ベイトソンに試される306 -『精神の生態学へ』第3篇 関係性の形式と病理6 「統合失調症の理論に要求される最低限のこと」1959-
部分と全体とがメタリレーショナルな階層性をなして積みあがっていく宇宙とは、一体どんな宇宙なのか。未だほとんど探求の手が届いていない、その複雑な宇宙の様相の一部を、1つのたいへん粗っぽい比喩によって示唆することをお許し願いたい。1台のトラックが何台ものトレーラーを後ろにつけたままバックする場面を考えてみる。このシステムは、トレーラーが1台増えると運転手が制御できる範囲は大幅に減少する点、そして、各分節間で符号の逆転が起こる点で、われわれの階層宇宙と似ている。システムが道路と平行になっている状態で、すぐ後ろのトレーラーを右に寄せるには、トラックの前輪を左に傾けなくてはならない。そうすると、トラックの後部が左方向に振れ、それに引っ張られてすぐ後ろのトレーラーの前部が左へ動き、その後部が右へ振れるわけである。
この作業を実際にやったことのある方なら、制御不能の状態がどれほど簡単にやってくるか、身にしみて知っておられるはずだ。トレーラー1台をつけてバックするだけでも、コントロールが効くのは、トラックとトレーラーがほぼ一線に近い状態で並んでいる場合に限られる。両者の間に少しずつ角度をつけていくと、それ以上曲げたらその先はコントロール不能になる臨界の角度が現れる。そこに達してなお、無理やり制御しようとすると、2台の間がジャックナイフのように折れ曲がってしまう。トレーラーが2台になれば、(臨界角は180度に近く)、制御可能な角度の範囲は大幅に減少し、実質コントロール不能になる。
われわれが見据えようとしている世界の複雑さは、これ以上だ。そこでは無数の存在が、1本の連鎖ではなく、網の目状に結び合っており、それぞれが今述べたトレーラー間の関係に似た関係でつながっている。しかもこちらでは、それぞれの存在が自前のエネルギー源をもち、加えて、別々の方向へ進みたがることもある。
こんな世界にあって制御の問題はもはや科学の手を離れるしかない。むしろそれは芸術(アート)の問題に属するのかもしれない。意識による制御が困難で、結果の見通しが立たない状況は、科学より芸術に任せるべきだという理由ばかりからではない。失敗の結果が「醜い」ものになる点も、芸術に似ている。
※見出し画像について・・・画像はウォーキング(軽い歩行禅)をしながら、ふと立ち止まってしまう頃合いに撮る季節の出来事が多い。今回は金木犀なのだが、香りが鼻に届いた後に金木犀の木を探している。この植物にいつもアフォードされているように感じる。そんなことを意識させてくれる。
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今回ベイトソンに試されるのは、「統合失調症の理論に要求される最低限のこと」というタイトルの論考である。1959年4月7日にシカゴのマイケル・リース病院の心身症と精神疾患の研究および訓練センターで行われた第2回アルバート・D・ラスカー記念講演の書き起こしであるという。
「統合失調症」というタイトルを念頭に置くと、この論考ではその扱いが量的に少ないように感じられる。が、ベイトソンがこれまで強調してきたのは、クライアント自身に病因を見出してきた精神「医学」を、「疫学」がそうであるように、集団の力学として捉え直すことにあったことは確認しておきたい。(「疫学から見た統合失調」1955,「統合失調症の理論化に向けて」1956,「統合失調症のグループ・ダイナミクス」1958)
以上の流れからこの論考を読むと、タイトルの後半にある「最低限のこと」、つまり、クライアントを扱う精神医学の前提自体を批判し、システム論を参照しながら、精神医学が依拠している従来の学習理論やコミュニケーション理論を刷新することに重点が置かれていることが理解できるだろう。
ただし、精神医学にシステム論を導入する際のベイトソンの手順は(いつものことだが)、似たものとしての他の学問領域からスタートするという点に注意したい。ベイトソンは近隣領域から似ていると思われる考え方のパターンを重ね合わせるように進めながら「最低限のこと」を示すのである。以下は論考の冒頭になる。
科学のどの分野も、隣人に対して義務を負うものである。「汝の隣人を愛す」必要はないにしても、それぞれが作り出した道具を相互に貸し借りして、隣接分野の正しい発展を促すことは引き受けなくてはならない。1つの分野で起こった進歩の重要度は、それが隣接分野の思考とメソッドに対して促す変革の大きさを尺度にして測れる、とさえ言っていいだろう。ただし、節度は重要だ。隣人への申し入れは、必要最低限のものでなくてはならない。われわれは行動科学に携わるものとして、遺伝学や哲学や情報理論に対し、どんな提言を行うべきなのか。隣接する科学の間で、お互いにぎりぎりの要求を突きつけ合いながら、それぞれが作り上げた思考の道具やパターンを貸与し合うことによって科学全体のシステマティックな統一が成就されるわけである。
「隣人の申し入れは、必要最低限のものでなくてはならない」とある。「行動科学に携わるもの」としてのベイトソンは、隣接する学的領域の思考ツールを再検討しながら、精神医学に使用可能な概念に仕立て上げていこうとするという宣言からこの論考が始まるのだ。
注意したいのは、隣接諸科学を含めた「科学のシステマティックな統一」という目標である。一つの論考で成し得ることの不可能な、この壮大な目標は、ベルタランフィの一般システム理論の言葉で語られている。それゆえ読者は、システム論による科学の統一と解釈してしまいそうだ。が、ベイトソンは、システム論を統一する科学の頂点に位置させようとするわけではない。

