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『すくい』 第3章 はつ恋 │ 少女・莉羅

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生活実用書リラの本づくりの物語。



再会


夫は、わたしのはつ恋だった。


 


東京の空気は薄くてどこかよそよそしささえ覚えるほどだった。
進学のために上京してきた、三月のことだ。

地上出口を出ると、目の前には大きな交差点があった。ごくりと息を飲む。駅前の地図を見ても、どちらへ行けばいいかすぐにわからない。

プリントアウトしてきた地図を、母が上下をひっくり返しながら見ていた。

道路沿いにはコンビニや古びた中華料理店、学生向けの安い定食屋。濡れたアスファルトの匂いに、油のにおいが少し混じっている。歩道の脇には、自転車が乱雑にとめられていて、その間を縫うように歩く。

見知った景色とはあまりにも違う風景に、気後れしそうだった。

あいにくの曇り空。
前日降った雨の名ごりが道のはしにまだ残っていて、駅を出てからのほんのわずかな距離でも、くつの裏がすこし濡れた。

ふるさとよりも少しまるい風。泥に染まった雪も見当たらない。


ようやくたどり着いたのは、不動産会社だ。

硝子越しに、女性スタッフが別の客をエントランスへ案内しているのが見えた。20代後半くらいだろうか。パンツスーツが似合う大人の女性だ。華やかな顔立ちの美人で、思わずじっと見つめてしまい、目が合って慌てて視線を外した。

対応に出てきたのは、眼鏡をかけた、まだ年若い男性。なんとなく既視感があったが──思い出せない。


求める住まい像を聞かれると、母は前のめりになって、なによりも安全面を強調していた。

「多少、家賃が高くてもいいんです。治安がよくて、セキュリティが新しいところで。女の子ですから。ね、そうでしょ? 莉羅」

「……うん」

わたしは料理をしてみたいからスーパーの近いところがいいなと思ったけれど、母の気持ちもわかるので、口にしなかった。

ある程度物件が絞られたところで、三人で車の後部座席に乗り込み、物件の見学に出かけた。


見学ははじめてじゃない。

最初に足を運んだところは、すでに埋まっている物件をサイトに載せて、客をおびき寄せているようだった。不信感がある──と母が一蹴した。次に行ったところでは、大学や出身地などをいろいろ根掘り葉掘り聞いてくる男性に嫌悪感を示した母が、やはり取りやめた。

母は、とても心配性なのだ。
けれども、予定外に長く続く見学にも、決まらない焦りにも、わたしはそろそろ疲れはじめていた。


母はずっと不機嫌そうに窓の向こうを眺めている。手には折りたたみ式の携帯電話を持っており、そこには、昨日不動産会社でもらったマスコットがついていた。

「あ、モリリン」

「え?」

「そのキャラクターです。お好きなんですか?」

男性が訊いた。

「きらいではないけど……。いただいたから」

母はものを捨てるのがきらいなのだ。


「あのキャラクターって、人気投票で選ばれたんじゃないらしいんですよ」

彼が声をひそめる。

バックミラー越しに目が合ったが、穏やかで理知的な雰囲気の、ちょっと垂れ目がちな顔をしていた。

「逆に不快感を覚えるものを消していって、消去法で残ったのがあのキャラなんですって」

「へえ……」

母が感心したように言った。

「そういえば、お嬢さんは大学進学なんですよね。一人暮らしは楽しみですか? やっぱり寂しいかな」

「……寂しいのもあるけど、料理、してみたいなって思ってます。今までしたことがなくて」

母が恥ずかしそうに肘で小突く。包丁や火は危ないとキッチンに立たせてくれなかったのだ。



その日案内されたのは、すこし古いけれど、南向きで日当たりのいいアパートだった。

母があちこちの扉を開けてはああでもないこうでもないと言っている間、わたしは玄関脇に立てかけられた傘立てのとなりで、所在なく座っていた。

見知らぬ部屋の中、音も匂いもどこかしら落ち着かず、緊張で指先をじっと見つめていた。

そのときだった。
物件案内をしてくれた男性が、こちらをじいっと見ていることに気がついた。


「あの……」

彼は迷ったように声を出した。

「もしかして、莉羅ちゃん?」

「え?」

母とわたしの声が、同時に漏れる。母は眉をひそめ、わたしを庇うように前に出て、男性を睨む。

「す、すいません。違うんです。ただ……子どものころに会ったことがある気がして」

言葉を濁しながらも、彼は視線を逸らさなかった。
縁の細い眼鏡、やわらかそうな髪。垂れ目で、どこか理知的な雰囲気をまとったその顔を、わたしは──たしかに、知っている気がした。

