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【連載小説】アイネちゃん、隣に座っていいですか?|①我が家の朝とレモネード

あらすじ:音楽家の両親を事故で亡くし、奏汰・愛音・律の3きょうだいで支え合って暮らす葉山家。規律に厳しい長男・奏汰がフライパンとお玉を鳴らして起こすドタバタな朝の風景が、彼らの日常だ。スタイリストとして働く長女・愛音は、寝起きが悪く浮腫みに悩む日々。そこへ生意気な弟の律と、幼馴染の玲央が加わり、いつもの騒がしい朝が始まる。両親の思い出の曲である「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」から名付けられた愛音の生活は、音楽と美味しい食事、そして不器用な恋の予感に彩られていた。個性的な面々が織りなす、切なくも温かい、きょうだいの絆と日常を描いた物語の幕が開く。


「……お~い、朝だぞ~。お前ら!もういい加減に起きなさいよ!!遅刻するぞ!!」

奏汰(かなた)兄ちゃんの声とともに、カンカンカンカン!と金属同士が触れ合う大きな音が、今朝も我が家に響き渡る。

「おはよう!マイシスター、マイブラザー!いやあ、今日はお日さまが爽やかな朝だなあ。ほら!さあ、見てみなさいよ窓の外をー!!」

兄はわざとらしく、大きな通る声でそう言うと、いきなりガチャッと2階の部屋に乗り込んできて、フライパンを鳴らしながらピンクの遮光カーテンをシャッと開けた。
すこし鋭い朝の光が、私の顔を突き刺す。眩しくてたまらない。

兄はいつからか、寝起きの悪い私たちに痺れを切らすと、フライパンをお玉でカンカン叩きながら部屋を巡回してくるようになった。
なんてSっ気があるのか。

「うぅ~……ああもう、また……うるっさいよ奏汰は!……フライパンにお玉とかさあ、いつの時代なのよそれ……夕べ私、帰ってくるのいつもより遅かったんだからね、勘弁してよ……もう!だいたい妹の部屋に、勝手に入ってこないでよね!!」

私は寝癖でぐしゃぐしゃの頭で、耳を押さえながら兄にぶつくさ言った。 

「おおん?そもそも愛音(あいね)よ、毎朝お前の寝起きが死ぬほど悪いからいけないんだろうが!我が家の1日の生活がここから滞る!お前よりまだ律(りつ)のがましだ」 

兄は眉をひそめて言う。すると、隣の部屋から大学生の弟の律が、あくびをして伸びながら、眠そうな目を擦りつつ起きてきた。

「……あーあ。おはよ。……だけどほんとだよ兄貴……うるっせーよ……何で毎朝そんなに元気なんだよ……」

すると奏汰兄ちゃんはむっとして、お玉とフライパンをベッドの上にポイッと置くと、止めて二度寝したせいで全く意味のなかった、私の目覚まし時計をがしっと掴みあげて言う。

「ばっかやろう、俺だってな、朝から家事で疲労していて全然元気なんかじゃねえんだよ。いいかお前ら、この時計を見ろ!もう7時だ!……我が家の起床時刻は、毎朝6時だと何度も言っているはずだ。もう一時間も過ぎているじゃないか。社会人になったらな、遅刻というのは、やはり信用にかかわるのだよ。……愛音ちゃん、君は何故、9時間もぐっすり寝たのに起きられないのかな?律くん、夕べはゲームでもしていて、寝るのが遅かったのかな?……いや、ふたりとも家事をしていた僕より先に、22時頃にはイビキをかいて寝ていましたよね?その時、2人とも腹を出して寝ていたので、僕は布団をかけてやった覚えがあります。……そして今日は既に、お前らを15分毎に、3回起こしたのだよ俺は。これで4回目だ!」

