『すくい』第5章 巣食い ─ 役員・リラ(27)
七竈
こんな人、フォローしてたっけ。
それが、──はじめに浮かんだ感想。
エンジンを切る。
ヒーターの風音が止まり、車内がすっと静まった。
戻り途中で持ち帰りにしたホットカフェラテのクリームが、しゅわりとくちびるの上についた。シロップを追加したはずなのに、甘さを感じない。
わたしは、SNSに釘付けになっていた。
そのアイコンを見たとき、だれなのかわからなかった。
わたしよりたぶん少し年上の、美しい女性。
ぱりっとした白いシャツを着こなした、美しい大人の女性だ。
目鼻立ちがくっきりしているのだけれど、それぞれの配置は少し真ん中寄りで、美人なのにかわいい感じもある不思議な人だった。色白ではないところがまた、エキゾチックな色気を醸し出している。
──この人を、どこかで見たような気がする。
名前を見て混乱した。記憶にあるものと一致せず、目がすべるのだ。
「これが……とも、ちゃん……?」
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呼吸が自然と浅くなる。勢いよくスマホ画面を真っ暗にする。鍵を引き抜く。でも、立ち上がれなかった。ハートマークも押せなかった。そういう自分の狭量さが、──いやになる。
《ずっと自作アイコン使ってたんだけど、これからは写真にしてみようと思うの。ドキドキ》
❤105 🔃2
そんなpostとともに変わったアイコンは、美しかった。
これまでのイラストでは、皺や鼻の穴を強調してコミカルな雰囲気だったのに、180度雰囲気が違う。
もう一度、さっきのpostを開いた。
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指の先が冷たくなっていく。感覚がないみたいに、力が抜ける。ハンドルにつっ伏した。
のどの奥が熱い。
浅い呼吸をくり返し、上を向いてはあ、と静かに息をこぼす。だめだ。これから会社に行かないと。
泣いている暇なんか、ない。
フロントミラーの中の自分を睨んで、薄いくちびるに赤色を引いた。
扉を開けて、パンツスーツを履いた足を車外に投げ出すように座り直す。スニーカーをピンヒールに履き替え、サイドステップに足をかけて、のろのろと降りた。
ラングラーの座席は高くて、いつもすべり落ちそうになる。
涙ごところがり落ちてしまいそう。ともちゃんの手には、わたしが失ったものがあるのだ。
──泣くな。背すじを伸ばせ。
深く息を吸ったとき、足もとの赤色に気がついた。
七竈の実が房ごと落ちていた。
赤い小さな粒が固まって葡萄みたいに寄り添っている。
子どものころ、この実を見つけると”当たり”だという気がした。色彩を失った秋の野原で、宝石みたいに綺麗なこの実はとくべつに見えた。つらいことも、汚いこころも、なにも知らなかった真っ白な自分が憎くて、眩しくて。
ピンヒールを履いた足を上げた。──でも、できなかった。七竈の実を避けて、わたしは歩き出した。
「莉羅さん、おつかれさまです」
部下の鳴海が駆けてくる。
彼の頭には白いものが混じっている。わたしよりふた回り以上年上の男性だ。
「おつかれさま」
「外回りどうでしたか?」
「うん。感触、よかったと思う」
わたしが答えると、鳴海は顔をほころばせた。
「今日なんですけど、めん恋りんごパイのサンプルページを作りたくて……」
鳴海が早口で切り出す。『めん恋りんごパイ』は、うちの会社の主力商品だ。
この間、リニューアルをしたのをきっかけに、オンラインショップのページも一新しようという話になっていた。
ほんのすこし写真や文章を嗜んでいたというだけの素人なのに、わたしはこの会社の──めん恋製菓(株)外ヶ浜本社の広報担当におさまっていた。
これまでとは畑違いなのだ。きちんとやるなら覚えることが多すぎて、目まぐるしく日々が過ぎていく。
エントランスに入る前、風に惹かれるようにふと振り返った。
山の中腹にある会社は、眼下にはずっと田んぼが広がっており、社屋のすぐ後ろには山の斜面がせり出すようにある地形だ。
平地には田んぼの合間を縫うようにぽつりぽつりと間隔を空けて建つ住宅。そのさらに向こうには海が広がっている。