「俺、工藤柊介っていいます。莉羅ちゃんのおじいさんと……同じ病室だった」

「……シュウ、ちゃん?」

声を上げたのは、母のほうだった。

つい先ほどまで警戒していた目元が一気にほころぶ。立ち上がると、彼の背中をばんばん叩いて笑った。

「やだあ、大きくなっちゃって!」

「久しぶりです……ほんとに」

困ったように笑うその顔に“あの男の子”が、ふっと重なった。──病室のすみでおじいちゃんと将棋を指していた、あの子。



彼は、柊介は、わたしの、はつ恋だった。



初夏の吹雪


小学校低学年のころのことだ。祖父が病気で入院していた。

毎晩19時になると、父の車でお見舞いに通っていた。
当時のわたしは、死というものの存在こそ知っているものの、実感がともなわなかった。

祖父はとても元気に見えたものだから、なんで毎日お見舞いにくるのだろうと、薄情なことを考えていたくらいだった。

病院に来たって、両親と祖父だけが話している。
表情や今はもう思い出せないけれど。ただそこで、じっと座って待っていなければいけなかった。わたしって、──ここにいる?と幼いわたしは思わずにはいられなかった。


当時、祖父の病室は四人部屋で、となりのベッドにはわたしよりいくつか年上の男の子がいた。

彼の空間にあるテレビからは、好きだったアニメのオープニングテーマが流れてくる。目が釘付けになった。毎週欠かさず見ていた、大好きなアニメだった。

それに気づいたのだろう。男の子の母親が手招きをした。


そしてわたしの母に「よかったら、こっちでいっしょに観てもいいですか?」と尋ねた。

「ご迷惑じゃ……」

母が遠慮した。

「いえいえ。うちの子も、日中、おじいさまに将棋を教えてもらってるんですよ。いつもお世話になっているのでよかったら」

それからというものの、祖父の見舞いに行くと、わたしは彼ら親子のもとで過ごすようになったのだった。

男の子の名前は、柊介といった。はなしを聞くと、同じ小学校の、5学年上の男の子だった。家も近いようだ。

アニメが入らない日は、おりがみをしたり、おえかきをしたりと、彼や彼の母は、まだ幼かったわたしにずいぶん根気よく付き合ってくれたと思う。



日に日に見舞いの頻度は多くなった。
むずかしい顔をした両親に連れられて、やがて土日も昼食をとると丘の上の病院へ向かうようになった。

午後に病室に入ると、静かな病室に響くのは、駒を打つ乾いた音。窓ぎわのベッドの横で、祖父と柊介はいつも将棋をさしていた。カチ、カチ……。そのたびに、時間がひと目ずつ進んでいくようだった。

初夏の午後のきらめきが、窓硝子越しに彼の髪の毛を透かすように照らしていたのを、まるで一枚の絵画のように覚えている。柊介の横顔は、鼻すじがまっすぐ通り、まつ毛が長く、理知的な雰囲気だった。

わたしは、将棋盤の上よりも、柊介の指の動きばかりを見ていた。細くて白くて、まるでピアノを弾いているみたいに思えた。

彼は、柊介は、ほかの男子とはちがう。……といっても、周りの同い年の男子しか知らなかったのだけれど。乱暴なことはせず、下品な言葉も口にしない。物静かで、思慮深い雰囲気があった。

柊介は、わたしのはつ恋だった──。
 


その日も、柊介と一緒に絵を描いていた。

彼はわたしの色鉛筆の持ち方をじっと見て、何も言わずにもう1本の鉛筆をそっと差し出してくれた。柊介はいつもわたしをよく見ている。そうして先回りするように必要なものを出してくるのだ。

