イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第三十二話 クロとシロの初仕事
新しい剣を手に入れたエラは、朝からずっと落ち着かなかった。
右を見て、左を見て、少し先の草むらまでじっと見る。
こういう時に限って、敵は出ない。

エラとヨル 第三十二話
【クロとシロの初仕事】
新しい装備を整えて、私たちは街を出た。
エラの腰には、二本の曲剣。
黒い握りのクロ。
白い握りのシロ。
私の腰には、レイピアのシルベ。
オトはいつものように、小さな荷物と楽器を抱えて歩いている。
道は穏やかだった。
空はよく晴れていて、風も強くない。
街道の脇には低い草が揺れ、遠くには小さな森が見える。
旅をするには、ちょうどいい日だった。
ただ一人を除いて。
「……エラ」
「なに?」
「前見て歩きなよ」
エラは、右の茂みをじっと見ていた。
「今、何か動いた気がした」
「風だよ」
「でも、敵かもしれない」
「敵だったら、あんなに小さく揺れない」
「すごく小さい敵かもしれない」
私は肩をすくめながら答えた。
「たぶん虫」
「虫型のモンスターかも」
「使いたいだけでしょ」
エラは、少し黙った。
そして、何も言わずに前を向いた。
――わかりやすい。
オトが後ろで小さく笑っている。
「エラさん、そんなに早く使いたいんですか?」
「ちゃんと試したいだけ」
「試し斬りですか?」
「試し……活躍?」
「言い方を変えても、だいたい同じです」
エラは口を尖らせた。
腰に差したクロとシロの柄に、ちらちらと目を向けている。
黒い組紐と白い組紐が、歩くたびに小さく揺れた。
前までのエラなら、武器はただの道具だった。
斬れればいい。
振れればいい。
折れたら、また別のものを使えばいい。
たぶん、そんなふうに考えていた。
でも今は違う。
大切にしようとしている。
ただし、その距離感はまだ少しおかしい。
「ヨル」
「なに?」
「今、敵が出たら、まずクロから抜くべきかな?やっぱり、シロからのほうがいい?」
「どっちでもいい」
「どっちでもいいことないよ。初めてだよ?」
「敵に聞けば?」
「聞いて待ってくれるかな」
「待たないと思う」
「じゃあ、先に決めないと」
本気で悩んでいる。
私は少しだけ空を見上げた。
よく晴れていた。
今日に限って、本当に何も起きない気がした。
実際、その予感は当たった。
しばらく歩いても、モンスターは出なかった。
盗賊も出なかった。
怪しい影も、困っている旅人も、壊れた荷車もない。
ただ、道が続いているだけだった。
平和だった。
旅としては、とてもいいことだ。
エラにとっては、少し不満そうだった。
「平和ですねぇ」
オトがのんびり言った。
「いいことだよ」
私は答える。
「そうですね。敵が出ないのはありがたいです」
「うん」
「ただ、エラさんの顔を見ると、少し悪いことをしている気分になります」
キョロキョロとあたりを見渡すエラの姿を見つめて、私は苦笑いを浮かべた。
そのまま、またしばらく歩いた。
道は緩やかに上っていた。
大きな丘ではない。
けれど、振り返ると、さっき出てきた街の屋根が遠くに見えた。
地図を描くには、こういう高い場所はちょうどいい。
そう思った時、ふと、私は雪山でのことを思い出した。
吹雪。
白い世界。
夜空から落ちる感覚。
そして、みんなで空を飛んだ瞬間。
――あれは、何だったのだろう。
――魔法?