いつもはきらきらと水面に反射する光まで見えそうなくらいうつくしいのに、くもり空のせいで、水面もどこか色褪せて見えた。
寒い。トレンチコートの前を合わせる。
──1年ほど前から、実家に戻っていた。
実家は、特産品であるりんごのお土産をつくる会社・めん恋製菓を営んでいる。従業員は50人ほど。
わたしはそこの役員におさまっていた。
父は昭和のワンマン社長といった性格で、ことあるごとにそれを鼻にかけていた。この小さな城で、ほかの人を見下ろすように偉ぶっている父のことが苦手だった。それなのに結局わたしは、父に頼っているのだ。
守ってくれる相手が、柊介から父に代わったに過ぎなかった。
一生分の幸せを、20代前半で使いきってしまったのかもしれない。
そう思うくらいの出来事が立て続けに起こっていった。わたしは、なすすべもなく、それをただ外側から見ていることしかできなかった。
江里と作った渾身の一冊も、夏目と息が合うようになってからつくった本も、どちらも売れなかったのだ。
続刊は、絶望的になった。
リラの商品価値は、もう、ない。
江里と作ったほうは、もしかすると、需要に対して供給が多すぎたのかもしれない。
彼女の意見ではない。”上”の意見だ。『リラの最適化生活』が5万部売れたことを見越して、はじめから大量に刷られたようだ。
わたしのSNSのフォロワーは1万人。
当たり前だけれど全員が買ってくれるわけじゃない。
その中には、副業などの勧誘アカウントも含まれているし、悪意を持って監視している人々も含まれる。
ただ役に立つ情報がないかと静観している人々がほとんどで、純粋に”リラ”を応援してくれる人はきっと、ほんのひとにぎりしかいないのだ。
サイン会やテレビ出演など露出は増えていたものの、初版から大々的に宣伝してもらえるほどの知名度はなかった。
”営業活動”はわたしひとりにゆだねられた。
SNSで一生けんめい宣伝してみる。少しでも興味を持ってもらえるように、ひとつずつ役立つことを入れてみたり、切り口を変えてみたり、いろいろ試してみた。──でも、力不足だった。
在庫がどれほど残ったのかは、わからない。
聞く勇気も持てなかった。
夏目と作った本は、部数は抑えめに出したいたものの、とにかく初速が悪かった。重版できるかどうかは、多くのケースでは発売前の予約数や、発売後1週間にかかっている。
予約が少なかった。その時点で不安を覚えてはいた。
白石千晴の新刊と発売日が重なったのが原因かもしれない。テーマも似通っていた。
なにより時期が悪かった。
じつは、わたしは夏目と作った本が発売される直前に、住まいを青森に移していたのだ。
だから、いくら夏目ががんばってくれたところで、人前に出るということが、取材をしてもらうということが、──叶わなかった。
お手洗いに立ったとき、ふとスマホを開いた。LINEの通知が来ている。
柊介からだ。今日は退勤後、「じゃっぱ汁」をつくって待っていると書かれていた。
わたしはくしゃりと笑った。
愛おしさと悔しさとがないまぜになった、許されない感情を抱きながら、跳びはねる猫のスタンプをタップした。
弱い自分が顔を出す。
目尻に浮かんだ涙をはじいて、業務に戻った。”役員の莉羅”の仮面を、かぶり直す。
エラー
──いまから1年ほど前。
忘れられない、灰色の午後だった。
窓の外では、霰混じりの雨が風に煽られ、枝を打ち鳴らしていた。暖房が効いているはずなのに、手足がしんと冷たい。カーテンの隙間からのぞく空は、午後とは思えないほど重かった。
今日こそ、夏目に告げなければいけない。
夫はふとんの中で背を向けたまま、ほとんど1日中動かずにいた。気を遣って音を立てないように歩く生活にも慣れつつあった。
『は!? 青森……? リラさん、それマジで言ってる?』
ひと通り事情を説明すると、電話越しの夏目の声は、震えていた。怒りなのか動揺なのか、わたしには判別がつかなかった。というより、そのころにはもう、なににどう反応すればいいのかすらわからなくなっていた。
考えることが多すぎて、くたびれていたのだ。
出版予定日の3ヵ月前の話だ。
江里とつくりあげた本が驚くほど売れなくて、ざわついていた時期でもあった。
「……もう、それしか方法がないんです」
