『すくい』 第2章 最適化生活 ─ 著者・リラ(26)
生活実用書の著者リラの、本づくりの物語。
1.サイン会
23区でも蝉が鳴きはじめた。
わたしは夏目に連れられて、書店のバックヤードに入る。
きょうはサイン会だった。
夫の柊介も裏方として手伝ってくれることになっていたが、彼は午後休をとっての参加であったし、わたしは先に簡単なヘアメイクがあったので別行動になった。
書籍の撮影のときのような、カジュアルな普段着風のワンピースではなく、ちょっとしたフレンチレストランで食事をするときみたいな格好をしていたので、高いヒールが歩きにくい。
服装は夏目の指定したものだ。
ふだんの撮影やイベントでは自腹でもしないと決してつかない、ヘアメイクまでプロの手によって施されていた。
用意されたスペースは、衝立で仕切られて、外からは見えないようになっている。
ほとんど人なんか来ないだろうと思っていたのに、わたしの前には、たくさんの女性が並んでいた。気後れするくらいだった。
緊張しながらも、なんとなく自分なりの流れが掴めてきたころだった。
サインを書いて顔を上げると、迫力のある美人が立っていた。30代前半くらいだろうか。
「リラさんの本を読んで、部屋が片づいたんです」
彼女はそういって薔薇みたいな豪奢な笑顔を浮かべた。
かき上げた前髪を左右で分けて額を出している。目鼻立ちがくっきりしているのだけれど、それぞれの配置は少し真ん中寄りで、美人なのにかわいい感じもある不思議な人だった。
色白ではないところがまた、エキゾチックな色気を醸し出している。──この人を、どこかで見たような気がする。
「リラさんのファンです」
彼女は豪奢な笑顔を見せ、わたしの手をにぎって、ぶんぶんと振った。
「じつは私……」
「ハイハイ、お時間でーす」
前のめりになる彼女を見て、夏目が引き剥がすように連れて行く。
次に入ってきたのは、小学生くらいの女の子と、その母親だった。
女の子は母親の陰に隠れるようにしてこちらの様子をうかがっている。
ほっそりした母親は、江里と同世代だろうか。後ろでひっつめた髪の毛をしきりに気にしながら、「場違いでごめんなさい」と言った。
「たまたま通りかかって、サイン会があることを知ったんです。……本、全部持っています。もう一冊買ってきたので、これにサインお願いしてもいいですか?」
「ありがとうございます! もちろんです」
わたしはそう言うと、この短時間のうちにすっかり書き慣れたサインをつづった。
「……うち、すごく汚かったんだけど、いまきれいだよ」
「こら、美乃里!」
母親が真っ赤な顔をして言った。女の子が笑い、わたしもつられて笑う。
「あの……私、SNSをフォローしてて。Kazuといいます」
「え? Kazuさん?」
わたしは思わずばっと顔を上げた。ブログをはじめた当初からフォローしてくれていた人だ。
前に立っているのは、丸いめがねに短めに整えた髪をした小柄な女性だった。口角の上がった笑顔が印象的で、美人というよりは、どこかなつかしさを感じさせるような愛嬌があった。
「リラさん、想像通り、お若くてかわいい……」
頬が熱くなった。
「あの、Kazuさんのお住まいって東北でしたよね?」
わたしが尋ねると彼女は目を輝かせた。
「覚えててくれたんですね! そうなんです。朝イチの新幹線で、来ちゃいました」
ふっくらした可愛い笑みを浮かべる。
「リラさん、お友だちのつもりでいたけど、そんなのおこがましいくらいどんどん有名になられて……。ちょっとさみしかったんです。でも、お会いできてよかった」
「ほら、言った通りだったでしょ」
まだまだ続く列を見て、夏目がうっそりと笑い、耳打ちをした。
ここまでの出会いはすべて、うれしかった。胸が震えた。
けれども同時に、複雑な思いで、列にならぶ一人ひとりに目を向けた──。