この論考は、一般システム理論を学習理論、コミュニケーション理論、そして生物学、特に遺伝子学と進化論から再検討することに多くの字数を費やしている。論考の元になる講演が、シカゴのマイケル・リース病院で行われた点を思い起こすと、精神医学関係の聴衆にとって、迂回とも取れるような手順で進むように感じられたろう。
逆から見れば、ベイトソンには、統合失調症にとどまらず、人間にとどまっている「精神」(mind)を、人間の枠を外して生命レベルから探求するという大きなテーマがある、ということも垣間見ることができる。
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とはいえ、システム論を進化論から捉え直すという手順を、ベイトソンの言葉に沿って辿ると多くの注釈がさらに必要となるだろう。そこでこの落書きでは、システム論と進化論に共通の、確率論的な考え方を、第1篇の「メタローグ」から引用してイメージトレーニングをすることから始めたい。
第1篇の5番目のメタローグ「輪郭はなぜあるのか」(1953)には、『不思議の国のアリス』のクロッケーについて父親と娘が対話する場面がある。ここで父親はランダムな世界からパターン(輪郭)を取り出そうとする認識のステップについて娘に説明しようと奮闘する。が、『アリス』のクロッケーの話を始めると、娘の方が父親に上手い説明をしていることに気づく場面である。まずその導入部分を引用しよう。
父 徹底的に混乱した世界というのはどんなだか、考えてみよう。何から何までゴッチャゴチャの世界。そこから何か糸口がつかめるかもしれない。『不思議の国のアリス』に、おかしなクロッケーのゲームが出てくるね。
娘 うん、フラミンゴでやるのでしょう?
父 そう、それだ。
娘 ボールはヤマアラシなのよね。
父 ハリネズミだよ。イギリスにヤマアラシはいない。
娘 えっ、あれイギリスのお話だったの。知らなかった。
父親は、世界がランダムだから人はパターンを予想すると説明していた。ところが、『アリス』のクロッケーでは、道具は全て物理法則で予想できるような物(無生物)ではない、すべてが生き物でできているのである。
古典的な物理学の思考で「予想」が生まれるとしたら、ランダムなのは「予想」が外れることが頻出するからではないか? むしろ「予想」するからこそランダムさが生まれるのではないか?
父 えーと、フラミンゴか。あのアリスの話の作者はね、パパとおまえが今考えているのと同じ問題を考えていたのさ。何もかも徹底的に混乱させていったらどうなるか想像して、それをアリスの物語に書き込んだわけだ。木槌のかわりにフラミンゴにすれば、どんなふうに球が当たるか全然予想がつかない。勝手に首が曲がってしまうんだから、うまく当たってくれるかどうかも分からない・・・・・・
娘 それに、球が勝手に歩いてっちゃうかもしれない。ハリネズミだから。
父 そう、次にどういうことになるんだか、誰にも全然見当がつかないわけだ。
娘 そして、球を通す輪も歩いてっちゃうの。兵隊がやってるから。
父 そう。全部が動く。そして、どう動くのか、動くまで分からない。
娘 ねえ、パパ、みんな生きていないといけないのかしら。そうでないと、あんなにメチャメチャにはならないわよね。
父 いや、生きていないものでも----。待てよ。そうだよ。おまえの言う通りだ。いや、これは面白い。生き物を使わないと、まったくの予想不能な世界というのは作れないんだな。ほかのやり方じゃ、いつかはプレイヤーに対処の仕方を覚えられてしまう。グランドをデコボコにしても、いびつな球を使っても、木槌のヘッドをグラグラにしておいても、ゲームは難しくなりはしても、不可能にはならない。ところが生き物を持ち込むと、とたんにゲームが成立しなくなる。いや、これはパパも気がつかなかった。
娘 ほんと? あたしには、自然なことみたいに思えるけど。
父 自然か。そりゃ、自然の出来事だが、しかしパパは、いままでそういうふうには考えてみなかった。
娘 そう? あたしはふつうにそう思うけど。
父 しかし、パパには思いもよらなかった。いいかい。先のことを予測して動くことができるというのが動物の際立った特徴なんだ。ネコがネズミに飛びかかるときには、着地の瞬間にネズミがどこまで走っているか予測を立てて、それに合わせてジャンプの仕方を調節する。そういう特別なことが動物にはできるんだ。そして、だからこそ、逆に動物の動きが、この世でただ一つ本当に予測できないものになる・・・・・・。人間の法律というものも、妙なものだな。人間の動きに規則を押し当てて、予測できるようにしようっていうんだから。
娘 予測できないから法律を作るんじゃない? 法律を作る人は、予測できるようにしたいのよ。
父 だろうね。
この論考の文脈から見ると、『アリス』のクロッケーは、古典物理学的な道具が生き物という各生命システムに置き換えたことで偶然が生まれることを示した、と言えるだろう。父親は「予想」するという行為を人間側に限定していない。「ネコがネズミに飛びかかるときには、着地の瞬間にネズミがどこまで走っているか予測を立てて、それに合わせてジャンプの仕方を調節する」という。
つまり、各々が「予想」しながら活動する生き物たちが、物理的な広がりとして捉えられている世界に、複雑なランダム性をもたらし続けているというのである。さらにメタローグの際に「予想」や「予測」と呼ばれる生き物の行為に、ベイトソンは今回踏み込んでいることにも注意したい。ベイトソンはこの論考で、「予想」や「予測」の行為を「学習」された習慣として捉え直しているからである。
