イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第三十七話 試される客
酒場のあちこちで、感心したような口笛が鳴った。
「ほう」
ローズが、片眉を上げる。

エラとヨル 第三十七話
【試される客】
オトは空になったジョッキを静かに置いた。
「悪くありませんね」
「言うじゃないかい」
ローズも自分の杯を持ち上げ、一息で飲み切る。
喉を鳴らす音まで、妙に堂々としていた。
周囲の客たちが面白がるように笑う。
けれど、その目はただの見物人のものではなかった。
誰もが、ローズの機嫌と、この勝負の行く先を見ていた。
二杯目、三杯目と酒が運ばれる。
オトは崩れない。
いつもの柔らかな笑みのまま、杯を受け取り、丁寧に飲んでいく。
対するローズは、飲むたびに機嫌が良くなっていくようだった。
豪快で、乱暴で、それでいてまったく隙がない。
「へえ。見た目よりやるね、吟遊詩人」
「旅芸人は喉が資本ですから」
「酒焼けしそうな理屈だ」
笑いが起こる。
私はそのやりとりを見ながら、少しだけ息をついた。
最初はどうなることかと思ったけれど、このままなら本当にただの飲み比べで終わるのかもしれない。
そう思った時だった。
隣でエラが、ふと表情を消した。
「ヨル」
小さな声だった。
でも、その声を聞いた瞬間、私の背筋が伸びる。
「……なに」
「外」
それだけで十分だった。
腰のシルベが、またヒン、と鳴る。
今度はさっきより、はっきりと。
私は息を呑んだ。
酒場の喧騒の向こう。
扉の隙間から、妙な音が聞こえた。
ざり、ざり、と。
砂を大きく掻くような音。
それがひとつじゃない。
「……何か来る」
私がそう言った瞬間、店の外から悲鳴が上がった。
「魔物だ!」
酒場の空気が、一気にひっくり返る。
客たちが立ち上がり、椅子が倒れ、誰かが舌打ちをする。
次の瞬間、半開きだった扉が勢いよく弾け飛んだ。
砂煙と一緒に飛び込んできたのは、巨大な四足の獣だった。
トカゲみたいに低い体。
けれど背中には岩みたいな瘤がいくつも生え、口元からは熱い息が漏れている。
赤い目がぎらぎらと光り、砂に濡れた牙がむき出しだった。
「サンドファングか!」
誰かが叫ぶ。
一匹じゃない。
外にもまだいる。
足音と、建物を引っかく音が、いくつも重なっていた。
「っ、オト!」
振り向くと、オトは四杯目の途中だった。
顔色はまだ崩れていない。けれど、すぐに動ける状態でもない。
「大丈夫です、たぶん」
「たぶんって!」
エラはもう笑っていなかった。
抜いたクロとシロが、ほとんど同時に光る。
「ヨル、右!」
言われるより早く、私は飛び出していた。
酒場の中に飛び込んできた一匹が、近くの男に食らいつこうと首を伸ばす。
シルベを抜き、踏み込む。
速い。
でも、夜じゃない。
あの時みたいな共鳴は来ない。
だから、目で見るしかない。
噛みつこうとする首筋へ、突きを入れる。
浅い。
硬い鱗が刃を滑らせ、獣が苛立ったように唸る。
次の瞬間、その横から黒い斬撃みたいにエラが飛び込んだ。
「遅い!」
クロが前脚を裂き、シロが喉元へ走る。
血が散り、巨体が傾く。
私は倒れ込むようにその脇を抜け、もう一度突いた。
今度は口の奥。
柔らかい場所に刃が入り、獣がひっくり返る。
ーーよし!