ほとんどは感動と感謝だった。でも、純度100%だとはいえない。なにかおおごとになってしまった、自分の手からこぼれそうなくらいにすべてが広がってしまったというような、底しれない不安がしんしんと積もるような予感があった。
手元にずらりと積まれた本の表紙には、わたしの顔が堂々と映っている。
帯には《ヒット連発! 働いたことがない25歳専業主婦が選んだミニマルライフ》と書かれていた。
わたしは苦々しい気持ちでその帯に目をやった。
夏目は、はじめ、『イマココ』と何からなにまで同じように作りはじめていた。これはわたしの言葉じゃない。そう思うものが綴られていった。助け舟を出してくれたのは、カメラマンだった。
「これって、……白石さんに睨まれませんかね?」
「え?」
夏目は首をかしげた。
「いや、構図とか写真の内容がかなり似通っているように思えまして。あの方は、他人にも自分にも厳しい方なんですよ……コピーみたいな作品だと認識されたらどう思われるか」
「それは……まずいですね」
夏目は頭を抱えた。撮影してしまった写真はそのままに、そこから”別モノ”に仕上げるため打ち合わせを重ねた。
最終的に決まったタイトルは『リラの最適化生活』。
暮らしの中で減らしたり捨てたりしたものと、それによって良かったことなどをまとめたものだ。
いわゆる”ていねいな生活”から離れる。それが夏目の出した結論だった。実際に仕上がってみると、これも”リラ”が書かなくてもよかったのでは、と思った。
参考にする類書を変えた、ただ、それだけだった。
もともとわたしの家にあるものは、そう多くはなかった。けれども、その中からもさらに捨てるものがあるはずだと夏目は詰め寄った。
「ほら、これとかいいですよ」
そう言って彼が指したのは、玄関マットだった。
わたしは、嘘を書きたくなかった。
だから、暮らしのほうを本に合わせた。玄関マットを捨て、学生時代に書いた日記を手放した。
これは本当に正しいことなのだろうか。──そんなふうに迷いながら。
けれども、幸い、ほかの部分に関しては意外と意見を取り入れてもらえた。ものを捨てる前に再利用する方法がないか考えるのが好きだったので、そうしたコラムを提案した。
夏目は、全体的なトーンにしか興味がなかったようで「いいんじゃないすか?」と気のない感じで言った。
売れてる類書を目標にすること。
顔を出すこと。
この2つが、夏目のなかで絶対にゆずれない項目だった。
この本をつくっていた、数ヵ月前のことだ。
初稿を見たわたしは、驚いて夏目に電話をしていた。
「夏目さん、私、顔は出さないって……」
電話越しの夏目は、ため息を隠そうともせずにこぼした。
『戦略なんですよ、売れるための』
「え……?」
『リラさんが持っているいちばんの武器って、なんだと思いますか?』
夏目は小さな子どもに言い含めるように尋ねた。答えられずにいると『若さです』と彼は言う。
『こういうね、主婦向けの本って、著者の年齢層が高いんですよ。若くてもまあ、30手前くらいでしょうね。そう考えたら、リラさんって異色じゃないですか。25歳が書く家事本。そこに説得力を出すためには、顔出しが必要なんです』
「でも……」
『幸いリラさんは、見れない顔じゃあないんです。自分の強みを生かす。それがビジネスの基本でしょう。本づくりは慈善事業じゃないんだ。著者のこだわりより、売れるかどうかが大事なんです』
わたしはなにも言えなくなってしまった。
これまで江里やほかの編集者たちと何冊もの本を作り上げてきた。
一読者だったときはわからなかったけれど、本は、決して著者のものじゃない。よく考えたら当たり前のその事実を体感した。
著者は看板だ。
けれども担当編集がボスなのかというとそういうわけでもない。直接会ったことはなくとも、そこには上の意見が必ず盛り込まれる。
戻ってきた初稿を磨いていく作業は、編集者だけじゃなく校閲者とともに行なっていくし、デザイナー、カメラマンやイラストレーターなど、ただの考えや文章を形にしていくための仕事を担う人がいる。