『いやだからって……』
夏目の声がしぼんでいく。がりがりと頭を掻いているのであろう音が向こうから聞こえたかと思うと『あーもう!』と苛立つ声が響いた。
『いいですか莉羅さん。こういうのは顔見ないとダメです。とりあえず今すぐ行きます。どこで会えます?』
「家では夫が寝てるので……。駅前の喫茶店でどうですか?」
『すぐ行きますからね。絶対来てくださいよ?』
夏目は念押しするように言った。
「ちょっと出てくるね」
わたしはベッドに横になった柊介に声をかけた。
「……ごめんな」
彼はこちらを向かずに言った。声が潤んでいた。結婚生活でも子どものころも、彼が泣いているところなんて見たことがないのに。
わたしは履きかけた靴をぬぎ、室内にもどって、彼の広い背中をそっと撫でた。
はじまりは、エラーだった。
WEBショップから通知が届いて驚いた。クレジットカードの支払いができないというのだ。すぐにオンラインで口座の状況をしらべる。──残高がわずかに足りていなかった。
特に贅沢した記憶はない。
さかのぼって調べていくと、数ヵ月前から、柊介の給料が振り込まれていないことに気がついた。
「え……なんで……?」
夜、帰ってきた柊介に尋ねる。彼は真っ青な顔をして、口を開きかけて、そして閉じた。視線があちこち彷徨っている。やがて、観念したかのように「ごめん」と切り出した。
「……2ヵ月前に、……仕事、辞めてた。ごめん。毎日、仕事探してるんだけど。なんか……電車にすら乗れなくて。歩いて行ってるんだけど……っ!」
柊介は口元を押さえて吐いた。
「シュウちゃん」
胃を押さえて荒い息をしている。額には脂汗が滲んでいた。
トレンチコートを脱がせ、背広も取り去る。胸がいっぱいだった。柊介を抱きしめる。
「俺、吐いたから」
「いいよ」
明るい声を、──出せているだろうか。
抱きしめて優しい言葉をかけながらも、顔が見られなくてよかったと思っていた。
だって、わたしの頭のなかでは、これからどうしたらいいかということが目まぐるしく駆けているのだ。目尻に浮かぶ涙も、見せたくなかった。
なぜ真っ先に彼の心に寄り添えないのだろう。生活なんて、どうでもいいじゃないか。これまでずっと守ってきてもらったのに。
わたしは、──わたしはなんて、薄情なのだろう。
自分の醜さがゆるせない。
落ち着いたころ、柊介はお酒がほしいと言い出した。
吐いたし胃もいたそうだったら止めたが、話せる気がしないというので仕方なく用意した。
びいどろのペアグラスに、カルーアの原液を注ぐ。コーヒーのようなにおいが漂いはじめた。牛乳をとぽとぽそそぐ。手がすべりそうになって持ち直した。
柊介もビールが飲めない。甘ったるいお酒が好きなのだ。彼はしばらくグラスに手をつけず、ぼうっと酒を眺めていた。
わたしは一気に飲み干した。
コーヒー牛乳みたいな味がして、喉の奥がぽっと熱くなる。もう一杯つくるためにキッチンに立つと「会社にいられなくなったんだ」と、縋るような声が背中に刺さった。
それから栓が取れたみたいに柊介が語り出したのは、ここ数年での会社での出来事だった。
言葉に詰まるたびに、ちびちびとカルーアを口に含んだ。
「新卒のころからお世話になっている5歳年上の先輩がいるんだけど…… チエさんっていって。彼女の態度が、少しずつおかしくなったんだ」
はじめは挨拶を無視されたことだった。
大事な連絡が届かず、ミスをしてしまうようになって。
そして極めつけは、──虚言だった。
「なんか俺がチエさんにセクハラしたことになってて。会社の人たち、だれも信じてくれなくてさ」
柊介は乾いた笑いを漏らした。
これまで見たことのない、ぼんやりとした虚ろな目で、わたしではないどこかを見ていた。
「うそなんだ。そんなことしてない。だからわかってもらえるって思ってた。いろいろがんばったんだけど、ごめん。……駄目だった。しかもさ、理由が理由だから莉羅にも言えなくて。セクハラ? セクハラってなんで俺があの人なんかに……」
柊介は声を詰まらせた。
そんなことするわけないのに、と、消えそうな声がぽつりと滲んだ。胸がぎゅっと痛くなった。気づくと立ち上がって、柊介の頭をかき抱いていた。
彼がねむったあとも、胸の動悸が収まらずにいた。
