただけなんですよ?それだけなんです。それ以上のことはありません。さっき、上司の前で一部始終話したら、RiSAさん怒って、もう来ない、って出ていっちゃいました。我慢したわりに、結局、この先の仕事に穴、開けちゃいました。大損害ですよね……」
そう言って、遥くんはため息をついた。チャラチャラしてるのかと思いきや、どうやら本気で悩んでいるようだった。ひと昔前の、上司のセクハラに悩むOLさんみたいな悩み。
さっきのような計算高い表情でも、いつもの爽やかな営業スマイルでもなく、ただの迷える一人の若者の顔をしていた。
……ホントかな。なんだか危ういけど、一応信じてみる。
「……そうだったんだ。遥くん……人知れず悩んでたんだね。ごめん、私気付かなくて。あのさあ……もしかして、さっきの、他の人たちのことも、そうなの?」
「はい、実は。……RiSAさんが言ってた、他の事務所の子と一緒に帰ったって言うのは、昨日飲み会の後、……あ、僕お酒好きなんですけど、なんか飲み足りなくて、ひとりで行きつけのBARに行ったんです。そしたら急に、今担当してる女性タレントさんから連絡がきて、電話で泣きながら恋愛相談されて。あ、畑中樹莉ちゃん、知ってます?」
「あ、知ってる!あの子、よくバラエティー出てるよね、最近」
「そう、で、近くにいるっていうんでお店教えて、彼女すぐやって来たんで、直接話して……実は、彼氏が僕の同業の友達なんですけど、喧嘩したらしくて。"もうだめかも"、って言うんで、でも、ふたり、かなり好き合ってて。でもそのお店閉まる時間になったんで、彼女と店出て、直ぐ近くのファミレスに友達呼び出して。……だから、多分そのあたりを切りとって、誰かに見られたんですね……それから結局、朝までファミレスでふたりの話聞いて、仲裁してました。……なんとか仲直りさせて、朝4時に、彼女と友達は無事一緒に帰りました。よかったですけど。それから、僕も家に帰って。シャワーして少し仮眠して、それからすぐ職場来ました」
寝不足って、そのせいか。……本当なら、友達思いのいいやつじゃん、ただの。てか、かなり、いいやつじゃん。
「……ああ。それは大変だったね。……じゃあ、かなり眠いよね、今」
「……はい、実はすごく。ふふ。だから目覚ましに、あのローズヒップのやつ、淹れたんです」
遥くんは朝よりまたすこし落ち窪んだ目で、そう言った。
「それで、他には?」
「……SNSのメッセージは、さっき皆さんで別室でお話したとき確認したら、あれはどうやら美咲ちゃんが、RiSAさんに、送ったものらしいんです……美咲ちゃんとは付き合ってないし、そんな深い関係でもありませんでした。美咲ちゃん、仕事で悩んでて、よく昼にひとりで落ち込んでたみたいなんで、僕、声かけて話して。それから、毎晩LINEくれるようになって、悩み相談受けて。そしたらだんだん美咲ちゃん元気になったんですけど……今度はだんだん甘えてこられるようになって。軽くあしらってたんですけど、どう思われてたか……あ、彼女も多分、僕と付き合ってるみたいに、思ってたのかも。……それから、美々子さんも。今週末フランスに仕入れに行くって言うんで、僕もついていきたいですって言っただけなんですけど……勉強のつもりで。ただ、海外経験豊富な美々子さんに、色々教わりたいと思って。そしたら美々子さん、"じゃあ、ついでにいっしょに観光しようよ"って言い出して、"あ、それいいですねぇ"、って軽口たたいたら、もう今日は、あんな感じです。……あの2人のことも、怒らせてしまいました。きちんと一から説明して、一応誤解は、解けたんですけど……上の人には"身の振り方が軽薄すぎる"、って怒られるし、……僕は、やっぱり軽薄なんでしょうか。もうなんていうか、明日から、皆さんに顔あわせらんないですね……。職場の他の人にも、誤解されちゃっただろうし。きっと」
……仕事やめる、とか言い出すんだろうか。でも、私は困るな、それだと。
なにかと、頼りにしてるから。
要するに、彼をとりまく女性のみんながみんな、遥くんの魅力にあてられてしまったってことなんだ。本人はわりと、無意識なのに。……無意識なのか、自覚があるのか、よくわからないんだけど。まあ、とにかく、遥くんの意図しないところで、モテてしまっているのは事実だろう。
……四柱推命なら、絶対、沐浴(もくよく)とか桃花星(とうかせん)、紅艶(こうえん)、咸池(かんち)あたりの、いわゆる"モテ星"を持ってそうだわこの子。……ちょっと遥くんの生年月日、聞いてみたい。気になるな……。