そう呼ぶには、あまりにも聞いたことがない。
少なくとも、私はそんな魔法を知らない。
空を飛ぶ魔法なんて、おとぎ話か、ドラゴンの話くらいだ。
人が、何の道具もなしに浮かぶ。
そんな話は、普通はない。
「エラ」
「なに? 敵?」
「違う」
少し残念そうにしないでほしい。
私は歩く速度を少し落とした。
「雪山の時のことなんだけど」
「教団から逃げる時、私たち空を飛んだでしょ」
エラは、きょとんとした顔をした。
オトもこちらを見る。
「そういえば、あの時……」
オトが思い出したように呟いた。
「私たち飛んでましたねぇ」
「落ちたけど」
私はオトを見る。
「落ちる前に、確かに空を飛んでいたと思う」
「あの状況でしたから、私の記憶もだいぶ揺れています」
それはそうかもしれない。
竜石が光って、気づいたらエラの手を握ったまま空にいたこと。
そこから落ちたこと。
逃げることで精一杯で、すっかり忘れていた。
私はもう一度、エラを見た。
「どうやって空を飛んだの?」
「飛んだかな?」
「飛んでた」
「落ちたんじゃなくて?」
「最初は浮いてた」
「うーん」
エラは首をひねった。
本当に、わかっていない顔だった。
「昔から、たまにあったんだよね」
エラは少し前を歩きながら、遠くを見る。
「地図を描こうとして、高いところから見たいなって思うことがあるでしょ」
「普通は、木とか高い山に登るけど」
「でも、もっと上から見たいなって思う時があって」
エラは空を見た。
「そういう時、体がふわっとする感じがする」
「ふわっと?」
「うん。足の下がなくなるみたいな。でも怖くないの。見たいもののほうに、体が引っ張られる感じ」
私は黙って聞いた。
オトも、いつもの軽い調子を少し抑えている。
「それは、いつから?」
「小さい頃から」
「誰かに言った?」
「言ってない」
「どうして?」
「夢かもしれないと思ってたから」
エラは少し笑った。
「気づいたら高い木の枝にいたり、屋根の上にいたりすることがあって、最初にいた位置から少しズレてるんだ」
「でも、どうやったか覚えていないんだよ」
「危ないでしょ」
「うん。気を抜くと落ちる」
エラはあっさり言った。
「だから、たぶんヨルと初めて会った時も、それ」
私は思わず足を止めた。
オトも足を止める。
エラだけが数歩進んでから、振り返った。
「どうしたの?」
「いや」
私は額に手を当てた。
「初めて会った時、空から落ちてきた理由、それだったの?」
「たぶん」
「たぶんで済ませていい話じゃない」
「でも、落ちたんだもん」
「落ちたんだもんじゃない」
オトが口元を押さえた。
笑っている。
でも少しだけ、驚きも混じっているようだった。
「つまり、エラさんは地図を描くために高いところから見たいと思うと、浮くことがあるんですね」
「たぶん」
「そして、集中が切れると落ちる」
「たぶん」
「危険ですねぇ」
「そうかな」
「そうです」
私とオトの声が重なった。
エラは少し困ったように笑った。
「でも、毎回できるわけじゃないよ」
「今は? できる?」
私は聞いた。
エラは少し考えたあと、道の脇に立った。
腰のクロとシロを軽く押さえ、足元を見て、それから遠くの丘を見た。
「高いところから見たい」
小さく呟く。
風が吹いた。
草が揺れた。
エラの紫色の髪が、少しだけ揺れた。
でも、何も起きなかった。
エラはもう一度、目を細めて遠くを見る。
「高いところから、見たい」
何も起きない。
足は地面についたままだった。
しばらく沈黙が続いた。
「……今日は無理みたい」
エラはそう言って、頭を少し掻いた。
「そんな簡単に終わる話?」
「だって、できないし」
「その時、違うミニアの色が見えたりする?」
「見えないよ」
「詠唱は?」
「してない」
「道具は?」
「ない」
私は少し呆れて言った。
「じゃあ、何なの」
「わからない」
エラは本当に困った顔をした。
責めても仕方がない。
たぶん、本人にもわかっていない。
私は息を吐いた。
「じゃあ、今は考えてもわからないね」
「うん」
オトが少しだけ真面目な顔で言った。
「でも、覚えておいたほうがいいですね」
「そうだね」
私は頷く。
「落ちる前に」
「うん」
エラも頷いた。
少しだけ真面目な顔だった。
その後、私たちはまた歩き出した。
空を飛ぶ話は、そこで一度止まった。
答えは出なかった。
でも、答えが出ないまま残る話というのは、旅の中にはいくつもある。
今はまだ、そういうものなのだと思うしかなかった。
