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ベイトソンに試される503-『精神の生態学へ』第5篇 認識論と生態学 3 「目的意識 対 自然」1968-

神話を1つお聞かせしましょう----。

むかし楽園があった。そこはたぶん亜熱帯だったのだろう、何百種もの動植物が、肥沃な腐植土の上で大いなる豊穣と均衡をたのしんでいた。そこに、他の動物より知恵のある2匹の類人猿がいた。
1本の木に実がなっていた。類人猿には手の届かない高いところにそれはあった。そこで彼らは考えた。それが誤りだった。彼らは目的の思考に走ったのだ。
やがてアダムという名のオスが、空箱を持ってきて木の下に置き、その上に乗った。しかし実にはまだ届かない。そこでもう1つ箱を持ってきて、上に積み重ねた。そこに上るとリンゴの実がとれた。
アダムとイヴは歓喜した。ものごとはこうすればいいのだ。計画を立てる。A をやり B をやって C をやる。すると D が手に入る。
彼らは計画的な行動にいそしむようになった。そして、自分たちも楽園もシステミックな全体なのだという思いを、楽園から捨て去ってしまった。
神を追放した彼らは、目的の道を邁進した。やがて表土が消え去り、植物の雑草化と動物の害獣化がはじまった。楽園の経営は辛くなり、その日の糧を額に汗して得なくてはならなくなった。アダムは言った。「神の復讐だ。あのリンゴを食べたのがいけなかったのだ。」
楽園から神を追放してからというもの、アダムとイヴの関係にも質の変化が起こった。イヴには夫と交わり子を産むことがいまわしく思えた。目的の1本道を生きる彼女のもとに、楽園が楽園であったときの深く大きな生命体験が戻ってくることは不快なことだった。イヴは愛の行為も出産もきらうようになった。分娩は苦痛になり、これもまた神の復讐なのだと彼女は思った。「汝は苦しんで子を産むであろう。汝は夫をしたい、彼は汝をおさめるであろう。」そんな声さえ聞こえてくるのだった。
(この神話には、聖書で語られている別バージョンがありますが、そちらでは、女性の愛の能力が神の呪いと感じられるまでになる驚くべき価値の倒錯がどのようにして起こったのか、説明されていません。)
さて、アダムは目的の道を邁進し、とうとう「自由企業システム」というものを作りだした。イヴは女であったために、ながいことこれには参加をゆるされず、ブリッジ [トランプ・ゲーム] の集まりに参加してそこを憎しみのはけ口にした。
次の世代で起きたトラブルも、やはり愛に関わるものだった。発明家で改良家のカインに神が告げた。----「彼 (アベル) は汝をしたい、汝は彼をおさめるであろう。」そこでカインはアベルを殺した。

寓話は言うまでもなく人間の行動を記したデータではなく、ただの説明の装置にすぎないものです。しかし目的に思考を委ねる過ちを犯し、世界のシステム性への配慮が疎かにされるときに、ほとんど必然的に起こる現象 phenomenon を、わたしはこの寓話に盛り込んでみました。これは、心理学で「投射」 projection と呼ぶものです。人間はただ常識にしたがって行動してきた。その結果が現代の混乱です。どうしてこんなはめになったのか、いまもって分からない。フェアでないという気がするわけです。自分と世界とを1つにしたシステムにこそ混乱の原因があるのに、それが分からず、自分自身か、またはシステムから自分を除いた残りの部分に、悪の元を投影する。わたしの語った寓話に、2つのナンセンスがあったことに気がついたでしょうか。----「わたしが I 罪を犯した」という思いと、「神が God 復讐する」という思いです。アダムはその両方を抱え込みました。

グレゴリー・ベイトソン「目的意識対自然」 (『精神の生態学へ』下巻 pp.184-186)

今回ベイトソンに試されるのは、「目的意識 対 自然」(1968)という論考である。1967年7月、ロンドンで行われた「解放の弁証法」のカンファレンスでの発表を書籍化したThe Dialectics of Liberation [David Cooper, ed., 1968]に収録され、本書に再録されたものだという。ベイトソンが「生態」を前面に押し出した主張を展開している点がこの論考の特徴である。

新思索社版の訳者解説によれば、精神分析家R・D・レインが主催したこのカンファレンスには、ビート詩人アレン・ギンズバーグ、神話学者ミルチア・エリアーデ、戦闘的黒人指導者ストークリー・カーマイケルらが発表者として名を連ね、カンファレンスが「解放の弁証法」とタイトルされた背景には、ソ連のチェコ侵入(プラハの春)やベトナム戦争を巡るデモ隊と警察官が激しく衝突したシカゴの民主党大会事件があるという。

このような情勢で、ベイトソンは、この発表でカンファレンスのタイトルにある「解放の弁証法」という言葉の中に、対象を生成して対立構造を作る人間主義の姿勢を見る。そして、そのような人間社会における対立と闘争が環境破壊を促進し、生態システムを崩壊へと向かわせ、このシステムに属する人間自身の生存をも脅かす、と主張するのである。「生態」はそのようなコンテクストにおいて前面に押し出されてくるのである。

「進化における体細胞的変化の役割」(1963)という論考で、ベイトソンは進化論の観点から、生命体がアジャスターとレギュレーターの役割の重なり合いで生命維持を行なっているというプロッサーの説を借りて、生き物のサイバネティックなシステムを説明していた。その際、変温動物は主に環境圧に同調adjustするアジャスター、定温動物は主に環境圧を制御regulateするレギュレーターをとし、ヒトという生き物が、この機能を技術によって環境自身の制御へと拡張するエクストラレギュレーターの特徴を持つことに読者の注意を促していた。

レギュレーターとアジャスターとの違いを、いまのように分析すると、その延長線上に、「エクストラレギュレーター」 (超制御タイプ) という観念が思い浮かんでくる。自然界には----ヒトがそのもっとも顕著な例だが----環境を変え、あるいは制御して、体外においてホメオスタティックな制御を獲得する有機体も存在するのだ。
(中略)
しかし、進化の大きな流れを考えるとき、事態は逆方向へ進んでいる (生命の中枢から制御が伸びていく) ように思える。自然選択は、長期的には、アジャスターよりもレギュレーターに、レギュレーターよりもエクストラレギュレーターに有利にはたらいている。この点からすると、遠心的な方向へ制御の場を移していくことが、進化における長期レベルでの利をもたらすと言えそうである。

ベイトソン「進化における体細胞的変化の役割」(『精神の生態学へ』下巻 pp.46-47)