そしてそれを売る人が、流通する人が、書店に置いてくれる人がいなければ、紙の本をだれかのもとに送り出すことはできないのだ。
たくさんの人が一冊の本に関わっている。
リラ自身は、売れたり、有名になりたいというわけではなかった。
けれども、その波に乗っていかなければ、恩ある人たちに損をさせてしまうことになる。それは結果的に、リラ自身が仕事を失うことにもつながっていくのだ。
リラは夏目の提案を、不安とともに受け入れたのだった。
2.最適化した生活
時間を置いてから書店の裏口を出ると、もわっとした熱気が広がった。裏方の作業をしてくれていた夫の柊介が「おつかれさま」と笑った。
「帰り、なにかたべてく?」
「うーん、そうだね」
わたしは妙にふわふわした心持ちで、なんだか今にも倒れてしまいそうで、柊介の腕にそっと手を添えた。
「そういえば、担当の夏目さん? 俺、どこかで見たことあるんだよなあ」
夫が考え込んだ。
わたしは「そういえばさ」と話題をそらした。今は、彼のことは考えたくなかった。
これまではぼんやりとしか映していなかった顔が明らかになると、若さを好意的に見る人と、憎むような人とで大きく分かれていった。
これまで生きてきたなかで、面と向かって言われることは少なかった容姿の良し悪しについて、まるで挨拶するような気軽さで否定される。
鼻が低いとか、まぶたが腫れぼったいとか、歯並びが悪いから矯正したほうがいいのではとか。
もともと美意識が高いほうではなかったけれど、最近はなるべく鏡を見たくなくって、マスクをして過ごすことが増えていた。
会う人、会う人に、自分という存在をジャッジされているような……そんなの、被害妄想だとわかっているのに。
帰り道、駅のホームで電車を待っていた。
SNSを開く。ダイレクトメールが届いていた。イヴからだ。
『リラちゃん、いろいろありがとうございました。アカウント、消すことにしました。いつどこで誰といても、頭の中から離れないんです。レビューに書かれた言葉。ずっとイライラして子どもにも当たり散らしてしまう。こんなのぜったいによくないよね。レビューに書かれたことは事実無根だった。でも、本当になってしまいそう。子育てをぜんぜんしてない、母親……って』
ただのテキストなのに、滲んだ涙まで見えてきそうな文面にショックを受けた。どう、返していいのか、わからなかった。
わたしにも覚えのある感情だったからだ。
はじめての本を出してから、ずっと、ずっと。見てしまえば自分が削られていく感覚に抗えない。
「大丈夫だよ」
「気にしないほうがいい」
「有名になるなら仕方がない」
わたしがかけられてきた言葉の数々が脳裏に浮かぶ。
タップしようと指を彷徨わせて、やめた。
どの言葉も、きっとほかに、声のかけようがなかったのだと思う。けれどもむしろ傷口を深くえぐるだけだったので、イヴに同じ言葉を伝えるのは躊躇われた。
轟音とともに電車がすべりこんできた。
つい数分前に発車したばかりなのに、すぐに次の電車がくる。
著者としての仕事もこういうものなのかもしれない。このころのわたしには、すでに底が見えはじめていた。
わたしの武器が若さだというのなら、それはあと数年しか鮮度が持たないのではないか。若さをカバーできるだけのなにかを身につけなければいけないと、不安なきもちになる。
居並ぶ人を見つめながら、夏目がぽつりと漏らしたのを思い出していた。
「でも25かあー。せっかくだからもっと早くリラさんに打診すればよかったなあ」
「え?」
「だって、そしたらさ24とか23とかで出版できたじゃん。そっちのほうがさ、話題性ありますよ絶対。……あ、来週、テレビ出演なんでよろしく。俺もついてくんで安心してくださいね。で、再来週から2冊目つくっていきましょう。半年後出版を目指しましょうか」
「あの、1冊目を出した春陽社さんからオファーをもらっていて。3ヵ月後出版、いいですか?」