「シュウちゃん、ありがとー!」

ほほ笑みかけた、ちょうどそのときだった──。祖父が、ごほっと小さく咳きこんだ。喉の奥でからまるような音だった。指の先に力を込めて、胸をかきむしるようにしていた。

「おじい、ちゃん……?」

この日は父の仕事がなかなか終わらず母と来ていたが、花瓶の水を替えるとその場を外していた。急に苦しみだした祖父を前に、わたしは混乱した。

「……おかあさん! おかあさーん!」

わたしの声は、病室の壁を突き破るようにびりびりと響いた。

祖父の呼吸が、ひゅう、と細くなっていく。よろよろと祖父のほうへ近づいた。

目尻に涙が浮いている。祖父の目はうつろで、そこにわたしは映っていなかった。

どうしていいかわからずに硬直していると、柊介がナースコールを押した。それからどうなったのか覚えていない。看護師さんに押しのけられるようにして、ぺたりとその場にしりもちをついた。

柊介がベッドから降りて、わたしを支えるように肩を抱いた。

見上げると彼は赤い目をしていた。なにかが決壊するのをこらえるような、目。いつも彼のおかあさんが座っている丸椅子にわたしを座らせると、耳をふさいでくれた。ぎゅっと押さえられて世界の音が分厚い硝子に阻まれるように薄くなった。

ぼおー、と、吹雪が吹き荒れる冬の夜みたいな音だけが耳を揺らしている。
自分よりもずっと大きな手だった。けれども、彼の手もまた震えていた。鼻の頭にぽつりとひとしずく、落ちてきた。



永遠のように長い一瞬だった。

病室のなかには、耳をおさえる吹雪の音にまじって嫌な音がずっと響いていた。



その夜、祖父は亡くなった。憔悴しきった両親がわたしを連れて帰った。柊介に、さよならを言うひまもなかった。
  




数ヵ月が経ったころ。

わたしは、少し肌寒くなった通学路をひとりで歩いていた。
うしろを振り返る。あいつらはいない。

校門を出て、迂回するように遠回りになる道を選んだ。

冷たい風が頬をなぜる。きっとこっちを通ればだいじょうぶ。

足元の側溝を流れる落ち葉が、水音と一緒にさらさらと過ぎていくのを、わたしはぼんやりと見つめていた。黄色と茶色の葉っぱが、並んだり離れたりしながら流れていく。季節は確かに進んでいた。

「莉羅ちゃん」

聞き覚えのある声に、はっと顔を上げて振り返ると、柊介が立っていた。紺色のポロシャツの上に、水色のウインドブレーカーを羽織っている。

「柊介くん」

「久しぶり」

「……うん」

「家、こっちなんだ?」

気まずさまじりに笑いながらそう聞く彼に、わたしはうなずいてから、斜め右の方を指さした。

「じゃあここ、少しだけ遠回りだね。……俺はここまっすぐ」

それだけ言って、彼は歩き出した。わたしもなぜか自然に、その横に並んだ。


しばらく沈黙がつづいた。どちらからも言葉は出なかったけれど、それが不思議と苦ではなかった。

舗装された道のすみに、白やピンクのコスモスが風に揺れている。背丈のそろわない花たちが、あちらこちらに首を傾けながら、わたしたちの影を追いかけていた。

その日、会話らしい会話はなかった。それでも、わたしはうれしかった。柊介と並んで歩く、その時間だけで、胸の奥がほのかにあたたかくなるのを感じていた。



それからも何度か、下校のタイミングがふしぎと重なった。

柊介が卒業するまでの、たった半年ほどの短いあいだだった。

中学校は、柊介の家よりもっと向こう側にある。わたしたちは、雪どけのころから、同じ方向を向いて帰ることができなくなった。



そして次の秋。

風がまた冷たくなり始めた頃。友だちと遊んで帰りが遅くなった夕方。

柊介が歩いてくるのに気がついた。駆け寄ろうとして、足が止まった。

彼がまったく知らない人みたいに見えたのだ。制服の袖をまくって歩く彼は、セーラー服を着た女の子と手をつないでいた。

女の子の髪が、陽の光をはじいていた。わたしよりもずっと背が高くて、きれいな子だった。目がぱっちりと大きく、まつげが長くて人形みたいな美しさがあった。そして、笑うたびにえくぼができて、硬質なうつくしさがやわらいだ。

