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『すくい』 第4章 掬い ─ 名もなき莉羅(22)

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掬い上げられて


プロポーズされたのは、変形してしまった小指をぼんやりと触っていたときのことだった。



リクルートスーツをぬいで、何日経っただろう。
さいわい大学は夏季休暇にはいっている。単位の心配はない。昏昏とねむってすごしていたので、時間感覚がなくなっていた。

出汁のにおいで目を覚ました。
部屋の中は真っ暗だ。頭がにぶく痛む。ぬるりと汗ばんだ肌に吸いつく髪の毛が不快で、手の甲でぬぐった。

くつくつと野菜が煮える、音──。
身体を起こすと、柊介がキッチンに立っていた。コンロ上の灯りが、彼の姿をぼんやり照らし出している。ワイシャツの前をすこしくつろげて、袖をまくっている。



「具合、わるいの?」

柊介が、鍋に視線を落としたままたずねた。

「え?」

「連絡取れないからさ、心配になって。来ちゃった。起こしてごめんね」

急に恥ずかしくなる。

部屋の中には、洗濯していない服が山積みになっていた。シンクにもカップラーメンや汚れたお皿、缶チューハイの空き缶などが無造作に積み重なっていたはずだ。



生活のすべてが、崩れかけていた。
この部屋の惨状は、わたしの内側そのままだった。

もうずっと携帯を見ることすらできずにいた。
泣いてしまうのがこわかったのだと思う。それとも社会から拒絶されている自分という存在が恥ずかしかったのだろうか。
絡まりあった毛糸みたいに心がねじれていて、その根っこにあるものは見えそうになかった。


ベッドの下に落ちた、サイレントモードにしてある携帯を拾うと、不在着信が100件を超えていた。
柊介のが5件。のこりはすべて母。1時間おきに来ていた電話が、3時間前からぱったりと止んでいる。

もしかしたら柊介が母に連絡してくれたのだろうか。


事情を知れば母はきっとなぐさめるだろう。
わたしを落とした会社を「見る目がない」と憤慨する。わたしが足りなかっただけなのに、重たい愛情にくるまれる。
それがわかっているからこそみじめで、連絡できなかった。

それから、甘やかな声で言うだろう。
青森に帰っておいで。おとうさんの会社に入ればいいじゃない、と──。

それもいいかもしれないという気持ちと、そうしたら、柊介とは離れなければいけないのだという現実がせめぎ合っていた。

決めることを放棄したわたしは、ただねむって過ごした。


柊介はきっと、思うところがあるのだろうけれど、なにも尋ねなかった。ていねいにスープを掬い、小皿にとって、口もとに運ぶ。
ぺろりとくちびるをなめて「うん」とつぶやいた。

床もシンクもきれいになっている。
洗濯物はたたまれ、カップや缶は袋にまとめられている。
会社帰りできっと疲れているだろうに、彼はこの部屋の片づけに時間を割いてくれたのだ。


