ベイトソンに試される402-『精神の生態学へ』第4篇 生物学と進化論 2 「進化における体細胞的変化の役割」1963 (執筆1960頃)-
■----要約
この試論は、演繹的なアプローチに拠っている。生理学と進化理論で慣例的に前提とされている考え方にのっとり、そこにサイバネティックスの論法を組み入れて、体細胞の柔軟性の経済 economics of somatic flexibility が存在することと、その経済が、長期的視野において進化のプロセスを左右する作用を及ぼすことを導き出した。突然変異と遺伝子シャフリング[再配分]による外的環境への適応という、現在一般的な考え方に拠るだけでは、体細胞の柔軟性の利用可能幅がゼロに落ちてしまうことは避けられない。したがって、進化プロセスの継続的進行が確証されるためには、体細胞に柔軟性の「ボーナス」をもたらす方向への遺伝子型の変化も同時に存在するとしなくてはならない。
体細胞レベルで変化を獲得する方法は、そのプロセスがホメオスタシスに、つまり相互依存的変数の全サーキットに依拠するものである点からして、不経済である。体細胞レベルで獲得した特徴を次世代に伝えることは、これらの回路全体の変数値を固定化することであり、ゆえに、進化のシステムにとって致命的である。しかし、もしラマルクの獲得形質の継承を模倣するような----すなわち、体細胞のホメオスタシスの全回路をわずらわせることなく、その適応すべき部分に適応した形を与えるような----遺伝子型の変化が起こるとすれば、それは有機体や種の生存に有利にはたらくだろう。(「ボールドウィン効果」といとう不適切な名前で呼ばれる) この種の遺伝子型の変化は、体細胞の柔軟性のボーナスを与えるものだ。ゆえに、それは生存上、明らかな価値を持つ。
最後に本論は、変動する variable ストレスに対して個体群が順化しなくてはならないケースでは、「逆」の議論が成り立つという考えを提示する。そういうケースでは「反ボールドウィン効果」を選り好むように自然選択がはたらくと考えられる。
◆
今回ベイトソンに試されるのは遺伝学領域に踏み込んだやや専門的な論考「進化における体細胞的変化の役割」である。1960年に書かれ、“The Role of Somatic Change in Evolution”] として1963年にEvolution. (Vol.17)に掲載されたという経緯がある。この経緯を訳者の佐藤良明氏は、パロアルトでの10年の後にベイトソンの関心が「人間の病的なコミュニケーションから方向を転じ、しだいに生物学的題材に移っていった」とある。(新思索社版独自の各章冒頭の訳者概説から引用。岩波文庫版にはない。)
またこの論考が、ワトソン/クリックのDNA二重螺旋構造発見の公表(1953)から10年前後というのもあり、DNAを中心に再編成され始めた遺伝学に対するベイトソン自身の見解が出ているとも考えられる。これら点を踏まえてこれまで『精神の生態学へ』を読んでみると、この論考には2つの点がオーバーラップされているように思われる。
1.精神医学関連で単独に扱われてきた「学習」も差異のセットの一部と捉えることができる。つまり情報科学的には「学習」は何とセットになっているか?という点だ。情報伝達の基本単位を「差異を生む差異」と定義するベイトソンからすれば、「0/1」のようなビット単位として「学習/X」という単位を想定している、と考えることができるからである。
2.ここから、「学習」だけで情報伝達を考えるのではない場合、「学習」における論理階型的なコミュニケーションは、「学習」とセットになっているXとどのようなコミュニケーションを行っているのか?という関係論的な問いが出てくるだろう。つまり、Xと「学習」のコミュニケーションは、「学習」における論理階型的なコミュニケーションとどのように類似し、どのように異なっているのか?という問いである。
この2つの問いは、人間や動物を中心としたコミュニケーション領域から、生命自身が形成され、さらには生命を維持する際に行われる領域へと情報コミュニケーション自身が拡張され、なおかつ深化していくことになる。感覚を通した言葉や身振りのようなコミュニケーションから、より高次のミクロかつマクロの情報コミュニケーションへの拡張である。
そこでこの論考ではまず、「学習」と呼ばれてきたコミュニケーションを、ベイトソンの言葉で言えば「体細胞的」という言い方に変える。遺伝学の言葉では「表現型」(phenotype)がそれにあたる。すると、「学習」とセットになるXは、「遺伝子型」(genotype)と呼ばれるデジタルな情報伝達領域ということになる。
一般に「表現型」と「遺伝子型」は以下のような概略的区別がある。
a.「表現型」(phenotype)とは、個体発生つまり個体の一生の中で環境とのコミュニケーション(相互作用)が遺伝子型に影響を及ぼして現れるような、主に外観に観察される変化である。寒い地方から寒暑い地方に移住すると肌の色が変わることがある。また双子でも別の場所に住めば病気への耐性も異なるという。