この論考は1960年頃に書かれ、1963年に発表されたことから、この論考に関する「落書き」ではレイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962)で告発された環境問題をベイトソンが最後に自らの理論の中で検討し、「エクストラ・レギュレーター」という概念を補筆したのではないか、と憶測した。

この憶測のフィルタを通してみると、ベイトソンは、レギュレーター概念とフィードバック概念を練り上げるようにして、今回の論考では過度に「保守的」な、そして環境にまで過度に拡張されたサイバネティック・システムとして「エクストラレギュレーター」extra-regulatorとしての「人間機械」を考えているのではないか、と予想することができる。

https://www.greyroom.org/issues/66/197/editors-introduction-what-bound-the-double-bind/参照

このような雑駁な予想から、今回の落書きを始めたい。では、冒頭のベイトソンの批判的な語調を浴びてみる。注意したいのは、ベイトソンが対立構造の系譜を聖書の時代から始める点だ。このカンファレンスで用いられているだろう「文明」という言葉の中には人間しかいない、という点に注意を促しているようなのだ。

今回の学術会議(カンファレンス)は、われわれの文明を調査し評価するものでありますが、この文明は3つの主要な古代文明に根を下ろしています。ローマとヘブライとギリシャ。踏みつけられ、搾取された民が、パレスチナの地でこねまわして膨らませてきた帝国主義的文明をわれわれが生きているという事実に、今日の問題の多くが絡んでいるようであります。今回の会議からして「解放」をテーマに掲げている。ローマ人とパレスチナ人の戦いを、ここで繰り返そうというわけです。
聖パウロは誇らしげに言いました。「私は自由の身に生まれた。」 自分はローマ人であり、したがって植民地の人間より法的に優れた立場にある、というのがその意味であります。
踏みにじられた者に加担するか、帝国主義者に加担するか。そのどちらかに走りさえすれば、大昔からのあの戦いを始めることができる。簡単な話であります。
聖パウロにしても、踏みにじられた側の人々にしても、望む方向は一緒でした。とにかく帝国主義者の側に立つこと、自分たち自身「持てる」者の仲間入りをすること。みんながいつも、「上」に行って「解放」されることを望む、そういう文明を分析しようとするとき、当の文明と同じ行動スタイルを取ったのでは始まりません。その文明の構成員を増やすことが問題の解決に通じるとは思えません。

ベイトソン「目的意識 対 自然」(『精神の生態学へ』下巻 pp178-179)

「訳注」には、聖書時代の「パレスチナ人」はのちにイスラム化したパレスチナ人ではなく、当時ローマ人が支配していたヘブライの民を指すとある。それゆえ、上の引用にある「戦い」は旧約にあるようなユダヤの民の「戦い」を指すと考えていい。

冒頭のエピグラフの引用にあるように、ベイトソンは創世記をパロディ化しながら、「寓話」に原因と結果の線型で分離したメカニズムが対立を作り出す思考習慣の原型を「投射」する。「投射」は自らのネガティブに心理状況を他者が保持しているとすり替える無意識の働きである。ユングの元型論で言えば、他者を敵のキャラクターに仕立て上げる自分自身の「影」(shadow)である。というのも、このような歪んだ「投射」によって、現代の原理主義的な「投射」もまた歪んでいることを示唆しようとするからだ。

ベイトソンがユダヤ=キリスト教を皮肉る際に批判のポイントとなるのは、人間を動物同様の生命として扱うかどうかという点である。カトリックとプロテスタントの比較が出てくる時は、特にこの点が際立つ。と言うのもベイトソンはどう言うわけか、カトリシズムが古代ギリシャ的な開放性があり、プロテスタンティズムがそうではないと断じるからである。

以下の記述は宗教政治的な意味合いではなく、進化論とラマルクの登場を念頭に読む必要があるようだ。というのもここにはユダヤ=キリスト教にとって中世まで異教とされた古代ギリシャがその鍵を握るからである。地中海交易で様々なに生き物に出会うことになる古代ギリシャの人々は、アリストテレス、ガレノス、ピポクラテス等、人間も生き物として捉える「明晰な思考」を持っていたとされる。

幸いなことに、われわれの文明には「ギリシャ」という3本目の根があります。もちろんギリシャ人も、いま述べた病理に捕らえられていなかったわけではない。それでもあの地では他と違って、驚くほど沈着で明晰な思考が展開しました。
この大きな問題を、歴史的に見ていきましょう。聖トマス・アクィナスの時代から、カトリックの国では18世紀まで、宗教改革が起きたところではその時点まで、宗教の基本構造はギリシャ的だったといえます。(プロテスタントへの変貌は、ギリシャ的洗練との大きな別離であったわけです。) 18世紀中頃、人々は生物の世界をどんなふうにみていたかというと、それは階梯をなしており、頂上には <至高の精神> がありました。それ以下のすべてのものは、この <至高の精神> によって説明された。この <精神> は、キリスト教では神であり、それぞれの哲学思潮にしたがってさまざまな属性が与えられていた。かつて「説明」はこの <至高者> にはじまり、人間からサルへと梯を降りていって最後に原生動物に至るというのが順番だったのです。
つまりこの梯子は、最高に完璧な者に始まり、最もそやでシンプルな者までを導き出す、1組の演繹の deductivelyステップだった。それは不動であって、各段階の種に変化はないことが前提でした。

(同上 pp.179-180)

博物学の18世紀をカトリックの神から創造物へと階層化された宇宙に重ねるベイトソンは、この関係を論理関係に置き換え、演繹的と呼ぶ。「プロテスタントへの変貌」によって手放した「ギリシャ的洗練」とは、この論理であり、博物学はこの体系によって生物を詳細に分類することができた点を指している。

ベイトソンによれば、プロテスタントが打ち壊したのは階層性というよりこもの論理である。というのも、この旧弊な階層性を支える演繹体系があるからこそ、論理を逆転するというラマルクの進化論的な発想が生まれるからだ。とはいえ、階層性を打破する場合、さらに徹底したやり方も必要のようだ。

これをひっくり返したのがラマルクであります。彼は説明の出発点を原生動物に据え、そこから始まって人間に行きつく変化があることを主張した。生物の分類表を上下逆さまにして、これが正しい向きだと言ってのけた。これこそまさに生物学におけるコペルニクス的転回といえるもので、その芸当をやってのけたラマルクを歴史上最大の生物学者と呼ぶことに、わたしはためらいを感じません。
分類表の天地がひっくり返ってみると、精神 mind の説明が進化の研究から与えられるかもしれないという話になる。論理的にそうなります。
ラマルクまでは、精神の存在によって生物が説明されていた。それが一転し、疑問も一変します。----生物を研究することによって、精神をどうやって説明するのか。それまで説明の大もとになっていたものが、突如説明される側に回ったということであります。ラマルクの『動物哲学』(1809)は、その約4分の3が、だいぶ荒っぽいものではあったにせよ、比較心理学を樹立する試みになっています。そのなかで彼はいくつかの非常に新しい考えに到達し、それに厳密な学術的表現を与えています。----いかなる精神的能力も、それを司る器官をもたない生物には生じない。精神的過程は必ずやその身体的表現を伴っている。神経系の複雑度と精神の複雑度は関連している・・・・・・。