柊介は火をとめると、ベッドで体育座りしているわたしの元へやってきて、額に額を当てた。

煙草のにおいがした。大人の男の人のにおいだ。

「熱はなさそうだね。……なんかあった?」

わたしはうつむく。

言葉が出てこなかった。
何をどこまで話せばいいのかわからなくて。かさかさと乾燥したくちびるを噛んだ。


どうしても言葉が出てこない。彼はまってくれている感じがあった。でも、なんて話したらいいのか。

こんなに情けない自分を知られるのがいやだった。



ぼんやりと裸足の小指に触れた。

この10ヵ月間で、別なもののように変形してしまった小指。関節の部分がぼこっと腫れ上がるようにまあるくなり、指全体はパンプスの形に沿うように曲がっていた。

もとのまっすぐな指にもどしたくて、ぐいぐいと押す。けれども、ばねのようにもどってしまう。

去年の自分といまの自分もまた、べつな生きもののように思えた。




「結婚、しようよ」








驚いて顔を上げる。

「もちろん、いやじゃなかったら。俺もさ、アラサーだし。待ってたんだ。莉羅ちゃんが卒業するの」

柊介は少し慌てた感じで言った。早口になっている。緊張している、サインだ。

彼はたぶん、きっと、わたしがこうしている理由を知っている。
それでいて自分の都合に変えてくれている。





「甘えても、いいの……?」

わたしは揺れていた。
大事な決断をこのタイミングでいいのだろうか。弱っているわたしを重荷に感じないだろうか。

「わたし、……就活全部落ちて」

息が詰まるように苦しくなった。

「どうしていいか、わからなくて。今がんばらないと、もう募集もなくなっちゃうのに、からだが動かないの」

めがねを外したときみたいに、目の前のすべてが滲んでしまった。喉の奥が痺れるみたいに熱い。

柊介の大きな手が、わたしの背中をそっとさする。


「甘えるとかじゃないよ。俺が、莉羅ちゃんと結婚したいんだ。いっしょにいてほしいんだ」

柊介の目が、わたしの心を射抜いた。
お祈りメールがくるたびに、おまえなんか要らないと突きつけられている気がしていた。たくさんいる人の中から、だれも、わたしを掬い上げてはくれなかった。

わたしはおずおずと彼の首に手を回した。
柊介はためらいなく、ぎゅっとわたしを抱きしめた。



目をつむると、閉め出されるように涙がぼろぼろと落ちた。





柊介が作ってくれていたのは、鍋焼きうどんだった。

「すこしのびたかも。ごめん」

わたしはふるふると首を振り、ローテーブルにふたり並んですわる。

鍋の蓋を取る。ふわりと湯気が立ち、気化できなかった雫が涙みたいにぽたぽた落ちた。
甘く煮えたねぎの香りに、思わずのどが鳴る。椎茸とかまぼこ、ほうれんそう。真ん中には半熟のたまごがとろりと光っている。

柊介がレンゲを差し出す。
澄んだ茶色のスープをひと口すすると、出汁の香りが広がる。ちょっと甘めの味つけ。でも、あとから七味がぴりりと鼻をぬけていった。


「……おいしい」

「そう? よかった」

実家で体調をくずしたときに母が作ってくれるのとは違う味だった。
わたしの知らない味だった。


箸でたまごをそっと割る。
とろけた黄身が、うどんのつゆに溶けていく。透きとおっていたつゆが少しずつ濁っていった。


ああ、家族になるって、こういうことなのかもしれない。


自分のふつうと相手のふつうが、とろとろのたまごみたいに溶け合っていくような。そうしてちょうどいい味を探すような──そんな営みなのかもしれない。

うどんをすすると、喉の奥まであたたかさが染みた。それだけで、もう泣きそうだった。



わたしのどんぶりの汁はすっかりにごり、具材も減ってしまっていたが、柊介の皿は、うつくしく盛りつけられたままだった。

「莉羅ちゃん、たまご好きでしょう」

彼は、自分のどんぶりからとろとろのたまごをわたしの皿に移し、そうしてはじめてうどんをすすった。
めがねがくもり、鼻先につゆがはねた。

わたしは彼に抱きついた。



キスは出汁の味がした。

 




卒業式を待って、わたしは工藤莉羅になった。22歳だった。





毎日メイク


結婚式を挙げたのは、卒業式の2日後だった。
数少ない友人が、ほかの地域へ引っ越してしまうことがわかっていた。

カナのような、親しいと言うよりも、わたしを利用していた人たちが参列したがってなんとなく嫌な気持ちになった。

「彼の友だちも来るんでしょ?」

そのひとことに辟易した。
このときおもった。わたしは、自分を踏み台にしようとする人が、苦手なのかもしれない。表面的にはにこにこして付き合ってくれるから、もやもやしたものを抱えるだけだったけど。

そうか、きらいなのか。

自分の中に黒くもやもやと巣食っていたものの正体がわかったら、すこし、すっきりした。


ふわふわしたプリンセスラインのドレスに身をつつみ、海辺のチャペルで沈みゆく夕日を背景に誓いのキスをした。親しい人だけを招いた小さな式だ。




もしもこれがドラマなら、結婚式のシーンで終わってしまったのだろう。
そこがハッピーエンドだから。──お昼の再放送のドラマに目をやりながらそんなことを思う。


新婚生活は順調かというと、そういうわけではなかった。

柊平とは仲が良かった。「またね」じゃなくて「おかえり」と言えるしあわせを日々噛み締めている。
銀行などで「工藤さん」と呼ばれるととっさに立ち上がれず赤面することもあった。工藤莉羅という書き慣れない名前が愛おしくてしかたがなかった。