「……え?……そうでしたでしょうか……?わたくし、そのようなことは全く記憶にございませんわね。ねえ律さん」

「はい……同じく僕も、全く記憶にございませんね」

兄に甘えて、政治家みたいな台詞で2人でふざけてニヤニヤしていると、兄は"ああん?"と言って、ガチで私たちを睨んだので、やばいと思ったのか、律は言い直した。

「……あ、すいません、僕はやっぱり少し……記憶に……ありました。ははは……」

「そうだよな律くん。僕が起こしたら、さっきいちど起きたじゃないか君は。まさかその後また寝たのかい?愛音ちゃんに至っては、起こしても微動だにしないものだから、これは死んでいるのか?と思って思わず呼吸を確認したよ。君たちは、"仏の顔も三度まで"、という言葉を知っているかな?……このフライパンとお玉はなあ、俺が会社に遅れないための最終兵器なんだよ!お前らのせいで遅刻して、俺が何度怒られたと思ってるんだ。嫌なら、これがでてくる前にさっさと自分達で起きろ。てか目覚まし鳴ったらな、一回で起きるもんなんだよ……なんのためにこれ、セットしてんだ。……いつもの通り朝飯は出来てるから、食って早く会社と学校いけ。遅かったら、もう俺は先に仕事行くからな。あと、自分達で時間までにゴミも出せよ。洗濯物も布団も自分たちで干せ!ほんと、社会人と大学生にもなって、全く手が掛かるよ……。あー、母さん、父さん、もう、こいつらになんとか言ってやってくれよ……。はぁ。もうとにかく、早く起きてきなさいよお前たちは」

早起きの兄は最後いよいよ疲れたのか、呆れたようにそう言うと、腕捲りしたワイシャツのネクタイを肩にかけ、エプロン姿で、フライパンとお玉を一回カーンと鳴らし、溜め息をつきながら、とぼとぼと階段を降りていった。……兄が部屋を出る時、私は兄のシャツの肩口が少しだけ擦り切れているのに気付いた。兄は28歳なのに、その背中には既に中年の哀愁すら漂っている気がした。我が家の幸せをもうこれ以上壊さないように、毎朝お玉でフライパンを叩きながら、必死に家族を守ってきた背中。私はこの背中を時々、小さい頃みたいにギュッと抱き締めたくなる。もう、嫌がられそうだけど。

でも、兄はそうやってぶつぶつ言いながらも、いまだに朝ごはんをちゃんと作ってくれる。
……最近、"持つべきものは、料理と家事が得意で、面倒見がよく、規律正しい兄"であると、本当に、つくづくそう思う。見た目はスレンダーだが、兄は体力も根性もパワフルだ。私は兄がいなければ今頃、野垂れ死んでいたにちがいない。
だけど、そもそも、寝起きが悪いのも、家事ができないのも、奏汰が昔から何でも先回りしてやってくれて、私と律を甘やかしたからいけないんだとも思う。私が大学生の時だったか、何かの喧嘩の折に兄にそれを言ってしまった。すると、以前は朝だけでなく、昼のお弁当まできちんと作ってくれていた兄から、"愛音も成人したし、2人とも自立のために、昼食は作るなりなんなり、自分達で何とかするように"、と言われた。……兄は自分一人で何もできない私たちの将来を案じたのか、それともただ頭にきたのか。あるいは私に、朝3人分の弁当作りができるようになることを、期待していたのかもしれない。でも結局、私が毎朝早く起きて弁当を作れるわけもなく、いまだに毎日、専ら社食で済ませている。弟も、コンビニか学食だ。兄は諦めているのか、最近は黙って毎朝、自分のお弁当だけを作って、会社へ持っていく。そしてある証言によると、"このままでは、愛音は嫁の貰い手がない"と本気で私のことを嘆いているようだ。
……やっぱり、悪いのは努力しない自分か。

兄が肩を落として2階から去ると、起きあがってベッドに腰掛けていた私は、廊下にいた寝ぼけ眼の律と目が合った。律は私を二度見し、でかい目を見開いてしばらくこちらを見て静止していた。何なんだ。すると、暫くして律は何を思ったか部屋の中にトコトコと入ってきた。そして、ベッドの横の床に胡座をかいて座り、私の顔を再びまじまじと見つめると、いきなりブハッと吹き出した。