「あー。まあ、3ヵ月後ならいいですよ。うち、半年後の予定ですし。でも、うちが出すまでは春陽社さんだけにしといてくださいね」
春陽社は、江里のつとめる会社だ。
暮らしについて綴るようになってから思ったことがある。それは、内容が二極化していること。
手仕事や季節感を大事にする"ていねいな暮らし"と呼ばれるジャンル。
そして、ものを手放したり工程をシンプルにしたり、業者や家電の力を借りて家事を手放していくジャンル。ひとことで表すなら"効率化"だろうか。
このふたつのあいだには大きな溝がある。
わたしが今まで書いてきた本は前者寄り。どちらかというとわたしが好きで、これまで綴ってきたのはそちらなのだと思う。『イマココ』の白石千晴がつづるものもそうだ。
家事に楽しみを付加する、たし算型の考え。
今回夏目とつくった本は後者──生活の中からむだを取り除いていく、ひき算寄り。
これをつくるにあたっては、すでに出尽くしたアイディアと同じようなことを焼き直して伝えているような気がして、すこし罪悪感があった。
だから、最後まで自分でも物や家事の工程ひとつひとつと向き合いながら、すこしでもオリジナリティの高いものを探した。うそを書くのも、だれかの借りものもいやだったのだ。
休日夕方の上り電車には、人がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
これからきっと遊びに繰り出すのだろう人たちがざっと塊になって降りてくる。
わたしたちも乗り込もうとした、そのときだった。
びしゃり。横で音がした。柊介が口元を押さえている。
「え? ……え? どうしたの、だいじょうぶ」
饐えたにおいが漂っていた。彼は真っ赤にうるんだ目をして、呆然としているようだった。
わたしは慌ててバッグの中をさぐった。けれども、あれもこれも要らないと、”最適化”したはずのバッグの中には、ティッシュもタオルもウェットシートも残っていない。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
60代くらいの女性が駆け寄ってきた。
大きなトートバッグの中には、パンパンに膨らんだポーチが詰まっている。
「ええと、……あれ? どこやっけ」
女性は駅のつるりとした緑のベンチに鞄を置いた。ごつんと鈍い音がする。
ポーチの中からは、小花柄の水筒に、飴ちゃんが入った透明ポーチ、たくさんの絆創膏に、使い捨ての割り箸、三角に折りたたまれたレジ袋などいろんなものが魔法みたいに出てきた。
「あ、あったわぁ。これ使って」
彼女はたっぷりのポケットティッシュを取り出した。
「すみません」
わたしが頭を下げると「いいんよ」と手をひらひら振った。
「ぜんぶな、キャッチのおにーちゃんにもらったもんやから。遠慮せずにどうぞ。役に立ってよかったわあ。……あ、ウェットシートもあるよ」
わたしは柊介の口元をぬぐい、どこか呆然としている彼を、ホームを登ってトイレの前まで連れて行った。柊介は「ごめん」と何度もくり返していた。わたしはそっと、その広い背中をさすった。
電車に乗ったあとも、柊介はぐったりと青い顔をしている。最近、体調の悪い日が、多い気がした。肩にもたれてねむってしまったので、動かないように気をつけながらイヴへの返信を送った。
けれども翌朝になっても返信はない。
1週間後、ふと、イヴの投稿がまったくないことに気がつく。いつの間にか彼女のアカウントは消えていた。
2年近く仲良く話してきたけれど、わたしは、彼女の本名もLINEも知らない。もう二度と関わることはないのだと思うと、胸がきゅっとなった。
それからしばらく江里とは会えなかった。きっとイヴのことを気にしているのだろう。スーパーで見かけても、見るからに沈んでいるようすだったので、声をかけられずにいた。
3.カルーセル