けれども、わたしの心は回復していなかったらしい。

無事に結婚式を終えて、内祝いの発送も終わったころ──。ぽっかりとこころに穴が開いたみたいに動けなくなったのだ。


生まれてはじめて、なんの所属もない自分になり、時間をどう使えばいいのかがわからなくなってしまったのもあるかもしれない。




柊介を送り出し、テレビの情報番組を見ながら朝食をとる。





──気づくと日が暮れている。





就活終盤のように部屋が散らかっているという訳では無い。彼を迎える頃にはちゃんときれいにできている。
片づけも掃除も料理も、やり始めたらたのしい。それなのに、どうにも腰が重い。

そのぼうっとしている時間に、ふと、雨の仲を歩き回る柊介のすがたが脳裏に浮かぶのだ。養ってもらっているのにこれではいけないと、みっつのくふうをはじめてみることにした。


ひとつは夜寝る前に、リモコンをすごく取り出しにくい場所に移動させること。

目的もなくつけるテレビこそが、このだらけた生活につながっている気がした。一度ソファに座ると、根っこが生えたみたいに動けなくなる、あの感覚。


もうひとつ。朝一番には、とにかくメイクするところからはじめてみた。

テレビを観ながら刻々と時間だけが過ぎていく。
夕方にワンデーコンタクトを入れてメイクをするのがなんとなくもったいない気がしていた。

鏡のなかの自分は、寝起きの顔よりも少しだけまつ毛が長く、目がぱっちりとして見える。
これで、外に出られる。


そしてみっつめ。とにかく外に飛び出すこと──!

予定なく家にいるから、鬱々といろいろなことを考えてしまうのだと思った。



玄関の扉を開けると、生ぬるい湿気を孕んだ空気が広がった。

ぽん、と軽い音がして、淡紫の傘が開く。しとしとと雨が降る東京の街を歩く。

新居は前に柊介が住んでいた場所とも、わたしの暮らしていた街とも違う、終点で始発の駅だった。


マンションは駅から少し離れているけれど、家のすぐそばにはスーパーがある。
柊介がわたしの”ニーズ”を汲んでくれたのだと思う。けれども今日はスーパーを通り越して、駅前まで行ってみることにした。


駅前には隣の駅あたりまで長く続く遊歩道があった。
木々に囲まれ、中には水も流れている場所だ。道の両側に紫陽花が植わっている。つやつやした緑色の葉っぱに雨粒が弾けて散っていく。

──あ、小さなかたつむり!

綺麗……。スマホを構えた。画面をタップしても、なかなかピントが合わない。かたつむりの殻がぼやけて、葉っぱばかりが妙にくっきりと映る。紫陽花の色も滲んでいく。

息を止めてシャッターを押すと、遠くで電車の走る音がした。

現実へ引き戻される合図のようにも思えた。



駅前には半地下になったところに書店があった。今までは柊介が休みの水曜日と日曜日にしか来たことがない。

中堅のチェーンで、ひと通りの書籍は揃っている。
そっと足を踏み入れると、蛍光灯の白い光に目が眩みそうだった。

広く取られた書棚と書棚のあいだを泳ぐように抜けていく。じっくり時間をかけてあちこち眺めて、小説と雑誌を1冊ずつ手に取った。

わたしと柊介が暮らす街に書店はなかったから、何年経っても憧れの場所だ。結局30分近く迷いに迷って、予算とも相談し2冊を買った。

ひとつはミステリー小説。柊介が好きなのだ。ふたりで読めるものがいいと思った。もうひとつは雑誌。

書店に行くためだけに駅前まで迂回したわたしは、ようやく自宅近くまで戻ってきた。


スーパーの入口をくぐると、ふわりと爽やかな匂いが立ち昇った。

もうこんな時期なのか。
入ってすぐの場所にずらりと並んだ保存瓶や梅の入った袋を見てこころが華やぐ。ずっしりと重たいふたふくろカゴに入れた。

水羊羹がある。レジに並ぼうとしたわたしは、そう気づいて、引き返した。製菓コーナーで寒天とこしあんも入れる。



家に帰ってはじめにしたのは、青梅を水に浸けることだった。
とぽん、とぽんと水の中に落とす。硬質で綺麗な音がする。しばらくすると梅の葉や、取れたヘタがぷかりと浮いてきた。