b.「遺伝子型」(genotype)とは、系統発生つまり個体の一生を超えて世代間で行われるコミュニケーションであり、親の遺伝子の組み合わせが子に伝達されるという形で継承される。この潜在的な情報自体は環境の影響を直接受けることはない。暑い地方から寒い地方に移住しても血液型まで変化することはない。
両者の関係はよく「遺伝子型」は「レシピ」、「表現型」は「出来上がった料理」に喩えられる。この論考でもこの区別にしたがうベイトソンは「遺伝子型」を「レシピ」と言い換えてもいる。この言い換えからすると、遺伝情報それ自体である「遺伝子型」は、環境とのコミュニケーションによって「表現型」が決まるので、単純に遺伝子がその生物のすべてを決めるような還元主義的な決定論は不可能であるという点に注意したい。「レシピ」はそのまま「料理」にはならないのだ。
一方、訳者は、ベイトソンはこれら2つのタイプを遺伝学が扱うように実体としてではなく、関係として扱おうとしている点に注意を促している。訳者自身、この論考の前半で議論されるラマルクの「獲得形質の遺伝」inheritance of acquired characteristicsという従来の訳を「獲得形質の継承」と訳し、「遺伝子型」とは別の、世代を超えた情報伝達として表現している。関係論的に言えば、「タイプ」(type)とはあくまで「遺伝子型」的、「表現型」的という接尾辞(〜的)が伴う性質として示されるにとどまるのである。
なぜ「表現型」と「遺伝子型」という遺伝学の概念の説明から入ったかというと、冒頭に引用したエピグラフの「要約」にあるように、ベイトソンが一般的なルールの説明から始めて、個別的な例証へと展開していく「演繹」的な論証手続きでこの論考を進めるからである。(ちなみにエピグラフの引用部分はこの論考の最後の部分にあたる。)
つまり、具体的な例証は後半まで出て来ず、前半は遺伝学の一般的概念を吟味するというやや抽象レベルでの議論になる(とはいえ、ベイトソン自身、この仮説の実証は現状では困難と記すのだが)。この運び方は具体例を列挙しておおよそ共通と思われる規則を見出していく帰納的手続きに慣れているとちょっと面食らうかもしれない。が、厳密な論理手順が必要な場合に力を発揮する手順である。
とはいえ、注目したいのは、ベイトソンがこの手続きによって個別的な具体例に移る際に、さらに演繹的な手続きでは捉えきれない複雑で多様な例外ケースを見出し、そこから議論の展開を修正していくというやり方にシフトする場面が用意されている点だ。この節目をプロットすると、この論考の前半は「獲得形質の継承(遺伝)」の不可能性から後半の「ボールドウィン効果」の捉え直しへという流れは掴める。(終盤には、その例外から人間という「超制御者(エクストラ・レギュレーター)」の存在が示唆される。そこにベイトソンが本格的に精神の生態(Ecology of Mind)へ踏み出す第一歩を読み取ることも可能だろう。)
一貫しているのは、情報コミュニケーションへの関係論的なアプローチである。一般則の吟味において、演繹的に取り出されるのは、関係の変化、遺伝学的に言えば「突然変異」に代表されるような「変異」するシステムとしての生命のありようである。ここから、「表現型」的な変化、「遺伝子型」的な変化、そして両者の関係の変化の3点が議論の中心になる。
すべての生物進化理論は、最低3つの変化を土台に据えていなければならない。----(a) 突然変異または遺伝子シャッフル[再配分]による遺伝子型レベルでの変化。(b) 環境圧による体細胞レベルでの変化。(c) 環境条件の変化。
これら3様の変化を、1つの絶え間なく前進するプロセスへと組み上げながら、自然選択のもとで、適応の現象と系統発生の現象を説明する理論をつくること。これが進化理論の作成者に共通の課題である。
上の引用での(a)は「遺伝子型」的な、(b)は「表現型」的な変化であり、(c)が「環境圧」の変化によって「表現型」レベルが変化し、それが「遺伝子型」レベルにも影響を与えるような両者の変化と捉えることができる。このように列挙すると、遺伝子型の「変異」がどうして起こるのかという点に注目が行きがちになるのだが、その背景には変化を遺伝子という実体の変化と捉えてしまう還元主義的な思考が働いている。
ベイトソンは、その手順をアルファベット順に示している。ので、冒頭の太字部分のみを引用してまず概要をザッと確認してみたい。
a ラマルクが述べたような世代間継承の考えを前提にしてはならない。
b 体細胞的変化は、生存維持のため絶対に必要である。
c 外的環境との戦いにおいて有利になるような遺伝子型の変化が、生命体内部にもたらす新しい事態に対処するためにも、体細胞変化が必要である。
d 遺伝子型のメッセージは圧倒的にデジタルな性質を持つことを、本論は前提とする。
この論考前半はラマルクの「獲得形質の継承(遺伝)」に対する批判を、進化論をベースとした思考実験にかけてその有効性の困難を示唆するという手順で進んでいく。もちろん、最近のエピジェネシスに関する議論はあるが、今は傍において、この論考でのベイトソンの手順を追うことにする。
ここからは「aラマルクが述べたような世代間継承の考えを前提にしてはならない」という大前提を念頭に、b以下の3つのテーゼの展開を見てみたい。
