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余白を生きる人達で社会を弾ませてみる(連載コラム/第一章)

個の主体性を侵さないコミュニティのあり方

十数年前から、人と人とのつながりにおいて「コミュニティ」という言葉が盛んに語られるようになった。

とりわけ、リアルな接点が減少したコロナ禍を経て、その価値は一層強調されて「これからはコミュニティ運営が肝だ」といった言葉を耳にする機会も増えた。

ところが、こうした潮流のなかで「そもそもコミュニティとはどうあるべきか」という根本的な問いが、やや置き去りにされてはいないだろうか。

そしてもう一つ、私は以前から、本来のコミュニティのあり方は、子どもの主体性が育まれる土壌づくりの本質と、どこか深く似ているのではないかと感じてきた。

この二つの問いを手繰り寄せながら、自分なりに考えを整理してみたい。

有機的なコミュニティとは

「長く機能し続けるコミュニティとは何か?」

この問いに向き合うとき、私は「場の存続」よりも「そこにいる一人ひとりの主体」こそが本質なのではないかといつも感じている。

舞台と主役で喩えるなら、主役はあくまで参加者一人ひとりであり、コミュニティは「主役が活きるための舞台」にすぎない。

どれほど魅力的な場であっても、舞台そのものが主役になってしまえば、そこには少しずつ無理が生じていく。

そう考えると、コミュニティは「存続させるために貢献しなければならない場」ではなく「個が自分らしくいられた結果として、自然と続いていく場」であるほうが、よほど健やかではないだろうか。

しかし現実には「この場にとって役に立つ自分でいなければならない」という、無意識のプレッシャーが生まれてしまうことも少なくない。

本来は「ここに居場所がある」という安心から始まったはずの関係が、いつの間にか「ここで価値を示し続けなければならない」という承認欲求への依存構造へとすり替わり、個の自由を静かに縛っていく。

そんな空気を、私自身、何度となく感じてきた。

コミュニティ・マーケティングへの違和感

近年よく耳にする「コミュニティ・マーケティング」という言葉にも、私はときおり理想と現実のズレを覚える。

本来それは、新しい価値との向き合い方を探り、顧客や仲間との関係性を丁寧に育てていく営みであるはずだ。

しかし実態としては、従来のマスマーケティングを細分化したにすぎず、関係性そのものを収益装置に組み込んでいるように見える場面もある。

もちろん、すべての営利活動や運営、コミュニティマネージャーの取り組みを否定したいわけではない。

実際、私の身近には、顧客一人ひとりの主体性に丁寧に寄り添い、その人ならではの可能性を引き出すためにコミュニティを活かしている事業者もいる。
そこでは運営そのものが目的になることはなく、コミュニティはあくまで「個が自分の人生をより豊かにするための土壌」として機能している。

両者の違いは、「コミュニティをどう成長させるか」ではなく、「個の主体性をどこまで守ろうとしているか」にあるのではないかと思われる。

会社・宗教・コミュニティの違い

仲間とともに同じ未来を築くという文脈では「会社」という器が大きな力を発揮する。
一方で、同じ価値観への依存が過度になると、そこにはときに「宗教」にも似た構造が生まれうる。

それらとは異なり、私にとってのコミュニティとは、似た方向性や問いを共有しながらも、最終的な生き方や意味づけは「個に委ねられている場」であってほしい存在だ。

だからこそ、近年盛んになっているコミュニティ形成の促進や、コミュニティマネージャーの育成が、人を囲い込むための装置ではなく「人を自由にするための支え」として機能してほしいと願っている。

もしコミュニティが、事業者の利益を最大化するための「囲い込み」へと傾いてしまえば、個の主体性が発揮される余地は狭まり、場は人を解放するどころか、静かに縛るものになりかねない。

コミュニティに必要なのは、支配でも放任でもなく「個の主体性を侵食しない設計」こそが、もっとも大切なのではないだろうか。

小中学校のあり方と重なるもの

ここまで整理してきた視点は、小中学校のあり方や、親子関係のあり方にも通じるものがあるように感じている。

盛り上げすぎないこと。
参加を強制しないこと。
貢献を美徳にしすぎないこと。
そして何よりも…
「ここにいなくても、その人の人生は成立する」という前提を守ること。

つまり、コミュニティは、人の人生の中心になる必要はないということだ。
むしろ、中心を奪わず、そっと広がりを与える存在であってほしい。

そんな場こそが、人を弱くするのではなく、気持ちを強くし、個性を磨いていく後押しとなるコミュニティなのだと思う。

学校はコミュニティなのかという議論に踏み込むつもりはない。
ただ「子どもの主体性が育まれる場として、学校がどれだけ有機的であり得るか」という観点から眺めると、私はそこに、コミュニティとよく似た問いを感じずにはいられないのだ。

そのあたりは続編の第二章で深堀してみたい。


【余白を生きる人達で社会を弾ませてみる】連載構成

序 章|「ちゃんと」を少し緩めてみる話を始めます
第1章|個の主体性を侵さないコミュニティのあり方(本稿)
第2章|学校というコミュニティと子どもの主体性
第3章|家庭という「最初のコミュニティ」を問い直す
第4章|奪いたくないのに余白を奪ってしまう親の葛藤
最終章|自分の人生を生きる親が子どもを自由にする

Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳

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