そんな彼女を見る、柊介の表情。なによりもショックだったのは、それだった。わたしに向けるのとはまったく違う。──そのときはじめて気がついた。

柊介にとってのわたしは、妹のような存在なのだ。

ふたりの姿が近づいてくる。わたしの心臓が、どくん、と大きな音を立てた。

逃げるようにして、わたしは近くの神社の茂みに隠れた。落ち葉の上に足を取られそうになりながら、息をひそめた。

声もかけられず、名前も呼ばれず、すれ違ったあとに、しばらく動けなかった。


その日から、わたしは通学路を変えた。もう一度、偶然が起きることを、こわがっていた。

あれが、柊介に会った最後だった。



消えた鍵


「なにか困ったことがあったら、気軽に連絡して」

無事に契約を終えて、別れぎわに柊介が言った。
胸ポケットから名刺を取り出すと、裏にさらさらと携帯番号を書きつけた。

「シュウちゃんがいるなら、安心ね」

母が顔をほころばせた。

「シュウちゃん、莉羅といっしょに帰ってくれてたでしょう」

帰り道、新幹線の中で母が言う。

「うん」

「あれはね、守ってくれてたのよ」

「……何から?」

「クラスの男の子。前は、よく泣かされて帰ってきたでしょ。服の中に虫を入れられたりして。それを見たんですって」

「どうして知ってるの?」

「卒業する前に、話してくれたの。もう一緒に帰れなくなるからってね。釘は刺しておいたけど見てあげてくださいって」

その言葉に胸の奥がじんと熱くなった。

「でも、本当に気をつけるのよ」

母の目が吊り上がる。わたしはああ、いつものやつだと気が重くなった。

「大学生になったからって、だれにでも愛想を振りまいちゃだめ。前にこわい目に遭ったでしょう。お父さんもお母さんも、東京じゃあ駆けつけてあげられないんだからね」

新幹線はすでに東京からだいぶ離れていた。車窓にぽつぽつと雪が当たり、水滴に変わって吹き飛ばされていった。



大学生になったわたしは、目まぐるしいスピードで流れていく日々についていけずにいた。環境も人も、勉強も家事も、なにもかもがはじめてのことばかり。情報量が多すぎて、毎日溺れそうなくらいだった。

ある夜のことだった。
サークルの新歓から帰ってきたわたしは、ふと、鍵がないことに気がつく。青ざめた。すぐに店に電話したが、忘れ物や落とし物にはないという。

大学ではまだ親しい友だちがいない。アドレス交換した人は何人もいるが、泊めてほしいとは言えず、不安になった。


迷った末に、名刺を見てこっそり携帯に登録しておいた、柊介の電話番号を押した。──でも、打算はなかったとは言い切れない。
きっと他にもっと、選択肢はあったはずだった。

勢いで押したあと、緊張で心臓が飛び出すかと思った。無機質な通話音がしばらく響く中『はい』と声が、聴こえた。

「あの、シュウちゃん……。わたし、莉羅、です」

『あ、莉羅ちゃんか。どうしたの?』

「こんな遅くに本当にごめんなさい。あの、鍵をなくしちゃって。店にも確認したけどないんです」

『……もしかして、新歓とか?』

「はい」

受話器越しに柊介が考え込むような、間があった。

『家の前だよね? すぐ行くから、動かないでね』


しばらくすると、息を切らした柊介が駆けつけてくれた。
内見のときに会った姿とは違い、部屋着のスウェットにサンダル姿で、急いで来てくれたのが伝わり、目頭が熱くなった。