◆
まずは「b 体細胞的変化は、生存維持のため絶対に必要である」というテーゼである。
ベイトソンが「表現型」的な変化から始めるのは、「表現型」と「遺伝子型」は直接繋がっておらず、両者のコミュニケーションの性質も異なるという点を強調するためである。雑駁に言えば、次元の異なる不連続性が両者のコミュニケーションを可能にしているのである。あえてベイトソンの学習理論をオーバーラップするなら、両者の情報コミュニケーションは論理階型が異なる、そんなイメージで読み進めていくことにしたい。
「獲得形質の継承」への批判の要点は、<個体発生が系統発生に影響を及ぼすことはない>ということではない。個体発生と系統発生はシステムが別であり、両者の影響関係を排除しないとしても、直接影響するとは考えないという立場をベイトソンは採用しているのである。

上の引用で言えば、個体発生における「体細胞的変化」を排除して系統発生の「遺伝子型の変化」が起これば、生命の「生存維持」は困難になり、逆に、突然変異(「外的環境との戦いにおいて有利になるような遺伝子型の変化」)が起こる際にも、「体細胞的変化」がうまく対応しなければ、生命は適応能力を著しく欠いて著しく脆弱化する、というのである。
一方で、「遺伝子上の変化」(系統発生)と「体細胞の変化」(個体発生)の関係は連続的ではない。言い換えると、遺伝子が変わったから体細胞もそれを受けてそのまま変わるということはなく、逆に体細胞が変化したからといって遺伝子上の変化もそれを受けてそのまま変わるということはない、ということだ。
そして、遺伝子上の変化は以下のように数式によって表現できるようなデジタルな性質を持っているとベイトソンは考えるのである。ところがその場合、そのような変化が表現され、さらに維持されるような「体細胞的変化」の安定した持続(「広い可変域にわたる安定」)も必要となることを即座に付け加えている点に注目したい。
1個の有機体の持つ何らかの特徴(形質)が、外的環境からの (測定可能な) インパクトか、または内的生理における何らかの (測定可能な) インパクトに応じて変化するとき、その特徴を、つねにインパクトを与える状況の値の関数として記すことができる。「ヒトの肌の色は太陽光線にさらされた度合の何らかの関数値に等しい」し、「単位時間あたりの呼吸回数は大気圧の何らかの関数値に等しい」。これらの「等式」は、多岐に及ぶ観察例を通して「真」となるものであり、したがってそこには、インパクトを与える側の状況および体細胞的な特徴の広い可変域にわたって安定した (すなわち「真」であり続ける) 副次的な命題が、必然的に含まれることになる。これらの副次的な命題は、実験室で得られる直接の観察記録とは論理階型(ロジカル・タイプ)を異にする。すなわちそれらは、個々のデータではなく、われわれが行なう等式化を記述するものである。それらが述べているのは、個々の式の形式と、そこに現われる値のパラメータである。
こう考えると、「等式の形式とパラメータは遺伝子によって与えられ、その枠組みの中で実際に起こる出来事は、環境などからのインパクトによって決定される」というシンプルな言い方ができそうである。そして、そこから遺伝子型と表現型とを区切る線が簡単に導き出せそうである。----「日焼けする能力は遺伝子型レベルで決定されるが、個々の状況での日焼け量は、その場で浴びた太陽光線の量によって決定される」と。
「遺伝子上の変化」は「体細胞的変化」が安定的でないと表現されない。つまり、「体細胞」の「生存維持」の能力がないなら、「変化」として捉えることはできないのである。また、「体細胞的変化」の「可変域」というのは、「遺伝子的な変化」に適応し、その状況でさらに外的環境の変化にも対応しながら「生存維持」が可能な範囲のことをいう。
もしこのような関係が成り立てば、「等式の形式とパラメータは遺伝子によって与えられ、その枠組みの中で実際に起こる出来事は、環境などからのインパクトによって決定される」。または、「日焼けする能力は遺伝子型レベルで決定されるが、個々の状況での日焼け量は、その場で浴びた太陽光線の量によって決定される」ことが可能になる、とベイトソンは考えるのである。
少し言い換えてみる。
「体細胞的変化」は「遺伝子上の変化」と「外的環境の変化」を受ける。が、体細胞に視点を移すと「遺伝子上の変化」と「外的環境の変化」は「オーバーラップ」(二重写し)の関係にある。というのも「体細胞」は静的に固定された状態にあることはなく、それ自体も常に「変化」しているからだ。しかも、その「変化」には「生存維持」をするための幅、つまり「可変域」がある。
以上から、「体細胞的変化」の「必要」を主張するベイトソンは、特に突然変異の際にその必要性が際立つことを、キリンに進化する仮想の「プレジラフ」という動物を設定した思考実験で示そうとする。