(同上 pp.180-181)

ラマルクは演繹論理でできたユダヤ=キリスト教的体系(またはカトリック的)体系を反転させ、原生動物から「神」と呼ばれ、この体系では説明役だった「精神 mind」を、説明される役へと「転回」した、とベイトソンは捉える。ここでベイトソンが神を位置にある宇宙のルールを「精神」と呼ぶ点に注意したい。と言うのも、宗教のようにルールを決める位置にある「神」に近づくのではなく、それを「精神」と呼び、「精神」を説明しようとする側に回ることが、本書の趣旨と重なるからである。

上の引用にはさらに続きがある。そこにはベイトソンがプロテスタントを批判する際に念頭に置いていたのが「聖書主義者」たち、つまりファンダメンタリストなのだろうということがわかる一節がある。彼らは19世紀にラマルク以後に台頭する進化論、つまりウォレスやダーウィンの理論を攻撃したからだ。

その後150年ほど、事態に前進は見られませんでした。19世紀の中頃に進化理論を継承したのが、カトリックの異端ではなく、プロテスタントの異端だったというのが、その主要な理由であります。ダーウィンに食ってかかったのは、アリストテレスでもトマス・アクィナスでもなく、頭の働きが創成期の第1章で止まってしまった〝聖書主義者(ファンダメンタリスト)〟たち Fundamentalists だった。この時代の進化論者たちは、精神の本質(ネイチャー)にかかわる問題を理論から除外したがっていた。そして第2次大戦後まで、この問題は真剣な考察の対象から外されてしまったのであります。(そう言ったのでは、サミュエル・バトラーをはじめ、精神を科学しようとした異端の思想家たちにフェアではないですが。)

(同上 pp,181-182)

「聖書主義者」たちの論難の中で、矢面に立ったダーウィンは、進化論を科学として扱うことに集中し。精神にあたる部分の説明を進化論から切り離してホモ・サピエンスをまでの生物の科学へと方向転換する。歴史ではそうなっている。ちなみにサミュエル・バトラーはベイトソンが好んで引用するダーウィン進化論の批判者である。バトラーは進化論を精神の説明をする理論として扱おうとし、科学に合わせようとするダーウィンを批判した。この点で、聖書原理主義者とは根本的に進化論批判の方向が異なる。

(※サミュエル・バトラーの代表的著作については以下を参照。)

だが、ウォレスもダーウィンも、生物の中に説明すべき精神の位置にある何かを無視したわけではない。ベイトソンはダーウィンに宛てたウォレスの書簡に、その痕跡を探ろうとしている。

第2次大戦中、精神の持つ複雑性というのがどんな種類のものなのかという発見がありました。これ以後われわれはその種の複雑性を具えた現象に出会ったときに、いま自分たちは精神現象を相手にしているのだと知ることができるようになった。その程度に唯物論的な話になったわけであります。
それがどんな複雑性なのか話し出すと、専門的になってしまいますが、やってみましょう。ラッセル・ウォレスがインドネシアからダーウィンに、ある有名な試論を書き送った。それは自然選択の発見を宣言するもので、それが、ダーウィンの発見と同時であったということですが、しかしウォレスの書き出した生存競争についての記述には、ちょっと見逃せないくだりがあります。

この原理の作動のしかたは、蒸気機関の遠心調速器とまるで同じであって、規範から外れたものが出現するかしないかのうちに、それをチェックして修正してしまうのである。つまり動物界では均衡を欠いた欠陥が生じようにも、発生の第1歩、この淘汰の原理が作用し、その生存を困難に、絶滅がほぼ確実にしてしまうのであり、そのためにこのような生物が目に留まるほど出現することはありえないのです。」
[インドネシアからダーウィンに宛てたウォレスの手紙から]

ガバナーつきのエンジンを、出来事の因果のサイクルという見地から見ると、そこにはある点における増加が、回路の次の点での減少を引き起こすように連結している箇所があります。ガバナーのアームが開くほど wider、入ってくる燃料の量は少なく less なる。こういう形で結びついた因果のサイクルが、エネルギーの供給を受けて作動するとき----運よく帳尻があっていればのことですが----誤りをみずから補正する自己修正的(セルフ・コレクティヴ) self-corrective なシステムができることになります。
ウォレスはここで、他の誰にも先駆けて、サイバネティクス・モデルを提唱したのでした。

(同上 pp.182-183)

「ガバナーのアームが開くほど wider、入ってくる燃料の量は少なく less なる」。蒸気機関を「自己修正的(セルフ・コレクティヴ) self-corrective なシステム」と捉えたウォレスは、このモデルを生物の進化に重ねて見ているのだろう。さらにベイトソンは、more and lessの機構がサイクリックに作動するメカニズムが負のフィードバックを表していると考え、そこにサイバネティクス的な説明を見出している。

前掲した「進化における体細胞的変化の役割」でベイトソンは、環境圧を調整(adjust)する生き物(変温動物)よりも、自らの生きる身体を制御(regulate)するメカニズムを備えた生き物(定温動物)の方が、進化のより高い段階へ踏み上がっていること示したが、ウォレスはダーウィンに、レギュレーター側の生き物の特徴を機械を通して進化の中に位置づけたのである。

生物と進化に関するベイトソンの歴史に沿った説明は、第2次大戦時のサイバネティクスの革新によって、ラマルク以来の前進が始まるかのように展開するのだが、ここからサイバネティクスの説明で事足りるような話にはならないという点にも注意しなくてはならない。

テーマは生態あくまでであり、理論的な主張にとどまらないと考える必要がある。今回の論考のタイトルは、読者が日常に深く根ざす「目的意識 対 自然」なのだから。このタイトルの中心にある「対」という語が特に問題になるのである。

日常に十重二十重に関係している生態という関係世界は、むしろ人間の意識を中心とした社会生活では忘れ去られるのが常である。この矛盾を明確にする思考ツールとしてベイトソンはサイバネティクスが採用する。が、今回の論考ではこの思考ツールを「変化かから守るための変化」という保守的な自己修正システムとして強調する。同時に、ベイトソンはregulatorとしての定温動物の中で、技術によって環境をもregulateする力を持ったヒトという生き物のシステムの特徴を取り出して、生態への介入という現代の課題に取り組もうとする。