これまで、生活費を柊介の口座から、突発的に必要になるお金をわたしの口座から出してきた。
数百万単位の預金はある。でもこれで、いったい何ヶ月生活できるのだろう。
月収は3桁のときもあれば、たったの1桁のときもある。
取材は単発のしごとだし、印税だって版元によってちがうから、今後続刊できたとしても、どれほどの稼ぎになるかなんて予測することはできなかった。
このときはじめて、わたしの夢は、柊介がつくってくれる堅実なお金があってこそ成り立っていたのだと突きつけられたのだった。
家賃に食費、消耗品……。ぞわぞわと這い上がってくるような不安に襲われた。
とりあえず、サブスクをどんどん解除していった。
次に部屋にあるものを売ろうかと考えた。
でも違う。もっと根本的な解決策が必要なのだ。
求人サイトを開いた。
就活をしていたときのような嫌などきどきした感じが蘇る。条件を選ばなければきっと、職はいくらでもあるのだろう。でも。そうしてフルタイムで働いたら?
そうしたらわたし、今の仕事を続けることができるのだろうか。
そもそも、最近、仕事はへってきていた。
ブログ1年目から続けていた『mame』のコラムの仕事も失ったばかりだった。PVに貢献できていないのが理由だ。
自分なりに研究し、頑張ってはいたけれど、自分ごととして書けないのも大きな理由だったのかもしれない。
『mame』の読者層は、30代後半のワーママだった。幼児から小学生くらいの子どもがいて、フルタイムで働いている。
自分とはひとつもライフスタイルが重ならない読者に、わたしの考えるアイディアは受けなかった。
一度、コメント欄をのぞいてみたら「ひまな専業主婦だからできることなんですよね」と書かれていた。
《”ていねいな暮らし”って言われると、責められてる気がする。私、毎日がんばってるのに。それなのにあたしは雑ってこと?》
《こんなの嘘っぽいよ。生活感がないって変。ごはんの写真を光の角度まで気にして撮ってる時点で、それってもう”暮らし”じゃなくて”演出”だよね》
《自分の正しさを押しつけられてるみたいで無理。こういう女だから、結婚から5年以上経っても子どもいないんだろうなw 》
ひとつのコメントに”ゆるし”を得て、どんどん連鎖していく怒りに飲み込まれそうだった。──子どものことは、ずっと気にしていた。
でもこんなことまで。こんな、プライベートなことまで……見知らぬだれかに言われなければならないのだろうか。
もうわたしへの仕事は届かないのに、メールボックスには、mameの編集部からメールが届く。
今月のトップ3と題して、人気執筆者たちの名前が載っている。
そこにはともちゃんの名が燦然と輝いていた。
天秤
「リラさん」
喫茶店の扉を開けて飛び込んできた夏目は、息を切らしていた。スマホ以外なにも持っていないように見える。
いつも真ん中できっちりと分けている髪の毛が乱れて、汗で額に貼りついている。
わたしの顔を見ると、ほっとしたように顔がゆるむ。
「夏目さん……」
そんな彼の表情を見ていたら、急に涙がはたはたと落ちてきた。
夏目はぎょっとした。それからスーツのポケットから、綺麗にアイロンがかけられたハンカチを取り出し、差し出した。
「とりあえず事情聞かせてもらえます?」
彼はわたしの向かい側に腰を下ろすと、呼吸を整えながら、アイスコーヒーを頼んだ。
柊介の仕事のこと、青森へ戻ろうと思うこと。……わたしは洗いざらい彼に伝えたのだった。
「仕事、俺も紹介できますよ。テープ起こしとかさ、需要はあるはずなんです」
「でも、それはわたしの仕事でしょう。わたしももちろん働くけど、彼が家にこもってるの、よくない気がするんです」
「……やっぱり、帰るんですか」
わたしはこくりと頷く。
すっかり冷めたカフェオレを口元に運んだ。
「青森に帰ったら、今の仕事は続けられませんよ。──そう、言ってもですか?」
カップを置こうとする手が、止まった。
夏目は目を逸らすことなく、わたしをまっすぐに見据えている。テーブルの上で、手を握るように重ねていた。
「暮らし系で売れるためには、取材が大事です。リラという存在を、認知してもらう必要があった。それはオンラインだけじゃ足りない。テレビ、雑誌……。昔からある媒体に登場することで、リラというブランドの信頼は積み重なっていきます」
