見出し画像

ベイトソンに試される 105 -『精神の生態学へ』第1篇 メタローグ 5 「輪郭はなぜあるのか」(1953)-

今の話は、何についての話だったの?
何についての話かな? パパにもまだくっきりと見えてきてないんだ。クロッケーのゲームを完全に混乱させるには、生き物ばかり使えばいいとおまえが言ったところから、新しい考えの道筋が開けて、そこを探ってるんだが、まだ疑問がつかまらないんだよ。どこかこう、おかしいんだな。
どこが?
父 うん、そこがまたぼやけてるんだ。生き物と生きていないものとを区切る仕切りがね。動物と機械とは折り合いが悪いだろ? うまくフィットしない。みんな自動車で動いているところに、ウマが入って行ったら、交通がガタガタになってしまう。それもフラミンゴでクロッケーやるのと結局同じことになるんだな。ポイントはウマの動きが予測できないところにある。
 人間はどうなの? 人間だって生き物でしょう? うまくはまりこめるかしら。車のなかに。
父 本当はうまくはまってないのさ。一生懸命努力して、いろいろ予防線を張って、それでなんとかやってる。自分の動きが予測可能になるように必死でがんばってるわけだ。そうじゃないと機械が怒って襲ってくるから。
 機械が怒ったら、それ、予測できない機械にならない? パパと同じになっちゃう。パパっていつ怒るか分からないもの。パパにだって分からないんでしょ?
そうだな。
でも、予測できなくっていいわ、パパは。その方がいい。 

グレゴリー・ベイトソン「輪郭はなぜあるのか 」(『精神の生態学へ』上巻 pp.96-98)



 今回扱うのは「輪郭はなぜあるのか」という5番目のメタローグである。

この章は、前々章の「ゲーム」という考え方と前章の「情報量」という考えのおさらいの章になっている。両者ともに確率から考えるというところに共通点があった。ところが、「生きたゲーム」の複雑さを確率世界から考え始める今回のメタローグは、意外な方向に展開していくのである。

 ゴチャマゼな確率世界では、生き物が得る情報はとても複雑かつ稀で、その状況は、確率世界では情報量が多いという話になっていた。ベイトソンはこの章で、情報量の多い複雑多岐な世界に面した生き物が「輪郭」またはパターンとして認識しようとする思考習慣に注目する。
 
そう考えると、生き物の意志や行動とともに「輪郭」またはパターンが作られていることになる。すると、輪郭やパターンはクッキリと固定されて存在すると考えることはできない。この考えに沿っていくと、この対話も父親が自らの考えを修正する必要に迫られる、というメタローグ的流れになっている。
 
では、冒頭に移りたい。
 

 
娘は、「Why Do Things Have Outlines?」と父親に質問する。そこで、「輪郭」outlineという語が主に絵画や画像のような視覚領域に用いられる英語圏の習慣から、父と娘の対話も絵画論から始まる。
 
ところが、父親はこの言葉の視覚的な文脈を狭苦しく感じているようなのだ。

パパ、輪郭はどうしてあるの?
輪郭? 輪郭って、あるのかね。どんなものに輪郭があるんだ?
絵を描くとき、どんなものでも輪郭を描くでしょう? それ、なぜなのかなって・・・・・・。
ヒツジの群れはどうだ? 1頭のヒツジじゃなくて群れ全体。それにも輪郭があるか? 「会話」はどうだ?
もう ! 会話の形なんて絵に描けないでしょ? 「もの」よ、あたしの言ってるのは。
いや、おまえの言ってる意味を確かめようと思ってね。「ものを描くときには、どうして輪郭を描くことになるのか」という意味なのか、それとも、描く描かないに関係なく、ものには輪郭があるという意味なのか。
・・・・・・どっちなのかしら・・・・・・。分からない。教えて?

「輪郭はなぜあるのか」(『精神の生態学へ』上巻 p.88)

いつものように、父親は娘が「輪郭」と思い込んでいる範囲をはみ出そうとする。そして、「ヒツジの群れはどうだ?」という問いから始まって、さらに娘との対話自体にも「輪郭」があるかどうかなどと話を絵画からら逸らして娘を困らせる。
 
「輪郭」outlineから思い浮かぶ静止像から「ヒツジの群れ」という動的で集合的な像にズラしてみる。この移行を通して、父親が伝えようとするのは生き物たちのパターン認知の仕方であることが垣間見える。が、ベイトソンはこの認知のパターンを、幾何学を通して考察する方向には行かない。
 