ベイトソンはこの自己修正システムが生き物では2つの段階で行われる点に注意を向ける。「ウォレスが見抜いたとおり、自然選択はまず第1のレベルで、種を変化から守るようにはたらく。しかし、もう1段上のレベルがあって、そこではわれわれが「生存」と呼ぶ複雑な変数を変化から守るためのはたらきが営まれている。」(同上 p.184) 前者は環境圧を調整するadjustのレベルだとすれば、後者は「生存」のために自己(と他者)を制御するregulateのレベルである。

先ほどR・D・レイン博士から、人間は明白なことに気づくのが大変苦手であるとの指摘がありました。その理由も、人間が自己修正的システムであるところに求められます。人間は自分を攪乱するものに対し自己修正的に対応する。明白なことというのが、自分の内部を攪乱せずに簡単に同化できる性格のものでない場合、自己修正機構が作動して、それを脇にそらし、あるいは隠蔽し、あるいはそれに対して目をそらすとか知覚系路のさまざまな部分のうちのどこかを遮断するということまでする。安定を脅かす情報というのは往々にして真珠のように固くくるみ込まれる。しかも何が脅威なのかということは、システム自体の内部で決定されるわけです。これが----つまり何が攪乱をもたらすかを決める前提が----また学習によって確立され、サイバネティックな保存機構によって変化から守られているのであります。
今回のカンファレンスは、根底的なところで、この保守的な円環構造をもつきわめて複雑な調整システムの集合のうちの、3つのものを扱っているわけです。まず個々の人間。ここでは生理と神経の作用によって、体温、血液の化学組成、胎児期と成長期における各器官の長さのサイズや形、その他身体的特徴のすべてが保持されている。このシステムは1個の人間全体についての記述命題を崩さぬように保っているものであります。単に「身体」だけではない。「精神」も一緒です。いま現在の考え方、心のつくりの構成要素を保持する方向への学習というものが起こるわけです。
第2に、今回のカンファレンスのテーマである、個人の集合としての社会システム。これもサイバネティックな保守性を備えたシステムであります。
そして第3に、人間集団が動物としての自然を生きている環境、すなわち生態システムがあります。

(同上 pp.184-185)

例えば、生存に必要のない情報を減らす、つまり「気づかない」ようにすること、またはベイトソンが理論化した「学習する」こと、というような心に関するメカニズムも「サイバネティックな保存機構」によって維持されている、と考えるのである。それゆえ、この機構は「保守的な円環構造」であり、その各々は閉鎖系をなして存続している。このような構造が身体、心、そして環境の3つの「調整システムの複雑な集合」に及ぶという点から、ベイトソンは、各システムの基本的な性質を「保守的」と見なすのである。

すると自己維持する各システム同士が共存することが容易ではないことも理解できるだろう。サイバネティクスに出会う以前のベイトソンは、システム間の関係を主に「対称型分裂生成」「相補型分裂生成」の2者に分類し、両者の維持が常に緊張と崩壊に向かう点に注目していた(「文化接触と分裂生成」1935)。

「対称型」は競り合いがエスカレートし、「相補型」は支配-服従関係が強化されていくパターンである。集団におけるこれらの関係を念頭に入れると、サイバネティクス導入後の身体、心、環境という「保守的」なシステムの関係をベイトソンがどのように捉え直しているかがわかる。

さて、生態系の中に生きるということは、それぞれの種が生存競争と相互依存の組み合わせの中に生きているということであります。この「組み合わせ」について考えないといけません。まず、それぞれの種がマルサスの指摘した、指数関数的な増殖能力を抱えている。それぞれの世代が、自分たちの個体数を上回る数の子供をつくる能力を持っている。この能力のないものが生態系の構成員に加わることはできません。生態系のようなシステムにおいて、それを構成するものが個体数を増加させる能力を抱えもっていることは必須の条件です。しかしそれぞれがこういう能力をもっているとなると、それらが合体してできるシステムを安定させるには、あるトリックが必要になる。たがいにうまく絡み合い、うまい具合に支え合わないといけない。先ほどから述べてきた自己修正的回路は、まさにその役割を果たすものであります。
マルサスの描いた曲線は、化学的な爆発のプロセスと同じ指数関数的曲線でありました。〝人口爆発〟という例の呼び名も当をえたものであるわけです。
すべての種がいわば〝爆発〟の火種を抱えているわけで、そのことを嘆いてもしかたがない。これがなければ種として生き残っていけない。
ただ、潜在的な〝爆発〟の能力をもったもの同士が、互いに互いを抑え込んで安定を保っているシステムというのは、きわめて微妙なバランスの上に成り立っているわけで、これを下手にいじることがバランスの喪失をきたすというのは単純な道理であります。バランスが崩れれば、例の指数関数曲線が姿を現す。雑草化する植物、絶滅する動物が出てきて、均衡のシステムとして存在していたシステムそのものに崩壊の危機が訪れることになります。

(同上 pp.186-187)

「それぞれの種が生存競争と相互依存の組み合わせの中に生きている」という点に、進化論的な意味合いから出てきた「対称型」と「相補型」の考えが確認される点に注意したい。ベイトソンはサイバネティクスを経由することで「分裂生成」という増殖や強化を表す考え方を、確率世界におけるシステムの自己維持というフィードバック概念に重ねることで、数学的な表現を与えている。マルサスが人口増加の予測に用いた「指数関数的曲線」である。

「訳注」にもあるようにマルサスの『人口論』(初版 1798)はダーウィンの進化論に影響を与えたと言われる。環境が整っている場合、1個体の生き物が、子供を残す数は1個体以上である場合が多く、世代を追うごとに個体は急激に(指数関数的に)増殖していくという予測である。マルサスはこの傾向に生活資源の生産は加算的にしか増えないので人口爆発が貧困と飢餓を引き起こすと考えた。

マルサスの考えを人間から生物種に拡張するダーウィンは、種の進化は個体数の増殖だけでなく同じの種と異なる種との間に競争と依存の関係が起こると予想する。もちろん長い目で見れば環境圧の変化は常に問題となるのだから、今目の前に見えている動植物の均衡したかに見える状態は、進化の尺度では常に不安定な「生存競争と相互依存の組み合わせ」の真っ只中にある。

ここにベイトソンはさらに生態というシステムを付け加え、マルサスとダーウィンが見据えた人類と生物からなる生態系が「崩壊の危機」にある、と主張する。というのも、人間という種の自己維持システムは、技術によって他の生物だけでなく環境自体も制御する能力を持つからだ。この部分はマクロレベルでのマップなので、全体を眺める必要から上の引用の続きをそのまま引用する。