キリンの前身動物----〝プレジラフ〟と呼んでおこう----が、首を長くする〝ロングネック〟とかいう遺伝子を、突然変異のまぐれあたりで得たと仮想すると、この動物は、起こってしまったその変化に合わせて心臓や循環器系を複雑に調整していかなくてはならない。長い首を抱えて生存を続けていくのに必要なこれらの調整は、体細胞的変化によって行なうほかはないだろう。体細胞レベルでそうした調節をはたす能力が (遺伝子型レベルから) 持っている〝プレジラフ〟だけ、生き続けることができるのである。
「「体細胞」は、遺伝子型から送られてくる製造命令(レシピ) recipe が現実に有効かどうかテストされるシステムとして扱う。仮に、遺伝子型の組成もまた、体細胞の作業モデルとして、ある程度アナログ的に動くとすると、その程度に応じて、右のcで前提としたことが崩れてしまう」(p.23)。突然変異で得た「〝ロングネック〟」遺伝子が突然変異を起こしたとすると、「体細胞」側(「臓や循環器系」等)はそれらに沿って「複雑に調整」を行わなければ、突然変異が起きたとされる種自体が存続できない、言い換えれば、突然変異が確認されないのだ。
逆に言えば、デジタルな遺伝子のシャッフルで突然変異が起きた場合、それを体細胞側で複雑な調整ができる「可変域」を持つ種が生き残り、突然変異を表現できるのである。もちろん「外的環境の変化」に対する「体細胞的変化」も同様だろう。(そうでない場合は「致死的」な「変化」と呼ばれる。)
ワトソン/クリックが明確にしたデジタルな組み合わせで行われる「遺伝子上の変化」という前提を受け入れるベイトソンは、一方で、「体細胞的」な柔軟な調整システムに遺伝子のデジタル性とは異なる「可変域」内を行き来する「ある程度アナログ的」な「変化」を見ている。
こうして、ベイトソンは「遺伝子上の変化」と「体細胞的変化」の不連続な関係性に、ラマルクが両者の連続性から引き出した「獲得形質の継承」を批判する根拠を提示した、と言える。
◆
次は、「c 外的環境との戦いにおいて有利になるような遺伝子型の変化が、生命体内部にもたらす新しい事態に対処するためにも、体細胞変化が必要である」というテーゼである。
「体細胞的変化」は、「遺伝子上の変化」と「外的環境の変化」に挟まれ、両者を柔軟に調整するという意味でクッションのような緩衝材的イメージが思い浮かぶ。が、このままではその詳細はわからない。上の構図ではまだ単純すぎてどうして「体細胞的変化」が必要なのかが見えてこないのである。
というのも、今度は「体細胞的変化」に焦点を絞って、ラマルクの「獲得形質の継承」が不可能であることを立証する方向に向かうからである。ベイトソンがこの問題にこだわるのは、ラマルクが3つの変化における情報コミュニケーションを連続的であるかのように考えているからだろう。
よって、システム同士が異質で不連続である理由を究明する必要が出てくる。というのも「体細胞的変化」は「生存状態」の維持というとても大きな役割を担うからだ。「遺伝子上の変化」と「外的環境の変化」はこの役割を担う必要がないという意味で、異質なのである。では「生存状態」の維持は「体細胞的変化」ではどのように行われるのか?
ベイトソンは「経済」の修辞を用いて、「可変域」内で調整を行おうとする「体細胞的」なシステムの仕組みを、「柔軟性の経済」と呼び、お金やエネルギーにおける「経済」と「体細胞」における「柔軟性の経済」との違いを比較対照しながら、その特徴を列挙する。
ただ体細胞の柔軟性経済は、われわれになじみの深い金銭やエネルギーの経済とは、1つ重要な点で異なっている。金銭やエネルギーの場合、新しい支出は以前の支出に加算される be addedものだ。そして支出の総和が蓄えの限界に近づいたとき、経済的圧迫がかかってくる。これと対照的に、体細胞が複数の異なった変化から支払いを要求される場合、その全体的な効果は乗算的 multiplicativeである。この問題は次のように書き表すことが可能である。----有機体がとりうるすべての可能な生存状態の有限集合をSとする。そのなかで突然変異m1と両立可能な生存状態の集合をs1、突然変異m2と両立可能な生存状態の集合をs2とする。このとき、2つの突然変異を経過した後の有機体がとりうる生存状態はs1とs2の「論理積」に等しい。すなわち、s1、s2共通のメンバーのみからなる (通常) もっと狭い下位集合域内に限定される。こうして、突然変異 (ないしは他の遺伝子型の変化) をこうむる度に、有機体の体細胞的変化の可動範囲が狭められていくことになる。2つの突然変異が、正反対方向の体細胞的変化を有機体に迫った場合には、体細胞レベルでの調節の可能性はたちまちゼロに落ちてしまうはずである。
上の引用ではベイトソンのいつもの思考ツールが出てくる。それは「乗算的」という言葉が集合における「論理積」として扱われている点だ。つまり論理演算である。「加算的」は「OR」を、「乗算的」は「AND」を指す。加算は「A∪B」であり、乗算は「A∩B」である。


論理演算で置き換えるのは、ベイトソンが論理回路として「体細胞的変化」を考えようとしているからだ。ベン図で視覚的にイメージすればわかりやすいだろう。「加算」は円Aから見れば円Bに広がっていくのに対し、「乗算」は2つの円A Bが重なる部分だけに限定されていくのである。つまり、回路として「体細胞的変化」を見てみると、遺伝子上の突然変異や環境上の変化が起こるたびに、円の重なる部分が狭まってくるというのである。