「シュウちゃん……ごめん」

「いいよ。とりあえず行こう」


彼はタクシーを拾うと、二駅先の街を告げた。5階建てのマンションの、3階に彼は住んでいた。

「きょうはここ使いな。俺出てくからさ。……で、ちょっと電話貸して。おかあさんにかけてほしいんだ」

「え?」

莉羅が言われるがまま、母の電話番号を選んで彼に渡す。ややあって『莉羅、遅くになあに?』と声が聴こえた。

「夜分おそくにすみません。工藤柊介です」

『え? シュウちゃん? どういうこと?』

母の声色が険しくなる。

「すみません。莉羅さんの鍵がなくなったみたいで、うちで保護させてもらっています。俺は今晩家を出るので安心してほしいんですが、一応ご報告だけ」

『え……そうなの。ごめんなさいね、莉羅が』

「いえ、大丈夫です。ただ、女性の一人暮らしでしょう。鍵は念の為交換したほうがいいかなと思っていて。そちらの費用が追加されるかもしれません」

『もちろん大丈夫です。ごめんなさいね、迷惑かけてしまって』

「いや、頼ってもらえてよかったです。では夜分遅くに失礼しました」

柊介は目の前にいない母に頭を下げながら電話を切った。

「ふー、緊張した」

舌を出して笑う。

「電話ありがとう。俺、今日は友だちのとこ泊まりに行くから。自由に使ってもらって大丈夫。飲みものとか……抵抗なかったら料理とかも入ってるからさ。適当にたべなよ」

柊介は冷蔵庫の中身を確認しながら言った。

「シュウちゃん、……ありがとう」

「いいよ。おかあさんにもいったけど、名刺わたしといてほんと良かった。……不安だったよな」

その言葉を引き金に、ほろほろと涙が落ちてきた。はっはっと浅い息がこぼれた。柊介はためらいがちに、そっとわたしの頭をなでた。



ほんの一週間前。
はじめてのゴミ出しに、わたしは右往左往していた。可燃か不燃かすらあやふやで、スマホ片手に自治体のサイトを調べながら、燃えるごみと一緒にうっかり捨てかけたティッシュの箱を、慌てて拾い上げた。

スーパーの棚では長く立ち尽くしていた。何を買えば「正解」なのかわからなかったのだ。買いすぎて腐らせたり、足りなかったり。冷蔵庫の中でしおれた小松菜を見て、涙ぐんだりもした。

思っていたよりずっとうまくいかなくて、毎日話す人もいなくって。しんとした部屋でひとりで食べるごはん。
自分で感じていたよりもずっと疲れていたのかもしれない。


「──あ、それでさ。ちょっと怖がらせるようなこと言ってしまうと、鍵なんだけど、ぬすまれたって可能性あるんじゃないかと思って」

「え?」

わたしはばっと顔を上げた。

「盗んで合鍵作るみたいな手口、あるんだよ」

ぞわぞわと背すじに冷たいものが這い上がってきた。高校時代の怖かった出来事が脳裏によぎる。

「そうだったら怖いから、鍵交換をしたほうがいいと思ったんだ。あと2週間くらいは、ちょっとめんどうかもしれないけど、大学終わって、友だちと予定なかったらうちにおいで。仕事のあとに送ってあげるから」

「そんな、申し訳ないよ」

「いいよ。この仕事してたらさ、やっぱりそういう話も耳に入ってきて心配だから。俺の心の安定だと思って? ね?」

そう言うと、柊介は、客用布団を出し、わたしに合鍵を持たせて、家を出て行った。

それから戻ってきて「……彼氏いない? だいじょうぶ?」と聞いた。
わたしは笑った。

「東京来たばっかりだよ?」

「いや、青森とかにさ。緊急事態とはいえ、気分悪いんじゃないかって」

「いまはいないよ」

──うそ。一度もいたことがない。けれども柊介は安心したように笑った。

「シュウちゃんは? わたし、彼女さんにご迷惑じゃない?」

聞くのには、勇気が必要だった。

「いまはいないよ。大丈夫」

返ってきたのは望んでいた答えだった。



ぽつりと残された中で、彼のにおいがする部屋の中を眺めてみる。
清潔でシンプルな部屋だった。余計なものはなにもなく、削ぎ落とされたような感じ。

冷蔵庫の中には、保存容器がたくさん入っていた。彼の几帳面な角張った文字で、作った日と中身が記されている。

電気を消すと、旅先のホテルに泊まったときのように心が落ち着かない。

彼氏はできたことがない。好きなひとは何人かいたけれど、いつも片思いだった。気持ちのベクトルが互いに向かい合うのは奇跡なんじゃないかというくらい、恋愛とは縁遠かった。

部屋の中には冷蔵庫のぶうんという音しか聴こえず、とても静かだった。時間がかかったものの、少しずつまどろんでいった。



鍵はやはり盗まれていた。鍵交換を終えたあと、仕事終わりの柊介に家まで送ってもらったところ、玄関ドアに鍵を差し込もうとしていた人がいて警察沙汰になった。

その人は、新歓で隣になった先輩の男性だった。




一度、恋心が再燃してしまうと、それを消すのはもう、むずかしかった。


再会してから3ヵ月後、わたしは柊介に好きだと告げた。
彼は顔を真っ赤にした。言葉を選びながら断られたが、年齢差が理由だという。たった5歳だ19歳なら合法だと詰め寄るが「でも、俺は大人なんだ」と言う。