1つの森の生態系を構成する種についていえることは、1つの社会を構成する人間集団についてもいえることです。人間社会でもさまざまな〝種〟が依存と競争のあやういバランスのなかに置かれている。そしてまた、われわれの体内でも、器官、組織、細胞等々が、あやうい生理学的競争と相互依存の関係にある。この競争と依存がなければ、われわれは存在していられない。人間というシステムの生存のためには、どの部分も欠かすわけにはいきません。もしもこれらのうち膨張する性格をもたないものがあったら、それは姿を消し、それと一緒にあなたも消える。あなたはすでに自分の身体において、関わらざるをえない責任を負っているわけです。システムを不適当な撹乱にさらすなら指数関数が現れてくるでしょう。
1つの社会にしても同じです。
生理的な変化も、社会的な変化も、生きたシステムにおける重要な変化はみな、ある指数関数曲線にそった、システムの滑行(スリップ) (slipping) であると考えざるをえない。スリップは、わずかなところで止まるかもしれないし、破局的なところまで行ってしまうかもしれない。とにかく、1つの森の中でツグミが全滅するほどのことが起こるとき、はじめの均衡をつくっていた構成員のいくつかは、指数関数の曲線の上を、新たに停止できる位置までスライドしていくことになります。
この動きにはつねに危険がつきまとう。「人口密度」というような変数は、一定値を超えると、そこから先の変化はもはや有害な要因によってしか制御されなくなってしまうのです。過飽和状態になった個体数の制御は、最終的には、システムの食料供給量が担うことになる。そこまで行ってしまえば生存者も半数が飢餓状態となり、地球上の食糧供給を消尽が上回って回復不能のラインを超えてしまうでしょう。

(同上 pp.187-188)

ヒトという種と環境との関わりを、ベイトソンは意識や意志という人間を基礎としたレベルからではなく、「器官、組織、細胞等々が、あやうい生理学的競争と相互依存の関係」から保守的な自己維持システムとして捉える。そしてその自己維持システムの拡張として、人口爆発が環境に与える影響へ向かう過程を予想するという段階を踏んでいる。

その際「過飽和状態過飽和状態になった個体数の制御は、最終的には、システムの食料供給量が担うことになる」という指摘に注意したい。人間社会の危機が環境に転化される契機を作るからである。

ベイトソンはこのあと「マインド」(精神)という言葉を持ち出して、個々の自己維持システムで満ちた確率的な情報宇宙として世界を設定し、自己維持に不要な情報に「気づかない」ようにする制御の仕方の結果がヒトの種では「意識」と呼ばれるのではないか、と仮説する。

この半ば隔離された精神の部分の1つに「意識」と呼ばれるものがあります。非常に神秘的で、しかも人間が生きていくのに決定的に重要なもの。この「意識」と精神の残りの部分とは半ば隔て半ばつなぐ、〝半透過的〟なリンクを考えてみて下さい。意識の〝下〟で起こることの一部は、〝意識のスクリーン〟にまで送信されてくる。しかしその情報はどうしても選択される。意識に届くものは、情報全体のなかから、体系的に選ばれた (ランダムでない) サンプリングなのであります。

(同上 p.189)

情報から「意識」をフィードバック・システムとして捉えると、「報告量の増加が報告率の低下を招く」ことから、情報量が多いと意識化できない情報が無意識で編集され、むしろ情報を限定する力が強化されて意識は「目的」を設け、そこに向けて効率化を図ろうとするのだろう。ベイトソンは医療(ポリオ治療)における問題設定がすでに「気づかない」ことからできており、さらに「解決」(solution)は、そのような問題を溶剤で溶かすこと(solution)にあると皮肉っている。

この後、意識の問題を医療に絡めた批判が続くのだが、ベイトソンが医療を例に選んだのは、単に意識の作用が強化されるプロセスへの批判という哲学領域での批判にとどまらない。「メディカル・サイエンス」そのものが「技術」によってその「気づかない」という傾向を強化し、技術開発はその傾向をさらに強化する過程にある、と指摘するプロセスが重要である。ベイトソンによれば、生態システムを崩壊させるのは、意識の「技術」による自己維持システムの強化の過度な傾向なのである。

いまの医学の例には、意識の作用のしかたが典型的に現れています。出来事とプロセスの全体から、目的に引き連れられる部分だけをサンプリングして、そこに注意を集中する----。意識は、そもそもが目的にそって組織されたものであります。欲しいものをすばやく手に入れるための仕掛けといいますか。大きな智を持って生きるために意識はあまり役立ちませんが、次に欲しいものを手にするための一番早い論理的または因果的な道筋を見つけるための一番早い論理的または因果的な道筋を見つけるには、素晴らしいはたらきをする。それがディナーであれ、ベートーベンのソナタであれ、セックスであれ、金であれ、権力であれ。
たしかに意識にしたがった生き方を、人間は何百万年も続けてきた。意識と目的とは、少なく見積もっても過去100万年、われわれの種の特徴となってきたものであり、その発生は、さらにずっと遡るかもしれない。イヌやネコが意識を持っていないとは言い切れません。イルカならなおさらです。
だったらそんなことをとやかく言ってもしかたないだろうと?
いや、わたしが恐れるのは、意識という大昔からのシステムに、現代のテクノロジーが加わった点にあるのです。今日では日々効率を増していく機械が、交通のシステムが、飛行機と武器と医薬品と農薬が、意識の目指すところを強力に推進している。目的と意識の側に、身体のバランスも社会のバランスも生態系のバランスも、すべて突き崩す力がついてしまった。1つの病理が進行中なのであります。

(同上 pp.192-193)

「制御者」(regulator)である定温動物としてのヒトという種が、自らの自己維持システムを「技術」によって強化され、他の生物や環境にまで拡張して「超制御者」(extra-regulator)となる(「進化における体細胞的変化」参照)。すると、自己維持システム同士の不安定な均衡状態が崩れるだけでなく、崩壊への危機的な傾向が否応なく強まるのは避けられない、というのがベイトソンの主張である。

「意識にとっての〝コモンセンス〟にそのまましたがうことは、智(ウィズダム)を欠いた貪欲な生き物に滑り落ちる効率的な方法ではないか」とベイトソンが「意識」+「技術」の批判をする際に、「智(ウィズダム)を欠いた」というのは、言葉のならびから見れば懐古主義的な語調に聞こえなくもない。が、言語データに情報を限定する意識に対して、確率世界における情報量を非言語において保存する「智(ウィズダム)」は、環境と身体が相互作用しながら形成される関係の知として、今もヒトという種に保存されていることに注意を促しているのである。