梅の実の外側は、まるで輪郭を失ったみたいに、水と同化して透明になっている。
見とれてしまい、スマホで写真を撮った。


つぎは、なにをしよう。
やりたいことがたくさんありすぎる。冷蔵庫のうえにちいさなメモ帳を置いた。

思いついたことをぜんぶ、頭のなかから追い出していく。そうしてメモをじいっと見つめてみる。



次は水羊羹づくり。
スーパーのレジ前で見つけたらもうだめだった。さわやかな甘さが口の中に広がり、ごくりと喉が鳴り、こしあんを買いに走っていた。

鍋に水200ml、粉寒天2g、砂糖大さじ2を入れる。買ってきたこしあんの半量250gも混ぜる。覚え方はかんたん。ぜんぶ「2」。
塩をひとつまみ入れると甘さが引き立つ気がする。

ぐつぐつと沸騰したら、そのまましばらく待つ。
寒天が固まるためには、1分以上の沸騰が必要なのだ。流し缶にそっと流して、あとは冷蔵庫へ。ぽっかりと時間が空いた。


朝干していた洗濯にふれてみる。
じっとりとぬるく湿っていた。サーキュレーターの風を当てる。
すこしだけ窓を開ける。外の空気が吹き込む。雨の日でも、短時間でいいから風に当てたほうがいいと話していたのは母だ。

本当かどうかわからないけれど、外のしっとりした空気でリフレッシュできるような気がして、わたしは真似をしていた。

換気は5分だけと決めて、その間に、部屋の片づけをする。


家事には順番がある。
床が片づいていなければ掃除機はかけられない。片づけるためには、まとめて運ぶためのかごやごみ袋といったものが必要になることがある。

そうした家事以前の工程は、べつに深く考えなくても進めることはできる。
けれども紙に書いて逆算していったら、早く終わる順番が見つかった! それをくり返していくと、自分なりの取説ができていった。


すっかりくたびれたころ、水羊羹が固まった。

ふるりと震えるつやつやした菓子にそっと包丁を入れる。
ていねいに皿に移し、ラップをして夕食後の分を取り分ける。ひと切れ食べたら、あとは保存容器へ。

これは明日、あんみつにするのだ。


ミステリー小説のほかに、主婦向け雑誌を1冊買ってきた。『mame』というタイトルのその雑誌はわたしが子どものころから書店に並んでいたもの。

母が購読しており、その中の収納や料理のページが好きだった。大人になって、自分がそれを主婦として読んでいるのが感慨深い。



温かい小豆茶を淹れた。

湯気が立ち昇っている。はふはふと冷ましながら飲む。水羊羹は甘いのにさっぱりしていておいしい。思わず頬がほころんだ。

雑誌をめくっていくと、たくさんの主婦たちが紹介されている。30~50代くらいと、わたしよりすこし年上の人たち。──みんな笑顔が眩しい。

暮らしの知恵、彩り豊かなレシピ、おしゃれなインテリア……。



家事って、なんてクリエイティブなんだろう!



すごい。どうやってこういうことを思いつくのだろう。アイディアが降ってくるのだろうか。──わたしにはきっと、こういう工夫って思いつかないのだろうなと思った。
でもそれでも、やってみたい、とも。




「立てない……」

一度座ってしまったら、そのままソファに沈み込んでねむりたい気持ちに襲われた。

『mame』の中に、タイマーを15分セットして動こうというアイディアが載っている。


試してみようとしたけれど、たったの15分でも腰が重くなってしまう自分がいた。

じゃあ「1分」ならどうだろう?

キッチンタイマーを試しに1分セットして、スタートボタンを押してみた。

ダイニングテーブルの上の食器をキッチンに運ぶ。まだ時間がある。
クロスを濡らして絞る。まだ大丈夫。
花瓶の水を替える。そこでようやくアラームが鳴った。

すごい。1分あれば、これだけのことができるんだ。



1分には、魔力がある──!



ボタンを押すという仕草も、スイッチを入れて切り替えるようなイメージができて良かった気がする。
次は2分に挑戦してみよう。2分になるとさらにできることが増えた。3分、4分、5分……。

5分まで終えたところで、ちょうど15分になっていることに気づく。

やる気が出ないときに、最小単位からはじめてすこしずつハードルを上げていくのは効果があるもしれない。ゲームで難易度を上げていくようなたのしさがある。


時計を見ると16時だった。ふだんなら、ここから始動する。でもどうだろう。きょうはすべてが終わっている。自分だけが楽をしているという罪悪感がなかった。
外に出たことがよかったのだろうか。それだけじゃない。──わたしは保存瓶を眺めた。梅シロップをつけてみたいと思ったこと。それが出発点だったのでは。


日々の暮らしは平坦だ。同じことのくり返し。梅仕事はその風味を変える作業だったのではないか。まるでスパイスみたいな。
だから、するすると続けられると思った。それじゃあ、毎日ひとつ、そういうスパイスがあったらどうだろう? うまく回り出すのではないだろうか。