突然、占い好きの私の無駄知識がフィードバックする。いかんいかん。
でも……遥くんには悪いけど、……話聞いてて面白い。ごめん。
「……すごいね、遥くん。……要するに君は、おそらく女子を"勘違いさせる"プロなんだわ。……罪なやつだね。あのさ……さっき、遥くんは私にも悩み相談したいって言って、飲み会の提案したとき、ふたりで、とか、さらっと言ったじゃん。あれ、よくない。君、気付いてないのかもしれないけど、あざといよ、あれは」
「……えっ。そうなんでしょうか」
私は指折り数えながら言う。
「うん、気のない人には、簡単に言わないほうがいいよ……物腰がやわらかくて、マメで細やかで気が利いて優しくて、ルックスがよくて。そう、はたから見ると君ってさ、絵にかいたような理想だもの、女子にとっては。気付いてる?みんな、"遥くんは、私だけに優しい王子様だ"、って、勘違いしちゃうのかもよ。モテないやつにとってはうらやましい悩みだけどさ、……気をつけたほうがいいよ」
「はあ……」
「……遥くんってさ、相手の寂しさとか、弱さを引き寄せちゃう、磁石みたいなもんなのかもしんないね。君の弱点は、うーん、君が自分の魅力を上手くコントロールできてなくて、持て余してるとこかもしれないねえ。……うわ、なんかすごい、気障な褒め言葉になったわ。気持ち悪いね、ごめんね。……でも、嫌な思いしてるんだったら、断れないとか言ってる場合じゃないよ?中途半端な優しさが、結果的にトゲになって、相手を傷つけることはあるし、いちばんは、自分が傷つくもん。押し黙るんじゃなくて、嫌なものは嫌だと、最後までちゃんと言ったほうがいいよ。君が今してるのは、まるで"無償のホスト"みたいな立ち振舞いだよね?……それは、もうやめたほうがいいよ。君の幸せのためにも。……遥くんてさ、スタイリストとしての腕はすごくあるのに、プライベートでの人との距離のとり方は思ったより、不器用なんだよね、なんか」
遥くんは黙って、少し考えていた。
「そうか……やっぱり不器用ですよね……。僕、昔から、そうだな……もう、小学校高学年くらいからなんですけど、意図せず、しかも恋愛経験値なんてちっともないのに、なぜか覚えのない修羅場に、巻きこまれちゃうんですよね……大人も巻き込むし。だから、慣れてはいるんですけど、こういうの。もう、いよいよ僕の宿命なんだ、諦めるしかないと思ってたんです。だから、やたら冷静に傍観しちゃう。自分のことなのに。でも、ほんとは、心んなかでは、嫌なんです。僕はこのままだと、自分がまともな恋愛ができるとは思えません。……というか、したことがない。……知らない人に自宅に侵入されたり、襲われそうになったことは何回かありますけど。警察がきて苦笑いして、"また君か、気を付けなさいよ"、みたいな。僕、既に警察に面割れてます。まるで顔馴染みみたい。……僕は、変わらないといけませんね」
……う。聞いてると、……不法侵入、ストーカー、暴行未遂……そんな感じかな……警察沙汰まであったのか。はは。
今まで相当嫌な思いをしてきたのか、遥くんはやりきれないような、悲しげな表情だった。
「…….なんだかさ、私みたいにモテない側の人間としては、実はさっきまで"そんなにモテモテなんて贅沢な話"みたいに、思ってたけど……ごめん。話きいてたら、モテすぎるのもキツいねえ。生きにくいよね。君は、なんだか"楊貴妃"みたいだねぇ。あの、ライチ好きな。"傾国の美女"ならぬ、"傾国の美男子"か。ふふふ」
私は自分で言って、うまい!と思って少しウケてしまった。やっぱり歳か。そして私は今、遥くんを偉そうに諭しながら、同じ言葉を、少し昔の自分に言いきかせているかもしれない、と思った。……中途半端な優しさで、相手を傷つけて、自分も傷ついたこと、実はある……昔の恋。
でも……今私がはっきり言わなきゃ。なんか、放っといたら、今度はストーカー被害や暴行未遂被害だけじゃなくて、いよいよ刃物がでてくるかもしれない。さすがに職場で血は見たくない。……血は、今夜のお魚だけでいい。
遥くんは、ウケている私を見て、「ふふっ」と、少し嬉しそうに笑った。
「そうですかね……。僕は色恋沙汰に関しては、ただただ気分悪いばっかりで、モテてる実感は全然ないですけどね。……でも、頼まれたとき、困ってる人見たとき、ほっとくのは男らしくないし。男だったら力にならなきゃ、とは思っちゃって。で、巻き込まれては失敗して。だから、誰かに相談したくて、もしかしてこういうの愛音さんになら相談できるかも、って思って。なんていうか、すごくカラッとしてるし。でも、色々わかってくれそうな懐(ふところ)ありそうだし。……そしたらタイムリーにまた、いつもの修羅場が。はは」