というのも、エピグラフに引用した創世記のパロディが、この後に出てくるからである。再掲する。

むかし楽園があった。そこはたぶん亜熱帯だったのだろう、何百種もの動植物が、肥沃な腐植土の上で大いなる豊穣と均衡をたのしんでいた。そこに、他の動物より知恵のある2匹の類人猿がいた。
1本の木に実がなっていた。類人猿には手の届かない高いところにそれはあった。そこで彼らは考えた。それが誤りだった。彼らは目的の思考に走ったのだ。
やがてアダムという名のオスが、空箱を持ってきて木の下に置き、その上に乗った。しかし実にはまだ届かない。そこでもう1つ箱を持ってきて、上に積み重ねた。そこに上るとリンゴの実がとれた。
アダムとイヴは歓喜した。ものごとはこうすればいいのだ。計画を立てる。A をやり B をやって C をやる。すると D が手に入る。
彼らは計画的な行動にいそしむようになった。そして、自分たちも楽園もシステミックな全体なのだという思いを、楽園から捨て去ってしまった。
神を追放した彼らは、目的の道を邁進した。やがて表土が消え去り、植物の雑草化と動物の害獣化がはじまった。楽園の経営は辛くなり、その日の糧を額に汗して得なくてはならなくなった。アダムは言った。「神の復讐だ。あのリンゴを食べたのがいけなかったのだ。」
楽園から神を追放してからというもの、アダムとイヴの関係にも質の変化が起こった。イヴには夫と交わり子を産むことがいまわしく思えた。目的の1本道を生きる彼女のもとに、楽園が楽園であったときの深く大きな生命体験が戻ってくることは不快なことだった。イヴは愛の行為も出産もきらうようになった。分娩は苦痛になり、これもまた神の復讐なのだと彼女は思った。「汝は苦しんで子を産むであろう。汝は夫をしたい、彼は汝をおさめるであろう。」そんな声さえ聞こえてくるのだった。
(この神話には、聖書で語られている別バージョンがありますが、そちらでは、女性の愛の能力が神の呪いと感じられるまでになる驚くべき価値の倒錯がどのようにして起こったのか、説明されていません。)
さて、アダムは目的の道を邁進し、とうとう「自由企業システム」というものを作りだした。イヴは女であったために、ながいことこれには参加をゆるされず、ブリッジ [トランプ・ゲーム] の集まりに参加してそこを憎しみのはけ口にした。
次の世代で起きたトラブルも、やはり愛に関わるものだった。発明家で改良家のカインに神が告げた。----「彼 (アベル) は汝をしたい、汝は彼をおさめるであろう。」そこでカインはアベルを殺した。

(同上 pp.196-198)

ベイトソンの括弧付きの言葉にはいつも惹きつけられる。ここでは「この神話には、聖書で語られている別バージョンがありますが」という聖書批判を通した「聖書主義者」(ファンダメンタリスト)に対するベイトソンの人類学者的な姿勢が前面に出ているように思える。これも数多くの創世「神話」の一つにすぎないという相対化する姿勢と、ユダヤ=キリスト教をベースとした西欧の言語と意識を中心とする目的論的な思考習慣が痛烈に突き放されているからだ。

この「寓話」は情報量が多いほど情報を限定するフィードバック機構を、知恵の実である「リンゴ」を食べるという行為に象徴させる。そのために、何が、入っていたのかわからない「空箱」(?!)を積み重ねてリンゴを取る場面を付け加えて、意識化の過程をパロディ化する。すると、リンゴを木からもいで我が物とするという環境からの搾取行為が「目的意識」の発生と情報システムとしての楽園の変容と対照的に強調される。

さらに、目的意識を持てば、そこに到達すべき労働が発生するのだが、それを神の「罰」として「投射」し、自ら「罪」を担うように思い込むことで、アダムは自己維持の脆さを抱え込む。この脆弱性を解消するのは外部への転化となり、システムの拡張(「自由企業システム」)が世代を超えて始まるのである。

そうして、他の自己維持システムからの愛も呪いに転化する。複雑なシステムである環境は、意識から見て「自然」という対象に還元され、自己維持を脆弱にする他の自己維持システムは呪いを「投射」されてその自律性が相殺される。

自然は「目的意識」によって支配され、従属する「相補型分裂生成」の関係を結ぶ対象になるのである。----こんなふうに解釈すると、ベイトソンの括弧内に括られた言葉の強いトーンが響いているように思えてくる。

さて、この論考も終盤まで来た。

ベイトソンは、創世記の時代から1960年代末へと戻るようにして、意識と目的が合成された「目的意識」が計画を次々と打ち立て、技術開発を急ぎ、その時間スパンをどんどん短期化して、確率的な情報で満ちたシステムとしての世界を近視眼的に狭め続ける先に待ち受ける危機を想像する。時代はベトナム戦争の最中にあり、反戦運動と学生の反乱、ヒッピー・ムーヴメント興隆の中にある。

今日の世界の情勢に目を向けてみましょう。目的のために、常識のために、世界のシステム性が無視されているところで、同じような反応が見られはしないか。ジョンソン大統領としても、ひどい混乱に見舞われているという意識は強くあるはずです。ヴェトナムばかりでなく、国内国外の生態システムのあちこちで、事態はどうしようもなく紛糾している。しかし、彼の立場から見れば、常識に従って目的にかなう手を打ってきたわけなので合点がいかない。この混乱は誰かの仕業なのか、それとも自分で犯した罪なのか、両方の要素が織り混ざっているのか。そのどれかだとしか考えられない。答えがどこに落ち着くかは彼の性格次第ということになります。
こういう状況では、恐ろしいことに、計画の時間的射程が短くなってしまうのが避けられません。事態は緊急を要し、早急な対応を必要とする。目先の解決が長期的に見てあまり良いものでないと薄々分かっていても、それを抑える智(ウィズダム)を発揮する余裕はなくなっている。

(同上 pp.197-198)

このような動乱の時代に「社会機構の病理」を見て取るベイトソンは、再び「智(ウィズダム)」という語を置いている。この語はそのどれもが保守的な自己維持システムとして絡まり合う、生き物の身体、心、環境の全体を含むシステムに向けられた関係の「智(ウィズダム)」を示唆している。が、それは意識のみを通したデジタル・データとしての「知識」を示唆しない。「知識」「目的意識」へと消費され続けているからである。