ベイトソンは「加算的」な金銭やエネルギーの「経済」に対して、「体細胞的」な「経済」は「乗算的」というのである。その特徴を上の引用では「s1、s2共通のメンバーのみからなる (通常) もっと狭い下位集合域内に限定される。こうして、突然変異 (ないしは他の遺伝子型の変化) をこうむる度に、有機体の体細胞的変化の可動範囲が狭められていくことになる」と表現している。「もっと狭い下位集合内」というのはベン図で2つの円が重なった部分を指している。
「体細胞」の「経済」が「乗算的」なのは、「遺伝子上の変化」にも「外的環境の変化」にも「両立可能な生存状態」を維持しなくてはならないからだ。この「両立可能な生存状態」を維持する「可変域」は、変化が立て続けに起こると狭まって、柔軟性もなくなってくると予想される。これは進化論から考えると当然の帰結のように思われる。
ところが、それでも柔軟性は維持されるのだ。ここに「体細胞的変化」の「経済」が一枚岩でないのではないか、というベイトソンの予測が加わる。それが「体細胞的変化の可塑性」という考えだ。
体細胞的変化の可逆性という点に関して、特に注目しておきたい点がある。高等な有機体にあっては、環境の要求に対して「深層での防御」とも呼べるものが敷かれているケースが多く見られるということだ。海抜ゼロメートルの低地から、3000メートルの高地へ昇った人間の呼吸は荒くなり、動悸は激しくなるが、この第1段階の変化は戻りがきわめて早い。同じ日に山を下りれば、ただちに消え去るものである。しかし山に住み着くことになった場合、今度は第2の防御形態が現れる。さまざまな生理的変化をベースにした「順化」が徐々に進行して、激しい運動をしていないときは、呼吸も心臓も再び静穏な状態を取り戻す。そして、この「深い」レベルでの防衛は、低地に戻ってからも、解除にしばらく時間がかかる。そればかりか、はじめのうち、何かしら体の不調を覚えることもあるだろう。
「体細胞的変化」には、表層での「可逆性」という性質によって全体の「可変域」を不可逆的に狭くなっていかないような「深層での防御」を敷く「経済」が働いている、というのである。上の引用での低地に住む/高地に住むという外的環境の変化に対する「可逆性」の例では、滞在の期間が長くなるほど「可逆性」の働きも鈍くなることが示される。
ここで、ベイトソンがオーバーラップしているのは、精神医学領域で練り上げつつあった、自らの論理階型的な「学習」理論である。以下の習慣形成の「経済」については「統合失調症の理論に要求される最低限のこと」 (1959 『精神の生態学へ』中巻所収)ですでに検討されたものである。(この論考がパロアルトでのセラピストとして経歴と並行している点に注意したい。)
これと似た「深層での防御」が、行動の領域でも明瞭に観察される。不慣れな状況に直面した際、われわれは試行または思考によって対処するが、その状況が繰り返し現れるようになると、次第に過去の経験で好い結果の得られたやり方で自動的に事を処す「習慣」を形成する。同じ種類の問題に、そのつど考えたり試したりを繰り返すのは、効率の悪いことだ。習慣形成によって、そうした無駄が省かれ、貴重なメカニズムを別の新しい問題のためにとっておくことができるようになるわけである。
「可逆性」の問題を行動の領域へ、つまり順化と習慣形成への移すと面白いことがわかる。逆に「可逆性」のみのシステムがもしあるとしたら、恒常性の維持はとてもコストがかかってしまうからだ。というのも「こうした複雑な回路全体が、可逆的変化が維持されている間じゅう、その目的のために使えるようになっていなくてはならないのだ。可逆的な変化というのは、回路全体のメッセージ系路をかなり「食いつぶす」、割高の変化なのである」。
このようにして、過去の行動を「習慣」まで落とし込んでいないと、新たに、行動を起こす際に、すべてがやり直しになってしまう「可逆性」が、「深層の防御」に関わる「柔軟性の経済」の一部であり、行動領域における生存状態の維持に関わっていることを明示する。
と同時に、このホメオスタティックな回路が、「体細胞的変化」の「柔軟性」に関わるとすれば、行動領域のそれよりもはるかに複雑であると予想する。「器官Aのホメオスタティックな制御に寄与するホルモン情報伝達物質は、同時にB、C、D器官にも影響を与えずにはいない」からである。
◆
最後は「d 遺伝子型のメッセージは圧倒的にデジタルな性質を持つ」というテーゼだ。
このようなクッション役を果たす「体細胞的変化」の重層的な「柔軟性の経済」と比べてみると、突然変異するような「遺伝子上の変化」がとても異質であることがわかる。ベイトソンは再び「〝プレジラフ〟」というキリンに進化する以前の想像上の動物を想定し、思考実験を開始する。
