商工会の経営指導員㉓ 影の動き—“消される”正義【#創作大賞2025#お仕事小説部門】
市議会での告発が現実味を帯びたその夜、
川崎市長の執務室では、ひとつの命令が静かに下された。
「……佐伯仁志の“行政OB枠”を調べろ」
市長の秘書が、素早く応答する。
「はい。中央省庁からの出向者リストと、彼の退職理由を含めて整理します」
川崎は、机の引き出しから封筒を取り出した。
中には、監査委員会の非常勤委員長あての手紙が入っている。
「来月の監査対象に“旧記録管理室の調査手順”を加えてほしい」
それは、佐伯がかつて勤務していた部署だった。
—
その数日後、市役所職員向けの内部通達が流れた。
「情報持ち出しに関する職務規律の徹底」
「退職者による内部資料の開示については、法律に基づく“開示責任者”の判断が必要」
行政用語を盾に、合法的な“内部通報の封じ込み”が進行していく。
一方で、商工会は独自に「地域経済における誤報被害の検証」という名目で、 某地銀と地域経済新聞社へ“要望書”を送付していた。
そこにはこうある。
「誤情報に基づく報道・拡散は、結果として地域の雇用と信用に多大な悪影響を与える」
「我々は、根拠なき風評被害から商工会員を守る責務を負う」
“真実”の告発は、『地域の信用を損なう“迷惑行為”』とすり替えられていく。
その裏では、匿名で作られたSNSアカウントが活動を始めていた。
「内部告発と称して市民の生活を混乱させる行為に、私は断固反対する」
「“正義ごっこ”で街が潰れてもいいのか?」
このアカウントは、わずか数日でフォロワーを1万人近く集めた。
中には、商店街を支援していた一般市民までもが、疑念を抱き始めていた。
冷たい風が、窓の隙間から忍び込むように吹き抜けていた。
曇った空は、まるで何かを予感させるように重たく垂れ込めている。
佐伯は、デスクに肘をついたまま、ふと胸の奥に言いようのないざわめきを感じていた。
最近、何かが少しずつ狂い始めている——
そう思えてならなかった。
時計の針は、まるで意地悪をするように、重く遅々として進まない。
メールの通知音さえ、今日はなぜか遠く感じられた。
そのとき——
乾いた「ピコン」という音が、静寂を破った。
ある日、佐伯のもとに、一本のメールが届いた。
差出人:市役所 広報課・情報開示審査室
件名:【要確認】資料保持と開示の適正手続きについて
本文:「佐伯様が所持している情報について、機密保持義務および地方公務員法第34条の規定により、開示に先立ち照会が必要です」
まるで、情報の使用そのものを“違法”に見せかけるような通知だった。
さらに、佐伯の自宅には市税課からの突然の通知が届く。
「令和6年度の住民税に関する一部精査のお願い」
わずかな納税額の齟齬を理由に、信用情報に圧力をかけるような動き。
「……これは偶然じゃない」
佐伯は、かつての自分が“組織側”だったことを思い出し、頭を抱えた。
一方、記者の藤嶋にも、静かに、しかし確実な“圧力”がかかり始めていた。
ある朝、デスクに戻った藤嶋は、自身の引き出しに無造作に差し込まれていた封筒に気づいた。 差出人はなく、宛名もない。ただ中には、一枚のコピーが入っていた。
「編集判断の逸脱に関する懸念事項」
——中央紙本社報道倫理部宛
件名には「地方支局における政治案件の扱いについて」とあり、末尾には“記者の個人的な正義感が、報道機関の中立性を脅かす恐れがある”との一文が、赤字でライン引きされていた。
誰が送ったのか。
なぜ今なのか。
その手の文書は、直接本人に届くことはないのが通例だった。
つまり——これは「わかっているな?」という無言の警告だった。
さらにその日の午後、編集長から呼び出された。
「藤嶋……今追ってる“あの件”だけどな、少し距離を取らないか?」
「理由は?」
「本社から、“政治的な立場の明示にならないように”って注意が来てる。
うちとしても……スポンサーとの関係もあるし、無視できないんだよ」
編集長は、机の上に置かれた携帯電話をちらりと見て、声を潜めた。
「それに——“市の広報”からも連絡があった。
“誤解を与えるような報道が続けば、公式コメントは今後提供しない可能性がある”ってな」
表向きは“連携の見直し”。
だが実質的には、情報遮断という名の報道妨害だった。
藤嶋は、静かに口を結んだ。
かつて自分が新人記者だった頃、上司から教えられた言葉が脳裏に蘇る。
——「報道の自由は、奪われるものじゃない。
自ら手放すことで、壊れていくんだ」
今、この瞬間も、藤嶋のまわりで“自由”の形をした檻が組み上げられていく。
そのことに気づける者は少なく、
気づいた者の中でも——
抗える者は、もっと少ない。
藤嶋はその封筒を、そっと折りたたんでポケットに入れた。
捨てはしなかった。
それは、“声をあげ続ける者の覚悟”を忘れないための、重しだった。
