イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第五十七話 薔薇の請求書
戦いが終わっても、街は元には戻らなかった。
勝った者も、負けた者も、まだ誰もその場を離れられない。
最初に動いたのは、怒りを隠す気もない薔薇だった。

エラとヨル 第五十七話
【薔薇の請求書】
ローズが拳を固めたまま、周囲を見渡す。
焼け落ちた家屋と崩れた建物の間で、子供たちが泣き叫んでいた。
ローズの眉間に、深い皺が寄る。
その瞳には、隠す気のない怒りがあった。
「ローズ。久しぶりだな!」
壁にめり込んでいた体を起こしながら、チャリオットが声を上げる。
何事もなかったかのような声だった。
「筋肉バカが。あんたら、自分たちが何をやったか説明できるんだろうね?」
空気が、一瞬で変わった。
ローズの一言が、その場を支配する。
「特に、そこの赤髪。あんたはどうするつもりだい?」
ローズは、泣き叫ぶ子供へ視線を向けた。
ディアが一瞬、動きを止める。
燃えていた剣の炎が、わずかに揺らいだ。
「まだ、やろうってのかい?」
ローズの眼光が、さらに鋭さを増す。
ディアは何も答えない。
やがて、剣の刀身から炎が消えていく。
「やるなら、場所を選びな」
その言葉を聞いてから、ディアは静かに剣を納めた。
迎えに来た教団の仲間たちが、彼女のそばに集まる。
ディアは一度だけ焼けた街を見渡し、それから背を向けた。
ローズはその姿を見送る。
そして今度は、逃げようとしている吊るし人へ向けて怒鳴った。
「請求は、赤目のクソ女宛てでいいんだね?」
吊るし人の背中が、びくりと揺れる。
「それとも、大バカ道化師の方かい?」
吊るし人は振り返らなかった。
答えも返さず、逃げるように姿を消す。
「俺はまだ……」
チャリオットが、何かを言おうとした。
その足が、まだ前へ出ようとしている。
だが、その一歩をローズの蹴りが止めた。
チャリオットの腹に叩き込まれた蹴りで、その体が再び瓦礫の中へ吹き飛ぶ。
「黙ってな。あんたはあとで殴る」
ローズがそう吐き捨てる。
気づけば、ローズの部下たちはもう走り出していた。
水桶を運ぶ者。
崩れた壁をどかす者。
泣いている子供を抱き上げる者。
逃げ遅れた老人に肩を貸す者。
戦いの場だった場所が、少しずつ救助の場へ変わっていく。
助けられた子供が、泣きながら崩れた家を指さしていた。
そこに、もう誰もいないことを、誰もすぐには言えなかった。
ローズは、燃える街を見つめたまま、低く呟いた。
「……高くつくよ。これは」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、その場にいた誰もが理解した。
この街を壊した者たちは、ただでは済まないと。
*
私たちも救助に加わった。
逃げ遅れた人々を探し、運び出す。
崩れた瓦礫の隙間に声をかけ、返事があれば手を伸ばした。
火は、ローズたちの素早い判断で広がりを止められていた。
まだ燃えていない建物を壊し、炎の道を断つ。
その役目を担わされたのは、チャリオットだった。
「おい、俺はまだ殴られる側じゃなかったのか?」
瓦礫の中から引きずり出されたチャリオットが、不満そうに声を上げる。
ローズは振り返りもしなかった。
「黙って壊しな。あんたが壊した街だろ」
その一言で、チャリオットは口を閉じた。
次の瞬間、チャリオットの拳が、まだ火の回っていない建物の壁を砕く。
柱が折れ、屋根が崩れ、炎の進む道が断たれていく。
壊すための力が、ようやく被害を止めるために使われていた。
その判断がなければ、火はもっと広がっていたはずだった。
負傷者が並ぶ仮設の広場では、LAGの憲兵たちが忙しなく動いている。
遅れて来たディケが手配したのだろう。
医薬品や毛布が、次々と運び込まれていた。
泣き声。怒鳴り声。誰かの名前を呼ぶ声。
そのすべてが混ざり合って、焼けた街の上に重く沈んでいた。
私はススのついた顔を拭いながら、焼け焦げた女の子の人形を見つめていた。
ーーもっと何かできたはず。
思い返してみても、答えは見つからない。
あの時、飛び出せばよかったのか。
誰かを止めるべきだったのか。
それとも、もっと早く危険に気づくべきだったのか。
考えても、考えても、過ぎた時間は戻らない。
夕日が落ちていく。
焼け残った壁が、赤く染まっていた。
私はただ、黙って俯くことしかできなかった。
「ごめんなさい」
顔を上げると、サンが頭を下げていた。
「私がもう少し早く出ていれば」
サンは、服の裾を握り締めている。
サンの判断は間違っていない。
そう言いたかった。
でも、子供の泣き声が耳から離れない。
「ニコなら、この事態を収めるために、誰かを動かすと思っていました」
サンは、沈んでいく夕日を見つめる。
「タワーなら、止められたかもしれません」
サンは、焼けた街から目を逸らさなかった。
「でも、来たのはチャリオットでした」
その声には、悔しさが滲んでいた。
タワー。
あの重鎧の騎士なら、ディアを止めることもできたかもしれない。
その時、ふと頭の中にあった違和感を思い出した。
吊るし人の動きだ。
ディアと戦う動きとしては、明らかにおかしかった。
あれは、火を避けていたのではない。
火のある方へ、戦いをずらしていた。
「サン。十二使徒の影は、女帝以外の命令で動くことがあるの?」
私の言葉に、サンは考えるような仕草をする。
「……ありえませんね」
少し間を置いてから、サンは続けた。
「そもそも、十二使徒の影は大陸に散らばっていることがほとんどです。こんなに集まること自体が変です」
やはり、何かがおかしい。
吊るし人は、火を広げるように戦っていた。
そして、止めに来たはずのチャリオットが、街を壊した。
偶然にしては、出来すぎている。
ーー情報が足りない。
私はそう感じながら、今日の出来事を整理するため、エラたちが待つ白カラス亭へ向かった。
ようやく白カラス亭の灯りが見えた。
その明かりを見た瞬間、初めて自分の足が重くなっていることに気づく。
服にはススがつき、手のひらには小さな傷がいくつもできていた。
体よりも、頭の奥の方が重かった。
子供の泣き声。
焼けた人形。
ローズの低い声。
サンの謝罪。
それらがまだ、胸の中で混ざったまま残っている。
その時、こちらと同じように戻ってくるエラたちの姿が見えた。
ただ、エラとオトのそばに、見慣れない女性が一人ついて歩いている。
肩まで伸びた金髪が印象的な、細身の剣士のような女性だった。
けれど、髪の間からのぞく耳の形が、少しだけ違っていた。
私の知っているヒューマンの耳より、先がわずかに尖っている。
その姿を見つめたまま、サンの足が止まった。
「フォーチュン?」
サンの口から、その名前がこぼれる。
私たちの姿に気づいたエラが、笑顔で手を振っていた。
けれど、サンは笑わない。
フォーチュンと呼ばれた女性も、こちらを見つめたまま表情を変えなかった。
私は、その耳から目を離せずにいた。
ヒューマンではない。
そう思った。
でも、それが何を意味するのか、私にはまだわからない。
その人が、赤い瞳の奥に隠れていたものを、少しだけ見せることになるなんて。

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