「……アハハ。おい姉貴、今日もすげえ浮腫んでんぞ。……これはヒドイ顔だ。目のついた、溶けた餅みたい。目え覚めた。誰かと思ったわ!」

そう言っていたずらっぽく白い歯を見せながら、面白がってゲラゲラ笑っている。

……こいつ、いつもの事ながら、朝からムカつくな。憎たらしい。自分だって十分、寝起きのボンヤリした顔のくせに。

「……おお~、これは傑作だあ。写真撮らなきゃ。ブハハハ。……ハァ、腹痛い……あれ?スマホどこだ、あ、あったあった。……アハハハ、あーあ。おもろすぎ、フフ……」

そう言って笑いながら、奴はついにスマホのカメラをこちらへ向けて来た。弟の態度はあまりにひどい。私はカチンときて、律のスマホをひったくりながら言った。

「こらあ!やめい!アハハじゃないわ!……姉に向かってその口の聞きかたは何だ!それでも教育者になろうという者かね。あんたも今はいいけど、そのうちこうなるんだからね。覚悟しときな!バーカ」

そう言って私は持っていた律のスマホをぶん投げた。……一応、柔らかいソファーの上にだけど。

「……うわ、投げた。お前さ、25にもなって、普通、弟にバカとか言うかよ。信じらんない。浮腫んでるし、寝癖はすごいし、朝から最悪だなこの女」

……こいつ……!律は自分が仕掛けたくせに、なんだか私に対して突然ドン引きしたように、正論みたいなことを言ってきたので、その態度ににまたイライラした。……実際、私は25歳になった途端、夜ちょっとしょっぱいものを食べると翌朝、すぐに浮腫むようになっていた。なんでだろう。悲しい。老化なのか。病気ではないと思うのだが。夕べは職場の飲み会で、焼肉だった。食べ過ぎて、飲み過ぎた。となりにいた後輩の男の子に注がれるまま飲んで、二日酔いなのか、うっすら頭が痛い。くそ。

まだ21歳と若く、毎日運動をしているせいか、私より肌がピチピチで母似の弟は、目もくりっとして、正直私よりきれいだ。ますますムカついて、ほっぺたをギューッとつねってやった。
兄も、父譲りの塩顔で、今日も朝からスッキリとして、私よりよっぽど整っている気がする。

とにかくふたりとも朝からムカつく。 
私はいったい、誰に似たんだろう。 

「いでで……やめろよ姉ちゃん!……だいたい最近しょっぱいもん、食べ過ぎなんじゃないの。焼肉だのタラコだの気をつけろよ、血圧上がるぞ。野菜を食え野菜を。それに、少しは体動かせよ、いっつもゴロゴロしやがって。太るぞブス!」

「うるさい!あんたこそ野菜残して、ネズミみたいにカリカリカリカリお菓子ばっかり食べてるくせに!いったいどの口が言うんだ……これかぁ!!」

私は今度は怒りに任せて律の口元を片手でむぎゅっと挟んだ。律はタコみたいな顔になった。
ザマアミロ。

………すると、後ろから低い声が響いた。

「……おい。……俺は早く起きてこい、と言っているんだよ。なのにお前らはまだそうやって、ふざけているのか」

振り返ると、再び2階に様子を見に来た兄が入り口のドア枠にもたれかかり、こちらを見て立っていた。今度は腕を組んでいる。表情はなく、さっきより眼光がするどい。やばい。雷が落ちる。ちらっと見ると律もやばい、という顔をしていた。

「……本当になあ、……いつまで幼いんだよお前らは!俺は時間がないんだ!そしてお前らより寝てもいない!……はやく、パジャマ着替えろ!!いいから顔洗って歯磨いて、早く朝飯食え!!どんどん冷めるんだよ!!要らないならもう片付けるからな!!ほら!ほれ!」