終点から乗った電車が、地下にもぐっていく。
一瞬でコントラストが切り替わった車内で、吊り下げ広告にはわたしの顔があった。トンネルに浮かび上がるように映る自分の顔を見て、そっと、マスクで覆う。
誰も知らないかもしれない。でも、誰か知っているかもしれない。
メールボックスを見る。問い合わせが届いていた。カモメ文庫。大手の出版社だ。タップすると書籍化の打診だった。直近で出版の予定はあるかと書かれている。
3ヵ月後と、半年後の予定を書いてメールを送信した。
待ち合わせ場所はホテルのティーラウンジだった。
豪奢な入口を抜けると、大理石の床が広がっている。最奥に一段高くなった空間があり、窓の向こうには滝のように水が流れ落ちていた。
「リラさーん」
立ち上がった夏目が、ひらひらと手を振った。目を細めており、ずいぶん機嫌が良さそうだ。
「次の本、考えていきましょう」
夏目はケーキセットを注文しながら言った。
「わたし、……ごめんなさい、辞退させていただこうかなと思っていて」
「え? なんで?」
笑っていた夏目の目が、一瞬だけ細くなった。
「売れてるし、今ならもっといける。だって顔出しがあって、読者層がぐっと広がりましたよね。女性だけじゃない。一人暮らしやミニマリストを目指す男性読者が増えた。あれは間違ってなかったって、数字が証明してますよ?」
リラは、手元のティーカップを見つめた。
数字。間違ってなかった。それはそうなのに、なぜこんなに疲れているのだろう。
「……なんか、ちがうんです」
ぽつりと漏れたことばに、自分でも驚いた。
夏目が首を傾げる。
「“なんか”って?」
「うまく言えないんですけど、なんていうか、わたしじゃない、全然別ものの“リラ”が勝手に歩いていってしまう感じがして……」
夏目はカップを持ち上げたまま止まり、じっとこちらを見つめていた。
やがて、少しだけトーンを落として言った。
「それでも、リラさんの言葉は、たくさんの人に届いてる。“リラ”はアバターにすぎない。中にいるのはちゃんと君だよ。──工藤莉羅さん」
彼は、はじめてわたしの名を呼んだ。
驚いてじっとその目を見つめる。
「ちょっと歩きません?」
夏目が立ち上がった。
会計を済ませ、迷いのない足取りでティーラウンジを出ていく。わたしは何も言えず、その背中を追いかけた。
硝子張りの通路を抜けて、外に出る。
目の前には観覧車が、ゆっくりとまわっていた。
「これ知ってました?」
彼が指差したのは、小さな回転木馬だった。
平日の午後だからだろう。人はまばらだったが、3歳ほどの子どもが1人、親といっしょに金色のポールにつかまりながら笑っている。
「遊園地なんて、いつぶりかなあ」
夏目は目を細めた。
「ちょっと、観覧車でも乗って帰りません? 打ち合わせはさ、また今度」
「え……」
観覧車にふたりで乗るには抵抗があった。だってまるで。
「うわ、すみません。セクハラになります? 個室はやばいっすよね」
夏目の顔が真っ赤になった。視線が、わたしの手元──結婚指輪に落ちている。
「よし、じゃあ、あれ。メリーゴーランドにしましょう」
そういうと彼はぐいぐいわたしの手を引っ張っていった。
夏目は馬にまたがり、わたしは馬車のような座席のついているものを選んだ。ピピピピ、という音とともに、静かに世界が回りだす。ぼうっと曇り空を眺めていた。
思っていたよりもずっと速い。
回転が止まり、足を下ろすと、くらりと身体が傾きそうになった。夏目が笑いながら支える。
「どうです? ちょっとすっきりしました?」
夏目が尋ねる。
「え?」
「うまくいかないときは、場所を変える。リラさんが書いてたじゃないですか」
それはブログをはじめた初期に書いていた記事だった。
「読んで、……くれてたんですね」
「そりゃあね。打診するにあたって目を通しますよ。ブログ全部読みましたよ? 俺、ずっと社内にいるのむりっぽくて。場所を変えて集中力保つようにしてますもん」