「予想」は過去の経験データの「学習」によって精度を増していくという傾向がある(フィードバック)。手当たり次第のブルート・フォース・アタックでは、常に最初から始めなくてはならず、いつまで経っても精度の向上は見込めない。一方、生き物はそんなことはしないという点をベイトソンはいつも、2種類の「動機的条件付け」を例に説明する。今回もそうだ。
「パヴロフの犬」は「古典的条件付け」で有名だが、これはベルが鳴ると肉粉が与えられることを繰り返すと、ベルがなるだけで犬は唾液が出すようになるという「外発的動機づけ」である。ベイトソンは報酬という動機を与えるバラス・スキナーの「道具的条件付け」(オペラント条件付け)をよく例に出すのだが、その目的は、もう一つの「内発的動機づけ」とパブロフのケースを対照して強調するためだろう。ここでは一定のタスクができないと電気ショックを与える懲罰的な動機付けに焦点が向けられる。
ベイトソンは懲罰的な動機づけである後者を、コンテクストの観点から「道具的回避」のコンテクストと呼んでいる。このコンテクストが長い間の「学習」によって強化され、コンテクストの柔軟な「変化」が損なわれるとダブルバインドが起こる、とベイトソンは考えているようだ。
古典物理学とシステム理論を比較してきたベイトソンにならうなら、この「変化」は古典物理学にもあるという。「古典物理学の、位置、速度 (=位置の変化)、加速度 (=速度の変化)、加速度の変化・・・・・・と続く連続は、こうしたヒエラルキーの一例である」。 つまり、ベイトソンにとって「変化」とは、一次関数に見られるような連続的な「変化」ではなく、指数関数間に起こるような異なる次元を踏み上がっていく不連続な「変化」である。
この不連続な「変化」を物理の世界ではなく、コミュニケーションの世界で捉えると、メッセージとコンテクストの不連続だが関係が深い階層関係に思い至る。メッセージが様々な解釈を生み出し、メタ・メッセージ、メタ・メタ・メッセージ・・・のように無限増殖するのを固定するのは階層の異なるコンテクストである。「ネコはマットの上にいる」というメッセージには、その話し手と聞き手が信頼できる関係にあるというコンテクストが存在することによって、疑いを挟まずに意味の伝達が可能になる。
一方、人は生きて行為することから、コンテクストにも柔軟性が必要である。よってコンテクスト、メタ・コンテクスト、メタ・メタ・コンテクストという無限の階層を考えることも可能であり、環境が異なればメタのように階層を単純に踏上がるだけでなく、階層において分岐したり、その場その場で切り替える柔軟性が生きる上で重要になる。
ベイトソンはいつも、ここは字義通り信じよというコンテクストの例にキリスト教でのパンとワイン(サクラメント)を、字義通り受け取っちゃだめだというコンテクストが形成される例にユーモアを挙げる。その際、信じよとか笑えというコンテクストの促しを、ベイトソンはメッセージと区別して、サインやシグナルと呼ぶ。
この呼び方は、コンテクストを非言語的な領域に広げて情報伝達として捉えようとする際に頻出する。すると人間から生き物へとコミュニケーションの領域も広がり、パヴロフの学習理論からベイトソン独自のコミュニケーション理論へと移行するという手順を踏むサインともなる。
さて、上に引用したような父親と娘のざっくばらんな対話が、だいぶ抽象的で細かい話に移ってきた。振り返ると「予想」することがランダム性を生み出すという娘の教えから、「予想」が「学習」によって習慣化する点がポイントだった。
そこでベイトソンは、「学習」と「習慣化」を2つの「変化」を促すプロセスと捉え、変化自身を指数的で不連続なものと見なすことになった、という感じだろうか。ひとまず、そんな雑駁な解釈で先に進めていくことにする。
というのも、メッセージとコンテクストの階層関係を、遺伝子型と表現型の間にまで見ようとするからである。遺伝子のメッセージが世代を超えて伝達される系統発生のみで進化は続くとしたら、一つの生命体がその生つまり個体発生において獲得した形質は遺伝しないのか、それともするのか、という「獲得形質の遺伝」という問題にまで、コミュニケーションという考え方を拡張していくように見えるのである。
親が「学習」した形質が子に伝わるというこの遺伝の事実は、今のところ実証されてはいない(先祖の変態性欲が遺伝するというネオ・ダーウィニズムを拡張した「心理遺伝」なる型破りなフィクションを創造して、タイムループし続ける主人公を描いた夢野久作『ドグラ・マグラ』のような人生や、ダライ・ラマ見られるような転生は、生物学的にはいまだ証明されてはいない。)
が、統合失調症を家族関係から見直すベイトソンにとって、「獲得形質の遺伝」の問題はフィクションにとどまるものではない。本書後半でこの問題に触れた後、本題の統合失調症のセラピーに向かうという手順を鑑みても、遺伝学と進化論に横たわるこの問題は、ベイトソンのいう理論の全体論的な統合の面から言えば、重要なポイントになるのである。
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人間から生き物へ、さらに遺伝の問題へと移る前に、ベイトソンはコンテクストの形成をパヴロフの学習理論を参照しながら、情報レベルでコミュニケーションを捉え直すという手順を踏んでいる。以下が従来のコミュニケーション理論から引き出されるその4段階である。