……兄は強めの口調になり、耳まで赤くしながらついに怒りだした。母譲りで色が白いから、怒ると顔色がすぐ赤くなる。分かりやすい。兄は私たちのパジャマの首根っこを掴んで、部屋の外へズルズルとひっぱり出してから、部屋のドアを音をたててバタン!と閉め、踵を返してドタドタと階下へ降りていった。乱暴ではないが力が強い。まるで朝から父に怒られたようで、こんなとき、私と弟はいつも少しシュンとなる。
でも、兄は昔から、父と同じで、怒っても決して私たちに手をあげたことはない。

とにかく優しいのだ。
こんなだから、私と律は、怒られても兄のことが大好きなのだ。


……そんなふうに、バタバタやりながらある程度支度をすると、リビングに行って、ようやく朝食にありついた。

「……はい。……わあ、すご~い朝ごはん……さすがお兄ちゃん。いただきまーす……」

「……兄貴、わあ。今日も、旨そうだね……ありがと」

私たちは兄の機嫌をとるために、いつもは滅多に口にすることのない、兄と朝食への賛辞を並べたてた。

「……めしあがれ。白々しい……黙って早よ食え貴様ら」

兄の機嫌はまだ悪かったが、テーブルの上にはハムエッグとサラダと、ご飯と、お味噌汁。今日も安定して美味しい。今日は味付け海苔まである。あと、我が家の定番、蜂蜜とレモンがたっぷり入った冷たいレモネード。我が家では昔から、母が国産レモンの時期になると原液を漬け込んでおいて、水や炭酸でうすめたものが時々、朝の食卓にのぼっていた。春には黄色いレモンで仕込んで、秋には緑のレモンで仕込む。甘くて酸っぱくて目が覚めるし、食欲がないとき、喉が痛い時なんかにも良いのだ。むくみにも、二日酔いにも良いらしい。寒い時期にはあっためて飲む。今年も5月に皆で仕込んだのがついにできあがったらしく、今朝は兄が麦茶とともに、カラフェに、冷たいやつを作ってくれてあった。初物だ。甘酸っぱくて、レモンの香りが爽やかで、美味しい。そして、ちょっぴりほろ苦くて寂しい、"我が家の味"だ。……もしかすると、兄は私の浮腫みに気付いて、わざわざ今朝、作ってくれたのかもしれない……朝からここまでしてもらうと、いつまでも兄に甘えている自分を、またちょっと反省した。テレビで朝のニュースを見ながら、皆で一言も発することなく、しばらくモグモグ食べた。……やっぱり、殺人事件のニュースは朝からきついな。食べ終わって少し落ちついて、部屋がしーんとしていたところへ、

『ピンポーン』

リビングに漂う気まずい静寂をぶっ壊すように、今日も呼び鈴が鳴った。
……私はちょっとほっとした。

 「あっ、やべ、あいつもう来たわ」

律が少し慌てて支度しはじめる。

「みなさーん。おはようございまーす。おーい律。一緒にいくぞー」

玄関から明るい声がする。 

……浮腫んでるしな。私はちょっと恥じらいが生まれ、サッと洗面所に逃げた。

今日もいつものように幼馴染みの玲央くんが、律を呼びにきたのだった。律とは幼稚園からの仲だ。彼は一人っ子で、律より少し誕生日が遅いので、うちのきょうだいにとっては、もうひとりの家族、弟のようなものだ。そういや私も、小さい頃はよく一緒に遊んでやったな。懐かしい。……玲央くんは昔から女の子みたいに可愛いくて、今でこそ彼は陽気だが、小さい頃は律と違って活発に走り回ったり逃げ回ったりせず、ずっとお姉ちゃん、と言って私の側にいるような、かなり大人しい子だった。男兄弟しかいないので、妹が欲しかった私は彼を連れ回しては、髪の毛を自分とお揃いの三つ編みにしたり、私のお下がりのスカートや、かわいいお洋服を着せてみたり、シロツメクサの花冠を一緒に作ってかぶせたりしていた。もう、可愛くて可愛くて、私は彼を弟ではなく妹のようにして、……というか、むしろ"メロちゃん"や"リナちゃん"のような、着せ替えのできる、私だけのお人形かなんかだと思って遊んでいたのではないかと思う。母の口紅を勝手に持ち出して、玲央くんにメイクしようとした時はさすがに怒られた。思い返せば……ああ、そうか。逆に玲央くんが、私と遊んでくれていたのか。玲央くんごめん……どうか、あの頃のことは忘れていて欲しい。……そのおかげだったのか、私は今、"トータルスタイリスト"という職業についている。