夏目は笑った。意外だった。
「リラさんのアイディアはね、男性でも受け入れやすいのがいいなって思ったんですよ」
「どういうことですか?」
夏目は頭をかいた。
「うーん。うまく言えないんだけど。ブログを見てたら、たしかに”ていねいな生活”ではあるんだけど、システマチックな部分が多い気がしたんですよね。感情より理論みたいな。そういうのって、ほかの著者さんと違う強みだと思ってて」
「……でも、類書のコピーみたいな感じで作ろうとされてましたよね?」
「うーん。まあ、そうっすね。数字は大事だから。結局売れないと、続刊できないじゃないですか。でもリラさんの知名度って、いうてそんなになかったでしょう」
わたしは押し黙る。
「売れてるネタを書くことで、売れる可能性がちょっと高まるじゃないですか」
「でも、自分にうそつくみたいで……」
「リラさん、うそ書いてないですよね? たぶん、かなり悩んで捨てるもの選んだでしょ。ちょっと申し訳ないくらいだったな。もし俺が同じ立場だったら、気軽にうそ書いちゃうけど」
夏目が笑った。
「リラさんが書きたいことが溢れてるってのはわかるんですよ。でも、まずは売れないと。大きな声を出せる立ち位置をね、つくるんです」
わたしは、辞退を取り下げた。
言葉にしないと誤解したまますれ違ってしまうことがあるのだと、知った。
4.おにぎり
その日の予定は、自宅での打ち合わせだった。
打ち合わせは楽しみだったが、1週間ほど前に届いたメールが尾を引いていた。
《すみません、やっぱり待ってもらってもいいですか? 書籍化の話。3ヵ月後、半年後に出版予定があるならちょっと……。一旦保留にさせてもらって、両方が売れたらまた改めて連絡させてください! こちらから打診したのに、すみません!笑》
売れたら、また……。露骨な言葉に驚く。
いや、でも、メールでのやりとりは顔が見えない。もしかするとこの人も、夏目のような、話してみたら意外とわかりあえるタイプなのかもしれない。
わたしはそう言い聞かせて、一旦、頭の中からメールのことを追い出した。
2冊目の本もライターがついているが、今回は文章を書いてもらうのではなく、各種サポートをお願いするのだという。
夏目とライターの木村、わたしの3人で午後に会う約束をしていた。
「次の本は”ていねいな暮らし”っぽさをもう少し出しましょうか」
夏目が言う。
その日の打ち合わせは、ネタ出しのような意味合いがあった。自分でも思いつくかぎりの案は出しているが、自分では気づいていない部分を探したいと、夏目と木村が来ることになっていたのだ。
打ち合わせは毎回、1時間では終わらない。
終わるころにはいつもふらふらになってしまうので、念のため、手軽につまめるものを作っておこうと思った。
ボウルを二つ出して、熱々のごはんを入れる。
ひとつには、サイコロ状に切ったチーズ、塩昆布、揚げ玉を入れた。味つけにめんつゆ。白く透き通るようだったお米のつぶが、少しずつ茶色に染まっていく。
もうひとつは、すじこ。
イクラよりもくすんだ色味をしているそれは、魚卵が筋につつまれてつながった状態のままだからすじこと呼ばれる。これを下処理していったものがイクラになるのだ。
地元ではすじこをよく食べていたが、東京ではなかなか見つからない。ちょっと値が張ったが、見つけたときにうれしくなってすぐ買いものカゴに入れたのだった。
インターホンが鳴る。
先についたのは夏目だった。
「失礼しまーす」
夏目は靴を揃えて入ってくると、すぐに書類を出した。
「じゃーん。ラフ、できました」
ラフというのは、ページごとの構成をかんたんな四角い枠の中に書き込んだものだ。見出しや本文の配置、写真の挿入位置などが表されている。
「今日考えたいのは、このあたりのページに入れる内容で……」
夏目が説明をはじめようとしたとき、彼のスマホが鳴った。
「木村さん? そろそろつきそう? え……あー、そう。わかった」
