イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第二十話 エラのバカ
ここは居心地が良い。
誰も私を傷つけない。
大切にしてくれる。
いつから、ここにいるのだろう?
昨日からのような気もするし、昔からのような気もする。

エラとヨル 第二十話
【エラのバカ】
朝、目が覚めると、部屋の中はもう暖かかった。
窓の外は白い。
昨夜も雪が降っていたらしい。
扉の前には、湯気の立つスープと焼いたパンが置かれていた。
「使徒様、おはようございます」
扉の向こうから、柔らかい声がする。
「今日は冷えます。どうか、あまり無理はなさらないでください」
「はーい」
そう返してから、私は少しだけ首をかしげた。
無理、と言われても、特にやることはない。
ここに来てから、ずっとそうだった。
食べるものには困らない。
寒さもしのげる。
着るものも、寝る場所もある。
誰も私に働けとは言わない。
何かをしろとも言わない。
ただ、みんな口をそろえて言う。
——使徒様は、そこにいてくださればいいのです。
最初は、そういうものなのかなと思っていた。
思い出せないことが多いから、余計にそうだったのかもしれない。
自分がどこから来たのか。
どうしてここにいるのか。
何をしていたのか。
何も思い出せない。
でも、みんなは迷いなく私を「使徒様」と呼ぶ。
だから、きっとそうなんだろうと思うことにしていた。
部屋には常に守護者のディアがいてくれる。
困ったことがあれば、彼女が叶えてくれた。
彼女は静かで、あまり話をしたがらないけど、どこに行く時も、いつもついて来てくれた。
パンをちぎって、スープに浸す。
少し固いけれど、悪くない。
食べ終えて外へ出ると、すぐに子供たちが駆け寄ってきた。
「使徒様ー!」
「今日も遊んで!」
「昨日の続きしよ!」
私は思わず笑った。
「昨日の続きって、何してたっけ?」
「ひどーい!」
「木のとこまで競争したじゃん!」
「ああ、それか」
言われてみれば、そんなことをしていた気がする。
中庭には雪が少し残っていた。
でも、踏み固められた地面も多い。
子供たちは寒さなんて気にせず、元気に走り回っていた。
「そんなに急いだら転ぶよー」
そう言いながら、私は一番前を走る小さな背中を追いかけた。
不思議だった。
記憶は曖昧なのに、子供といる時だけはあまり考えなくて済む。
何を話せばいいか。
どう笑えばいいか。
そういうことを、わざわざ考えなくていい。
転びそうなら手を伸ばせばいいし、泣きそうなら顔をのぞけばいい。
そういうのは、たぶん昔から知っていた。
「使徒様、見て!」
一人の男の子が、庭の端にある木に登っていた。
「おー、すごいすごい」
「もっと上まで行けるよ!」
「いや、それはやめときなさい」
私が言うより早く、その子は得意げに笑った。
「大丈夫だって!」
その時だった。
枝が、ぱきりと乾いた音を立てた。
「あっ」
短い声。
次の瞬間、その子の体が傾いた。
考えるより先に、私は走っていた。
雪を蹴る。
手を伸ばす。
落ちてきた体を、なんとか抱き止めた。
そのまま勢いを逃がしきれず、私は片膝をついて倒れ込む。
腕に、少しだけ痛みが走った。
でも、それだけだった。
「……大丈夫?」
泣きそうな顔の子供を見上げる。
その子は目を見開いたまま、何度も頷いた。
ーーよかった。
そう思った、その次だった。
「使徒様!」
空気が、急に変わった。
ディアたちが駆け寄ってくる。
誰かが私の腕を見て、息を呑んだ。
「傷が……!」
「なんということを……!」
大人たちが口々に言う。
「下がりなさい!」
ディアの声が響く。
その鋭い声に、助けた子供がびくりと震えた。
「ち、ちが……」
「使徒様に何をさせたんです!」
ディアの鋭い眼差しが、子供に向いた。
私は眉をひそめる。
「いや、別に——」
言いかけた私の前で、子供が泣き出した。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、使徒様……!」
「わざとじゃないの……怒らないで……」
私は一瞬、言葉を失った。
ーー怒る?
ーーなんで、私が?