洗面所に、兄が食器を洗いながら話す声が聞こえてくる。

「……ああ、ほら!見ろ律、支度済んでないのにまた玲央が先に来ちゃったじゃないか……。大学が歩いてすぐそこだからいいようなものの……卒業も近いのにまだこれだよ。情けない。……おはよう、悪いなあ玲央、今日も中でちょっと待っててくれるか」

……さっきはお父さんだったけど、今は、まるでお母さんみたいだな、お兄ちゃんは。

「Oui, monsieur(ウィ、ムッシュ)!いつものことよ!大丈夫、今日は律を急かすために早めに来たんだ。おじゃましまーす。やあやあどうも、おはよう葉山家!みんな、今日もいい朝だね。お、レモネードじゃん!こないだ仕込んでたやつでしょ?出来たんだ……じゃカナ兄、俺そのレモネードね。あれ、愛ねえは?」

「あれ?愛音のやつどこいった?……玲央よ、お前やっぱり図々しいなあ。うちは無料のカフェか。そこにあるから自分で注げ。グラス用意してやるから」

「へへへ。ごちになりまーす!毎年旨いんだこれが」

「……姉貴はまたそこの洗面所にでも隠れたんじゃない。なあ玲央、聞いてよ、あいつさあ、また今朝浮腫んでやんの。おもしろいぜ、顔。溶けた餅みたいでさ。浮腫むとさ、いつも洗面所であれ、かっさ?やるじゃん姉貴。もう歳かなあ」

「ああ。うん。あれね。へえ。愛ねえ、今日は浮腫んじゃったんだ。かわいそうに」

律め、聞こえてるぞ。
浮腫んでるとか簡単にバラすな。
歳とかいうな。
玲央くんも納得して哀れむな。
2人ともどうしてくれようか。

律と、玲央くんの2人は不思議とずっと同級生だ。小中高と一緒で、奇跡的にクラスも一緒。大学生になってもいつも一緒につるんでいる。大学も同じ近くの総合大学で、運動が得意で体育の先生を目指す律は教育学部、玲央くんは美術関係の職業を考えているらしく芸術学部なんだけど、いまだに仲がいい。  

「ああ、やっぱり旨いね。これだよこれ」  

「うん、旨い。今年のレモン、立派だったよね兄貴」

「そうだな。わりといいレモンだったよな」

律も支度がすんだのか、レモネードを飲みながら3人で談笑しているようだ。兄の機嫌もひとまず直ったようでよかった。レモネードと、玲央くんのお陰だろう。

「姉貴のやつ、なかなか戻ってこないな。やっぱり、かっさだよ、かっさ。洗面所だ。……なあ!姉貴!洗面所にいるよな?!」

私は律のデリカシー0の投げかけを無視した。図星だった。律の言う通り、私は今洗面所で必死に、顔をかっさでマッサージしていたところだ。
ひんやりしたかっさの石が、浮腫んだ顔に心地よい。

「返事ねえし。……まあどうでもいいわ。餅と格闘でもしてんだろ」

返事なんかするはずなかろうが。

いいからもう私にかまうな。 
2人とも早くいけ、大学へ。

だんだん、スッキリしてきたかなあ?
うーん。
跡ついたらいけないし、このくらいでかっさはやめるか。
鏡を見るついでに、ボサボサの髪の毛も、オイル付けてととのえることにした。
ひんやりとしていた肌が、じんわりと温かくなってくるのを感じる。

「…….やべ、今日は実技テストだったわ~。ああ、かったるいなぁ」

「律なら楽勝だろ。……ごめんカナ兄、俺トイレ借りたい。さっき俺、朝からランニングしてきてさ、水がぶ飲みしてきたせいかも。ルカとテオの散歩は、今日は父さんに任せたんだ」