1 シグナルの受信 わたしの机の上にサンドイッチの入った紙袋がある。病院のサイレンが鳴る。それによってわたしは正午だと知る。わたしは手を伸ばし、サンドイッチを取り出す。この現象が起こるためには、わたしがすでに次の第2項のレベルでの学習を済ませていることが必要かもしれない。その学習によって、心の中にひとつの問いができあがっていて、サイレンの音がそれに対する答えとなった、と見ることは可能である。しかし、ある瞬間に起こった単発的な情報の受信自体、1個の「学習」である。そのシグナルを受け取ったことで、机の上の紙袋に対してある特定の反応を示すという変化が、わたしに起きたわけだ。
2. レベル1における変化の習得 古典的な学習実験が取り上げたさまざまな種類の学習 (「パヴロフ的」「道具的報酬」「道具的回避」「機械的反復」等) は、すべてこのレベルの諸例である。
上の 1 と 2 は、繰り返すまでもなくパヴロフの学習理論をまとめた部分である。そしてセラピーの経験から、この「古典的」な学習理論にベイトソンは2つの段階を加える。それが 3 と 4 の段階だ。
注意したいのは、パヴロフの理論に合わせて被験者またはクライアントの立場からカウンセラーとの関係で「レベル2」を、さらにクライアント自身の内的な状況で「レベル3」の「習得のあり方」を予想する点である。
3. レベル2の習得のあり方の変化の習得 わたしはかつてこのレベルの現象を「第2次学習」 deutero-learningと名づけ、それを「学習することの学習」として説明していた。しかしそれは厳密には「シグナルの受信 (レベル1) について学習すること (レベル2) についての学習」であるわけで、その意味では「第3次学習」という呼び名の方がふさわしい。精神医学者にとって関心の中心は、このレベルの現象にある。患者が世界を、かくのごとく構造づけられていると思い込んでいる、その思い込みに変化を生じさせることが「セラピー」であるわけだ。「転移」の現象もこのレベルで起こる。転移とは、患者がセラピストと接触するとき、その関係を、自分が過去に親との間で経験した学習のコンテクストと同種のものが存在すると思うことである。
4. レベル3にある変化のプロセスに生じる変化 この等級(オーダー)にある学習が、人間に起こるのかどうかは定かでない。セラピストが患者に引き起こそうとする変化は、通常3のレベルの変化に限られるようだ。しかし、その3のレベルの変化を起こりやすくしたり起こりにくくしたりする変化が、無意識のうちにゆっくり進行しているということもありうることだ。少なくとも概念上、そうした高次のレベルを設定することは可能だろう。
セラピーがある程度効果を上げる場合、クライアントが従来属するコンテクストが、セラピストに関わる今のコンテクストに「転移」するとベイトソンは考える。一方、このような「転移」が起こっても成果が上がらない場合があり、成果が持続的に上がる場合には、クライアント側が「転移」を受け入れる体制を無意識に準備しているのではないか、という予想も付け加えている。
一見しても、3 の「レベル2」の名称が、これまで「学習の学習」や「第2次学習」と言い替えられている点からも、ベイトソンは自身のコミュニケーション理論を仮止め的に進めていることがわかる。というのも、この論考を読む際に注意したいのは、ベイトソンが自分の立てた考えを吟味し、あるいはその短所を指摘して次に進むというやり方で進んでいくという点だからだ。
実を言うと、この「レベル2」では、まだ関係よりも実体が優先し過ぎていると言う弊がある。クライアントを中心とした関係、そしてクライアント自身の「無意識のうちにゆっくり進行している」と想定される「レベル3」の区別は、クライアントという実体を基準とした外と内という区別に依拠しているからである。
ベイトソンは、この実体重視の姿勢を自己批判するのだが、エルンスト・カッシーラー的な区別を用いるなら、実体概念を関係概念と区別することでそれを行うと言える。一般システム理論を通してこの概念を見直すベイトソンは、古典物理でできた「ニュートンの世界」と情報を単位とする「コミュニケーションの世界」をいったん区別して考える。
ニュートンの世界とコミュニケーションの世界との違いは、端的に次の点にある。ニュートンの世界は、事物だけにリアリティを与え、コンテクストのコンテクスト----いや、すべてのメタ・レベルの関係性----を切り捨て、そうした関係性が無限に続くなどという可能性は一切無視して、それによって単純性を保っている。対照的に、コミュニケーションの理論家は、関係と関係の関係 (等々) を分析しながら、すべての事物を排除し、それによって自分の関わる世界を単純なものにする。
コミュニケーションの世界とは、一種バークリー的な世界だと言えるだろう。ただ、「音を立てずに倒れた森の木は、実際音を立てなかった」というバークレー主教の主張は、少々控え目すぎたようである。誰の耳にも届かない木の音に関与性としてのリアリティがないのはもちろんだが、わたしの目に入り、現にわたしの目にみえ、そればかりか実際わたしが腰かけているこの椅子にもリアリティを与えてはいけない。コミュニケーションの世界でリアルなのは、椅子の知覚だけであって、わたしがその上に座っているものは、わたしにとって、1つの観念、わたしが信頼を置いている1つのメッセージにすぎないのである。
私たちが「情報」という場合、物や意味に還元できるメッセージ全てを考えてしまう。つまり外界にある物と知覚が対応していると考えがちである。が、椅子に腰掛けている場合、椅子は「ニュートン的な世界」の物であり、「コミュニケーションの世界」では「椅子の知覚」しかないのだ、とベイトソンはいう。つまり2つの世界では物と知覚は別物である、と考えなくてはならない。
ベイトソンはバークリー司教を持ち出して「観念」と言い換えているので、観念を「知覚データ」として考えてみる。