夕暮れになる頃、私たちは街道から少し外れた場所で野営することにした。
近くに小さな林があり、風も防げそうだった。
水場も少し歩けばある。
火を起こし、荷物を下ろす。
オトは枯れ枝を集めに行き、エラは周囲を見回っていた。
もちろん、クロとシロを使う機会がないか探しているのだと思う。
「何もいなかった」
戻ってきたエラが、少しだけ残念そうに言った。
「よかったね」
「よかったけど」
「よかったんだよ」
私は鍋を火にかけながら答えた。
今日の食事は、街で買った黒パンと、簡単なスープだった。
干し肉と野菜を少し入れた、旅の途中ではよくある食事だ。
豪華ではない。
でも、温かいものがあるだけでずいぶん違う。
スープが温まるまでの間に、私は黒パンを切ろうとした。
硬かった。
思ったより、かなり硬かった。
私は手持ちの小さなナイフを取り出し、刃を当てる。
ぎり、と嫌な音がした。
切れない。
もう一度力を入れる。
刃が少し滑った。
「……」
私はナイフの刃を見た。
――刃こぼれしている。
昨日から少し気になっていたが、思ったより悪くなっていた。
「エラ」
「なに? 敵?」
エラは少し目を輝かせた。
「この黒パン、硬い。切って」
「パン?」
エラは私の手元の黒パンを見た。
次に、自分の腰のクロとシロを見た。
そして、首を横に振った。
「無理」
「どうして」
エラはクロとシロに手をやる。
「クロとシロの初めての仕事が、パンを切ることになる」
「いいじゃない」
「よくない!」
エラの語気が強くなる。
「パンだよ」
「パンだからだよ」
エラはそっぽを向いた。
――意味がわからない。
オトが水袋を置きながら、こちらを見る。
「どうしました?」
「エラがパンを切ってくれない」
私は訳がわからずオトに漏らした。
その言葉を聞いたエラが、違う方を向いたまま答える。
「クロとシロがかわいそう」
「かわいそう?」
オトが少し困った顔をする。
エラは真剣だった。
「初めてなんだよ。もっとこう、ちゃんとした相手がいい」
「ちゃんとした相手って何」
「モンスターとか」
「出なかったでしょ」
私が返すと、エラは下を見たまま呟く。
「……だから待つ」
「パンは待たない」
私の声が大きくなる。
エラは顔を上げる。
「それに、パンは逃げないじゃん!」
「こっちはお腹空いてるの」
エラはむっとした顔をした。
そして、私の腰のシルベを見る。
「じゃあ、シルベで切ればいいじゃん」
空気が少し止まった。
焚き火の弾ける音がする。
私はゆっくりエラを見た。
「今、何て言った?」
「シルベで切ればいいって」
「レイピアで?」
「うん」
「黒パンを?」
「うん」
ため息が出る。
「切りづらいでしょ」
「クロとシロだってかわいそうだよ」
子供のような理論だ。
私は少し声を落として続けた。
「シルベはかわいそうじゃないの?」
「シルベは大人っぽいから」
「何その理由」
「なんとなく」
「なんとなくでシルベに黒パンを切らせないで」
「じゃあクロとシロにも切らせないで」
だんだん、腹が立ってくる。
私はイライラを抑えられなくなっていた。
「料理用のナイフが切れないから頼んでるの」
「じゃあ、パンをそのまま食べればいい」
「硬いから切りたいの」
「気合いで食べる」
私は、カチカチの黒パンを軽く叩きながらエラに見せる。
「歯が折れる」
「歯はまた生えるじゃん」
「生えないよ」
「じゃあ駄目だ」
エラは口を尖らせて、またそっぽを向いた。
「クロとシロの最初の相手が黒パンなのは嫌」
「相手って言わないで」
少しずつ、声が強くなっていた。
オトが慌てて二人の間に入った。
「まあまあ、二人とも。黒パンで喧嘩しないでください」
「黒パンのせいじゃない。エラの言ってる意味がわからないの」
「クロとシロの問題」
エラはポツリと言う。
「だいたい黒パンのせいですね」
オトはそう言うと、黒パンを手に取った。
「私が手で割ってみます」
「無理だと思う」
私は言った。
「意外と、こういうものは力よりコツですから」
オトは黒パンを両手で持ち、ぐっと力を込めた。
割れない。
もう一度力を込めた。
少し顔が赤くなった。
黒パンは、びくともしなかった。
「……硬いですね」
「だから言った」
オトは今度、膝に当てて割ろうとした。
――やめたほうがいい。
そう思った瞬間、オトのほうが先に諦めた。
「膝が負けそうです」
三人で黒パンを見つめた。
火の上では、スープが静かに湯気を上げている。
夕暮れの空は、赤から紫へ変わり始めていた。