夏目がスマホを切って微妙な顔をする。
「木村さん、子どもが熱が出たから今日は来れないって」
「そうですか。心配ですね……」
夏目は困ったように笑い、部屋の中をぼんやりと見つめた。
「いや連絡遅いって。社会人としてさあ」
「……夏目さん、たまに怖いです」
「え、そう? 思ったことそのまま口に出しちゃうんだよね」
「わたしはドキッとするからオブラートに包んでほしいですね……」
夏目はにやにやしながらこちらを見ている。
「なんですか?」
「いや、リラさん、いい感じに肩の力抜けたなーって」
「なんですかそれ」
わたしたちは笑った。
前回は、本の方向性そのものが途中で大きく変わったこともあり、わたしたちは慎重に進めていた。できるかぎりたくさんのアイディアを伝え、絞っていく。
気がつくと西の空が暗くなりはじめていた。
「うわー、腹へった」
夏目がソファにもたれる。
「おにぎり、ありますよ」
必要なかったら自分たちの夕食にしてもいいなと思い、ラップをかけておいたおにぎりを出してくる。
「これめっちゃうまい。チーズ合いますね」
夏目は目を細めて言った。
彼がひとつめを頬張っている間に、冷凍庫からバットを取り出した。中にはだしパックを混ぜた味噌が入っている。
「赤味噌と白味噌、どっちがいいですか?」
「え、じゃー赤で」
出汁味噌をお椀に入れ、わかめとすり胡麻、それから焼いて冷凍しておいた椎茸をのせて、お湯を注ぐ。ふわりと優しいにおいが広がっていった。
「うわ、こういうとこですよ」
「え?」
「リラさんが書くべきテーマ。これこそ最適化じゃないですか。これいいです。この方向性でいきましょう」
夏目がうなずきながら、手帳になにかを書きつけている。
心の中がふわりと暖かくなった。最初の印象が悪かった分、彼にほめられるとなんだかうれしかった。
「これ、なんではじめたんですか?」
「わたしは白味噌が好きなんですけど、夫は赤が飲みたい人で」
「へえ」
「どっちかが我慢するのも違うなって思ったんです。それで、それぞれの味噌に出汁パックの中身を混ぜてみました。Webでいろいろ見て、丸めたり、具材を入れたり、いろんなこと試してみたんですけど、この形に落ち着いたんです」
「これいいなー。俺、一人暮らしなんですけど、たまに味噌汁むしょうに飲みたくなるんですよ」
そう言いながら夏目は、海苔をまいたおにぎりに手を伸ばした。
一口食べて、手が止まる。
「これ、え……すじこ?」
彼の手がとまる。
「わ、ご存知なんですね。知らない人も多いのに」
「いや、めっちゃなつかしくてやばいっす。俺の地元ではよく食べてて」
夏目のほおがゆるんでいる。はじめて見る表情だった。
「え、もしかして、地元……青森ですか……?」
「──そう。え? マジで? もしかしてリラさんも?」
そうしてわかったのが、夏目が高校の先輩であるということだった。
わたしたちは思わずハイタッチしてしまった。東京で同郷の人に会うことって、ほとんどない。
この日はじめて知ったが、彼のほうがわたしよりも3つ年上だったので、ちょうど在籍期間はかぶっていなかった。
「うちの夫も同じ高校なんですよ。たぶん、夏目さんの2つ上だと思います」
「えーまじか。パイセンかー。前にお会いしたとき、ぜんぜん気づかなかった……」
「そういえば夫が、夏目さんのこと見たことある気がするって。勘違いだと思ってたけど本当だったんですね」
わたしは笑った。
「てかおふたりって、どうやって出会ったんですか? やっぱり学校つながり?」
「えー」
恥ずかしくてうつむく。こういう話にはあまり慣れていなかった。
「まあいいや、今度、3人でメシ行きましょうよ。そのとき取材します」
「取材って」
けれども、そんな日は、──やってこなかった。
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