「それじゃあ、わたしが20歳になってもシュウちゃんのことを好きだったら、そうしたら付き合ってくれますか?」

「いや、でも……」

「わたしのことが嫌いなら、そう言ってください。そのほうが諦めがつきます」

柊介はなにかを言おうとしていたが、やがて諦めたように肩を落とした。
20歳になる2ヵ月前に、わたしたちは恋人になった。




パンプスをぬいだ日


真夜中に卵スープをつくっていると、泣けてくる。

家じゅうの灯りを消して、ついているのはコンロの上の橙色の光だけ。ふつふつと沸いてきたスープに、溶いたたまごを静かに流す。箸に伝わらせてそっと入れると、黄金色の湯の中に、ふわりと花が開く。

黄身の溶き具合で花の色は変わる。
この日は、昼間の卵かけごはんで余らせた卵白1個分を加えたので、限りなく白に近い、淡い黄色の花が咲いた。

鼻の頭がつんと痛くなる。目の前が滲んでいく。今日もお祈りメールが届いた。49社目だった──。


電車の窓から見える世界の色が変わりつつある。ついこの間までは、ラムネ色の空のもと、鮮やかなつつじのピンク色が輝いていた。

けれども今は、終始どんよりとした雲から、雨が落ちている。モノクロの世界に、紫陽花だけが色を添えていた。

大学に着くと、ずいぶん、黒髪の人が減ってきたように思う。
ちょうど今の季節みたい。どんよりした梅雨の中に生きるわたしと、すでに夏を先取りしているみたいに、オレンジがかった茶髪に戻ってほがらかに笑う人たちと。

「りーら!」

後ろから抱きつかれて身体がこわばる。カナだった。
つい先週までは、黒髪を後ろでひとつに結び、つけまつ毛も封印していたのに、半年ほど前までと同じ、派手な姿に戻っていた。

「ね、莉羅はどこに決まったの? あたしはねえ」

彼女の口からこぼれ出したのは、大手企業だった。心がしん、と冷えていく。

「……まだ、決まってないの」
「え? マジ? まだ……? なんかごめん」

そう言うとカナは気配を消すように離れていった。ちゃんと見ていればわかるはずなのに。すっかり数少なくなってきたリクルートスーツのままのわたしの姿を。

遠ざかっていくカナの後ろ姿を見つめながら、くっと歯にちからが入る。


カナのことはずっと苦手だった。

終電がなくなるとすぐに家にころがりこんでくる。いつも彼氏が途絶えなくて、デートのために大学を休んでばかり。テスト期間になるとうちに押しかけてきて、わたしのノートを勝手にコピーして、そうして、わたしよりもずっといい成績を収める。

まじめにやっているのが、馬鹿らしくなる。



1限だけの授業を終えて、駅へ向かった。

今日も面接がある。小指の関節がひどく痛んだ。電車が来るまでの短いあいだだけは、ベンチに座り、パンプスにかかとだけを入れるようにして、痛みをやわらげていた。

マットな質感の黒いパンプスは、靴の専門店で買ったものだ。
履いた瞬間からすごく痛くて、店員さんに「サイズが合わないみたいだ」と告げると、彼女は目をさんかくにつりあげた。

「間違いなく合ってます。きついくらいがいいんですよ。馴染んでくるから」
「でもちょっと痛すぎて歩けないかも……」
「あのねえ。女はみんな、痛みをがまんしてるんですよ」

そう言って、自分の履いたピンヒールを指差す。

「お客さまにおすすめしてるこちらと、ぜんぜん、ヒールが違いますよね」

太くて低いヒールを指す。

「とにかく、お客様のサイズはこちらなんです」

今思えば、その時点でやめればよかったのだ。
なんとなく流されて買ってしまった。あれから10ヵ月以上も履いているけれど、パンプスが足に馴染むなんてことはなく、毎日家に帰ると小指が血まみれになっていた。