旅の一日は、穏やかに終わろうとしている。
その中心に、切れない黒パンがあった。
エラはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり腰のクロとシロに手を置いた。
「……わかった」
その声は、妙に重かった。
まるで、大きな決断をしたみたいだった。
「エラ?」
エラはクロとシロを抜いた。
黒い握りの曲剣。
白い握りの曲剣。
火の光を受けて、二本の刃が淡く光る。
エラは黒パンの前にしゃがみ込んだ。
そして、二本の曲剣に向かって、真剣な顔で言った。
「クロ。シロ」
――やめてほしい。
「あなたたちの最初の仕事は、パンを切ることです」
本当に、やめてほしい。
私は額に手を当てた。
オトは口元を押さえて震えている。
笑っている。
絶対に笑っている。
エラは気づいていない。
「相手は強いよ」
「パンだよ」
思わず言ってしまった。
エラは私を見た。
「ヨル」
「なに」
「黒パンを甘く見ないで」
「甘くはないと思う」
「そういう意味じゃない」
「わかってる」
エラは黒パンに向き直る。
クロの刃を、そっと黒パンに当てた。
かなり丁寧だった。
たぶん、刃を傷つけたくないのだろう。
それなら、なおさら料理用のナイフを買い直したほうがいい。
エラは息を整えた。
「いくよ」
誰に言っているのかわからない。
黒パンか。
クロか。
シロか。
それとも自分か。
エラはクロに力を込めた。
ぎり。
嫌な音がした。
黒パンは切れなかった。
エラの眉が動く。
「……硬い」
「言ったでしょ」
今度はシロを当てる。
刃を立てる角度を変え、少し力を入れる。
ぎりぎり、とさらに嫌な音がした。
黒パンは、まだ切れない。
エラの顔が少し真剣になった。
「強い」
「だからパンに強いって言わないで」
「これは、たぶん普通のパンじゃない」
「普通の黒パンだよ」
「違う」
エラは断言した。
「これは、黒パンの中でもかなり上位の黒パン」
「上位」
オトが小さく繰り返した。
もう駄目そうだった。
笑いをこらえきれていない。
私はスープをかき混ぜた。
何かしていないと、私も笑ってしまいそうだった。
エラはクロとシロを交互に使いながら、黒パンに挑んでいる。
切るというより、戦っている。
けれど、黒パンはなかなか割れない。
その姿を見ているうちに、私は少しだけ思った。
空を飛ぶ理由はわからない。
見たいと思ったら浮く。
気を抜いたら落ちる。
それが魔法なのか、別の何かなのかもわからない。
でも今、目の前のエラは、黒パン相手に本気で悩んでいる。
大切な剣の最初の仕事がパンを切ることになって、真剣に困っている。
そういうところは、何も変わらない。
変わらないまま、少しずつ変わっている。
「エラ」
「なに?」
「貸して」
「え」
「クロじゃなくて、黒パン」
エラは少し迷ったあと、黒パンを私に渡した。
私は黒パンを布で包み、近くの石の上に置いた。
それから、少し体重をかける。
ばき、と鈍い音がした。
黒パンが、ようやく二つに割れた。
エラとオトが、同時に声を上げた。
「あ」
「あ」
私は割れた黒パンを見た。
切れてはいない。
割れた。
でも、食べられる大きさにはなった。
「こうすればよかったんだ」
エラが呟く。
「最初からね」
私は答えた。
「クロとシロは?」
「使わなくてよかった」
「初仕事は?」
「次でいい」
エラは少しだけ考えた。
それから、クロとシロを見た。
「……今日は見学」
「そうして」
エラは二本の曲剣を丁寧に布で拭いてから、鞘に収めた。
「よかったですね。クロさん、シロさん」
オトが言った。
「初仕事が黒パンではなくなりました」
「うん」
エラは満足そうに頷いた。
「でも、黒パンは強かった」
「まだ言うんだ」
私は呆れながら、割れた黒パンをスープの横に並べた。
硬い黒パンも、スープに浸せば少しは食べやすくなる。
夕暮れは、もう夜に変わり始めていた。
火の音が小さく鳴る。
遠くで鳥の声が聞こえた。
今日、敵は出なかった。
モンスターも、盗賊も、怪しい影も出なかった。
エラの新しい剣は、まだ何も斬っていない。
それでも、エラはどこか満足そうだった。
クロとシロは腰に戻り、黒パンはスープに沈んでいる。
私はそれを見ながら、少しだけ笑った。
もしかすると。
黒パンは、これまでで一番の強敵なのかもしれない。

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