『すくい』 終章 通過点の街 ─ 著者・リラ(36)
生活実用書の著者「リラ」と本作りの物語。
海辺のベンチ
「いってきまーす」
淡い紫色のランドセルが、扉の向こうに消えていく。
「いってらっしゃい……」
語尾があくびで溶けていく。
わたしはパジャマ姿でぼさぼさの髪の毛のまま、娘を見送った。目がうまく開かない。
「あ、ママ!」
出て行ったはずの咲羅が、ひょっこりと顔を出した。
「ハムチーズサンド、作っておいたからね。パパと食べな」
ハーフパンツから伸びる足に、ふくふくしていたころの面影はもうなかった。ドアが閉まるすこし前、背景の庭に淡いピンク色の靄がかかっているように見えた。
年々少しずつ、開花が早まっているような気がする。
フルタイムで働きながら、なんとか細々と執筆も続けている。
夜にしか書けないものだから、朝型の娘の生活に合わせるのがむずかしく、なかなか起きられない。
小学生になった娘は、自分でたべたいものを用意するようになっていた。
パン、シリアル、冷たいお茶漬け、バナナ、パウチのフルーツ、味付きの豆乳……。たくさん用意してある火も包丁も使わず食べられるものから、その日の気分で選んでいる。
冷蔵庫に作り置きの野菜おかずもたっぷり入れているものの、そこに手がつけられたようすはない。
きょうなんて、わたしや柊介の分のサンドイッチまで用意されていた。
あの子は料理が好きなのだ。そばについてあげられるときなら、ひとりでカレーでもオムライスでも作ってしまう。
こんなの、母親らしくなくていけないことだろうか? ──顔も知らないだれかに叱られそうな朝ごはんのことは、家族だけの、ひみつ。
三十路に入ったころから、わたしは、すこしずつ ”ずるさ” を覚えはじめていた。
誠実でありたいという姿勢は変わらない。
でも、あえて書かないこともあっていいと思えるようになってきた。
きょうは有給を取っている。
身じたくを終え、バッグにICカードを付けていたら、ちょうど起きてきた柊介が「乗せていこうか?」と訊いた。わたしは首を振る。
「きょうはやっぱり、電車で行きたい」
本に出会うあの感覚を、いくつになっても求めていた。
「ああでも、咲羅がせっかくサンドイッチ作ってくれたからさ、外で食べない?」
「いいね」
吹きつけてくる風が、せっかくセットした髪の毛を、メデューサみたいにくねくねと乱してしまう。ここ、外ヶ浜町蟹田地区は、風の町と呼ばれている。
その名にふさわしい、すこし風の強い朝だった。
ざ、ざ……と波が寄せては引いていくのを眺めていた。打ち寄せる波が、砂のうえに白い縁取りを残してすぐ消えていく。
マヨネーズがたっぷり塗られたパンに、ハムとチーズが挟まっていた。ふたりでもくもくと食べる。おいしい。
木陰に置かれたベンチに座っていると、風がびゅうびゅう吹きつけてきて寒かった。
マウンテンパーカーの前を合わせるわたしの肩に、自分の上着をかぶせると、柊介は「晩ごはん、なににしようか」と訊いた。
「辛いのたべたい。……って、言いそうじゃない? 純豆腐がいいな。わたし、つくるよ」
鼻を啜りながら答えた。
「じゃあ俺はナムルと、チュモッパ担当で」
「咲羅が『ずるーい』っていうんじゃない? ナムルはあのこに任せてもいいかも」
いつからか夕飯をふたりで作るのが日課になった。
ちょうどいい役割分担をずっと模索してきたけれど、いっしょに台所に立つのは良い方法だった。
ふたりでも狭くないキッチンがほしくて、ついに実家の離れを出たのは、昨年のことだ。
この間に父が亡くなり、ほかに兄弟もおらず、わたしが社長になってしまった。
もう少し街寄りの場所へ引っ越して、家を建てた。離れを出ることを母が寂しがっていたので、週に1度は3人で顔を見せるようにしている。
蟹田駅まで、柊介が車で送ってくれた。
