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『すくい』あとがき 【A面】 自分の「分け身」をつくるということ

1ヵ月半近くかかってようやく完成させた『すくい』という小説の連載が終わってしまった。

ここでは、あとがきとして思うことを書いてみる。

※ ↑ こちらの小説を読んでいないとわからない内容です。



こちらは無料の【A面】。
すこし書きづらいなという内容は【B面】として別記事で出すつもり。


”自分”を創作の種にするということ


今年に入ってから小説をたくさん書いている。
わたしは短期集中に向く性格をしており、時間が空けば確実に飽きてしまう。長くても1週間で書き上げることが多いので、これは異例のことだった。

こんなにも苦しんだのは理由がある。
それは、自分自身がどっぷりと深く浸かってきた世界をフィクションとして描こうとしたためだ。

『すくい』はお仕事小説部門への応募作品。わたしがしてきた仕事でなにが書けるのだろうと考えたとき、「これしかない」と思ったのが、暮らし系実用書の”著者”としての経験だった。


自分の分け身をつくる


でも、自分のことを創作にするのは、やっぱりリスクがある。
事実を書いてしまえばだれかに迷惑をかけたり、傷つけたり、あるいは守秘義務に違反してしまうおそれがある。

だから、自分の「分け身」をつくる必要があった。

そうして生まれたのが”莉羅”。

でも、物語としてのおもしろみを書くために、莉羅は”自分の上位互換”にした。

わたしはこれまで、初対面で”凛花”を知っているという人にひとりしか出会ったことがない。著者としての知名度は決して高くない。
莉羅はそういう意味でいうと、”成功者”として描いた。

何冊も連続して出版し続けられる人気、
テレビのスタジオに呼ばれるだけの知名度、
サイン会を開けるくらいの売れ具合……。

また、自分とは別の人間にするために「環境」も変えた。


専業主婦への風当たりの強さ


わたしは正社員の企画職で1年、結婚を機に退職したあと出版関係のバイトで4年、外で働いていた。バイト先のジャンルは、書籍ではなかったため、つながりなどを活用することないまま整理収納アドバイザーの資格をとり、フリーライターとなり、出版して暮らしにまつわるあれこれを書いたり、プロデュースさせてもらったりしている。

莉羅は「就活で挫折し、専業主婦になった」という経歴をもつ。

就活のはなしはリアルだと思うんだけど、莉羅とおんなじ感じで病みそうなくらいしんどくって、わたしの場合は、最後の2社に掬いあげてもらった。


どうして専業主婦にしたかというと、暮らし系著者としてやっていくうちに思ったのが「専業主婦への風当たりの強さ」だった。

そしてそれは、現実世界でも起こり得る。

わたし自身は、妊娠を機に、暮らし系について在宅で書く仕事一本に絞っていった。
仕事については話さないので、その風当たりの強さをひしひしと体感してきた。


わたしがよく投げかけられる言葉
「いつ働くの?」
「いつも家にいるっていいですね。朝ゆっくりできますよね」
「今まで一度も働いたことないんだよね?」



画面の向こうにいるのは、生身の人間


わたしに限らず、ほかの人に向けられたものを見ていても、暮らし系の本は、レビューで厳しいことを言われやすいような気がしている。

すこし変わっているのが、文章ではなく「著者そのもの」への批判だ。
思考ならばまだわかる。でも、本の内容に関係ない部分の人格や容姿を貶められたりするケースがとても多いように思う。

暮らし系の生活実用書は、ほかの本よりも写真が多い。イメージカットの撮影には自分も登場するわけで。
「ひと感」が出るから、言いやすいのだろうか。


批判の中には「ライフスタイルを理由にしたもの」もあげられる。

きっと言った本人は覚えていないだろうし、悪意を持って接してくる人にそこまで配慮しなくてもいいかなと思って、わたしが実際に言われたひとことをいくつか『すくい』の中にも入れたのだけれど……。


でもこれはまだ、ましなほう。
ぜんぜん、とてつもなく、ましなほう。

暇な専業主婦だからできることです。忙しい私にはできません。

それでも読んだとき、
なんだか悲しかったな。
拒絶感?