もう1つ----。われわれの社会機構の病理の診断に、もう1項加えておきます。われわれの政治は、いま論じてきたところとは完全に切れたところで進んでいる。権力の側にある者も、権力に抗議したり権力を渇望したりする側にある者も、生きたシステムについてはまるで分かっていない。政治を行うこと、世の中を統御(ガヴァン) govern することが生物的な問題なのだということを少しでも踏まえた演説が、どこかの議事録に載っているでしょうか。生物学からえられる洞察をもって政治をやっていこうという人間はほんとうに稀にしかいない。恐るべきことです。

(同上 p.198)

ベイトソンはこの混乱の時代における政治としての「制御」(govern)の過度な偏向と共にそれら抗議する側にも批判を繰り広げる。この対立は人間社会に限定されており、戦争や抗議運動、麻薬による精神世界の探究も「超制御者」となった人類が生態システムを脅かしていることに変わりはないからである。

ベイトソンは古典的な言葉を用いるので、彼の批判がどこか復古主義的なトーンを読み手に思い込ませることは確かにある。この混乱の時代に「グル」のような扱いをされたのも、そのような語の響きと現代批判を受容する時代状況のコンテクストの絡まり合いの仕方がそのような典型に投影されたのだろう。(ベイトソン自身も晩年ヒッピームーブメントの中心となるカリフォルニアに居を移し、所属するエサレン研究所でそのようなグループと対話を続けた。)

一方で、ベイトソンのいう「智(ウィズダム)」は、サイバネティクスを通して引き出されている点に注意する必要がある。人間社会の基礎を作り、衣食住を支える環境も含めたすべてが「生きたシステム」として「生態」を構成している、という「生物学からえられる洞察」が今必要なのである。

「パレスチナ人とローマ人のつくる系全体 [システム] にある」(この場合「パレスチナ人」は聖書時代のユダヤ民族を指す)と、ベイトソンがカンファレンスの参加者たちに例の創世記のパロディを思い起こさせながらいうように、その射程はとても広い。このような状況に即効的な処方箋を案出することは不可能だろう。それでもなお、ベイトソンは自らが自己維持システムの集合体であると自覚してその傾向に距離をおく「謙虚さ」が必要になることを参加者に訴える。

まず「謙虚さ」というものが必要になるでしょう。これを多くの人が嫌がる道徳理念としてではなく、科学哲学における1項目として提示したい。産業革命の時代に様々な災難が人間に振りかかりましたが、「科学的態度」と呼ばれる途轍もない不遜を身につけたことにまさる災難もなかったのではないでしょうか。こうすれば汽車ができる。紡績機ができる。こうやって箱を積み重ねていけばリンゴの実が手にはいる。宇宙は物理的・化学的にできているとみなされ、人間がその絶対的支配者であると見なされた。生命現象もいずれは試験管のなかの反応のように制御できるという考えが横行し、進化の過程も生物が環境を制御するためのトリックを積みあげてきた歴史だとされた。たしかに人間はどの動物よりこのトリックに長けています。
この「科学的不遜」はすでに時代遅れのものになっていることを訴えたい。それにかわって、人間は大きなシステムの部分であり、部分は全体を決して制御できないのだという、謙虚な科学的ヴィジョンが生まれてきているからです。

(同上 p.199)

心に訴えることに何の効用があるのか?と肩透かしを食らったように気持ちになる主張に思えるかもしれない。が、そう思う自分は、心と体を分離して処方箋が体の方に効力を及ぼすと考える意識中心の心身二元論に基づいている。そんなことに気づかされる部分である。

もし心もまた自己維持する保守的なシステムであることを「気づく」ことができれば(「気づかない」ことでシステムはできていたが)、この呼びかけは、サイバネティックな制御システムとしてのヒトという種を捉え直す入り口としてはむしろ有効だろう。心の保守性こそが自覚し、対話すべき事柄として取り上げられているからである。

この後、全体の「制御者」など存在したためしがないという例を、ナチス時代のゲッペルス宣伝相が繰り出すプロパガンダがゲッペルス自身に影響を及ぼすその循環性、統合失調症のクライアントと家族との相互依存的な関係性を例に、ベイトソンは意識に目的が加わることで強化された「魂の司令官」としての意識的自我の安定性は、常に脅かされていると説く。(「魂の司令官」という言葉はW・E・ヘンリー「負けざるものたち」という詩の最後に出てくるのだが、ここで想起されるのはダニエル・デネットがデカルトを批判する際に持ち出す「「カルテジアン劇場」である。)

「謙虚さ」の効力はそのような保守的なシステムの強化傾向を弱める何かに目を向けることに始まる、とベイトソンは考える。確かに、特に精神医学では、クライアントとのセラピーにおいて、言語でできた意識を無意識へ、さらに環境のような外の関係へと言葉にならない関係それ自体へと開くには、「芸術」のような「創造」の場面をセラピストも共有する姿勢が必要とされていたことが思い起こされる。

それはしかし、目的意識に侵された精神を、個人の力で癒すことができないという意味ではありません。フロイトが無意識への王道と呼んだものがあります。これは夢を指して言ったものですが、わたしとしては夢だけでなく、芸術や詩の創作・鑑賞を加えた全体をひとまとめにして考えるべきだと思っています。ここには宗教心も含まれるでしょう。どれもみな、意識だけでなく、精神の全体をもって関わらなくてはならない営みです。たしかに芸術の創造の現場にも、この絵を売らなくてはとかいう目的意識が割って入ることはあります。いい作品に仕上げてやろうという気持ちが先走ることもあるでしょう。しかし本物の芸術作品が生まれる過程では、そういう不遜な思いは解除されているはずです。創造的体験のなかで、意識は小さな役割しか演じません。
芸術創造に立ち合うなかで、人間は自分自身を、トータルな自己を、サイバネティックな全体として体験することになる、という言い方もできるでしょう。

(同上 pp.200-201)

フロイトがいう無意識への王道としての「夢」を、「芸術や詩の創作・鑑賞」「宗教心」にまで拡張するベイトソンは、そこに意識的な知では処理できない関係としての知(「智」)のネットワークを重ね合わせ、「サイバネティックな全体」という言葉で概括する。

この論考でベイトソンは、「トータルな自己を、サイバネティックな全体として体験することになる」ような姿勢として「芸術創造に立ち会う」ことを重視する。とはいえ、それは美術史に出てくるファイン・アートを美術館で鑑賞するということにとどまらない。むしろ非言語を生み出すように何かを制作していく行為から出てくる「智(ウィズダム)」を指している。その点については、この論考の前年にバリ島の伝統絵画を描き方から追った「プリミティブな芸術のスタイルと優美と情報」(1967)に詳細に記されている。