ん?何だって。

「おう使え。洗面所に愛音がいるかもしれないけど、無視して。……ああ、あの大型犬と小型犬な、元気か?しかし、お前、走るなんて朝から偉いな、スポーツマンだ。体育教師目指してるのだから、お前も見習えよ律」

「いや兄貴、俺は天性のスポーツマンだし。それに朝弱いから夜走ってるだろ毎日。夕食後にランニング行ったじゃんか、昨日も」

「ああ、そうか。……俺もそろそろ走らないとなあ……ほら玲央、ここにコーヒーもおいとくからな。律もほれ。さて。俺もこれで家事がすんだ」

「うわ、カナ兄淹れてくれたんだ。ありがとね。後でいただくね」 

……おいおいお兄ちゃん、おもむろに誘導するな。無視して、ではないよ。玲央くん、こっちへ来ちゃうじゃんか。
一応女子なのに。私に対してそういうところが無神経なんだ。うちの男どもは。
あいつら、絶対モテないな。

うちのトイレは洗面所の奥にある。だから、洗面所を通らなければトイレには入れない。
けど生理現象を止めるわけにもいかない。
けど、まだちょっと顔浮腫んでない?
今出ると鉢合わせるな。
どうする?

「はい、ではお借りしま~す……」
玲央くんの足音が近づいてくる。

まずい。早くここから出なければ。

「……愛ねえ、いる?」

……しかし、思ったより直ぐにガラガラと洗面所の戸が開いた。私は脱出に失敗し、すっぴんのまま、玲央くんと鉢合わせてしまった。

「うを」

私はあわてて、変な声がでた。
ノックせえよ。

鏡の中で玲央くんと目が合って、時間が止まる。

まだ完璧に浮腫みをとりきれず、かっさでちょっと赤くなっている顔。無造作にオイルをつけただけの髪。描いてなくて、薄い眉毛。

これは、完全に、負けだ。

私は慌てて視線を逸らした。でも、鏡の中の彼はまだ不思議そうに私の背中を見ていた。

「……おう、やっぱりここにいた。愛ねえ、おはよう」

玲央くんは鏡越しに再び私の顔を見ると、何にも気にしてないみたいに、かわいらしい笑顔でにこにこしながらそう言った。今日も朝から、笑顔の破壊力が凄まじい。……律によれば、大学には"玲央くん推しの女子大生"が何人もいるようだ。"レオ王子"と呼ばれているらしい。まあ確かに、見た目は……北欧の王子様だ。納得。しかし、彼はまた背が伸びたのか?律もそうだけど、でかい。もう、絶対に追い付けないな。
そりゃそうだけど。

私は愛音(あいね)という名前なので、玲央くんに"愛ねえ"、とよばれると、呼び捨てされているみたいに聞こえて、何だか照れ臭い。

「……お、おう、……おはよう」

私は慌ててそのへんにあったタオルで、顔を隠した。

玲央くんはそんな私を見て静かに言った。

「愛ねえ……さっき、律が浮腫んでるっていってたけど。なんだ、べつにいつもと変わらないじゃない。きれいじゃん」


……いろんな意味で、直球。


『きれいじゃん』


……。

胸がトクンと高鳴る。
玲央くんは、いつもそうだ。
さらっと何の気なしにこういうことを言う。
どういうつもりなんだろう?
あざといのか?なんも考えてないのか?はたまた気を遣ったのか?誰にでもそうなのか?
……実は、彼の父はフランスの血を引いていると聞いたことがある。玲央くんはクォーターらしい。確かに、日本人の割に目鼻立ちがハッキリしてる。小さい頃あんなに可愛らしかったのも納得がいく。この立ち振舞いは、ヨーロッパのノリなのかな?と思っている。
……彼はいつか本当に、甘い言葉を囁きながら、一輪の赤い薔薇の花でもくれそうだ。