そう思った時には、外からさらに大きな衝撃音が響いた。
酒場の壁が震える。
「まだいる!」
誰かの叫びに、エラが舌打ちした。
「ヨル、外行くよ!」
「うん!」
外へ出た瞬間、熱風が顔に叩きつけてきた。
通りはすでに半分パニックだった。
荷車が倒れ、獣よけ用だったらしい柵が壊れ、砂煙の向こうで巨大な影が動いている。
三匹。
いや、四匹。
井戸の方へ向かっている。
「あれ、水場を狙ってる……!」
旅人と獣が集まる場所だ。
水があるからこそ、この街は成り立っている。
そこを壊されたら終わる。
「エラ!」
「わかってる!」
エラが砂を蹴る。
そのまま、ありえない高さまで跳んだ。
昼の光の下なのに、一瞬だけ本当に浮いたみたいに見えた。
上から振り下ろされたシロが、一匹の背中を叩き割る。
地面に落ちたエラはその反動を殺しもしないまま身体をひねり、次の一匹へ向かう。
私は井戸に近い一匹へ走った。
ーー怖い。
でも、足は止まらない。
獣がこちらを向く。
低く唸り、砂を蹴って突っ込んでくる。
速い。
正面からは無理。
私は身を捻って横へ逃がし、その脚の動きを見る。
前、前、重い、でも右脚が少し遅い。
ーーそこだ。
シルベを低く走らせる。
脚の付け根。
浅い。
けれど、体勢が崩れる。
その瞬間、井戸の縁から白い光が弾けた。
「輪郭を出します!」
オトだった。
いつの間に外に出ていたのか、少しふらつきながらも弦を鳴らしている。
白いミニアが獣の輪郭を浮かび上がらせ、砂煙の中でも動きが見えた。
「オト、無理しないで!」
「してます!」
叫びながら、もう一音。
その隙に、私は獣の首元へ踏み込んだ。
シルベが喉を裂く。
熱い血が砂に落ち、じゅっと音を立てた。
残る一匹は、井戸のそばで暴れていた。
旅人の荷を積んだ車に噛みつき、木箱を叩き壊している。
その向こうには、子どもを抱えた女が動けずにいた。
間に合わない。
そう思った瞬間、重い影が横からぶつかった。
ローズだった。
片手で長柄の斧みたいな武器を振り抜き、獣の横面を殴り飛ばす。
その一撃だけで、巨体が大きくよろめいた。
「何ぼさっとしてんだい!」
怒鳴り声が、通り中に響く。
「あたしの街の水場を壊されてたまるか!」
ローズはそのまま獣の前へ踏み込み、正面から睨みつけた。
獣が唸る。
けれど、怯んだのはむしろ魔物の方だった。
すごい、と思った。
強いだけじゃない。
あの人は、本当にこの場の中心なんだ。
「紫の嬢ちゃん!」
ローズが叫ぶ。
「仕留めな!」
「言われなくても!」
エラが笑った。
次の瞬間、紫の髪が灼熱の空気を裂く。
ローズの一撃で首を振らされた獣の懐に潜り込み、クロで顎を跳ね上げ、シロで首筋を断つ。
血が弧を描き、最後の一匹が崩れ落ちた。
静かになった。
いや、静かになったというより、ようやく街の音が戻ってきた。
荒い息と泣き声が混じる。
倒れた荷を直す音が聞こえる。
遠くで鳴く獣の声だけが、響いていた。
私はその場で肩を上下させながら、シルベを握り直した。
手が少し震えている。
エラはいつも通りみたいな顔で剣を払う。
でも、額には汗がにじんでいた。
オトは樽の陰に腰を下ろし、片手で頭を押さえている。
「……勝負の最中に戦うのは反則では?」
「飲みながら出てきた時点で、あんたの負けだよ」
ローズが言った。
「うっ」
「でも」
ローズはそこで言葉を切り、壊れた通りと、倒れた魔物、それから私たちを順に見た。
眼帯のない方の目が、細くなる。
「こっちも、条件付きで負けだね」
「条件?」
エラが首をかしげる。
ローズは鼻で笑った。
「あたしは、交渉の席についた客を試してた。けど、街を守るために使える連中なら、酒代なんかよりよっぽど価値がある」
通りにいた男たちが、少し驚いたようにローズを見る。
どうやら、その言葉は軽くないらしい。
「ルーベントに行きたいんだったね」
ローズが言う。
「連れてってやるよ。ただしタダじゃない」
ーーやっぱりそう来る。
私は身構えたが、ローズはにやりと笑った。
「酒代の代わりだ。次の商隊の護衛をやりな。ちょうどルーベントへ向かう隊が出るところだったんだ」
「いいよ」
エラがすぐに答える。
「即答かい」
「だって、そのつもりだったでしょ?」
ローズは一瞬だけ黙って、それから大声で笑った。
「ほんとに面白いね、あんた!」
オトがまだ少し赤い顔で手を挙げる。
「確認ですが、それで街の情報もいただけるんですよね」
「もちろんだよ。商人は契約を守る」
「よかった……」
そう言ったオトが、その場で少しぐらりと揺れた。
私は慌てて支える。
「大丈夫!?」
「ええ、たぶん……今から少しだけ世界が回ります」
「全然大丈夫じゃない!」
エラがけらけら笑う。
ローズはそんな私たちを見て、満足そうに頷いた。
「今夜はうちの詰め所に来な。詳しい話をしてやる」
そう言ってから、ふとエラを見た。
「紫の嬢ちゃん。あんたのそのズレ方、嫌いじゃないよ」
エラは不思議そうに瞬きをしてから、いつもの調子で笑う。
「よく言われる」
「褒めてんだよ」
「じゃあ、ありがとう」
そのやりとりを聞きながら、私は深く息を吐いた。
信じられない話ばかりだった。
動く街ルーベント。
砂漠の薔薇。
そして、目の前のローズという女。
でも、地図に載らない場所へ行くなら、たぶんこういう人たちを通るしかないのだと思う。
砂漠の熱は、まだ少しもやわらいでいなかった。
それでも私は、さっきまでよりほんの少しだけ、前に進めた気がしていた。

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