例えばモノとしてのリンゴと観念としてのリンゴの違いだ。「0個のリンゴ」と言う場合、そこには観念はあるがモノはない。私たちは「0個のリンゴ」をモノとして指し示すことはできないが、「0個のリンゴ」を情報伝達することはできる(今こうして「観念」として伝えているように)。「観念」として存在するリンゴは、目前にないモノとしての「0個のリンゴ」と区別できるのだ。
観念を基準とした「コミュニケーション」の世界から見ると、人間の身体を基準として内側と外側に分けるやり方は、この世界では有効でないことがわかってくる。
コミュニケーションの世界において、自己の内側と外側を分かつ違いを持ち出すのは、的外れ(イレレヴァント)な、意味のないことである。コンテクストが関与するのは、それが有効なメッセージとしてはたらく場合に限られる。つまり、今われわれが見据えようとしているコミュニケーションの階層システムの多重 multiple のレベルに (正しくまたは歪められて) 表象(リプリゼント)または反映(リフレクト)されることではじめて、コンテクストはコミュニケーションの世界でのリアリティを獲得するのだ。このシステムとは、個人の身体システムのことではない。メッセージと伝達経路がつくる広大なネットワークのことである。それらの系路のうち、一部は物理的存在としての人間の外側に位置し、別の一部は内側に位置するが、そのことに何ら重要性はない。コミュニケーションのマップに人間の皮膚の位置描き込んでみても、その内側と外側とで、システムの特性に違いはない。視覚障害者の杖や生物学者の顕微鏡を、それを使っている人間の「一部」に含めるべきかどうかという問いは、コミュニケーションの世界では意味をもたないのだ。杖も顕微鏡も伝達の重要な系路であり、それについて考えるわれわれの関心が及ぶ範囲のネットワークの一部である。しかしその系路を、たとえば杖の中ほどで遮断する線は、メッセージの伝達網のトポロジーの記述に、まったく関与してこないのである。
コミュニケーションにおける情報は内/外ではなく「多重のレベル」に「表象」されるというのである。「0個のリンゴ」という場合、「リンゴがない」と言う情報と観念としての「リンゴ」の情報が重なることで、「0個のリンゴ」が伝達されるのだから。この重なりは、観念のネットワークの結び目であり、身体の内外で区別する事柄ではない、というのである。
(視覚障害者の杖を出して、健常者を基準とした身体という偏った考えを、セラピーの現場にいるベイトソンが皮肉る最後の一節は、より具体的に「知覚データ」からなる「コミュニケーションの世界」のネットワーク性を示唆していてなおさら興味深いものがある。)
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「ネットワーク」という言葉が出てきたのは偶然ではない。ベイトソンは、実験者から被験者への一方向性をパヴロフ以来の従来の学習理論に見出すと同時に従来のコミュニケーション理論にも送り手から受け手への一方向性を見出して、相互的な関係が抜けている点に不満を持っていた。
ここでの両者の批判的検討を通して、そして統合失調症のセラピーを通じて、関係を実体に優先させ、ネットワークとしての「コミュニケーション世界」を前景化させる、というベイトソンの姿勢が明確になってくる。ジョン・ストラウドの「学習」実験にベイトソンが見るのは、「学習」の「不連続性」である。
問題の実証可能な側面を探っていこう。3番目の等級にある学習 [p.179の2のレベル] の存在を立証する実験が、最近では行われている。[Hull 1940; Harlow, 1949] しかし、学習の等級間の不連続性に焦点を当てた実証的研究は、わたしの知る限り皆無に近い状況だ。そうしたなかで、ジョン・ストラウド氏の実験は注目に値する。これはトラッキングの実験である。被験者の前にスクリーンがあって、この上を標的が動いていてる。スクリーン上にはもう1つ点があり、これを1対のレバーの操作によって動かしながら、動く標的とできるだけ一致させておくことが、被験者に要求される。この実験の利点は、標的の動きの複雑さの段階を数学的にコントロールすることが可能なところだ。すなわち動きの不規則性の度合を、第2次、第3次・・・・・・と段階的に増していくことができる。結果はストラウド氏の期待した通りのものになった。標的の動きを記述する数式の不連続に呼応して、被験者の学習成果にも不連続が現われることが観察されたのである。この実験結果は、標的の動きが1段階複雑さを増すたびに、新たな学習過程が必要とされることを窺わせるものである。
標的のトラッキングをやっているときの脳が、(コンピュータのように) 数学的等式によって作動していることはありえない。そのことをよく考えれば、数学的記述という純粋に人工的な操作と見えるものと、人間の脳に組み入れられた特性との間に呼応関係が現れるという発見は、非常に魅力的である。
注目したいのは、この実験が一回ごとに学び直しをしなくてはいけないという不連続な点。にもかかわらず段階を踏み上がるように「学習」されていくという点。以上2点である。ベイトソンは「数学的記述という純粋に人工的な操作と見えるものと、人間の脳に組み入れられた特性との間に呼応関係が現れるという発見は、非常に魅力的である」という。ここから、2つの階層間の「呼応関係」が焦点化されていくことが理解できるだろう。
ここでようやく、「獲得形質の遺伝」という遺伝学と進化論の間に横たわる問題が出てくるのだが、ベイトソンは周到に、統合失調症が精神医学が陥りがちな遺伝の問題に集約されるものではない、と言外にメッセージしている点に注意したい。