「行き先は同じなのに、変な感じだな」
そう言って笑い合い、わたしたちは別れた。
車を降りたころ、電車がすべり込んでくるのが見えた。これをのがせば次は二時間後。わたしは改札をくぐって、走る──。……間に合った。
空っぽの車内に、ひとり、またひとりと人が乗り込んでいく。わたしも続く。
高校生のころは、乗り込むころにはすでに学生やスーツ姿の大人がたくさん乗っていたのに。
津軽線の蟹田より先の路線は、数年前の大雨で被災して、今もずっと運休したまま。
通過点だったこの駅が、いまは始発駅のような立ち位置になっている。そのことに、座席に腰かけてから、ようやく気がついた。
青森にもどってから何年も経ち、いろいろなことが変わっていた。
列車が走り出す。わたしが無事に乗れたのを確認して、柊介のセレナも動き出すのが見えた。
青森駅に到着した。
外ヶ浜町は晴れていたけれど、薄曇りの空からさらさらと雨が落ちてくる。
柊介も、そろそろ着くころだろうか。
電車でも車でも、所要時間はたいして変わらない。人の波に流されるようにして駅から押し出される。
ガラス張りのビルに、まだ開業前のホテル。真新しい案内板──。
高校生のころプリクラを撮ったり服を買ったりしていた建物は市役所の庁舎になっている。
駅前広場の雰囲気もまた、わたしが高校生だったころと比べると、すっかり変わっている。
街全体が、記憶の中とは別の場所になっていることが、何度来ても、不思議だ。うつくしく生まれ変わった街は便利なはずなのに、込み上げてくるかすかな寂しさを飲み込むように、足が速まる。
どこかくすんだ青森の空を見上げるうちに、開店時間が迫っていた。
気づけば小走りになっていた。
胸がつかえるように、苦しくなる。
スピードを落とし、息を整える──それでも、肩の上下はしばらく止まらなかった。
しんまち商店街
成田本店に着いた。シャッターが開くまで、あと10分。
待ちきれなかった。もう準備は始まっているのだろう。
そのすき間からわずかに光が漏れていた。
がらがらと小気味いい音が響いて、シャッターが開いた。
開店前から立っているわたしを見て、赤いめがねをかけた女性店員──佐城真央はくすりと笑った。
「リラ先生、早すぎません? お入りになりますか?」
わたしは首をぶんぶんとふる。
「ちょっとずるいかなって思うから。だいじょうぶです。待ちます。メールとか見ておきます!」
「そういえば、きょうは柊介さんおやすみでしたっけ」
「いえ、そろそろ出社すると思いますよ。……まいにち楽しそうでよかったです」
手持ち無沙汰になって、SNSを開く。
封筒型のアイコンが赤く光っている。DMを開くのは、今でも怖い。
ごくりと息を飲みながらタップして安堵した。
「……なんだ、凌くんか」
そこには『もうすぐ新青森ー!』と、自撮り写真が添付されていた。
何度目でも、この緊張感は変わらない。
わたしはいま、夢見ていた瞬間をふたたび迎えようとしていた。
静かに響く雨音が、アーケードの屋根に当たって鈴みたいな綺麗な音を立てていた。道路を行き交う車は、煙っているみたいに白い。
しんまち商店街は、900メートル近く続いているのだけれど、アーケードで覆われており、雨からは守られていた。
それでもやはり、肌寒い。くしゃみがこぼれた。
「もう入られてもだいじょうぶですよ」
後ろから声をかけられた。
「あ、すみません……」
まだシャッターが残っている店の中へ、すべるように足を踏み入れた。たぶん、午前10時よりも数秒早かった。
煌々と白い光に満たされた書店の中に、わたし以外の客はだれもいない。
世界の輪郭がくっきりと見えた。
ふいに、足元がたしかになる。目的の場所へ急ぐ。生活実用書。暮らしの本。家事の本。きっとここだ。
──あれ、ない?