例えば、サイエンスライターのフィリップ・ポールが書いた3冊の著書『かたち』、『流れ』、『枝分かれ』なら、ランダムで複雑で多様に見える自然の有様を、幾何学の単純な規則とその美しいバリエーションの表れとして読者の目の前に示してくれる。読者も自然の中に美しいパターンを見出して、自然の造形美に驚きと敬意を示すかもしれない。

 だが、ベイトソンには、連続体である物の世界と情報によって形成される精神(心)の世界は別物であるという考えがある。『精神の生態学へ』全体を先取りして言えば、両者の間には階層があり、認知にも学習のステップが必要になる、とベイトソンは考えているのだ。
 
すると、パターンは最初からあるのではなく、物の世界との関係によって精神(心)にそのつど作られるという考えになる。ベイトソンからすれば、フィリップ・ポールは物の世界と生きた世界を一緒くたにしているということもできるだろう。
 
ベイトソンは、ヒトという生き物が、「パターン」を様々なものに当てはめるだけでなく、現実や歴史を最初からパターンでできているように錯覚する傾向を批判する。娘が学校で教えられた「寛容」という言葉から、父親は歴史の錯覚を指摘している。

 そうだな。じゃあ、「寛容」の話をしよう。ユダヤ人のことを、「キリスト殺し !」とののしる人には、パパは寛容にはなれない。なぜなら、その人は頭のなかがボケてて、輪郭がきちんと引けないからだ。キリストを殺したのはユダヤ人じゃないよ。イタリア人だ。
 イタリア人が?
 ただし、彼らのことを、今は「ローマ人」と呼ぶ。彼らの子孫には、「イタリア人」という別な呼び名を使うわけだ。いいか。ユダヤ人のことを、キリストを殺したと責める人間は、頭のピントが二重にボケてる。まず、事実じゃないことを事実みたいに言うのは、歴史をぼやけさせることだ。それとだね、先祖がしたことの責任を子孫が取れというような言い方は、やっぱりどこかボケてるだろうが。
はい、パパ。

(同上 p.92)

父は、集合の範囲を区別するoutlineとして「輪郭」という言葉を扱っているようだ。
 
聖書の言葉からすれば、ユダヤ人が「キリスト殺し!」と呼ばれるのは、ユダヤ州の総督ピラトの判断にユダヤ教徒たちの強い主張が影響したからだろう。
一方、歴史から見れば、イエスを「それほど重要でない1人のユダヤ人」(ピラトの言葉)とみなしていたピラトが、イエスの死刑を選択したのは、ユダヤ教徒同士の抗争としてローマ人側から捉えていたからだった。
 
現在で言えば「イタリア人」、当時でいえば「ローマ人」と父親が言う場合、地理的な輪郭にも用いられるoutlineという語によって、集合で言えば「ベン図」の円の中の部分集合のように、そこに住む人々を平面空間的に区分する錯覚を指している。
 
その中にはユダヤ教徒も含まれるが、それ以外の人も含まれるので、ユダヤ人に限定できないはずだと父親は考える。これが「キリスト殺し!」をユダヤ人に負わせる人々が「ボケて」いるという1つ目の理由となる。
 
2つ目の理由は時間に関わる。「先祖がしたことの責任を子孫が取れというような言い方は、やっぱりどこかボケてる」と父親はいう。これは、先の空間的区分の間違いをそのまま用いながら、時間直線上をそのまま滑らせるように、現代に生きるユダヤ教徒にも依然として過去の責があると見なす錯覚である。
 
空間を平坦だと思い込んだ上の錯覚、そして時間を単線的と思い込んだ上の錯覚に対する批判を見て、現代の私たちは、現代のユダヤ人国家も同じ錯覚をしてはいないか?と思うことだろう。
 
 
さて、ここから「輪郭」について言えることが2つありそうである。
 
1.「輪郭」によって区別することは、生存上重要である。
 
2.だが、1つの輪郭を他に適用する場合、注意深く行う必要がある。
 
以上2点を念頭に置きながら、父親と娘の対話に沿って、ベイトソンの考えを進めてみたい。
 

 
今回のメタローグは、先行する2つのメタローグのテーマ、--一つはゲーム(「ゲームすること、マジメであること」)、もう一つは知識の情報量(「知識の量を測ること」)--を引き継いでいる、と言った。一方異なる点もある。今回は両者の考えを<パターンを用いて考えるヒトという生き物>という観点から先行するテーマを捉え直してみる点である。

サイバネティクスを議論したメイシー会議の面々(左から2人目M・ミード,右端ベイトソン)