いつの間にか、外は晴れていた。
夏目の向こう側には出窓があって、そこから差し込んでくる光に視線が奪われる。
「リラさんのアドバンテージはね、若さのほかにもありました。都内に住んでることだったんです。出版社から気軽に30分くらいで来られる距離に家がある。──なぜオンラインじゃ駄目かわかりますか?」
夏目が頼んだアイスコーヒーのグラスに、つめたく曇った水滴がじんわりと広がっていく。
背後のスピーカーからは、静かなジャズが流れていた。
「写真……」
「そう。リラさんに撮ってもらうっていう選択肢はできるかもしれない。でもそれじゃあ、誌面を大きく飾るようなものはむずかしいでしょう。素人の主婦が撮った写真なんだから。テレビ出演も無理です。青森からの交通費を考えたら。芸能人でもないのにそんなの出せませんからね。リラさん、……それを飲み込む覚悟、あるんですか」
夏目がまっすぐにわたしの目を射抜いた。
こころが揺れた。──やっと、ここまで来られたのに。本を出し続けられそうな環境に、近づいていたのに。
醜い本音に気づいて、かあっと頬が熱くなった。
「でも、……それでも、青森へ帰ります。東京のほうがわたしの仕事はたくさん見つかるかもしれない。でも、夫の気がすこしでも紛れる場所に、安心できる場所にいたいんです」
夏目は深くため息をついた。
「パートナーって、夢より大事ですか」
夏目がぽつりと言った。
わたしは答えられなかった。即答できなかったとしても、それでも、わたしはパートナーを選びたかった。その思いだけは揺らがない。
「莉羅さん、俺……」
夏目が手を伸ばしてきた。
彼の後ろから差し込んでくる西日で、表情がよくわからない。夏目の髪の毛の端まで、綺麗な橙色に染まっていた。
「……いや、なんでもないです。とりあえず、今は、本が売れること考えましょう。ここから忙しいですからね。引っ越しとか色々あると思うけど、俺は〆切をゆるめませんよ」
磨き込まれたテーブルの上に、わたしたちの影がゆらゆらと揺れていた。
「でも、なにかあったら頼ってください。ずるいのは、俺が引き受けます」
夏目はそう言って泣きそうな顔で笑った。
このとき、彼と会うのは最後になるのだろうなという、予感がした。
実家を継ぐと決めたとき、父はとても上機嫌だった。
赤い顔をして「俺は莉羅が都会に行くのだって反対だったんだ」と、柊介に次々飲ませた。
「頼ってごめん」
そう伝えると、父は「むしろ良かったよ」と答える。
「東京みたいに遠いところさいれば、様子がわからないから。前みたいなことがあったら大変だしな」
わたしは母の様子を窺った。母の目が吊り上がっている。父は気にせずに続けた。
「近いほうが安心だって。柊介くんには、これまでずっとおまえが世話になってきたんだから。今度はおまえが支える番だぞ」
父はそう言うと、わたしの肩を叩いた。
実家には、祖父母が暮らしていた離れがある。
わたしたちはそこを棲家にした。
これまで住んでいた東京のマンションとは違う。5年以上かけて、ふたりで少しずつ作り上げてきた空間ではない。
家がだめにならない程度のそうじはされていたのだろうが、とにかく古くてあちこちがボロボロで、なにより祖父母夫婦の生きてきた軌跡がそのまま残っていた。
他人の生活を覗き見するような気まずさがあった。
髪の伸びた日本人形や、床の間に飾られた書。つやつやした赤茶の棚は埃をかぶっていたが、中にはたくさんの硝子食器が飾るように仕舞われている。鴨居の上からぶら下がる柱時計の針は止まっていた。──ひとつも好みではなかった。
贅沢は言えない。助けてもらっているのだ。
柊介は日中、徒歩圏内にある彼の実家で農作業を手伝うという。
彼の父は高校生のときに他界しており、義母がひとりで家庭菜園のようなものをほそぼそと続けていた。
午後は離れで見つけた祖父の将棋盤に向かっていた。
わたしは新しく買ったパンツスーツと、ピンヒールの靴に身を包んで、父の会社で働きはじめた。
それが今から1年ほど前の、ことの顛末だった。
炎上を経験したわけでも、立ち直れないくらい嫌な目にあったわけでもない。でもわたしにはもう、著者としてやっていく目はなかったのだ。
担当編集?