気づいたことをだれかに伝えたいと思った。

でも、そんなことされたって、みんな困るだろう。──とりあえずノートに書き留めておく。



きれいになったテーブルで梅シロップを漬けることにした。
でも、どうやるんだったっけ。毎年やっているけれど、忘れてしまう。検索して一番上に出てきたのは、だれかのブログだった。

『今、ここで続く暮らし』

そんなタイトルのブログは、画面全体が真っ白で、余白のある構成に思えた。

記事を開いて驚いた。

うつくしい写真とともに、梅シロップづくりの工程がていねいにつづられていた。


こんなふうに記録できたら素敵だな──。


一度そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。ノートにたくさんのアイディアを書きつける。

そうして翌日、わたしは、ブログを開設した。

タイトルは『暮らしの錬金術』。

なにも考えなくても、適当にやっても、暮らしていくことはできる。
でも、どうせやらなくちゃいけないことなら楽しみたい。暮らしの中のいろんなことを素材として、まったく違うものを錬成するように日々を楽しんでみよう。

そんな気持ちでこのブログを作ったのだ。



2011


『夏の手仕事・あんみつ作り』(2011年6月22日)

 夏のキッチンに常備しているもの。それは、みつ豆缶。透きとおった寒天と、色のついたもの、フルーツに小豆が入っているボリュームたっぷりの缶詰だ。

 これを使うのは、水羊羹をつくった翌日だと決めている。
 夫の帰宅時間は遅い。最近はいつも23時を過ぎている。そこまで待てないのでわたしは先に食べてしまうのだけれど、デザートタイムだけはいっしょにしたいなと思っているのだ。

 昨夜は水羊羹をそのまま出したけれど、きょうは、この水羊羹をアレンジする。

 夕飯は鶏じゃがだった。肉じゃがの肉を鶏肉にするだけ。豚肉や牛肉でつくるよりも少しさっぱりと食べやすい。夫が肉じゃがと味噌汁、それからいくつか作っておいた副菜を食べているあいだに、わたしはキッチンに立つ。

 ボウルの中に白玉粉をぱらり。つぶつぶした硬めの雪みたい。そこに少しずつ、液体を入れていく。牛乳でも水でもいい。ほんの少しずつ入れるのがとても大事。

 白玉を練るときは「耳たぶくらいの硬さになるまで」と言われるけれど、これは真理だと思う。この硬さをゴールに決めると、計量しなくても白玉がつくれるのだ。

 耳たぶの硬さになった。ぐらぐらと泡立つお湯の中にそっと入れていく。煮る時間も測らない。沈んでいた白玉が、ぷっくりと湯面に浮かび上がってきたら茹で上がっている。
 冷たい水にとって、しっかりと冷やす。

 器のなかに、ひと口大にカットした水羊羹を土台として並べる。それから茹でたての白玉を入れて、色とりどりのみつ豆缶で飾っていく。一番上には、さくらんぼ。これでできあがり。

 白玉は作り置きすると硬くなってしまう。その都度作らなければいけないのは少し腰が重い。でも、夏の手仕事としてすごく気に入っている。

(紫陽花が美しい日に。リラ)




ブログをはじめて1週間ほど経った。アクセス数がすこしずつ増えていた。



はじめてのコメントがついた! kazuという女性だった。

《あんみつってハードルが高そうって思ってました。缶詰いいですね。白玉もそうか、計量しなくても作れるんだ。私はクリームあんみつが好きなんです。抹茶アイス、のせてみようと思います》

そのときの感動と言ったら──!

肩書のない”莉羅”になって、すこし、不安だった。社会とのつながりがない。自分の立ち位置があまりにも不安定だった。
でも、専業主婦のわたしだからこそ書けるものがあると思った。

雑誌を見ていて思ったのだ。

家事は、ほとんどの人にとって億劫なもののようだ。でも、ほんとうにそうなのだろうか。確かに作業自体はたいへんだ。でもわたしはクリエイティブなものだと思っている。自分次第できっと、いくらでもたのしめるものなのではないか。