父親は、「輪郭」outlineという視覚的な区別という文脈からウィリアム・ブレイクの言葉を娘に紹介する。すると娘は少しずつ翻弄され始める。というのも、ブレイクの2つの言葉は矛盾しているように見えるからだ。
 
娘は、「ヒツジの群れ」に輪郭はあるのか、と父に問われ、さらに「描く描かないに関係なく、ものには輪郭があるという意味なのか」と問われて、「分からないわ」と答えるしかなかった。以下はその続きである。

うん。パパにも分からん。----むかしね、すごいカンシャク持ちの画家がいた。あらゆるものの絵を描きなぐった画家なんだが、死んでからある人が彼の本をめくってると、あるページに「賢人は輪郭を見るがゆえに輪郭を描くのである」と書いてあった。ところが、別のところをめくると、今度は「狂人は輪郭を見るがゆえに輪郭を描くのである」と書いてあったんだ。
どっちなの? その人が本当に思ってたのは。
その画家の名前はウィリアム・ブレイクというんだが、彼は偉大な芸術家であり、そしてすごいカンシャクの持ち主だった。ときどき自分の考えを紙つぶてにして、人に投げつけたりした。

(同上 p.89)

ブレイクの2つの言葉を抜き出すと、
 
A.「賢人は輪郭を見るがゆえに輪郭を描くのである」
B.「狂人は輪郭を見るがゆえに輪郭を描くのである」
 
という矛盾した言い方になる。(もちろん、賢人と狂人が等号で結ばれるなら矛盾ではない。)

 (※ちなみに、グレゴリーの父ウィリアム・ベイトソンはW・ブレイク作品のコレクターだった。)

重要なのは、賢人でも狂人ではなく、また、普通の人たちがなぜ「輪郭を描く」ことをしないのかという点でもない。問題は、人が「輪郭を描く」ことを常時しているのに、それに気づかない点にある。
 
とはいえ、気づかないのが悪いのでもない。ベイトソンが注目するのは、気づかないような認知システムの構造にある。賢人と狂人は、それらシステムの境界をあらわにする2つの指標なのだ。
 
なぜ人は自然に「輪郭を見る」だけでなく「輪郭を描く」のだろうか?
 
父親と娘の話は、ここから賢者でも狂人でもない人たちも含めた「生きたシステム」(生態)に向かう。そうして、平面と直線でできた人間の錯覚する世界を、自然という複雑多岐な世界に投げ込もうとする。
 
こうして対話の後半では、ゲームとルールの話になる。父親はルールを「輪郭」outlineのゲーム的な言い方として用いる。すると、単なる「ゲーム」と違って、「生きたゲーム」にはルールのような「輪郭」があっても固定的されず、ゲームが動くとルールも動き、動きはどんどん偶然に満ちたものになることが次第にわかってくる。このようなランダム性を含んだシステムが「生態」と呼ばれる。
 
ところで、生命が意志を持ち行為することで複雑な絡まり合いが起こり、偶然をどんどん生み出すことについて、父親はこれまで問題にしてこなかった。しかし、「生きたシステム」の集まりとしての「生態」を新たに捉え直さずにはいられないヒントが娘から与えられるのである。
 
終盤になって、父親が娘に教えられるという場面がやってくる。
 

 
後半、父と娘は、前々回のメタローグで取り上げた「生きたゲーム」について、再び話を始める。前々回の「ゲームすること、マジメであること」でも、この対話は「ゲーム」なのか?という娘の問いから始まっていた。
 
その「輪郭」outlineをなぞるように、父は以前のメタローグ同様、「ゴチャマゼの世界」から「生きたゲーム」の複雑さを引き出そうとする。前々回と違っているのは「生きたゲーム」から始めようとするところである。
 
前々回はゲーム理論の「ゼロ和ゲーム」という単純なゲームから始めていたが、今回は、『不思議の国のアリス』に出てくる奇妙なクロッケーから始める。クロッケーは日本ではアレンジされて「ゲートボール」として親しまれている。

 『アリス』のクロッケーでは、フレイヤーだけでなく、ゲーム用の道具も生き物でできている。すると、それだけで「ゴッチャゴチャ」のゲームが出来上がるのである。

徹底的に混乱した世界というのはどんなだか、考えてみよう。何から何までゴッチャゴチャの世界。そこから何か糸口がつかめるかもしれない。『不思議の国のアリス』に、おかしなクロッケーのゲームが出てくるね。
うん、フラミンゴでやるのでしょう?
そう、それだ。
ボールはヤマアラシなのよね。
ハリネズミだよ。イギリスにヤマアラシはいない。
えっ、あれイギリスのお話だったの。知らなかった。 