今日もくたくたになって帰宅する。
”年下の上司”への反発も多い。うまくいかないことばかりで、強くなった気がする。
青森に戻ってきてから、1年が経とうとしていた。
ふたりがそれぞれ働くようになり、旅行は年に一度でも苦しいけれど、スーパーでなら値札を見ずに買いものができるくらいには安定した生活を送っていた。
先月、印税を使った。
すっかり運転にも慣れたので、車を買ったのだ。Jeepのラングラー。色は黒。中古車だけど、わたしの暮らしから考えると、決して安いものではない。
この車は、わたしに似合わなさそうなところに惹かれた。とても大きくてつよそうだ。これからのわたしが、そうあるべき姿に似ていて、まるで願掛けをするように、わたしはこの車を選んでいた。
離れの前にラングラーを停めると、扉を開ける前からいい匂いが漂っていた。
「おかえり」
祖母の遺したピンクのエプロンをつけた柊介が、鍋をかき混ぜている。
「カレー?」
「うん」
柊介は和食が好きだ。
昔、和風カレーを出したら気に入って、自分でもつくるようになっていた。たっぷりの白菜を入れるのがコツ。水分がぬけてくったりしたら、甘みが出ておいしい。隠し味には味噌とめんつゆ。
「てか、迎えに行くっていったのに」
柊介は少しずつ落ち着いてきて、半年ほど前から中心地に書店で働きはじめていた。
もともと本好きな彼は、水を得た魚のように楽しそうにしている。
街には車を停められる場所があまりない。だから迎えに行こうと思ったのに──。
「電車通学、慣れてるからさ」
柊介はすぐに、遠慮する。それとも電車に乗れるように練習しているのだろうか。苦痛に耐えながら。
JR津軽線は2時間に1本しかない。せめてその待ち時間が彼にとって苦でなければいいのだけれど、どうなのかはわからなかった。
ふたりとも働くようになると、暮らしがまた崩れはじめた。
家の中は埃っぽい。
お風呂あがりに片づけと掃除をしようと思っていたのに、わたしは沈むようにねむりに落ちていた。回した洗濯ものを干すことすらせずに。
わたしの書くものを読んだワーママたちが憤っていたのが、すこしわかる気がした。
ああ、これは確かにしんどい。子どもがいなくたって大変だ。そこに予測不可能な行動をする小さな子どもたちがいたら──。暮らしは回らないかもしれない。
子どものころからずっと家にある藤製のロッキングチェアにもたれたわたしは、今にもくっつきそうなまぶたをこじ開けて、SNSをひらいていた。
傷つくってわかっているくせに、これがナイトルーティンだ。
美人なアイコンに変わったともちゃんが、真っ白な部屋でキャンドルを焚いて本を読んでいる姿が載っていた。
本のタイトルは流行りのエッセイ。
明日は朝から収録だよ! 元気いっぱいお話しできるように、好きなことをしてパワーチャージしておくんだ♡ 読書のおともはカフェオレ。カフェオレって、牛乳とコーヒーを1:1くらいにしてつくるんだよ。やってみてね。キャンドルを焚くのが #ナイトルーティン#丁寧な暮らし#余白のある時間
マグカップ、クッション、ラグ。すべてにぼんやりとしたフィルターがかかっているようにうつくしく見えた。違う世界を生きているみたい。
わたしのスマホ画面に反射して写ったのは、取り込んだ洗濯物が山になったままのソファと、飲みかけの缶チューハイ。
画面を閉じたあともしばらく、目の奥に残像のように、あの部屋の白さが残っていた。
圧倒的な正しさが、眩しかった。
このときはじめて、わたしに異を唱えていた人たちのきもちが、すこしだけ、わかった気がした。
丁寧な暮らし──。だれもが使うから深く考えずに使っていた言葉だし、決してきらいじゃない。