最後に、ベイトソンは当時のドラッグカルチャーやヒッピームーブメントも「意識の拡大」を目指すなら、それは「トータルな自己」へ向かう生態学的な思考とは異なる道である、と述べて批判を加える。

いま、1960年代の特徴として、多数の人間が智の拡大----「意識の拡大」と呼ばれるようですが----を求めてサイケデリック・ドラッグに走るという現象が起きています。行き過ぎた目的追求から心を癒そうとする試みが、こうした形をとって現れてくるのは、時代の症状として納得のいくことですが、しかしそのやの方で智を手にするのは難しいでしょう。単に意識を融解させて無意識的なものを噴き出させることが智の道ではない。それは単にトータルな自己のうちの一部から見た世界を、別の一部から見た世界に置き換えたものにすぎない。必要なのは部分間の統合であります。それを成しとげるのは簡単ではありません。
LSDを自分でも少々試してみて、わたしはプロスペロ [シェイクスピア『テンペスト』の登場人物]の言葉が誤りだと思うようになりました。彼は「ひとは夢を作る素材のようなもの」と言ったけれども、夢そのものは、純粋な目的と同じ、部分としての価値しかもちません。それはわれわれをつくる素材ではなく、その素材の切れ端にすぎない。われわれの目的意識も、やはり生をつくる切れ端でしかない。
システムを捉えるということは、切れ端とは違った何かを手にすることなのです。

(同上 pp.201-202)

意識を基点として無意識へと「拡大」していくようなドラッグの用法は、「夢」を意識に従属させることでしかない。そこでベイトソンは「夢」はまだ部分にとどまっているという。「夢」を作る「素材」は、サイバネティクスから見れば、アルファベット26文字から偶然できた文字列が「メッセージの素材」であるように、確率的でランダムな動きを絶えず行う情報世界の一部を切り取ったものに過ぎないのである。

ベイトソンがホーリズム(holism :全体論)を自己維持する保守的なシステムが絡み合う「生態」に強く関わらせようとするのは、単に広がりとしての全体を示そうとしているからではないだろう。むしろ、見えないものも含めた情報のセット(差異を生む差異)を単位とし、この世界を関係の知から構想するための理念的な設定としてベイトソンが「ホーリズム」を提唱していることが、プロスペロへの反論から垣間見えるように思われる。

ここからは余談である。

実を言えば、この論考の最後の処方箋の部分に「謙虚さ」「芸術創造」が出てきた際に、どこか紋切り型の逃げで口上のように聞こえて「全然実効性がない処方箋だな」と思ったのはかつての自分である。再読してもそのような偏見から逃れることはなかなか難しかった。

が、マインドフルネスを習慣に取り込んだこと、本文を打ち込みながら遅読する時間を作ったのと、いくつかのLLMを比べながら利用することが重なって、心身二元論に依拠した意識中心の考え方をしている自分から距離を取ることができるようになって、少しずつだが心を入り口にすることの有効性が理解できるようになった。

特に仕事でLLMを利用するようになってから、プロンプト次第で回答の質が変わること、または無限循環するような質問やプログラムにはLLMが答えられなかったり沈黙することが出てきたことが、むしろデジタルデータを集積した意識のカリカチュアとして面白く感じるようになった。

「仏とは何ですか」という問いと「乾いた棒状の糞」という答えの禅問答を与えると、もっともらしく答えようと奮闘するLLMが健気に見えることもあった。そこに紐付けされているデジタル化し得ないデータはあとで付加できるだろう。が、複雑な関係性をデータとしてどうやれば組み込めるのかと試みては、ひとり笑いで過ごす奇妙な時間もできた。

noteでこのような「落書き」を始めることにしたのは、そのような関係性を論ずる文章を大量に入力したらLLMはどんな振る舞いをするのだろう?という悪戯っぽい問いを思いついたからだ。その一方で安易なプロンプトを与えないように、こちら自身のアナログな知能をエクササイズする必要から「落書き」によって自分の回答傾向を出して自覚しておくことの必要を日々実感していた、という経緯がある。

LLMに部分的にでも情報入力してRAGあたりを使う際に投げ込んでおける文書は、すでにPCに全文打ち込んだベイトソン『精神の生態学へ』、ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』、アラカワ+ギンズ『建築する身体』『死ぬのは法律違反です』、パウル・クレー『造形思考』、ナーガールジュナ『中論』、道元『正法眼蔵』、そして『碧眼録』以下禅語録の数冊がある。

これらを入力して対話すると、こちらもLLMも生き物として「トータルな自己」(ベイトソン)に気づくことに寄与するモチーフが出てくるだろうか? そんなことを思う。

というのも、今回の「目的意識 対 自然」という論考の「落書き」では、多少とも国際情勢に関わる仕事をしてきた自分の今をちょっと突き離せたのである。進化論を攻撃した「聖書主義者」に対するベイトソンの姿勢から、トリックスターのように世界を掻き回す米政府、そしてその政府をバックアップする福音派のファンダメンタリズムとテック企業保守派のトップの思想、それらに対して自分なりの姿勢を取れるようになったのである。

かつて『ゼロ トゥ ワン』という本で無から有を創造する創世記の神にスタートアップ企業とアメリカの政治を重ねる著者の主張を読んだ時、その斬新さより不穏さが先に来たことを、この論考を「落書き」しながら思い返していた。自分が過去にキリスト教的な環境に親しんでいたからかと思って、しまい込んでいたモヤモヤがベイトソンのこの論考を「落書き」することで晴れてきたのである。

ファンダメンタルなテクノ・リバタリアンのトランスヒューマニズムとは、「技術」を駆使して「意識の拡大」し、サイバースペースを誘導して「魂の司令者」(神)になることか、と今更ながら明確なラインが引けたからである。

大学入学以前に読んだニーチェの「超人」(Übermensch)に始まって、技術と身体を基点とするニコライ・フョードロフとロシア・コスミズムから出てくるトランスヒューマニズムまでを読んで、身体を基点としたアントナン・アルトーや建築と身体による荒川修作+マドリン・ギンズのトランスヒューマンのラインは時折考えることがあった。

そんなイズムにならないトランスヒューマンのビジョンと現今のトランスヒューマニズムの相違点が、この論考を落書きしながらはっきりした気がした。(この点についてはnoteにも忍び込ませてみたい気もする。)

そこで今のところは、だいぶ偏りのある文書たちを入力したLLMと、「芸術創造」について語り合ったらどうだろう、としばらく夢想することにした。

私とLLMのどちらがそこまでの段階に至ることができるのか、近い将来試してみたい。。。


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