(同上 pp.93-94)

 この後、生物学の家系で育った父の教養が出て、話が脱線するのだが、このクロッケーが表していることがどんなものかは、読者も容易に「予想」できるはずだ。
 
人が確率世界に身を晒すのは「予想」や「予測」をするときである。過去の情報から未来を想像する際に「あんな風だったから、こんな風になるだろう」という単純なパターンに沿って思い描く。こうして作られた「パターン」は過去としてストックされた情報のみでできており、これから起こる未知なる未来の情報は含まれない。
 
『アリス』のクロッケーでは、道具を生き物に置き換わることで偶然が生まれ、人々の「予想」や「予測」が外れて「ゴッチャゴチャ」の確率世界になることが「予想」可能になるのである。というのも、道具は古典的な物理学の法則(ルール)で動くが、生き物たちには意志があり、各々の意志を行為として表現できるからだ。

 えーと、フラミンゴか。あのアリスの話の作者はね、パパとおまえが今考えているのと同じ問題を考えていたのさ。何もかも徹底的に混乱させていったらどうなるか想像して、それをアリスの物語に書き込んだわけだ。木槌のかわりにフラミンゴにすれば、どんなふうに球が当たるか全然予想がつかない。勝手に首が曲がってしまうんだから、うまく当たってくれるかどうかも分からない・・・・・・
 それに、球が勝手に歩いてっちゃうかもしれない。ハリネズミだから。
 そう、次にどういうことになるんだか、誰にも全然見当がつかないわけだ。
 そして、球を通す輪も歩いてっちゃうの。兵隊がやってるから。
 そう。全部が動く。そして、どう動くのか、動くまで分からない。
 ねえ、パパ、みんな生きていないといけないのかしら。そうでないと、あんなにメチャメチャにはならないわよね。
 いや、生きていないものでも----。待てよ。そうだよ。おまえの言う通りだ。いや、これは面白い。生き物を使わないと、まったくの予想不能な世界というのは作れないんだな。ほかのやり方じゃ、いつかはプレイヤーに対処の仕方を覚えられてしまう。グランドをデコボコにしても、いびつな球を使っても、木槌のヘッドをグラグラにしておいても、ゲームは難しくなりはしても、不可能にはならない。ところが生き物を持ち込むと、とたんにゲームが成立しなくなる。いや、これはパパも気がつかなかった。
ほんと? あたしには、自然なことみたいに思えるけど。
自然か。そりゃ、自然の出来事だが、しかしパパは、いままでそういうふうには考えてみなかった。
そう? あたしはふつうにそう思うけど。
しかし、パパには思いもよらなかった。いいかい。先のことを予測して動くことができるというのが動物の際立った特徴なんだ。ネコがネズミに飛びかかるときには、着地の瞬間にネズミがどこまで走っているか予測を立てて、それに合わせてジャンプの仕方を調節する。そういう特別なことが動物にはできるんだ。そして、だからこそ、逆に動物の動きが、この世でただ一つ本当に予測できないものになる・・・・・・。人間の法律というものも、妙なものだな。人間の動きに規則を押し当てて、予測できるようにしようっていうんだから。
 予測できないから法律を作るんじゃない? 法律を作る人は、予測できるようにしたいのよ。
 だろうね。 

(同上 pp.94-96)

木槌がフラミンゴに、球がハリネズミに、球を通す輪が兵隊になると、「全部が動く。そして、どう動くのか、動くまで分からない」ようなゲームを人は「予想」できる。そして予想するほどに未来に偶然が起こる確率がさらに高くなることも「予想」できるのである。生き物が各々の意志と行為で動くというデータを入力すると、人は「ゴチャマゼ」世界での「ゴッチャゴチャ」のゲームのイメージを「予想」するのだ。
 
では、「ゴッチャゴチャ」のイメージとはどんなものだろうか?
「輪郭」outlineという言葉から連想するといろんな線や点が混ざり合っている状態だろうか?
 