「そっか。まあ、まだ25だけどさ、私の人生も色々あるからね……ねえ、今晩さ、うちいい魚でお刺身の日なの。お兄ちゃんが捌くんだけど。夕方6時半集合でね。そこにはね、わりと君と年の近い、モテない男子もモテる男子もあつまるからさ、ふふ。まあ、うちの兄と、弟、弟分、姉貴分が来るだけだけど。良かったらさ、遥くんも今晩、うちにおいでよ。うちの料理、その辺の飲み屋さんより美味しいし、皆で話したら楽しいかもよ。ほら、ここの職場女性多くて、あんま男性いないし、ちょうどいいと思って。今から相談してみるからさ」
「えっ。いいんですか!……僕、愛音さんち、お邪魔したいです」
「うん、お兄ちゃんも、きっといいって言うと思うし。意外と人呼ぶの、好きだから」
私は早速、お兄ちゃんに、落ち込んだ部下の遥くんを連れていきたい旨を、LINEしてみた。
昼だからか、送信後5分くらいでピコン、と返事がきた。お弁当中かな。……たぶん今日の兄のお弁当には、昨日の夕飯の残りの、お手製のハンバーグが入ってるはず。あのハンバーグ、旨いんだよな…….今日ぐらいは頑張って自分で詰めてくれば良かった。私は今日は惣菜パン。LINEに目を遣る。
『彼氏か』
兄の唐突な文面に吹き出しつつ、私は即レスした。
『ちゃうわ』
シュッ。
兄からも即レス。
ピコン。
『なんだ残念。いいぞ、連れてこい。ただし、兄はいい酒を所望する』
ピコン。
さらに、可愛いお銚子とお猪口の絵文字が。
私は兄に感謝を込めて、愛音だけに、ハートをつけてあげた。
『了解♡』
シュッ。
ピコン。
『うげっ』
……なんだよ、『うげっ』て。
「……遥くん、お兄ちゃんOKだって。おいでってさ。ただし、いい酒を持ってこいって。帰りに、一緒に酒屋さんに寄ろうか」
「ほんとですか!嬉しい!行きます!僕、オススメのお酒あります!」
遥くんはちょっと元気がでたようで、いつもの柔らかい優しい顔で、甘えるように笑った。
「よし。皆さんをお騒がせしちゃったのは、仕事で返すしかないね。とりあえずお昼ごはん食べて、がんばろうか、遥くん」
「……はい!」
その後、遥くんの分も買っておいた惣菜パンを2人で食べて、我が家での夜のお魚を楽しみに、2人で午後の仕事を、なんとか乗りきった。
仕事帰りに、遥くんと自宅近くの島酒店に寄った。ここは日本酒に焼酎にワインに……いつ行っても美味しくて、いいお酒が置いてある。兄が気に入っていてよく立ち寄るので、私も付いていくことがある。だから、おじちゃんとおばちゃんは顔馴染みだ。
「お、アイちゃん、いらっしゃい。奏汰はどうした?今日は……おっ、もしかして、アイちゃんの彼氏か?」
おじさんまで嬉しそうに。めずらしく男の子と一緒だからって、皆、唐突に何を言うのか。短絡的すぎやしないか。遥くんはモテるわりに、面食らっているようだった。ちょっとだけ、赤くなっている。私は慌てて否定した。
「ちょっと、ちがうよおじさん、ごめんね、遥くん。今日は優秀な後輩くんと、兄のお使いにきたんだ。いい酒買ってこいって。これから、いつもの、あれの日で」
私は包丁で魚をさばくジェスチャーをする。
「おお、"給料日の刺身の会"な。……そしたら今の時期なら、肴はスズキあたりかな?……そんなら、これと、……これだな」
さすがおじさん。プロっぽい。
遥くんが声をはずませる。
「……わあ、僕が旨いと思ってたやつです!2つ目!僕、日本酒好きで。お刺身に合わせたいから、あまり香りが主張しすぎなくて、最後にキュッとキレるような、辛口がいいかもって」
うわ、本当にお酒、好きなんだな。なんだか、うちのお兄ちゃんみたいなこと言う。
「……お、兄ちゃんわかってるね!じゃあこれは決まり。ちなみに最初のこっちは、夏の生原酒。今この時期だけ。香りは穏やかだけどフレッシュでフルーティーで、なかなかいいぞ。爽やかで」
「うん、美味しそうですね!……愛音さんはたぶん、こっちのが好きかもしれません」
「あ、ほんと?私それ飲んでみたいかも」
「はい!……じゃあ、この2つ、下さい!」
そう言って遥くんはカバンから財布を出す。
「いや、いいよ遥くん、私が呼んだんだから」
「いえ、きちんとお土産もっていかないと。それに今日は、なんか、愛音さんから元気貰ったんで。お礼したいです」
