見出し画像

余白を生きる人達で社会を弾ませてみる(連載コラム/第二章)

学校というコミュニティと子どもの主体性

前回のコラム(第一章)では、コミュニティのあり方について「個の主体性を侵食しない設計」という視点から整理してみた。

この考え方は、大人の場だけに限らず、小中学校という「子どもが長い時間を過ごす環境」にも、そのまま重ね合わせられるように感じている。

主体性は「育てるもの」ではなく「守るもの」

子どもの主体性というと「自主性を育てる」「自分で考える力を伸ばす」「主体的な学びを促す」といった言葉が並びがちだ。

けれど私は、そもそも子どもは、すでに充分すぎるほど主体的なのではないかと思う。

何に興味を持つか、どんな遊びを選ぶか、どう感じてどう表現するか…
子どもは本来「選び」「試し」「意味づける」存在だ。

それにもかかわらず、正解を先回りして与えられ、失敗を過剰に避けさせられ、評価や点数で行動を調整される。
こうした積み重ねによって、主体性は育つ前に、少しずつ削られていくことがある。

もしかすると主体性とは、新しく植え付ける力ではなく「もともとあるものを奪わない姿勢」によって保たれるものなのかもしれない。

学校も「舞台」に徹しきれているか

前回、私はコミュニティを「主役は一人ひとりであり、場は舞台にすぎない」と表現した。
この構図は、学校にもそのまま当てはまるのではないだろうか。

本来、主役は「子ども」、学校は「舞台」、教師は「支え役」であるはず。

ところが現実には、カリキュラムや評価制度、校則や管理といった「システムが主役になってしまう瞬間」があるようにも思える。

その結果、子どもが「学ぶ存在」ではなく「管理される対象」へとすり替わってしまう場面も生まれる。

学校もまた「秩序のために子どもが適応させられる場」ではなく「子どもが自分らしく育った結果として秩序が生まれる場」であるほうが、よほど有機的なのではないだろうか。

「よい子」であることが、主体性を削るとき

子どもは往々にして「先生に褒められる」「叱られない」「空気を乱さない」といった「よい子」であろうとする。

それ自体は尊い姿勢だ。
しかし、もし「自分の気持ちを抑えることが正しさになる構造」が強まっていくとしたら、少し心配になる。

  • 本当は嫌なのに「大丈夫」と言う

  • やりたくないのに「やりたい」と言う

  • 疑問があるのに「黙って従う」

こうして「外側の期待に合わせる力」だけが伸びていくと、主体性は「協調性」という名前で覆い隠されていく

主体性とは、わがままでも反抗でもない。
「自分の感覚を裏切らない力」ではないだろうか。

私は、小中学校時代の通知表に「協調性が足りない」と書かれ続けていた。

それでも、自分の感覚を裏切りたくなかったことを、親がどこかで察してくれていたおかげで、その点を親に責められることはなかった。あの経験は、いま振り返っても、私の主体性を支えてくれた大切な記憶の一つだ。

教育に必要なのは「正しさ」より「余白」

学校教育はどうしても「正解」「効率」「再現性」を重視しやすい。

ところが、主体性が育まれるのは「迷い」「寄り道」「無駄」「失敗」の繰り返しの中ではないかと強く思う。

すぐに答えを与えるのではなく、すぐに評価を下すのでもなく、子ども自身が「どうしたいか」「どう感じたか」を考え続けられる余白を残すこと。

これは、前回コラムでも示したコミュニティ運営において「盛り上げすぎない」「参加を強制しない」といった姿勢とも、よく似ている。

「指導」よりも「環境づくり」という発想

主体性は、指示や指導によって生まれるというより「安心して選べる環境」のなかで自然と育っていくもののように思う。

  • 失敗しても否定されない

  • 意見を言っても笑われない

  • 参加しなくても排除されない

こうした環境は「何をさせるか」よりも「何を強制しないか」によって形づくられていく。

まさにこれは「個の主体性を侵食しない設計」というコミュニティの話と深く重なっている。

「導かれること」より「信じられること」

大人はつい…

正しい道を示したくなる
失敗を防ぎたくなる
先回りして助けたくなる

しかし、子どもにとって本当に力になるのは「正解を教えられること」よりも「自分で選んでよいと信じてもらえること」ではないだろうか。

それは放任とは違う。
見守りながら、関わりながら、それでも「選ぶ権利」を奪わない姿勢だ。

子どもを信じるというのは、実のところ大きな勇気を要する。
だからこそ難しい。
それでも、導いてしまうことが「選ぶ権利を奪うこと」になりかねないことは、常に胸に留めておきたい。

学校は「子どもの人生の中心」でなくていい

コミュニティと同じように、学校もまた、子どもの人生の中心になる必要はない。むしろ、人生の中心を奪わずに、そっと広がりを与える場所であってほしい。

もし学校が「子どもの価値を決める場所」「将来を固定する場所」「可能性を選別する場所」になってしまうとしたら、それは主体性を育てる場というより、可能性を狭める場になってしまうだろう。

コミュニティにも、学校にも、共通して求められているのは、「人を思い通りに動かす力」ではなく「人が自分の力で立ち続けられる余白」なのかもしれない。

  • 場が主役になるのではなく、人が主役であり続けること

  • 管理することより、信じて任せること

  • 導くことより、奪わないこと

そんな環境のなかでこそ、子どもも大人も「誰かの期待のための人生」ではなく「自分の納得のいく人生」を歩んでいけるのではないだろうか。

自分から進んで引き受ける苦労なら、そこには納得と成長が宿る。
けれど、人から与えられた苦労ばかりが続けば、いつしか「誰かの期待に応えるための人生」「見返りばかりを求める生き方」へと傾いてしまうかもしれない。

だからこそ私は「教え込むこと」よりも「奪わないこと」を大切にする大人たちが増えることを切に願っている。


【余白を生きる人達で社会を弾ませてみる】連載構成

序 章|「ちゃんと」を少し緩めてみる話を始めます
第1章|個の主体性を侵さないコミュニティのあり方
第2章|学校というコミュニティと子どもの主体性(本稿)
第3章|家庭という「最初のコミュニティ」を問い直す
第4章|奪いたくないのに余白を奪ってしまう親の葛藤
最終章|自分の人生を生きる親が子どもを自由にする

Backstage,Inc.
文化形成デザイナー
河合 義徳

#キレイゴト上等
#勝ち組より価値組
#ロックな仕事観
#がんばり方を間違えない
#ジブンスイッチ

いいなと思ったら応援しよう!