一方、突然変異その他の遺伝子型 genotypic レベルでの書き換えによる変化は、これとはまったく性質を異にするはずだ。変化した後の遺伝的情報の全体が個々の細胞の中に保持されるわけだから、隣接する器官や組織から受け取る情報に変化が生じなくても、以前と違った動きを (それが適切であるときには) 示すことができる。〝ロングネック〟という突然変異遺伝子を抱え持った〝プレジラフ〟が、同時に〝ビッグハート〟とかいう遺伝子を授かったとすると、この動物は、体内のホメオスタティックな系路に依存せずに、大きな心臓を獲得し保持することができる。この突然変異が、〝プレジラフ〟の生存にとってプラスの価値を持つのは、それによって高い位置に持ち上げられた頭に十分な血液が送れるようになるからではない。それが目的であれば、体細胞的な(ソマティック) somatic 方法でも対処していけた。そうではなく、有機体全体の柔軟性がそれによって増加し、環境または遺伝子型の変化が以後有機体に課してくる他の(・・)要素に応じる余裕ができるというところに、突然変異の価値があるのである。
雑駁に言えば、突然変異が「個々の細胞の中に保持される」場合、「遺伝子上の変化」は「体細胞的変化」が行う「生存状態」の維持に必要な調整機構の「可変域」の幅を独自に広げることができる、というのである。上の引用では「〝ビッグハート〟とかいう遺伝子を授かったとすると、この動物は、体内のホメオスタティックな系路に依存せずに、大きな心臓を獲得し保持することができる」と表現されているのがそれだ。
「体細胞的変化」、つまり「体内のホメオスタティックな系路に依存せずに」、「有機体全体の柔軟性がそれによって増加し、環境または遺伝子型の変化が以後有機体に課してくる他の(・・)要素に応じる余裕ができる」というのは、「生存状態」を維持するための調整は、「体細胞的変化」と「遺伝子上の変化」の2つのレベルで行われている、ということである。
少し先取りになるが、以上をまとめたセンテンスを先に挙げて、ラマルク説へのベイトソンの仮説の提示に向かうことにする。以下の引用で、「ジェノピスティック・システム」とは「遺伝子上の変化」を行うシステムであり、「ソマティック・システム」とは「体細胞的変化」を行うシステムである。
進化には、2つの制御システムがはたらいている。個体の体内に生じるストレスを許容可能範囲で調整するホメオスタシス機構と、生き残れない遺伝子型を個体群から抹消する自然選択の活動だ。工学的な見地から見た場合、問題は、低次レベルにある可逆的なソマティック・システムから高次レベルにある非可逆的なジェノティピック・システムへの情報の流入をどうやって制限するかという点にある。
「低次レベルにある可逆的なソマティック・システムから高次レベルにある非可逆的なジェノティピック・システムへの情報の流入」とはラマルクの「獲得形質の継承」を指している。この「継承」つまり「情報の流入」の「制限」が問題になる理由は、2つのシステムが不連続で異質だからこそ「生存状態」の維持が可能であるとベイトソンは考えるからだ。
もし「獲得形質の継承」が2つのレベルで起こったらどうなるか、ベイトソンはシミュレートして2つの問題を抽出している。両方とも冒頭の部分のみ引用する。
1 問題はホメオスタシス回路網の経済性に関わっている。ある好ましい形質が、体内環境のホメオスタシス機構に寄り掛かって現れ出ているとき、それを遺伝的に固定してしまえば、その形質と相互連関して動いている他の多数の変数まで固定されてしまうことになる。(以下略)
2 ラマルク式の継承が起こった場合、(われわれの仮説において) 進化を支える2つのプロセス相互の相対的な時間構造が崩れてしまうことになる。(以下略)
第1に、「柔軟性の経済」が崩れてしまう。そして第2に、系統発生(「遺伝子上の変化」)の非可逆性(戻れない)と個体発生(「体細胞的変化」)の可逆性(戻れる)という時間構造の違いも崩れてしまう。そうベイトソンは考える。これらはベイトソンが立てた仮説の崩壊を示すものではない。むしろ、生き物の生存性が危機に晒されることになるのだ。
というのも「ホメオスタシス回路網の経済性」の観点からすれば、「獲得形質」が「遺伝子上の変化」に流入して、子々孫々に「継承」される場合、「体細胞的変化」の可逆性という性質が、非可逆的な「遺伝子上の変化」に占められるからだ。一度日焼けすると皮膚の色は戻らずどんどんメラニンが増えて黒くなり、低地から高地に移った者は空気の薄さに適応できず、心拍数が上がったままになるのである。
ただし、2つのシステムが共存しながらも「獲得形質の継承」に似た伝達が可能である点をベイトソンは「ボールドウィン効果」として紹介している。ジェームズ・ボールドウィンは「遺伝子上の変化」すなわち「進化」と「体細胞的変化」すなわち「学習」が一切無関係なのかと問い、まるで「獲得形質の継承」が起こるような進化のシナリオがありうることを提起した。
生物集団を考えてみる。外的環境の変化にある個体がうまく振る舞うことで生き残り、子孫を残していくと、その子孫からなる生物集団の遺伝子の構成自体が変化するというものである。個体レベルの「学習」が集団レベルの「進化」に方向性を与えると解釈すれば、「獲得形質の継承」に似たシナリオになる、というのが「ボールドウィン効果」である。
が、「ボールドウィン効果」の場合、子々孫々にわたる非可逆的な時間が前提になっており、親世代の「学習」が次の世代の遺伝子構成を変えることではない点は注意すべきだろう。非可逆的な「遺伝子上の変化」の中にあってもすぐ次の世代に遺伝子構成が変わることはないのである。
こうして「ボールドウィン効果」を経由したベイトソンは、「遺伝子上の変化」と「体細胞的変化」のどちらが「大きな頻度で起こると推測されるのか」と問う。ここでまた「〝プレジラフ〟」の思考実験になる。
先ほど仮想した〝プレジラフ〟の例で考えよう。その動物の遺伝子〝ロングネック〟を抱え込んだとき、心臓や循環系はもちろんのこと、[平衡感覚を司る] 半規管や背骨の椎間板、姿勢反射、多くの筋肉の長さと厚さの比率、猛獣から身をかわす戦術に至るまで、すべてを修正しないといけない。とすれば、複雑な有機体では、現状追認的なジェノタイプ変化が革新的なものを数の上で圧倒していることが必要である。そうでなければ、種の体細胞的柔軟性というものが尽きてしまうだろう。
逆から考えると、有機体は、その大多数が、あらゆる時点において、ソマティックな状況を追認するジェノティピックな変化が起こる可能性を何重にも抱えて生きているのではないかと想像される。突然変異も遺伝子再配分 gene redistributionもランダムな現象だと考えられるが、その場合、期待される突然変異が起きる可能性を何重にも張りめぐらせておけば、そのうち1つくらい当たる可能性が大きくなるわけである。
「〝プレジラフ〟」が「生存状態」を維持するためには「現状追認的なジェノタイプ変化が革新的なものを数の上で圧倒していることが必要」であるという箇所に注意したい。ベイトソンは「遺伝子上の変化」がすべて突然変異を引き起こすとは考えない。むしろ「体細胞的変化」を「追認」するような「遺伝子上の変化」が圧倒的に多く、「外的環境の変化」によって突然変異の革新が起こるまでそれは続く、と考えるのである。
注目したいのは、2つの変化の二重で不連続な構造は負のフィードバックを繰り返すソマティック・システムとそれを「追認する」ジェネティック・システムで安定をえているが、後者はデジタル的な性質である限り、確率的な動きをするというのだ。ベイトソンは、ジェネティックな後者を「外的環境の変化」のありよう次第でその保守性が革新的な正のフィードバックに変わりうるシステムとして想定している、と言える。
◆
以上のように、「純理論」的な記述で運んできたこの論考だが、実際の検証になると困難や不可能性が待ち受けているという自己批判的な記述がこの後続く。詳細は省略するが、論理階型を用いた自身の「学習」理論をオーバーラップして、「学習」の側から「進化」へと接近するこの仮説には、観察や実験の困難がつきまとう点もいくつか指摘される。ここまで展開してきた仮説は「ベイトソン予想」とでも呼ぶべきもの、と言えそうだ。
一方、「体細胞的変化」、「遺伝子上の変化」の関係を論じてきたベイトソンは、いよいよ「外的環境の変化」へと重心を移していく。その前に、ベイトソンはここまで論じてきた自説をいったん6つの項目にまとめている。太字になっている冒頭部分だけを引用してザッと確認するだけでも、6項目の共通の前提が予想できるかもしれない。
1. 体細胞的調整の現象を、柔軟性の経済という観点から適切に記述することができる。
2. この柔軟性経済は〝乗算〟のシステムであり、それぞれの要求に対処することが、柔軟性の利用可能幅を<論理積>形成の仕組みにのっとって切り落とす。
3 遺伝子型を書き換える変化は、通例、体細胞の調整能力に負荷をかける。
4 遺伝子型の変更が複数回、相前後して起こるとき、体細胞は乗算的に圧迫を受ける。
5 環境圧によって獲得された特徴は、選択の条件が適切であるとき、遺伝的に決定された同様の特徴によって置き替わりうる。
6 形質の獲得には、体細胞レベルより、遺伝子型レベルの変化に因る方が、一般に、柔軟性の経済の上で有利である。
5番目と6番目の項目には、ウォディントンのショウジョウバエの実験への言及がある。
これも同時期に書かれた「統合失調症の理論に要求される最低限のこと」(1959)にある例だ。ベイトソンは統合失調症を検討する中で、「習慣」が「適応の経済性」によって生じる点に注目していた。さらにこの「経済性」が遺伝学の場合、学習による「適応の経済性」より、「遺伝的レベルからの決定」の「経済性」の方がコストがかからないのではないか、と予想していた。
バイソラックスの [胸部の2つの節がともに翅をつけている] 特性の形成にさいしても、これと類比される現象がはたらくと考えていけない理由はない。同じ表現型を得るのに、柔軟性には富んでいても、見通しの効きにくい、コストが高くつく体細胞的変化より、遺伝的レベルからの決定という方法によった方が経済的だという考えは、十分に成り立つだろう。
学習理論との類比で取り上げられたウォディントンの何十世代にもわたる実験例は、この論考では当の遺伝学領域で精査される。が、そこでは学習と進化の時間構造の違いとは別の時間設定が導入される。ウォディントンの何十世代にもわたる進化の実験は、環境が長期的に安定して圧力をかける実験室だからこそ可能だった。が、短期的に環境圧が変化する場合はどうなるのか?