その日の面接は、柊介の会社の近くだった。わたしたちは、イタリアンのチェーン店で待ち合わせをしていた。彼が来るまでのあいだ、次の面接で話すことをまとめたメモを、改めて眺める。

「ごめん、待たせた?」

柊介が入ってくる。エントリーシートを書くときも、面接の前も、彼は「もう昔過ぎて忘れちゃったなあ」と言いながらも根気よく付き合ってくれていた。

「ねえ、どうしてシュウちゃんは、今の会社に入ったの?」

わたしが尋ねると、彼は照れくさそうに目を細めた。

「うーん、人に寄り添う仕事だと思ったんだよね」

「生活に根ざしてるからってこと?」

「それもあるよ。でも、社風っていうのかな。説明会のときにさ、参加者同士で物件について話し合うワークショップがあって。そのとき”ウォンツ”と”ニーズ”について聞いたんだ」

柊介は、こくりと水を飲んだ。

「”ウォンツ”っていうのは、希望ね。たとえば3口コンロがいいとか、南向きで日当たりのいい部屋に住みたいとかさ。で、”ニーズ”っていうのは、必要最低限のもの。つまり、本人にとってあって当たり前のものなんだ」

「ふうん。築10年以内とか?」

「ニーズは人によって違うんだよ。たとえばさ、”おしゃれなで広いキッチンと家庭菜園をできるような広いバルコニー”っていうウォンツを持ってる人が、物件に住んだとするでしょ。駅も近くて、24時間ゴミ出し可でさ」

わたしは「うん」とうなずいて、飲み放題のスープバーをこくりと口に含んだ。

「でも、住んでみてから『スーパーが遠すぎた』って気づく。その人の潜在的なニーズは、料理だと思うんだ。料理が好きだから、スーパーによく行く。今まで不便を感じていなかった当たり前のものだからこそ、本人も自覚してないんだ」

「なるほどね……」

わたしはうなずいた。

「ニーズに気づいてあげないと、思っていた物件じゃなかったって後悔につながるんだよ。本人も自覚していないそれを引き出してあげるのがやりがいっていうかさ」

そう答える柊介の目はきらきらしていて、そのとき、わたしに足りないものがわかった。

わたしは、働くよりも、勉強をしたり、家のことをしたりするほうが好きなのだ。足りないのはきっと、熱意。

「じゃあ、いってくるね」

会社に戻る柊介と反対に向かって歩き出す。50社目。最終面接を受けるために。




翌週、電話がかかってきた。

ようやく進めた最終面接で落ちた。きちんと答えられた。かなり掘り下げて、ここで働こうという決意を持って臨んだはずだった。

淀み無くすべての質問に答えられたはずなのに。


『……今後のためにフィードバックしますね』

電話の向こうの人事部社員は、”お祈り”だけで終わってくれなかった。
頼んでもいないのに、落とした理由を語り始めた。

『三上さんのことは、7人の面接官であった弊社役員のうち、4人が推していたんです。でも、ひとりが難色を示しました。それは、痩せすぎているということで……。メンタル面に問題があるのではないか、きちんとやっていけるのか。そういう意見が出て、内定は出せなかったんです』

それを言われて、今後にどう活かせば良いのだろうと思った。
長い、長い就活では、つねに自分を否定される日々だった。もちろん、わたしに足りないことがあったのは認める。熱意もない。熱意があるふりもできない。

そういう中で少しずつ体重が落ちていった。
最近は、スープやサラダといったものしか口にできなくなっていた。

もう残り少ない就活の日々で、いきなり太れば受かるとでも? こんな、自分ではどうしようもないことなら、フィードバックはいらなかった。落とした理由を伝えることが誠意だと、そう思っているのだろうか。

わたしにはそう思えなかった。人事担当という立場を使った攻撃にしか感じられなかった。



翌朝。
起きても身体が動かなかった。閉めっぱなしのカーテンの隙間から差し込む金色の光すら眩しかった。

洗濯物は、いつ干したのか思い出せないまま、椅子の背に掛けられている。

机の上には飲みかけのミネラルウォーターと、志望動機を書こうとしたまま止まったメモ帳。空気はどこか粉っぽく、息を吸うと胸の奥がざらついた。



それからわたしは、部屋の中から出られなくなった。




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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡

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