というのも、ラマルクによって提示され、サミュエル・バトラーがダーウィンと論争した「獲得形質の遺伝」を持ち出すのは、統合失調症へのベイトソンたちの「家族療法」的なアプローチの前提に、親から子への遺伝という従来の精神医学の考えが含まれていないからだ。この点を強調するために、生物学の基本的な場面からの検討という手順を経る必要が出てくるのである。
ベイトソンは世代を超える系統発生のプロセスには、一つの世代つまり個体発生で獲得された形質は遺伝しないという生物学の見解について、実証はできないという立場を採る。もし「獲得形質の遺伝」の実証例が出てくれば、従来の見解は崩れてしまうだろう、ともいう。
つまり、遺伝子による継承としての系統発生と、環境圧における一世代に出てくる形質の間にも何らかの「学習」があるのではないか、因果関係とは言えないが、ストラウドの実験に見られるような「呼応関係」があるのではないか、と考えるのである。ベイトソンがウォディントンのショウジョウバエの実験を紹介するのは、系統発生と個体発生の間に、遺伝子型と表現型の間に、従来の「分離」ではなく「呼応関係」を見出そうとする、という意図がある。以下がその実験内容である。
実験の概略を述べておこう。ウォディントンが携わっていたのは、バイソラックスという遺伝子によるとされる表現型 (*12) の、表現型模写の研究である。この遺伝子は、成体の表現型に強烈な作用を及ぼすもので、それがはたらくと、胸部(ソラックス)の第3分節は第2分節と同形になる。すなわち普通の個体では「平均棍(へいきんこん)」と呼ばれる小さなバランス器官として現われるものが、完全な翅(はね)に成長して、4枚翅のハエが誕生するのである。ところが遺伝子バイソラックスを持たないものも、サナギのときに一定の時間エチルエーテルによる酩酊状態に保っておけば、同じような4枚翅のハエになっていく。ウォディントンは、バイソラックスを持たないと考えられる野性のショウジョウバエを繁殖させた膨大な数の個体を使って、サナギにエーテル処理を施し、そこから現れた成虫のなかから、「最良の」-----完全な4枚翅にできるだけ近い----ものを選り抜いて繁殖させるという方法を、幾々世代にもわたって繰り返した。すると早くも27世代めで、エーテル処理にかけなかったサナギからも、限られた数だが、4枚翅の成虫が現れたのである。これらをさらに繁殖させながら、彼は、その4枚翅の特性が単一の遺伝子バイソラックスの存在によって生じるのではなく、数々の遺伝子が協働してつくる特定の配列によって生じるのだということを明らかにした。
ウォディントンはバイソラックスの突然変異に関する実験を、数十世代のショウジョウバエによって確認した。長い世代をかけてエーテルによる環境圧を与え、突然変異が起こるのを確認する。さらに、環境圧を取り除くとこの突然変異を受け継ぐ個体が出て、系統発生が始まるというものである。つまり、稀ではあるが、系統発生と個体発生の「呼応関係」をここに見出すことができないか、というのだ。
この関係をベイトソンは「ストカスティック」(確率的)な関係である、という。つまり不連続な関係が継続すると、何らかの似たような(呼応した)関係が出てくる場合がある、というのである。ベイトソンは、生物の中で決定的に「分離」していて「関係がない」という従来の考え方でも、ストカスティックという観点から見れば、確率の度合いとして関係として捉えられると考えるのである。
遺伝子型と表現型の呼応関係を、ベイトソンはさらに深掘りしている。その際、呼応関係が生存に関わる「経済」が作動しているという。
ここで、今の現象を記述するためのモデルを考えてみたい。まず、環境圧による4枚翅特性の獲得が、根本的にストカスティックな性格をもったプロセス----体細胞による学習のごときもの----によって成しとげられたと想定する。(同じエーテル処理を施された個体群から、「最良の」ものと、そうでないものが現れたという事実は、この考えを支持するものであるようだ。) この種のプロセスが無駄の多いものだという点に着目したい。より直接的な経路によって達成できるはずの結果を得るのに、試行錯誤の方法を取るのは、時間もかかるし労力もかかる。適応が、ストカスティックなプロセスによって得られると考える以上、「適応の経済性」という概念がどうしても絡んでくるのだ。
この種の経済性は、精神プロセスの分野ではおなじみのものだ。適応的活動は習慣化され、それによって精神活動の出費が抑えられる。はじめての問題に出会ったとき、われわれは試行錯誤を繰り返してその解決を図るけれども、同じような問題に繰り返し出会う場合には、次第に経済的な対応を取るようになる。すなわち、ストカスティックな操作を頼るのをやめて、精神のより深くより柔軟性に欠けた機構----習慣----に行動を委ねてしまうのだ。バイソラックスの [胸部の2つの節がともに翅をつけている] 特性の形成にさいしても、これと類比される現象がはたらくと考えていけない理由はない。同じ表現型を得るのに、柔軟性には富んでいても、見通しの効きにくい、コストが高くつく体細胞的変化より、遺伝的レベルからの決定という方法によった方が経済的だという考えは、十分に成り立つだろう。
この考え方は、第2篇の「プリミティブな芸術とスタイルと情報」(1967)の中で、知に関して意識に留めておく知と無意識に沈めてもよい知という関係を説明する際にも採用されている。(時系列的には今回の論考の方が先だが。)