「そんな、おこがましい」
……でも、憧れの"屋上の先輩風"が成功したみたいだから、ちょっと嬉しかったけど。
「いいんです。じゃあ、おじさん、これ下さい」
「……あら~、素敵な男の子ね。男らしいし、気が利くわぁ。アイちゃん、よかったわね、お似合いねえ」
奥からおばちゃんがでてきてそんな風に言うので、私はまた慌てて訂正した。
「ちょっと、おばちゃん!だから、ちがうから」
「いいじゃない、ほんとにお似合いよ。遥くん、アイちゃんのこと、よろしくね」
おばちゃんはにっこり笑って遥くんに向かってそう言った。
何てことを言うんだ。
「奏汰くんも安心だわ、これで」
おばちゃんの目がキラッと光った。そうだった。実は、兄が買い物に来たとき、おじちゃんとおばちゃんに"あいつはズボラだから、きっと嫁の貰い手がない"と嘆いていたらしい。こないだ会ったとき、おばちゃんが、証言した。なので私はふたりにも心配されていたのだった。この2人は世話焼きなのだ。これまで何組もの人たちをカップルにして、結婚させてきた実績がある。非常に、やっかいだ。
お兄め、余計なことを余計な人たちに。
「はっ」
あらぬ疑惑が頭をよぎる……まさか、兄が"酒を所望"と言ったのは、遥くんとふたりでここへ来させる計算だったのか?……だとしたら恐ろしい兄だ。奏汰め。
「ごめんね、気にしないで」、そう言おうとした時、
「……はい!ありがとうございます」
遥くんは笑顔でおばちゃんにそう答えた。
はい?
なんですと?
なにを言うとる?
私は驚いて、何も言えなくなった。
………遥くんが会計をすませる。けっこういい値段だった。おじさんが言った。
「毎度!また来いよ、遥くんと!奏汰と律にも来いって言っといて」
「うん、ありがとね。また」
また、何を話すんだろう、兄とあの2人は。
来いって言ってたなんて、言うもんか。
しかし、おばちゃんがまた念を押すように言う。
「遥くん、アイちゃんとまた来てね」
……いや、だからもうふたりでは来ないよ。
なのに、
「…….はい、また来ます!ありがとうございました」
遥くんは臆することなくそう答えた。
何なんだこの子は。
わけが分からないよ。酒屋をでるまで、私は遥くんに一言も言えずにいた。
「……愛音さん」
店をでて、遥くんが口をひらいた。
「……はいよ?」
私はようやっと返事をした。
「さっき、愛音さんは自分のこと、"モテない側だ"なんて言ってましたけど、僕は愛音さんが、モテないとは思いません。むしろ逆です」
「……は?」
「……それに、僕、愛音さんといると、すごく安心するんです」
「……へ?」
「……僕、愛音さんのこと好きになっちゃったので。僕も、好きになってもらえるように頑張ります。……そもそも僕は、気のない人に"ふたりで"、なんて言うつもりありません」
「ほ……?」
……涼しい顔でとんでもないセリフを吐いた若き楊貴妃は、私の返事も待たずに「早く行きましょう!」と嬉しそうに歩き出す。その背中は、まるで遠足を楽しみにしている少年のように軽やかで、さっき自分が口にした言葉が、どれだけ私を動揺させたかなんて、これっぽっちも考えていないようだった。本気?冗談?なに?
「……あ、愛音さん!あそこの看板、猫が描いてありますよ。可愛い!」
彼は立ち止まって、指を差した。その瞳は、ただ純粋に街角の猫を見つけた子供のようにキラキラと輝いている。
どうやら、私をドキドキさせた言葉と、目の前の猫への興味が、彼の中では完全に同じ熱量で存在しているのだ。
ほんとうに私の話、聞いてた?
私の、先輩風……
……確信した。この子は、あざといんじゃない。ただの、最高に罪作りな"天然の磁石"なんだ。
……うちに連れてくの、やめとこうかな……?
夕暮れの街を歩く彼の背中を見ながら、私はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
♪ 今日のBGM
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330 第1楽章
♡軽やかな旋律の中に、時折見せる翳(かげ)は、誰かを傷つけてしまう不器用な優しさと、ちょっとだけ似ている気がします。
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*この物語はフィクションです。
実在の人物・団体とは一切関係ありません。
© 2026 Lulu Mukoda