ほかにも、体型への批判。
あれもわたしが実際に書かれたことだ。実際には攻撃的な感じではない。

こういう体型だから、その格好はもったいなさすぎる。そんな感じでやんわりと書かれている。

でも。もしわたしがまだ20代だったとしても、もう二度と膝が少しでも見えるスカートは、履けないだろう。


子育てをしてないと書かれたこともある。
見た人が信じてしまいそうな本当っぽい感じで。9年ほぼワンオペで誰にも頼れずに子どもたちを育てているのに──。


だからわたしは、リアルな知り合いには、なかなか仕事のことを打ち明けられない。
批判を見た人にきらわれないか、こわいのだ。


また、莉羅と比べたらずっとあとではあるものの、わたしも20代のときに本を出した。だからだと思うのだけど、ともちゃんとのDMのようなことが、ものすごーーーくたくさんあった。

「まだお若いから」という書き出しではじまることが多い、"指導"めいたメール。

求めてもいない唐突なアドバイスは、攻撃となにがちがうのだろう?



それは本当に伝えるべきことなのか


莉羅の葛藤は、わたし自身の葛藤でもあるし、同じような境遇になったたくさんの著者さんたちから聞いたことも混ぜ合わせてつくっている。

みんな、──苦しんでいる。

それで筆を折った人だっている。

作品や書籍を批判されるのも辛い。
でも、自分自身のことをこんなふうに言われるのは、それとはすこし異なるつらさがあった。

わたしが頑なに顔も名前も出さないようにしているのはそれが理由だ。


もちろん、わたしだって、本を読んでいて

「この著者さんの考え方は、なんだか好きになれないなあ……」

と思うことはある。

自分の生活を批判されているようで、すごくむっとすることすらある。
いやいやそんなのふつうできないよ!って感情だって生まれることがある。

気をつけて書いたつもりだけど、わたしも、著者として相手にそう思わせてしまっているのかもしれない。


とはいえ、それはレビューや引用RTで声高に伝えるべきことなのだろうか?
しかも、本の内容以外への批判や捏造を入れてまで。


画面のこちら側には、生身のわたしがいることを、きっとその人たちは知らないのだろうと思った。


わたしには、わたしの生活がある。
子どもを起こして、身支度を手伝い、朝食を用意して送り出して……。でも、心無いひとことで、そのすべてが億劫になってしまう。投げ出したくなる。

その言葉がなければふつうの楽しい日になるはずだった1日だ。

でも、投げかけられてしまったら、その1日は、インクをこぼしたみたいにじわじわと黒く滲みはじめる。

目の前にいるはずの子どもをまっすぐ見てあげられない。頭の中は、つらい言葉でいっぱいだからだ。

「イヴ」は、ありえた世界線の、でも選ばなかった世界線のわたしなのだ。
ブログを1年以上、閉鎖した「リラ」も、やはりわたしが選ばなかった世界線なのだ。


わたしは、傷ついても諦めたくなかった。負けたくなかった。

だから見ないことを選んだ。

DMを閉じた。
コメント欄も閉じた。

連絡をお問い合わせフォームのみにし、
問い合わせのハードルを上げに上げることで身を守っていた。


厳しい言葉は頭のなかで思うだけではいけないのだろうか?
あるいは、なんのはなしかまったくわからないようにマスクをして、ひっそりつぶやくだけならだれにも迷惑はかけないのでは。
アドバイスの皮をかぶれば、それは相手のためになるのだろうか?