恒久的に真であり続ける関係性についての一般事項は無意識領域に押しやり、個別例の実際的処理に関わる事項は意識領域に留める、という答えがシステムの経済的要請から出てくるのである。
思考の前提は沈め、個々の結論は意識の上に残しておくのが得策である。しかし、この「沈め」は、経済的であるといっても、やはり「手放す」ことの代価を払って得られるものだ。沈める先が、隠喩とアイコン的情報のアルゴリズムがとりしきるレベルである以上、そこからはじき出されてきた答えがどのように導き出されたのか、もはや知ることは難かしい。逆に言うと、ある特定の言明(ステートメント)とそのメタフォリックな表現とに共通する common 部分は、無意識に沈めてよい一般性を有している。
注目したいのは、無意識に沈めておく場合、どのようにしてその情報が導出されたのか、その「アルゴリズム」が省略されるという点だ。それゆえ、無意識に沈めた情報を取り出すのは、似たような環境圧というような条件を要するのであり、意識によって呼び出すことはできないのである。
ここから遺伝子型に沈めた情報が「ストカスティック」(確率的)にしか表現型の側に取り出すことができないということのアナロジーが成り立つと言える。つまり、<遺伝子型-表現型 / 無意識-意識>の間には「/」で示されるような重ね合わせが存在するのだ。
ここでやっと、「統合失調症」にこの「ストカスティック」な「呼応関係」を導入する準備ができたようである。というのも、ベイトソンはここから「統合失調症」を、関係の病をネットワークの病としてアップデートしようとするからである。
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ネットワークの重ね合わせはストカスティックに起こる。よってまれに「呼応関係」と呼ばれる重ね合わせの継続も生じる。「学習」をこのようなコミュニケーション・ネットワークにおける重ね合わせの継続の効果と捉えるベイトソンは、「統合失調症」になるには、まず重ね合わせの継続、つまりコンテクストの柔軟性が弱まってパターン化してくる動きがある、と考える。
このような集団における行動パターンについて、ベイトソンはすでに対称型分裂生成と相補型分裂生成の2種類を抽出している。この中で親子関係に生じるのは支配-服従関係を継続させる「相補型」のパターンだった。この論考でも「統合失調症」の家族には相補型の行動パターンが適用されている。このパターンは下の引用では「第3のメカニズム----家族が (おそらくは徐々に) 統合失調症(スキツォフレニア)にフィットしていくよう組織される (すなわち、その構成メンバーの行動幅を制限する) メカニズム」と呼ばれている。
〝統合失調症〟と認定される人間をもつ家族の相互作用を観察すればすぐ見えてくることだが、その家族では〝統合失調症患者〟の特異な行動がまわりの人間の特性とフィットしている。前者が後者を助長し、それがまたはね返って〝統合失調症〟的行動が助長されるという関係性になっているのだ。ここには、前節で検討した2つの [個人の学習レベルと遺伝子型レベルにある] ストカスティックなメカニズムに加えて、第3のメカニズム----家族が (おそらくは徐々に) 統合失調症(スキツォフレニア)にフィットしていくよう組織される (すなわち、その構成メンバーの行動幅を制限する) メカニズム----が姿を見せている。
「統合失調症が家族の特性であるなら、子供たちのなかに統合失調症とは診断されない者がいるのはなぜか」という質問によく出会う。それに答えるには、家族も他の組織同様、メンバー間に差異をつくり、その差異によって成り立っていることを強調する必要がある。多くの組織では、メンバーのそれぞれがマネージメント能力や野心を発揮するのがよいという前提の上に機能しているにもかかわらず、ボスの席は1つしか用意されていない。統合失調的家族もそれと同じで、〝患者〟の席は1つしか用意されていないように思われる。
相補的というのは数学の「補数」概念から来ていた。10を全体とするなら1と9は補数の関係である。1と9が合わさることで10になるのだから、1は9の補数であり、9は1の補数である。互いに補い合う関係を行動の側から考えてみると、両者は互いを必要とするゆえに互いの行動を制限する。典型的なのは支配-服従関係であり、支配は服従なしに、服従は支配なしに成り立たないのである。
遺伝子型と表現型のメカニズムが働くストカスティックなネットワークに、この「第3のメカニズム」を置くと、ランダム性がごく少ない、くっきりとしたパターンとして現れるとベイトソンは考えているようだ。そして、特に重要なのは相補的な関係は、どちらかが欠けても成り立たない関係のパターンとして抽出でいるという特徴がある。
ベイトソンはここから、従来、統合失調症と呼ばれていたクライアントを「露呈的スキツォフレニア overt schizophrenia」と呼び、それを補う他の家族の側を「隠蔽的スキツォフレニアcovert schizophrenia」と呼び直そう、と提唱する。ベイトソンはセラピーの経験から、クライアントだけでなく、クライアントの家族の側にも「統合失調症」に近い症状を見出していたのである。
すると「統合失調症」における遺伝子型、表現型、そして相補型に3つにわたるステップがどうなっているのか、という問いが当然出てくるだろう。
だが、ベイトソンはそれらがストカスティック(確率的)であるかぎり、「こうなっている」と示すことはできない、と考える。その一方で、これらはストカスティックながら、何らかの呼応関係を形成する場合があることも排除できない、という。