7 最後に、本論のテーゼの「逆」を考えてみるのも興味深い。ここで論じてきたのは、個体群が幾世代にもわたって変わることのないストレスを受け続けるときには、ラマルク的な継承を [遺伝的に] シミュレートすることが、生存上の価値につながるという点である。獲得形質が遺伝することを示す目的で過去に検証された事例もみな、環境圧が変化しないという条件下でのものであった。しかしストレスの強さの変動が、予期せぬ形で、かつ2、3世代に一度というような頻度で訪れる場合、この「逆」をなす問題が提示される。 そういう状況は、自然界では稀にしか起こらなくても、実験室で造り出すことは可能である。
検証が困難か不可能な自らの仮説をもし検証可能な方向に転回させるなら、実験室で「外的環境の変化」を極端に短期化する必要がある。そんな想像が働いたかのように思えるこの発想は、自然のリズムまたは生態系を動かすという人間中心主義的の副産物をもたらしかねない危険も携えている。
一方、ベイトソンはまず「外的環境の変化」から他の2つの「変化」を検討する際に効果的な「逆命題」としてこの時間スパンの短縮という考えを扱う。というのも、工学的なフィードバック・システムに近い扱いが生物において可能になるからである。
ただ、この逆命題を実験室の中で検証するのは無理だとしても、進化という大きく開かれた図のなかでは、何かこれ [体細胞的同化] に似た作用がはたらいている様子が見えてくる。この問題を、ダイナミックな形で提示するために、有機体の全体をレギュレーターregulator [制御体]とアジャスター adjuster [同調タイプ] という概念で二分するのが便利である。[Prosser, 1955] プロッサーの提示したこの区分は、有機体の内的生理が外的環境の変数と同じ次元の変数を含むとき、内的変数が、外的変数の変化に抗してどれだけ一定値を保ちうるか、その程度を分類の基準とする。この基準によると、定温動物は「レギュレーター」に、変温動物は「アジャスター」に分類される。水生動物が体外と体内の浸透圧の関係をやり繰りする方法にも、同じ二分法が当てはまるだろう。
生物が工学用語で「定温動物は「レギュレーター」に、変温動物は「アジャスター」に」置き換えられるとも言える。が、この置き換えによって、「外的環境の変化」が、生物によって「体細胞的変化」や「遺伝子上の変化」のどのあたりまで届くのかということが理解できるようになる。「定温動物」なら環境圧を体細胞レベルに留めて恒常性を保ち、遺伝レベルまで届かないようにするが、「変温動物」は遺伝レベルの制御に委ねるというように。
レギュレーターにおいて、恒常性維持のための規制がなされるのは、個々の有機体をつくる生理的ネットワークが環境と接する面(インプットとアウトプットの地点)、またはその付近である。これに対して、アジャスターでは、環境の変数が体内に入り込むことを許される。その上で、有機体のより深みにある恒常化のプロセスを駆動して、体内の変動に対応するのでなくてはならない。
新思索社版『精神の生態学』では、上の引用の中に、レギュレーターでは外界の温度が上昇したときには、ただちに発汗プロセスが作動して、体内温度の上昇が食い止められるが、アジャスターの場合「冬眠」というかたちで〕環境の変数が生理システムに及ぼす影響に対処するという例を訳者が補足してある。
このようにして工学的に生物を捉えると、「外的環境の変化」をも制御する「エクストラ・レギュレーター」という観念も出てくる。「自然界には----ヒトがそのもっとも顕著な例だが----環境を変え、あるいは制御して、体外においてホメオスタティックな制御を獲得する有機体も存在するのだ」。
この「超制御者(エクストラ・レギュレーター)」の存在を進化の流れに組み込むと、「事態は逆方向に進んでいる」とベイトソンはいう。「自然選択は、長期的には、アジャスターよりもレギュレーターに、レギュレーターよりもエクストラレギュレーターに有利にはたらいている。この点からすると、遠心的な方向へ制御の場を移していくことが、進化における長期レベルでの利をもたらすと言えそうである」と。
「外的環境の変化」が短期的になり変動が激しくなると、遺伝レベルへの同調(adjust)という「求心化」する方向よりも制御(regulate)という「遠心化」の方向に向かうというのである。この方向は「外的環境の変化」にも及ぶ可能性が「超制御者(エクストラ・レギュレーター)」の存在によって予想されるのである。
最後のセンテンスを以下に引用して終わりにしたい。
これほど大きな問題に考えを巡らすのは、ロマンチックにすぎるかもしれない。しかし、遺伝的同化と逆向きのケースを想定してみたことで、一定のストレス下で個体群が変化する方向と、進化の全体的傾向とが互いに逆向きであるという事実に、納得のいくようになるのではないだろうか。一定したストレスが制御の位置の求心化を促し、変動するストレスがその遠心化を促すのだとすれば、進化の図柄を決定する遠大な時間と変化のレベルで、制御が遠心的な方向へ移行していくのは理にかなったことであると思われる。
翻訳では、「制御が遠心的な方向へ移行していくのは理に適ったことであると思われる」という言葉でこの論考が閉じられる。原文では「centrifugal shift of control will be favored」とある。その後に続く「要約」Summaryの最後のセンテンスでも「最後に本論は、変動する variable ストレスに対して個体群が順化しなくてはならないケースでは、「逆」の議論が成り立つという考えを提示する。そういうケースでは「反ボールドウィン効果」を選り好むfavorように自然選択がはたらくと考えられる」とある。
それゆえ、この末尾の文は「理に適った」の部分は原文では「選り好み」という主観的な意味合いで使用されていると考えてもよさそうだ。つまり、経済合理性も一つの他の生物同様の「順化」の一つと捉えるということである。というのも、この場面でベイトソンは明確に生態(ecology)の問題に踏み込んでいるように思われるからだ。
もしそうなら「進化における体細胞変化の役割」というタイトルの意味も、生物学領域から生態学領域へと重心移動することになるだろう。
1960年あたりに書かれたとされるこの論考が、1963年に発表された理由は、本書でだけではわからない。が、レイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962)の次の年に発表される点から見て、終盤の「逆命題」の提示は単なる「体細胞変化」の考察の副産物にとどまらないように思われる。
(ベイトソンがレイチェル・カーソンに言及するのは1970年に発表する「環境危機の根にあるもの」までないので、あくまで憶測の域を出ないのだが。)