それはほんとうに、本人に伝えるべきことなのだろうか。


いや、たぶん、自分の鬱憤を晴らすためにしていることなのだろうなと思う。



もしあなたが好きな著者さんへの悪質なレビューを見てしまったとき。
通報することと、その本を持っているならぜひ前向きなレビューを投稿してあげてほしい。
そこに「流れ」が生まれる。
逆におすすめしないのは、「こんなことを書かれていましたよ!」と本人に伝えること。わたしみたいに「エゴサしない派」だったらふつうに傷つくし、へたしたら寝込むし、もっとひどかったらたぶんやめちゃうと思う。わたしだってほんとうに紙一重のところにいたことがある。知らなければ心は波立たないのだ。



noteでよかったこと


余談だけれど、こういう理由ではじめはnoteのコメントに怯えていた。
またああいう思いをするんじゃないか、と。

小説は5年ほど「小説家になろう」というサイトにUPしていた。でもそこでも怖くて感想欄は最初から閉じている。
すごく面白い作品の感想欄ですら、心無い言葉も寄せられており怖いのだ。


けれどもnoteを再開してもうすぐ1年。

コメントや引用で嫌な思いをしたことはほとんどない(ゼロではないけど)。

むしろ、人とかかわるたのしさを知ることができた。世界が広がった感じがある。


大きな変化としては、「家事」というカテゴリの特性上、10年間、女性だけの世界に身を置いていたので、男性目線の考えにいろいろ触れることができたのも面白かった。


きらめきよりも悪意が記憶に残る


今回、『すくい』に出てくる匿名の声を描くために、過去に貰ったコメントやメールなど、ほぼすべてに目を通した。

苦しい作業だった。

でも、改めて読み返してみると、つらくなるコメントやDMは1割にも満たなかったと気がつく。


むしろたくさんの応援コメントやメッセージがあった。
上げに上げた連絡のハードルを乗り越えてまで応援してくれる人たちがいたのだ。

それなのに、そのやさしさやきらめきよりも、ほんの1滴の憎悪が記憶に焼き付いているのだと、知った。

もったいないことだと思った。



キャラクターが動き出すまで


さて、この仕事には、配偶者と担当編集が密接に関わってくる。
彼らもそのまま書いてしまうと迷惑になるだろう。

じゃあ、どうやったら人物像を離していけるのか。自分なりの”メソッド”(※1)を持っているので、それに沿って書き進めていったけれど、どうしても現実世界に引っ張られていく。

すると、莉羅も「凛花」に近くなっていく。


だめだ、やり直し! ──と、何度もなった。


どうすれば、自分や周りの人たちからかけ離れたものにできるのだろう……。

困ったわたしが思いついたのは「配役」を決めることだった。

莉羅、柊介、夏目、江里、ともちゃん……。

それぞれにイメージする俳優さんを探して当ててみた。自分が好きな人ばかりだから、とっても豪華な俳優陣だ。容姿の描写は俳優さんにすこし似せるけどまったく同じにはならないようにしつつ、書くときの脳内上映はその俳優さんで行なっていく。演じてもらうのだ。

すると、莉羅がわたしから、柊介が夫から離れた。

急にキャラクターが生き生きと動き出したのだ。


そして、──プロットが台無しになった。

中でも序盤で消えるはずだった「夏目」が、まったくの別モノになってしまったのは自分でも驚いた。

ここには、亜麻布みゆさんの大好きなエッセイ『俺にしとけって系男子』の影響もあるのだけれど、こんなことになるとは思ってもみなかった。

『すくい』の大枠は変わっていない。
でも、夏目だけがイレギュラーな動きをした。

▼その結果、読んでくれた「なりほんのお嬢様(成田本店つくだ店の中の人)」に推される夏目……



(※1)キャラクターを自分から離すメソッド。(※有料記事です)


→あとがき【B面】につづく


ご自身の頭のなかにあるキャラクター像と崩れるかもしれないので、配役等を書くのはあとがき【B面】にして分けようと思っている。
※こちらは現実とのリンクについても書きたいので、大っぴらに公開するのではなく、有料記事にしようと思っている。

公開するのにワンクッションおきたいなという情報と工夫、過程の記録。

【目次】
・各キャラクターのイメージ俳優
・舞台設定とそこを描くためにやったこと
・小説にリアリティを出すためにできること
・一部だけ伝える、ここは「本当にあった出来事」
・タイトルができるまで
・アイキャッチ画像ができるまで


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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