棚に差し込まれた本の背表紙を、触れずにするするとなぞる。左から右へ。右から左へ。愕然とする。
「こちらです」
真央が、入口に案内してくれる。
そこには《青森出身作家さま! リラ先生特設コーナー》と書かれ、手作りのポップとともに、わたしのこれまでの著書がずらりと並んでいた。
「目の前を先ほど通られましたのに」
彼女はくつくつと笑う。
最新刊は、夏目とつくった。ブログと同じ『暮らしの錬金術』というタイトル。
リラの花の色のような、淡い紫色の表紙。そこに映っているのは、──たしかにわたしの後ろ姿だ。
「……リ、ラ」
水面を掬うように、そっと著者名をなぞる。
願わくばこの本が、だれかの”運命の一冊”になりますように──。そんな祈りを抱えたまま、はじめの1冊を買い取って、成田本店をあとにした。
眩しい光が目を刺した。
高校時代、通学はたいへんだった。電車が一日に数本しかないからだ。下校時刻によっては長い長い待ち時間が発生する。
そういうときわたしは、駅前のしんまち商店街をぶらぶらと歩いていた。
友だちとプリクラを撮ったり、アイスをたべたりする日もあった。でも、駅からすこし足を伸ばして、成田本店に来ることも多かったように思う。
ただぼうっと背表紙を眺めているだけでも、あっという間に時間が過ぎてしまう。
そういうとき、たまに、運命の一冊に出会うことがある。
なにを買うか決めずに探すことではじめて出会えるそれは、まるでタロットカートでも引くように、自分の運命を静謐に、それでいてはげしく変えていくものなのだ。
ずっと、書くことについて考えている。そうして思った。わたしの”愚直さ”と称されるものはどこから来ているのだろう、と。
たぶん、そういう一冊の積み重ね──絵本だったり児童書だったり、エッセイだったり──から来ているのだろう。
本には、人の生き方を変えるちからがある。
たとえ覚えていなくても、心の底にそっと沈んで、影響を与える可能性がある。
だからわたしはいつでも、あの本を探す時間の感動を味わいたいし、自分がだれかにとって運命の一冊を送り出せていたらうれしい。
夏目が来るまで、まだかなり時間がありそうだ。呼吸を整えながら近場のカフェに入る。
カフェラテを注文して、窓ぎわの席にすわった。パサージュ広場には、見上げるほど高いトウヒの木が佇んでいる。ぽつぽつと雨が降り出し、硝子に水玉もようをつくっていった。
おなかの中がぽっと温かくなったところで、メールを開く。
たくさんあるのでフォルダに仕分けしていく。
ふと、はじめて見る名前の問い合わせがあることに気がついた。
書籍化の打診。胸が高鳴る。
とてもていねいなメールだった。おざなりな感じではなく、熱意のある人だという雰囲気が、文章の端々から感じられた。
「えっ」
思わず声を出してしまい、周りをうかがう。
メールの最後には、こんな追伸が添えられていた。
《10年以上前になりますが、じつは、リラ先生にお目にかかったことがあります。中学生だった私は母に連れられてサイン会に参加しました。リラ先生の本は、母の運命を変える1冊でした。片づけの資格をとった母は、毎日生き生きと飛び回っています。
私といっしょに、母のような片づけが苦手な人の支えになる本を作っていただけませんか。》
言葉を選びながら返信を考え、すぐに送った。
温かいカフェオレをちびりちびりと口に含みながら、感動で、鳥肌が立っていた。この人は、月岡さんは、よくコメントや手紙をくれた『のりこ』さんのお嬢さんではないだろうか。
顔立ちまでは思い出せないけれど、セーラー服で母親といっしょに並んでいたあの人ではないだろうか。
ありがたいご縁に感謝しながら、何度も何度も、メールの文面をなぞるように読んだ。
このごろ「昔から好きでした」とSNSで声をかけられることが多い。──むかし。自分にとっては昨日のことのように鮮やかに思い出せる日々も、もう、ずっと前のことなのだと驚かされる。
『mame』の今月のランキングも届いている。
息を詰めてそっとメールを開く。わたしの名前が、9位のところにあった。数年前からもう一度mameでコラムを書けることになっていた。
執筆者一覧をそっとタップする。
白石千晴のとなりに、わたしの顔が載っている。
あのころより少し頬のラインが崩れた。目尻に皺もある。でも、晴れやかそうに笑っている、わたしの顔。
一方、mameにはもう、ともちゃんの顔は載っていない。それどころか、webのどこにも彼女の姿は見当たらない。
担当編集
ふと顔を上げると、硝子張りの窓の向こうで、夏目がひらひらと手を振っている。薬指には、銀色のリングがきらりと光る。
口パクで「リラさーん」と言っているのがわかる。
わたしは荷物を置いていたとなりの席を指さした。
今から数年前。ブログを再開し、夏目との3冊目の本をつくっていたときのことだ。
ともちゃんが、炎上した。
2015年に発売された書籍『100日後にミニマリストになるともちゃん』の中で、わたしだけではなく、さまざまな著者の言葉やメソッドを真似していたことがわかったのだ。
きっかけは白石千晴がSNSぽつりとつぶやいた「人のメソッドをぬすむなんて信じられない」という、その一言だった。
《考えがかぶることはあるでしょう。でも一冊の本の中に、一字一句おなじ表現がいくつも重なることって、あるのかしら?》
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すぐに、犯人探しがはじまった。そしてだれかが、過去にともちゃんの本とほかの著者のメソッドを比較、指摘している投稿を見つけてきたのだ。
「もう、なりほん行ってきたんですか?」
夏目が、わたしのバッグの上に置かれた袋を見て尋ねる。
「うん。開店と同時に行って買ってきた」
「やばっ。真面目ー」
彼は手を叩いてけらけらと笑っている。
「いろいろ作ってきたけど、今回の本はやっぱり思い入れがありますよね。なんたってブログのタイトルなわけだし。休止期間をのぞいたら10周年なわけじゃないですか」
それからしばらく仕事の話をした。
今日は咲羅も入れて、うちで4人で食事をする約束をしている。
「そういえば……ともちゃんって、今どうしてるんだろう」
ぽつりとこぼれた。
夏目は微妙な顔をしていたけれど「今だから言うんですけどね」と切り出した。
「俺、柊介さんの働いてた会社で家探しをしてみたんですよ」
夏目は悪い目をして言った。
「そのとき、小耳に挟んだんです。ともちゃん……檜山智香子は、柊介さんのことが好きだったらしいですよ。──これ、なんかのために残しておいたやつがあるんですけど。……ええと、どこだっけ」
夏目は、ともちゃんのはじめての投稿のスクリーンショットを、わたしに見せた。
《【#今日のさよあり】 結婚式の内祝いでいただいたお菓子の箱。じつは片想いしてた後輩くんがいて。結婚してしまってショックだったこともあり、お菓子の箱すら捨てられなかったの。今日で決別します。ありがとう!バイバイ!》
「この"後輩くん"?」
夏目は嘲るように語尾を上げた。
「それが、たぶんシュウさんのことだったんじゃないですか。サイン会で柊介さんを見ておふたりに嫉妬した……そんなところじゃないかなって思ってるんですよ。まあ、俺の妄想なんですけど。いいセンいってるんじゃないかなあ」
なんともいえないきもちだった。
画面の向こうにいる、まったくつながりのない人だとずっと思っていた。でも、身近にいたなんて──。
「ただね、好きなんてかわいいものじゃなかったと俺は思ってます。話を聞いた相手からは、ともちゃんは、シュウさんに好かれてるって勘違いしてたって。次に結婚式をあげるのは自分だってほのめかしてたっていうんですから。──だから、シュウさんが結婚するってわかったとき、憎んだんじゃないかなあ」
なんて、自分勝手なのだろう。
そんなことで、柊介は会社を辞めるまで追い詰められなければいけなかったのか。
ふつふつと怒りが湧いてきた。
「いやー俺、探偵に転職してもいけるかも」
黙りこんでしまったわたしの気をそらすように、夏目はからからと笑って言った。
「夏目さん……もしかして、ちょっと、ずるいこと、しました?」
ともちゃんの炎上のきっかけになったのは、白石千晴のひとことだけじゃなかった。
わたしやほかの生活実用書著者の書いた本やブログと、ともちゃんの目次とを比較した画像だ。
最初に見たはずのその投稿は、のちに消えていた。
「なんのはなしですか?」
彼はわざとらしく首をかしげる。
胸がきゅっと痛くなった。
ともちゃんの投稿には、心無い言葉がたくさん投げかけられていた。
「リラさん、言ったじゃないですか。ずるいことは俺にまかせてって」
「何の話……」
「ともちゃんはさ、シュウさんの人生も壊したんでしょ? 因果応報でよくないっすか?」
こういうとき、わたしはすこし夏目と距離を感じる。
わたしの微妙な反応を感じ取ったのか、彼は視線をはずした。
「俺ってたぶん、ちょっと共感性みたいなのが欠けてる気がするんです。だから正直、ともちゃんがどうなろうと関係ないっていうか……へえって感じです」
ふと江里の言っていたことを思い出した。
それを見越したように、夏目は続けた。
「ともちゃんて、正直、無関係な人間じゃないですか。だからどうでもいいんです。泣こうが喚こうが消えようが。でも、莉羅ちゃんは、柊さんは。もう、違う」
「凌、くん……」
春の昼下がりのやわらかい光が、夏目の顔を金色に縁取っていた。
伏せた瞳が陰っている。
「昔……担当した著者がね、なんていうか、命を、絶とうとしたことがあったんです」
どきりとする。
「仲良かったんです。年配の方で、すごくかわいがってもらって。ばーちゃんって呼んでた」
夏目は目を伏せた。
「打ち合わせにいくといつも、手作りのお菓子とか、料理とかたくさん振る舞ってもらって。でも、悪質なレビューに悩んで……。俺、忙しくてさ。有名になったら当たり前のことなんでがまんしてくださいって、言ったんですよ。顔見て話したら、思い詰めてたってわかったかもしれないのに」
「その方は……」
「幸い、命はとりとめました。今は静かに暮らしています。たまに、様子見に行ってるんですけどね」
彼が何度もくり返していた「顔を見て話そう」という言葉が、ふいに重みをもって落ちてきた。
「ばーちゃんは、出会ったころのリラさん以上に知名度がない人だったんでね。だから、事の顛末もあまり知られてないんでしょうね。──あれから俺、著者とは仲良くしないように……きらわれがちな、取り繕わない性格をあえて全面に出すように気をつけてたんですけどねえ。だって、仲良くならなかったら、他人事でいられるじゃないですか」
夏目の言葉がぽつりと喧騒に溶けていった。
「リラさんは真面目すぎるけどさ、だからこそ、ねつ造でもしない限り、足元を掬われることはないですよ。大丈夫。こつこつやりましょう。──次も、いい本書きましょうね」
夏目は、場の雰囲気を変えるみたいに力強く言った。
通過点の街
翌朝、咲羅も見送りたいと渋ったが、学校がある。わたしと柊介とで、東京へ戻る夏目を見送った。
「スタミナ源たれ、送ってあげますね」
「結婚式、呼べよ」
わたしたちの言葉に夏目は軽く目を見開き、笑った。
編集者と友だちになれることはあまりない。
でも夏目とわたしたち夫婦はたぶん、これから仕事以上のつながりを、ずっと持ち続ける気がした。
もしわたしが続刊できなくても。
車で来たものだから、そのまま出社する柊介とはべつに帰らなければいけない。わたしは電車で帰ることにした。時計を見る。
次の電車まであと1時間、あった。きょうはカフェに寄りたい気分ではなかった。
青森駅に向かう。
八戸へ、弘前へ、そして蟹田へ──。さまざまな行き先へ向かう電車の発車時刻が電光掲示板に表示されていた。
止まっている津軽線の車内に乗り込む。
発車までまだまだ時間があり、ほとんど人はいない。
わたしは背すじを正して座り直した。
鞄のなかから、昨日買ったばかりの自著を取り出す。
新しい本のにおいが、だれかが開けっ放しにした扉から吹き込んでくる春のまろやかな空気にまじって、鼻をくすぐった。
車窓の向こうには、いくつもの線路が並んでいる。たがいに交わることなく、まっすぐ遠くへ伸びていた。
ホームから自然の風景はあまり見えない。
けれど電車がすべり出すと、線路の両脇に、雪解けの湿った土や、ふくらみはじめた蕾が確かにあることを、わたしは知っている。
ほんのすこしだけ、まぶしさを感じて目を細めた。
いまいる場所はゴールじゃない。通過点だ。
書くことは、きっとその感覚に似ている。
わたしは、生きている限り、ずっと、ずっと、書き続けていく。
『すくい』 (完)
あとがきはこちら。
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