余白を生きる人達で社会を弾ませてみる(連載コラム/序章)
「ちゃんと」を少し緩めてみる話を始めます
人と関わるというのは、思っている以上に繊細な営みだと思う。
支えたい。
助けたい。
導きたい。
その「よかれと思って」という気持ちの裏側には、やさしさだけでなく、不安や期待、そして無意識の願いが入り混じっている。
ところが本当に大切なのは、その善意が、いつの間にか相手の「選ぶ力」や「迷う権利」を奪ってしまっているかもしれない、という事実だ。
そんな瞬間は、私たちが想像している以上に日常のあちこちに潜んでいる。
家庭で、職場で、学校で、地域で、私たちは日々、さまざまな関係性のなかで生きている。
そして知らず知らずのうちに…
正しくあってほしい/失敗してほしくない/遠回りさせたくない/ちゃんとしていてほしい…
そんな「願い」を、相手の人生の上に重ねてしまうことがある。
厄介なのは、その気持ちを相手に気づいてもらえないと、かえって意固地になり、相手を「そうさせよう」とすることに執着してしまうことさえあるということだ。
「ちゃんとした親でいなければならない」
「ちゃんとした会社員でいなければならない」
「こちらはちゃんとしているんだから相手もちゃんとしてもわらないと」
そう自分を律してきた人ほど、本当はもう少し力を抜いても良いのだろう。
なぜなら、知らないうちに「余白を持つこと」を、自分にも、身近な誰かにも許せなくなっている可能性が高いからだ。
この連載はもともと「コミュニティのあり方」を考えることから始まった。
どうすれば、人が自分らしくいられる場をつくれるのか。
どうすれば、誰かをコントロールせずに、共に生きられるのか。
考えを深めるうちに、その問いは自然と学校へ、家庭へ、そして親子関係へ と近づいていった。
それは、書いている間にテーマが変わったのではない。
「主体性を尊重する関係性」という問いが、もっとも純粋な形で現れる場所が、そこだったのだと思う。
そこで浮かび上がってきたキーワードが「余白を持つ」ということだった。それが何を意味するのかは、本編で少しずつ紐解いていきたい。
子どもをどう育てるか。
部下をどう導くか。
人をどう動かすか。
いずれの場面でも、それらの前に、静かに問い直してみたい。
「私たちは、どこまで他人の人生を信じられているだろうか?」
もしかすると、主体性とは「育てるもの」ではなく、本来そこにある「選ぶ力を奪わずに守るもの」なのかもしれない。
この連載は、コミュニティの話であり、教育や子育ての話であり、そして何より「自分自身の生き方」を見つめ直す旅でもある。
誰かを正しく導くためではなく、誰かを思い通りに動かすためでもなく…
人が、自分の人生を自分の足で歩き続けられる関係性とは何か?
その問いを、やさしく抱えながら読み進めてもらえたら嬉しい。
気になる章だけを拾い読みしてもらっても構わない。
それだけでも、充分に意味があると思っている。
身近な誰かとの対話のきっかけになったり、自分自身への問いに立ち返る時間が生まれたりしたなら、これ以上の喜びはない。
家庭での親としてのあり方
職場での上司・同僚としてのあり方
地域や社会との関わり方
「これは自分たちの話かもしれない」
どこか一つでもそう感じてもらえたなら、日常の対話にそっと持ち帰ってもらえたら幸いだ。
胸の奥にしまい込んでいた思いを、ひとりで抱え込まずに、そうした対話の機会で言葉にしてみてほしい。
きっと誰の人生にも「余白」はまだ残っている。
【余白を生きる人達で社会を弾ませてみる】連載構成
序 章|「ちゃんと」を少し緩めてみる話を始めます(本稿)
第1章|個の主体性を侵さないコミュニティのあり方
第2章|学校というコミュニティと子どもの主体性
第3章|家庭という「最初のコミュニティ」を問い直す
第4章|奪いたくないのに余白を奪ってしまう親の葛藤
最終章|自分の人生を生きる親が子どもを自由にする
Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳
