イブ物語|判断寓話|エラとヨル|第五十一話 奈落と檻
ニコという名前は、一度奈落に落とされた。
サーシャという名前は、檻の中に閉じ込められた。
サンはその夜、ふたつの名前の話を始めた。

エラとヨル 第五十一話
【奈落と檻】
「昔、ある少女が、パンを盗んで捕まりました」
サンは、ゆっくりと思い出すように語り始めた。
「取り調べもなく、そのまま奈落に落とされたそうです」
「奈落……?」
思わず、私は聞き返した。
「この街にある、ギガントタートルに餌を与えるための場所。街で生まれたゴミが集まる場所です」
サンの声は静かだった。
けれど、その静けさが、かえって重かった。
「ただ、ゴミだけじゃありません。この街には、墓場がないんです」
「それって……!?」
オトが何かに気づいたように息を呑む。
サンは、短く頷いた。
「ええ。死んだ人間も、餌として処理されています」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
――そんな場所が、この街にある?
地図を描くために、いくつもの場所へ行った。
赤砂市場。
乾き喉通り。
継ぎ板街。
中央殻都。
けれど、そんな場所には立ち寄っていない。
見なかった。
知らなかった。
いや、気づかなかっただけなのかもしれない。
私の心が、重く沈んでいく。
隣で、エラが黙ったまま手を握りしめていた。
「そこは、ゴミを集め、餌場に運ぶ場所。食べる物もろくに与えられず、死を待つだけの場所だそうです」
サンが視線を落とす。
わずかに、その肩が震えていた。
「そんな場所に落とされても、彼女は必死に生きました」
誰も、何も言わなかった。
祭りの音は、まだ遠くにあるはずだった。
けれど今は、まるで別の街にいるようだった。
「何年も耐えて、生き残った。けれど、最後には死にかけたそうです」
サンは、そこで一度言葉を切った。
「その時、ある男に拾われました」
――拾われた?
その言葉が、胸に引っかかった。
助けられた、ではない。
救われた、でもない。
拾われた。
まるで、道端に落ちていた道具のように。
「ただ、その男には目的がありました」
サンの声が、少し低くなる。
「彼女には、瓜二つの存在がいました。赤い瞳の総裁の一人娘。サーシャ」
その名前に、エラの肩が小さく揺れた。
サーシャ。
ニコ。
サン。
いくつもの名前が、頭の中で重なっていく。
「男は考えていました。彼女をサーシャと入れ替えることができる、と」
その言葉が、私の心臓を刺した。
そんなことが、実際にできるのか。
それ以上に。
サーシャに瓜二つの存在。
それは、いったい誰なのか。
聞かなくても、もうわかりかけていた。
でも、わかりたくなかった。
「男に拾われた彼女は、それから徹底して教育されたそうです」
サンは顔を上げる。
その赤い瞳には、怒りとも悲しみともつかない光が宿っていた。
「読み書き。立ち振る舞い。教養。命令の聞き方。嘘のつき方」
そして、サンは静かに続けた。
「それから、人の殺し方を」
誰も、口を開けなかった。
その名前を声にしてしまえば、もう戻れない気がした。
「彼女は男に命じられたそうです。サーシャに取り入り、仲良くなり、油断させ、そして殺せと」
サンの赤い瞳が揺れている。
泣いているわけではない。
けれど、その言葉ひとつひとつが、彼女を切りつけているようだった。
「しかも、彼女には弱みがありました。彼女の祖母と、一緒に暮らしていた友人の命です」
エラが、その言葉を聞いて固まる。
歯を食いしばり、怒りに満ちた顔を浮かべていた。
サンは俯き、言葉を探すように続けた。
「彼女とサーシャが出会ったのは、中央殻都の奥にある大きな館でした」
「サーシャの兄たちは、赤い瞳の総裁の座を争い、その中で命を落としていました」
サンは手を握りしめる。
「それを目の当たりにした父が、娘を守るために築いたのは、豪華で何不自由のない、安全な檻でした」
「何も聞かず、何も言わず、何も考えずに済む場所でした。でも、どこにも居場所がない」
サンは顔を上げる。
「そこで初めて、ニコと私は出会いました」
長い沈黙が落ちた。
話を聞きながら、もうわかっていた。
目の前にいる彼女が、ニコではなく、サーシャなのだと。
けれど、その言葉を本人の口から聞いた瞬間、私は何も言えなくなった。
「ニコはどうなったの……」
エラが口を開く。
溢れ落ちた言葉は弱く、懇願にも近い問いだった。
サンは小さく頷く。
「ニコは私専属の使用人として、私の館で暮らしました」
サンの声が、ほんの少しだけやわらいだ。