わかるよ女子大生。……この人は、モテるよな。

せめてかっさ、しといて良かった。セーフ。


「じゃあ、俺そこのトイレ借りるし。ちょっと入るよ。……今日さ、朝から走って汗かいてさ、水飲み過ぎたんだよね。ごめん」

「……うん、いいよ。ごゆっくり」

「ごゆっくりはしないよ」

そう言ってまた、かわいい笑顔で笑った。
小さい頃から、やわらかな栗色の癖毛。洗面所に入ってきた玲央くんとすれ違うとき、汗を流すのにシャワーでも浴びてきたのか、お風呂上がりの石鹸の香りがした。洗面所が、みるみる玲央くんの香りに包まれる。
朝からキュンとした。


私は急いで2階の自分の部屋に逃げ込んだ。

​鏡台に映った自分の顔を見て、私はふと思う。

毎朝来ている彼は、浮腫んだ朝は私が洗面所で顔を隠すことを知っていたはずだ。うちのトイレが、洗面所の向こうにあることも。トイレに行きたかったとしても、あんなにスマートな玲央くんが、空気を読めないはずがない。どうして躊躇せず、ノックもせずに、あんなに自然に、私の目の前に現れて、あんなこと言ったんだろう。
やっぱり最初は律みたいに、嫌がらせして笑うためだった?
いや、別にふざけてはいなかったな。
それとも……

……いや、色々深読みしすぎか。あの子はただ、律と仲がいいだけだ。

でも、あの時の玲央くんの瞳は、少しだけ寂しいような、「作られた笑顔」に見えたような気がした。彼は確かに「愛ねえ、おはよう」とニコニコ笑った。でも、去り際に振り返ったその横顔は、朝の光に溶けて、どこか寂しげな仮面のようにも見えた。――気のせいか。 

……なんとなく不思議に思って、私はずっと、玲央くんのことを考えてしまう。

「おーい愛音、上にいるのかよ。時間!!」


一階から兄の声がする。
フゥーと息を吐く。
キュンとしたり、色々考えている暇はない。
慌ててメイクをはじめた。


「……おいお前ら、父さんと母さんに挨拶の時間だぞ」
7時50分。すべての支度を済ませると、我が家は毎朝全員でリビングの仏壇に手を合わせる。いつも、玲央くんも一緒に手を合わせてくれる。
父と母の笑顔の写真がそこにある。

うちはじつは音楽一家で、父は有名楽団のバイオリニスト、母はピアニストという家に生まれていた。父方の叔父は大学教授をしており、叔父が趣味で収集していたレコードで、私たちきょうだいは幼少期からクラシックを聞かされ、兄はチェロ、私はピアノ、弟はバイオリンを習わさせられた。なんと、玲央くんもジャズ好きなお父さんの影響で、小学生からサックスを習っていた。
たまに、気が向くとみんなで演奏したりして、楽しかった。音楽っていいな、と思った。

私の名前の「愛音(あいね)」も、父と母が好きだったモーツァルトの、「アイネ·クライネ·ナハトムジーク」から来ているらしい。「小さな夜の音楽」という意味の曲だ。暗闇を温かな旋律で照らすように、周囲を明るく調和させる愛しい存在であってほしい、世界中で愛され続ける調べのように、この世でたった一人、かけがえのない光として生きてほしい——そんなうちの両親の深い愛情が、この"愛音"の響きには刻まれているらしい。………名前負けかも。
母は、「……この曲、大好きなの。パパとの思い出の曲なんだけどね。でも、ピアノパートがないの。だからパパはずるいのよね」と言って笑って、よくピアノバージョンを弾いていた。

母の弾く美しいピアノの音色は、私の憧れだった。私が幼い頃、我が家のリビングの空気をよく支配していたのは、母のスタインウェイのグランドピアノから零れる、時にキラキラと明るく輝き、そして時に雨のように悲しげな表情を見せる、モーツァルトの旋律だった。そこに、父の重厚で、それでいて優しいバイオリンの音色が重なると、我々きょうだいはうっとりしたものだった。母の指先が鍵盤に触れる前の、あの微かな静寂を今でも覚えている。いつか私も、母みたいに弾けるようになりたい、そう思っていた。