むしろ、「輪郭」outlineの見出せない確率世界のイメージ、またはイメージ以前の何かを、父親は「生きたゲーム」の本質に見出したようだ。父親は、生き物、特に動物たちが予想や予測をするから、世界は予測できないことだらけになることに気づく。
 
過去のデータのストックでできた予測は未知なる未来にはある範囲にしか適用できない。そんな不完全な予測能力を持って生き物が個々に行動しているとすると、他の生き物の予測を予測し、さらにそれを予測し・・・というふうに予測の確度がどんどん低くなる傾向が出てくるのである。
 
 
娘は「ねえ、パパ、みんな生きていないといけないのかしら。そうでないと、あんなにメチャメチャにはならないわよね」と言った。
その言葉に父親は、「待てよ。そうだよ。おまえの言う通りだ。いや、これは面白い。生き物を使わないと、まったくの予想不能な世界というのは作れないんだな」と感心する。

父親は、娘に教えられる側に回ったのである。
 
世界が確率的だから生き物は予測すると考えていた父親は、生き物が予測する能力を持つから世界は確率的になる、という考え方にシフトするのである。
 
すると、このメタローグの末尾にある対話が、私たちにとっても意味深いものになる。

会話にも輪郭があるって言ったでしょう? あれ、どういうことなの? この会話にも輪郭があるの?
あるともさ。ただ、終わらないうちは見えない。輪郭というのは、内側から見えないもんなんだ。だって見えてしまったら、どうなる? 2人でこれから何の話をするのかまで、みんな決まっていたとしたら。それじゃ、おまえもパパも、2人を一緒に合わせたものも、予測可能な生き物になってしまうよ。機械と一緒だ。
 パパの言うこと、わかんないわ。物事にはいつもくっきり見えるようにしておかなくちゃいけないって、言ったばかりなのに。輪郭をぼやかす人がいると怒るんでしょう? なのに今は、予測がつかない方に、機械みたいじゃない方に、味方してるみたい。それとね、会話が終わらないと輪郭が見えないっていうのなら、話す人の頭がクリアかどうかなんて、どうでもいいじゃない。だって、会話に向かって何かするわけにいかないんでしょ?
 そうさ、何もすることはできない。でも、何かしたいと思うのか? この会話に。 

(同上 p.98)

『アリス』のクロッケーでは、道具が生き物に置き換えられた。ベイトソンはこの変換を物理的世界から情報世界へのステップと捉えたのである。そこから、このメタローグで物理的世界が先行していると固定していた父親の考えにも修正が施される。
 
父の考え方の修正は、娘も父親の矛盾に気づいて困惑するほど大きな転回を含んでいる。というのも、このメタローグでの父親の考えのシフトは、ベイトソンがこの書物で繰り返す「エピステモロジー」という語の使い方に触れる場面だからだ。
 
『精神の生態学へ』全体でベイトソンが頻繁に用いる「エピステモロジー」(epistemology)という語は行為論を抜いて「存在論」と分離させた従来の哲学用語としての「認識論」(epistemology)とは異なるゆえに、邦訳した佐藤良明氏もカタカナのカッコつきで訳したという事情がある。
 
ベイトソン自身、次の著書『精神と自然』(1979)末尾の用語解説で、この語は人間の認識という従来の範囲を超えて、生物や生物の集合体の「知る」こと、「考える」こと、「決める」ことという意志と意志の形成過程に関する科学・哲学の2面を有する考え方にまで拡張している。

エピステモロジー [認識論] epistemology 科学の一支流と哲学の一支流が合流したもの。個々の生物または生物の集合体がいかにしてものごとを知るのか、考えるのか、決めるのかを考察するのが、その科学的な面。知る過程、考える過程、決める過程について必然的な限界その他の特徴を考察するのが、その哲学的な面。

ベイトソン「用語解説」(『精神と自然』 p417)

生命にとって、認識することはけっして受け身ではない。意志し行為することと密接に結びついている。そう考えるベイトソンは「エピステモロジー」を、行為を基点とした認識=存在論と考えるのである。

 そんなふうに考えると、このメタローグを締めくくる父親のセリフは、人間自身への戒めも潜んでいるように思えてくる。
 
この対話に「輪郭」を見出そうとして「何かしたいと思う」ことは、この対話を「予測」することになる。そんなことをしたら、予測するほど対話はゴチャマゼになって「クリア」な「輪郭」から遠ざかってしまうぞ・・・そうやって「予測」したりルールを作ったりすることばかりに夢中になっていると、私たちが世界をゴチャマゼにしてしまうことになるぞ・・・という戒めが・・・。
 
ベイトソンには、日々予測機械(コンピュータ)をポケットに入れ、膝上や机上で開いている私たちは、世界をクリアに見ようとする意志に反して、否、意志を過剰に持つからこそ世界を「ゴチャマゼ」にすることに躍起になっているように見えるのかもしれない。
 
環境問題が深刻化する現在、私たち自身が正確に詳細に予測しようとする「意志」の濫用にこそ問題があるのではないか? このメタローグは読者にそう問いかけているように思える。


いいなと思ったら応援しよう!