「ニコは、私にできた初めての友達です。館からは出られませんでした。けれど、館の中では、どこへ行く時も一緒でした」
サンの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「でも、その日は突然来てしまいました。父の……赤い瞳総裁の病の悪化です」
オトが口を押さえている。
黙って聞くことしかできない。
「呼び出された私は、継承の儀……赤い瞳の総裁になるための儀式を受けました」
「お飾りの総裁。赤い瞳の象徴として置かれた者。それが私でした」
サンの瞳は揺れていなかった。
ただ、その赤い瞳は、いつもより濃く感じた。
「その夜、全てに絶望した私は、ニコに言いました。私を殺してほしいと」
サンに視線が集まる。
自分を殺すために近づいて来た相手に、殺してほしいと言う。
矛盾しているはずなのに、その言葉だけは、なぜか胸に残った。
「ニコはその時初めて、全てを打ち明けてくれました」
「私に近づいた目的。ブルースの……ニコを操る男の目的。そして、ニコ自身が逃げ出すために準備をしていたことも」
エラは黙っている。
ただ、次の言葉を待っていた。
「ニコは言いました」
サンは、そこで一度だけ息を止めた。
「あなたを殺す。そして、私も殺す、と」
息が止まった。
けれど、それは本当に殺すという意味ではなかった。
「計画はこうでした」
「私とニコが入れ替わり、ニコを死んだことにする」
「でも、死体袋に入って館の外へ運び出されるのは私です」
「そして、館に残ったニコがサーシャになる。そうすれば、ブルースを止められるかもしれない、と」
信じ難い話だった。
けれど、今までの違和感が、ひとつずつ埋まっていくように感じた。
サンが中央殻都の奥を知っていること。
十二使徒の影の名を、当然のように口にすること。
それらが、今の話を裏付けているように思えた。
「残ったニコは?」
エラは呟く。
その目には、失った何かを探すような色が浮かんでいた。
「最初に聞いていた話では、入れ替わったあと、時期を見て逃げ出すはずでした。けれど、まだサーシャのままのようです」
「ただ、私が街を離れたあと、ブルースが死んだと聞きました。女帝に逆らって処刑されたと、噂話ですが…」
私の中で疑問が浮かぶ。
「じゃあ、さっき現れたのは……?」
サンは私を見つめ返して言う。
「あれはニコじゃありません。十二使徒の影。第七席。ラヴァーズ」
「変装と擬態の達人です。初めはラヴァーズとは気付けませんでした」
サンは顔の仮面に手を伸ばすが、止める。
「総裁の姿を勝手に使うなど、本来あり得ません。ましてルーベントの中であれば、反逆と取られてもおかしくありませんから」
サンも困惑の表情を浮かべている。
「じゃあ、あの人は……サーシャの顔を盗んでいるんですね」
オトの声が、いつになく低かった。
サンが軽く腰の剣に触れる。
「ええ。だから、最初に見たときは、頭に血が昇ってしまいました」
十二使徒の影。
それぞれが役割の名前を持つ、異能の存在。
それをまとめる女帝サーシャ。
サンの話を聞くにつけ、名前が、あまりにも多すぎる。
サンはサーシャで、ニコと名乗っていた。
女帝サーシャはニコで、サーシャと名乗っている。
今夜現れたのは、女帝サーシャの姿を真似たラヴァーズ。
頭で整理しても、理解が追いつかない。
整理すればするほど、胸の奥が冷えていく。
名前が多いのではない。
どの名前も、誰かに奪われているのだ。
「妹さんて言ってましたが……」
ようやく、オトが口を開いた。
サンは腰のポーチから、小さな手帳を取り出す。
ボロボロで古びた手帳を、私たちの前に差し出した。
「これは、祖母の手帳です」
サンは、古びた表紙を指でなぞった。
「これを手に入れたのは、つい最近です」
手帳を見つめるサンの目が優しくなる。
「ただ、決心がつきました」
「私とニコが双子で生まれたこと。跡目争いを見た祖母が、ニコを内密に連れ出したこと。全部、ここに書かれています」
サンはそう言うと、ゆっくりと手帳を開く。
日記のようだった。
ところどころ破れていて、読めないところがある。
けれど、サンが指差したページには、その事実が書かれていた。
私は息を呑む。
「じゃあ、サンの言った忘れ物って……」
サンは優しく微笑みながら答えた。
「妹にニコの名前を返し、サーシャの名前を取り返します」
そう言うと、サンは髪を指で擦った。
黒く染められていた髪の一部分が、ゆっくりと本来の色を取り戻していく。
黒とは違う。
透き通るような、青だった。

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