……しかし、悲劇はとつぜん起きた。遠征先のウィーンで、父と母は不慮の事故に合い、帰らぬ人となってしまったのだった。

兄が高校3年生、私が中学3年生、弟はまだ小学6年生だった。葬式で、弟はボロボロ泣いた。兄はだまって、ただただ膝の上の拳をぎゅっと握っていた。私はそれをじっと見ていた。

それから私たちは、近所に住む母方の祖父母と、父方の叔父を頼りに、きょうだい3人、肩を寄せあって生きてきた。

兄は、高校生の頃から実質私たちの親代わりになってしまったので、世話するのに苦労したと思う。今も手を焼いているが。まあ、両親はもともと年に2、3回は世界を飛び回るような人たちだったので、ちょいちょい家をあけていたけど。しかし、そもそもクラシック音楽をやるような家だ。父方も母方もそれなりに裕福だったし、学費にはそんなには困らなかった。私達は運が良かった。叔父も独身で子供がいなかったのもあり、私も無事、大学まで出して貰えた。それでも兄は、祖父母や叔父に3人分の学費を出して貰うのに引け目を感じたのか、「妹や弟はいいが、自分の分の学費は自分で稼ぐ」と言って、勉強もバイトも頑張って、自力でそこそこ有名な大学を卒業した。もしかすると兄は、自分に厳しくしたり、長男として私達を育てることで、孤独に負けそうになる自分を、奮い立たせていたのかもしれない。

兄には、幸せになってほしい。

私はたまに、母の形見のスタインウェイを弾く。まだ、皆、それぞれ細々と楽器は続けているが、弟は今は父のお古のバイオリンをエレキギターに持ち替え、バンドみたいなことをやっている。彼なりの、親のいない寂しさの反動なのかもわからない。


時計は朝8時。

「さあおまえら、出発だ。今日も1日がんばるぞ。じゃあな、妹よ、弟たちよ」 

兄はスーツを着て、仕事用の鞄とごみ袋を手に、ガチャガチャと家の鍵をかける。 

「うん、お兄ちゃん、行って来るね」

「おう、行ってこい。そして、なんと本日は給料日である。そして花の金曜日。……だから、今日の夕飯はトトちゃんちのお魚でお刺身にする予定だ。もうすでに、おやっさんにいいのを仕入れて貰うように予約しておいた。……震えて待つがいい」

「マジ?やった!」

「……あ、なら俺も夕飯呼ばれたい」

「玲央、やっぱり図々しいなお前は。……いいよ、用意してやるよ。おじさんおばさんにも持ってけ」

「よし、やった。旨いんだよな、カナ兄が捌いたトトちゃんちの魚。今日は何かな?母さんに連絡しとこ」

「……なあ兄貴、そろそろその"魚(トト)ちゃん"てやめてやれよ。いくら幼なじみだからって。美月姉ちゃん、泣くぞ」

「いいんだ、あいつも今だに俺を"チェリー"と呼ぶ。じゃあな。夕方6半時に、我が家に集合な。それまでに帰れよ。おまえら、気を付けてな」

「うん、お兄ちゃんもね。いってらっしゃい」

「行ってきます」

……そして、私たちはそれぞれ出発した。


いつもこんなふうにバタバタしながら、我が家の朝は始まるのだった。


♪ 今日のBGM
​モーツァルト:セレナード 第13番 ト長調 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 第1楽章

♡葉山家のいつもの賑やかな朝の食卓から、愛音ちゃんの名前の由来へ。朝の喧騒が、美しい調べに変わっていくような、物語の扉を開く、始まりの曲です。


※YouTubeの埋め込み機能を使用して紹介しています。

✳️つぎのお話、第2話はコチラ→

 ✳️アイネちゃんのマガジンはこちら→

 



   *この物語はフィクションです。
実在の人物・団体とは一切関係ありません。                  
    © 2026 Lulu Mukoda


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