「怒ってないよ」
すぐにそう言った。
けれど、子供は泣いたままだった。
「ほら、怪我もこれくらいだし。大丈夫だから」
腕の擦り傷を見せる。
本当に、たいした傷じゃない。
「使徒様はお優しい……」
「もう少し気をつけないと……」
大人たちの顔は変わらなかった。
「この子は後で、よく言い聞かせます」
ディアが頭を下げる。
噛み合っていなかった。
助かったのは、この子だ。
私は別に、それでよかったはずなのに。
どうしてみんな、子供が無事だったことより、私の傷ばかり見るんだろう。
「だから、本当に気にしてないって」
そう言ってみても、空気は変わらない。
誰も、私の言葉を聞いていないみたいだった。
聞いているのは、“使徒様”の声だけ。
私の声じゃない。
泣く子供は、別の大人に連れて行かれた。
その背中を見ているうちに、なんだか少しだけ息苦しくなった。
夜には、傷の手当てまで終わっていた。
小さな擦り傷なのに、包帯まで巻かれている。
部屋に戻ると、机の上には温かい飲み物と果物が置かれていた。
まるで病人みたいだ。
「何かあれば、お呼び下さい」
そう言って、ディアは部屋から出た。
私は椅子に座って、包帯の巻かれた腕を見下ろした。
白い布が、やけにきれいだ。
——使徒様は、そこにいてくださればいいのです。
昼間、誰かがそう言っていたのを思い出す。
優しい言葉のはずなのに、どうしてだろう。
少しだけ苦しい。
何もしなくていい。
働かなくていい。
守られていればいい。
そんなふうに言われて、普通なら安心するはずなのに。
私は部屋の中を見回した。
整えられた寝台。
暖炉。
棚。
置かれた本。
不自由は、何もない。
なのに、ここにいると、自分がどんどん軽くなっていく気がした。
ーー私って、こんなに何もしない人だったっけ。
ふと、棚の端に挟まっていた紙が目に入った。
誰かが入れたのか。
最初からあったのか。
それもわからない。
ただ、なぜか気になった。
私は立ち上がって、その紙を引き抜いた。
少し折れた跡のある、古い紙だった。
なんとなく広げる。
そこに描かれていたのは、地図だった。
「……地図?」
思わず、小さく声が漏れる。
どこの地図なのかは、すぐにはわからなかった。
線がいくつも引かれている。
道のようなもの。
山の形。
川の流れ。
でも、不思議だった。
見たことがある気がする。
場所じゃない。
描き方だ。
線の癖。
余白の取り方。
ちょっとした印の付け方。
知らないはずなのに、手が勝手に紙の端をなぞっていた。
胸の奥が、少しだけざわつく。
視線を下へ移すと、余白に小さな文字があった。
"エラとヨル"
その文字を見た瞬間、指が止まる。
エラ。
それは、私の名前だろうか。
たぶん、そうだ。
少なくとも、ここでは誰もそう呼ばないけれど。
ーーじゃあ、ヨルって誰?
何度か心の中で、その名前を繰り返してみる。
ヨル。
知らない名前だった。
知らないはずなのに、胸の奥のどこかが、その音を静かに受け止めた。
紙を裏返す。
その端に、さらに小さな文字が書いてあった。
"エラのバカ"
私はしばらく、その文字を見つめたまま動けなかった。
変な言葉だった。
優しくない。
丁寧でもない。
ここにいる人たちが使う言葉とは、まるで違う。
でも——
どうしてだろう。
その言葉から、目が離せなかった。
まるで、その雑な文字の向こうに、ちゃんと生きている誰かがいるみたいだった。
“使徒様”なんて呼ばない誰か。
私を、私として見ていた誰か。
思い出せない。
顔も。
声も。
どこで会ったのかも。
何ひとつ、思い出せない。
それなのに、地図を持つ手だけが少し震えていた。
こんなふうに書く人を、私は知っている。
そんな気がする。
私は、紙に書かれた名前をもう一度見た。
"エラとヨル"
知らない名前。
でも、どうしてか、その名前を口に出したくなった。
「……ヨル」
静かな部屋の中で、その音だけが小さく落ちる。
知らないはずなのに。
その名前を呼ぶのは、少しだけ寂しかった。

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