そんな、壮大な実験をするつもりでこのブログをはじめたのだ。



kazuがSNSでブログをシェアしてくれた。それから少しずつ、コメントが、読者が増えていく。



kazuのように読むことを楽しむ人たちだけではなく、ブログを書いている人たちとも少しずつ、つながっていった。

ブロガーと呼ばれる彼女たちは自分の毎日を、やわらかく、ていねいな言葉で綴っていた。
思わずコメントを残すようになり、気づけば、親しく話せる人ができていた。



kazuにすすめられて、おそるおそるSNSを開設してみる。
更新のお知らせをすると、誰かが読んだよと感想を残してくれる。
それがたまらなくうれしかった。



結婚してからというもの、柊介以外の人と話す機会がなかった。
だからこそ、ここだけが自分の第二の居場所に思えた。



「ブロガー」と呼ばれる人たちの間では、同じテーマで記事を書く”企画”という遊びもあるらしい。

緊張しながらもわたしもその輪に飛び込んでみた。

そして、イヴという名のブログ仲間ができた。


イヴとは妙に気が合って、個別にメッセージをやりとりするくらい仲良くなった。

わたしよりもひと回りほど年上の女性で、3人の子どもがいる。面倒見のいいさっぱりしたおかあさんといった雰囲気で、いろいろブログのことも教えてくれた。


『生活のようすを伝えるために、私がこだわってるのは写真なの。無料のイメージ写真は手軽だけど、上手すぎるからこそ私のブログからは浮いちゃうんだよね。へたでもいいから、自分の生活感を伝えられるように写真を撮ってるよ』


毎日ブログを綴るのが習慣になった。
それまでは通り雨みたいだった生活が、晴れても消えない水たまりのように、Webの中に染み込んでいった。





秋にやりたい虫干し(2011年10月4日)
 肌寒くなってきた秋の午前中は、虫干しを楽しんでいる。
 虫干しというのは、窓を開けて風を通すこと。「本の虫干し」という言葉は聞いたことがあったけれど、どうやら、家具にも風を通すといいらしい。

 「やる気スイッチ」という言葉があるけれど、これは本当に物理的にあると思っていて。虫干しはきっと、そのスイッチになってくれるはずだ。
 まずは家じゅうの窓を開けていく。さらりと風が染み込んでくる感覚が心地いい。それから家具の扉も。引き出しも。

 虫干しは、からりとした秋晴れの日の午前9時から11時ごろが良いらしい。この2時間、ぜったいに座らず、片づけや掃除に精を出してみる。
 新鮮な空気のおかげか、涼しい風のおかげか。それとも、タイムリミットを設けているからか。驚くほど飽きない。片づけも掃除もたのしくなる。
そうして窓を閉めたら終わり。電気を消すみたいに、やる気のスイッチをオフにして、温かい飲みものを楽しむ時間をつくる。

 晴れた秋の日は、こんなルーティンが、たのしい。
(空が高いなんだか切ない日に。リラ)


kazuからコメントがついた。

《東北はきょう、あいにくの雨なんです。明後日には晴れるみたいだから、やってみますね。読んでるだけでも爽やかな気持ちになれます。》

イヴはSNSで紹介してくれた。

《リラちゃんの #秋の虫干しチャレンジ やってみた。9時~11時まで2時間でどこまでできるかな。ビフォアフ載せます。お楽しみに!》

気がつくとSNSのフォロワーは1,000人を超えていた。




時々、ふっと心が曇る。思っていたより遠くに来てしまったような、言いようのない不安があった。



その日、メールボックスをのぞくと、知らないアドレスからメールが届いている。

《『mame』編集部です。mameのオンライン版へコラムを書いてもらえませんか》

その後に、文字数や報酬などが続いていた。
目がすべって、うまく読めない。子どものころから好きだった『mame』。そこで、コラムを書いていいなんて。


帰宅した柊介に飛びついて話したら、彼も笑ってくれた。




「そういえばさ、全校朝会で表彰されてたことあったよな。莉羅。作文」

「え、よく覚えてるね」

「覚えてるよ、そりゃあ。……始めてみてよかったな、ブログ。すごいじゃん。莉羅にしかできないことだよ、きっと」

その言葉が、胸の奥にぽとんと落ちた。
自分のしていることにやっと形がついたような気がした。
頬に熱が集まってくる。言葉にならないまま、わたしはへにゃりと笑う。

炊飯器のふたを開けると、湯気がふわっと立った。
彼の帰宅時間に合わせて炊けるようにしておいた、栗の炊き込みごはんだ。

「小説家になりたい時期があったんだ。でも、考えても考えても、自分じゃない人っておもったらなにも生まれなかったんだ。こうして自分として書いていいのなら、たのしいし、向いてるかもしれない」