いずれにせよ、いまわれわれが遭遇している問題の難しさが、行動の特性の遺伝的基盤を探るすべての研究につきまとうことは間違いないところだろう。どんなメッセージも行動も、その意味合いは、状況によって正負の符号を逆転する。この一般的真実を明らかにしたことは、われわれの思考に対する、精神分析学の最大の寄与といっていいものだ。性的過剰の症状を持つ子の親が、淫らなものを極力抑え隠そうとする人間であったという場合、われわれは遺伝学者のところに行って、この2つの表現型をとって現われる基底的な特性が、家系のなかで継承されていくようすを探ってくれと要求したりできるだろうか。抑制と補償過剰の問題は、けっして簡単には解決のつかないものである。1つのレベル (たとえば遺伝子型) での過剰が、別のレベル (たとえば表現型) で、欠損 (または過剰) の直接的な表現をとるケース----あるいはその逆のケース----を常に考えなくてはならない。
遺伝子型と表現型の関係に、行動型のパターンである相補型(補償)が当てはまる可能性もある。そう考えることができるなら、親から子への「獲得形質の遺伝」が「学習」レベルで伝達される可能性もある、とベイトソンは考えているようだ。が、その相補的な伝達ゆえに、「学習」は一方向的ではない。つまり、どのような「学習」の継続が露出型と呼ばれる「統合失調症」のクライアントを出現させるのか、という問い自身が一方向的で効力のないものになるのである。
ベイトソンは、従来の精神医学が、精神病と遺伝子型を一意対応的な因果関係で結ぼうとしていた点に異議を申し立てる。そして、そのような一直線の遡行が効かない関係そのもののコミュニケーション世界を講演の聴衆に示している。それが、冒頭に挙げたたくさんのトレーラーを連結させたトラックがバックで進むという比喩である。再掲しよう。
トレーラー1台をつけてバックするだけでも、コントロールが効くのは、トラックとトレーラーがほぼ一線に近い状態で並んでいる場合に限られる。両者の間に少しずつ角度をつけていくと、それ以上曲げたらその先はコントロール不能になる臨界の角度が現れる。そこに達してなお、無理やり制御しようとすると、2台の間がジャックナイフのように折れ曲がってしまう。トレーラーが2台になれば、(臨界角は180度に近く)、制御可能な角度の範囲は大幅に減少し、実質コントロール不能になる。
もちろん、現実はこんな単純なものでもない、という言葉をこの後に添えるベイトソンは、遺伝子型、表現型、行動型(相補型)の諸段階において交わされるメッセージと、ネットワーク的なコミュニケーション世界を分離することなく「統合」的に捉える仕方はなのだろうか、と聴衆に問う。この場合、「統合」というのはシステム論の用語における「全体論」(wholism)を指している。
一方で、ベイトソンはこの全体論的な姿勢を科学に求めてはいないのである。この論考の最後にウィリアム・ブレイクの詩が出てくるのは、その役割が芸術にあるのではないかとベイトソンが考えている点が示されていて興味深い。
今のわたしが唯物論の意味に関して同じ質問をされたとしたら、この言葉は、宇宙本性の性質について問うときはどのように問うべきか、その規則一式を表すものだと答えるだろう。しかしその規則一式が唯一正しいものとしての資格を持つとは、わたしは考えない。
神秘家は「1粒の砂のなかに世界を見る」[p.289参照]。その1粒の砂に映し出されるのは、美的でモラル的、またはその両方の世界である。ニュートン科学は、落下する物体に規則性を捉えても、その規則性を規範的 normative なものと考えてはならないと主張する。しかしその主張は世界への正しい対し方を説くものであるかぎり、そこには矛盾が存在することになる。「説く」という行為は、なにかしらの規範に訴えなくては成り立たないものなのだ。
上の引用の最初に出てくる「唯物論」とは科学における物質を根源と考える主張を指し、ベイトソンのいう「ニュートン的世界」を指している(とはいえ、錬金術に没頭したニュートン自身は神秘家の側面を持ち、けっして唯物論者というわけではなかったが)。「唯物論」は宇宙を切り刻んで切り刻めないところまできて初めてそこに物質という実体を見出す。実体が先行し関係は実体の間に橋渡しされたものという考えはここから来る。橋渡しする関係は後付け的に「規則」と呼ばれ、普遍化されるのである。
言葉を基盤にする以上、科学は宇宙を切り刻むこのデジタル性という性質から逃れられない。システム理論も科学であるかぎり同様である。ところが、芸術はこれを「統合」する力があるという。生き物を扱う行動科学がモラルや倫理を要求するのは、生き物たちが生きる宇宙を、切り刻むことのできない出来事として考えようとし、人間の知の乱用を戒める一歩引いた姿勢に基づいている。
宇宙を重ね合わせとして、アナロジカルに(似たものとして)捉えることは、多層的に捉えることと同義になる。そして各層は何らかの関係を作りあるいは解消しながら動き続けている宇宙の一部である。ベイトソンは、ウィリアム・ブレイクの詩に芸術の多層的でホリスティック(全体論的)なビジョンを見ようとしている。
To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower.
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.
一粒の砂にも世界を
一輪の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を、
一時のうちに永遠を握る。
ベイトソンは、科学も芸術と重なり合う多層的なコミュニケーション世界のネットワークに組み入れられている、と考えているのだろう。