「わ、栗ごはんだ。むいたの?」

「ううん。甘栗使っちゃった」

「うまいよ。甘じょっぱくていいね。秋って感じだ」

箸を動かしながら、柊介はいつもより少し、目を細めていた。
わたしも口元をゆるめながら、ふと思い出す。

「ねえ、水守公園にさ、栗、落ちてたよね」

「あーあったあった。あと栃の実と、七竈ななかまどと」

「東京にはないね」

「今度の休み、弾丸で青森帰る?」

一瞬、顔を上げて彼を見る。冗談かと思ったら、真顔だった。

「いいの?」

「うん。なんかさ、やっぱり盆と正月ばっかりになっちゃうじゃん、帰省。俺、好きなんだよね。秋の雰囲気」

脳裏には、柊介と帰った秋の通学路がふわりと浮かんだ。

目の前の栗ごはんも、炊きたての時間も、ふたりの空気も、全部が宝物みたいに感じられて──怖いくらいだった。


そして月日は流れ、メールボックスに書籍化の打診が届いたのは冬のこと。

『mame』と同じ出版社、春陽社の編集部で働く江里からのメールだった。

わたしを取り巻く世界は、目まぐるしく変わっていった。


2013


サイン会の半年ほど前のことだ。

わたしはすこし、疲れていた。
SNSを開く。手紙型のアイコンが、赤く光っている。きゅっと息苦しさを覚えながら、ダイレクトメールを開いた。


ホットケーキミックスを使った蒸しパン、見ました! ホットケーキミックスって、ちょっとにおいが気になりませんか? 米粉でつくる場合どうしたらいいか教えてください!

ともちゃん(2013/10/2)


風船に穴を開けたみたいに、勢いよくなにかが抜けていく。

ありがとうございます。わたしは好きなんですけど、気になる人は気になるかもしれませんね。米粉、使ったことがないんです。お力になれずごめんなさい。自分で試行錯誤してみたら……

本音を打ちそうになって、削除した。

ありがとうございます! わたしは好きなんですけど、気になる人は気になるかもしれませんね><
うーん……。米粉。ごめんなさい、わたし、買ったことないんです。最近人気ですよね。気になってます!

送信ボタンをタップした。詰めていた息が一気にこぼれた。背中がひどく強張っている。

これが正解かは、正直わからない。でも、たったこれだけの文章を考えるのに30分かかった。

言葉を選び直し、冷たく見えないように記号や顔文字を追加する。何度も何度も推敲した。この時間があればブログを2本書けただろう。

これが、今できるせいいっぱいだった。



わたしはDMをスクロールしていった。


「ともちゃん」は毎日すべての記事に感想をくれる。
それはダイレクトメールという、わたしたちのあいだでしか見えないかたちで届く。


ふと思っただけで全然いいと思うんですけど、最後の一文がちょっと暗く読めた方もいるかも?と感じました。明るく終わると、もっと印象がよくなる気がして……。個人的な感想なので、気にしないでくださいね!

ともちゃん(2013/10/1)

いまの記事の書き方、ちょっと読みにくいです。ひとつのテーマだったら、どんなに長くなってもいいから1記事にまとめてほしいなあ。次のページに飛ぶのがね……。手間なんですよ。読者目線に立ったほうが、ブログって愛されると思います!もっとリラさんのブログが読まれてほしいからお節介しちゃいました!

ともちゃん(2013/9/30)

今日の記事……わたしは好きでしたけど、暮らしの知恵っていうより日記っぽい印象を受けました。
コンテンツとしてはどうなのかなあ。わたしは好きですよ。でも、気になる人は気になるかも。リラさんのブログを読む人は暮らしのコツが知りたいはずだから。

ともちゃん(2013/9/29)

コンテンツって“統一感”が大事かなって思います。
最近の記事、いろんなテーマが混ざってますよね。家事じゃなくって、リラさんの身の回りの出来事の日記みたいな。
初めて読む人は「なんのはなし?」って思いそう。やっぱり、役に立つことが知りたいです。私のフォロワーさんからもそういう意見があったので、一応お伝えしますね!

ともちゃん(2013/9/28)

発売記念講演のモニター募集、はずれちゃって残念です。リラさんに会いたかったなあ。
ちなみに当たった人の感想を載せてる記事見ました。体験したのっておひとりだけなんですか? かさまし、したほうがいいですよ^^ 
私がいつもしてる方法なんですけど、同じ人の感想を細切れにするんです。そして、別な人っぽくにして、何度も載せていく。こうしたら、たくさんの人から感想もらった感じが出せていいですよ!

ともちゃん(2013/9/27)

リラさん、顔出しはされないんですか? 暮らしの資格とったんですよね? プロだったら実名顔出しのほうが信頼感あると思います。どうしても不安だっていうなら、たとえば口元だけなにかで隠すとかどうですか? あとは仮面かぶるとか。

ともちゃん(2013/9/26)




思い返せば、最初のDMをもらったときはうれしかった。熱量のある感想。ちゃんと読んでくれる人がいるのだと心がふるえた。

それがいつの間にか“ともちゃんに怒られない文章”を探すようになっていた。そしてそれを選択すると、今度はべつな誰かからクレームが届く──。


すべての人の意見を掬い取ろうとして、わたしはもがいていた。
正解が見えなかった。



はじめはきっと、まっさらなブログだった。それを自分の色に染めた。

けれども、今はどうだろう。
たくさんの人からの善意の指摘に合わせていくうちに、なに色でもない、絵の具の洗い水のようなにごったものになっているのではないか。

そんな、悩みがあった。





「ともちゃんのフォロワー……2万人になってる」

それは、わたしよりもずっと多い人数だった。呆然として、思わずスマホが手からこぼれ落ちた。

ミステリー小説を読んでいた柊介が、なにか言った。けれども窓の向こうをバイクが爆音で走って行く音にかき消される。

「なにか言った……?」

わたしが尋ねると、彼は本を置いて立ち上がり、ダイニングの向かい側に座った。わたしの手からスマホを取って、充電器につなぐ。

「──もう、やめようよ」

「え?」

「ブログ。……向いてないよ」

思いもよらない言葉に、はくはくと吐息がこぼれた。

次の瞬間、涙腺が決壊していた。なんで。柊介だけは、味方だって。そう思ってたのに。

毎日届くともちゃんからのDMに疲弊したことも、夏目との関係がつらかった時期でもあり、わたしはあとからあとから落ちてくる涙を止められずにいた。

涙を拭こうと立ち上がり、ティッシュを持ったまま、その場に崩折れる。


「ごめん、ちがう……言い方悪かったね」

柊介はぺたりと座り込んでしまったわたしのそばにしゃがんで、目線を合わせた。

「俺が言いたかったのは、ちがうんだ。そういうことじゃないんだよ。──この”ともちゃん” ? DM見たけどさ、よく言えば戦略的で、悪く言ったらずるいよね」

わたしはうなだれる。

「俺の上司にもこういう人がいるんだ。見てて、俺も仕事向いてないって思うことあったよ。自分の思い通りに事を動かすために、事実を脚色したり、捻じ曲げたり……。俺がなんかしたのか心当たりないんだけど、最近、なんか棘があるしさ」

はじめて聞くはなしだった。わたしは驚いてぱっと顔をあげた。そういえば、柊介は最近、すこし痩せた。

「ともちゃんはきっと、自分の純粋なちからだけでフォロワーをここまで増やしたんじゃないと思うんだ。だって、本人が言ってたんでしょ? 感想をかさまししてるとか」

「うん……。彼女がはじめた、オンラインお片づけ相談の感想。本当はひとりしかいないけど、10人分の感想に見えるようにした、って」

「そういうところだよ。それは一部だ。きっとともちゃんは、ほかにもいろんな”ずる”をしてる。俺はそう思うよ。莉羅はさ、……それができる?」

わたしは想像してみた。
できそうになかった。それだけはやりたくない。──だれに対しても誠実でありたい。

「ほらね。──俺が言ったのは、そういうことだよ。どんな世界でも、生き残るためにはたぶん、多少のずるさが必要なんだ。だから、完全に悪だとは言えないんだよ。誠実なまま生き残れる人って、たぶん、本当にひと握りなんだと思う。」

わたしは言葉を継げなかった。

「でも莉羅は、ずるく生きるのに向いてない。愚直なんだよ。このままでいいの? この仕事をつづける限り、莉羅はずっと、消耗するだけじゃない?」

答えられなかった。





そうして、この日の問いへの答えをうやむやにしたまま、夏目に説得されて、わたしは顔出しを決意することになったのだった──。

その先に待っているものが意外な結末だなんて知る由もなく。



5章へ続く






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三條 凛花 最後までお読みいただき、ありがとうございます♡