考えた人はきっと、希望を持ってこの表現を送り出したはずだ。
日々を愛おしむことの素敵さ。それを伝えたかったのではないか。
わたしは手作りすることが好きだ。
とりわけ好きなのが梅シロップをつくる作業。一年の中で梅雨時だけという特別感。爽やかな香り。できあがったもののおいしさ。
たくさんの布を見比べて、どんな小物をつくろうか考える時間だって好き。てのひらの中から新しいものが生まれていく達成感がある。
どれも「丁寧な暮らし」にカテゴライズされるものだ。
でもこの言葉は、家事へのスタンスや環境によっては、圧があるのかも。自分が働いてみて、家のことがうまく回らなくなってはじめて、そう気づいた。
丁寧という言葉は、絶対的な”善”だ。「ちゃんとしている」「整っている」「美しい」などの印象を受ける。とにかくポジティブなのである。
この言葉はほんとうに不思議だ。やわらかくてうつくしい表現なのに、それでいて、絶対的に境界線を引かれてしまうような言い切り感すらある。
だからこそ、この言葉を価値観として定義されてしまうと、自動的に”それ以外”が否定されてしまうような危うさがあるのかも。丁寧な暮らしと、そうじゃない暮らしの間に、圧倒的な優劣が生まれてしまうような。
ふと「ていねい」という言葉を検索してみる。
「動作……?」
「ていねい」は、”動き”を表す表現なのだという。そう考えてみるとすとんと落ちるものがあった。
「丁寧に洗濯ものをたたむ」
「丁寧に皿の水気を拭きとる」
こうした表現だったら、わたしにはなにも刺さらない。それは単なる動きのひとつだからだ。
それが「暮らし」という、自分ではどうしようもない時間そのものや、価値観という領域でばつんと言い切られてしまう。もしかするとそれが、圧の原因なのかもしれないと思った。
素敵な言葉なのに、自分だって散々使ってきたくせに、立場が変わったいまは、自分に刺さる。
ていねいな暮らしも、そこまで売れてないのに本を書いて生きることも、柊介が生活の基盤をつくって、守ってくれていたからこそできたことだったのだ。
情けない。
つ、つ、と目尻を伝っていくものがある。
夢うつつの中で「ごめんな」と、誰かが頭を撫でたような気がした。
翌日、体調に思うところがあり、午前中病院に足を運んだ。母が車で送り迎えをしてくれたが、そのあと、柊介のところへ行きたくなって、ふと、彼がいつもそうしているように電車で街へ出てみることにした。
駅まで続くこの道を通るのは、何年ぶりだろう。蟹田橋を渡る。海から風が吹いてくる。潮のにおいがした。
高校生のころは毎日電車通学だった。
津軽線の電車は2時間に1本しかなくて、街で時間をつぶすことが多かったっけ。
蟹田駅のホームには屋根がない。四方八方からびゅうびゅうと吹きつける風にこごえていたら、鼻先がふわりと冷たくなる。
「え?」
はつ雪だった。ミルク色の空から、ちらり、ちらりと雪が落ちてくる。久しぶりにこころがほどけるような心地になった。
ピンク色のラインが入った津軽線がすべりこんでくる。ボタンを押して乗り込んだ。生まれ育った街が静かに遠くなっていく。
高校生のころ、向こう側にあるものはすべて明るく見えていた。でも決してそういうわけじゃないのだと、今のわたしはもう知っている。
柊介の昼休みまではすこし時間がある。駅前の店で、新しい靴を買った。
店員にたよらず、自分の目で、足で、いくつも試着して選んだのは、淡いブルーのローヒールのパンプス。
それからなんとなく駅の構内にもどり、ベンチに腰を下ろした。
きょうの目的地は、柊介が働く書店。
高校生のころに何度も行ったのだ。駅からすとんとまっすぐに進むだけ。道順は覚えている。
そろそろ行こうと立ち上がった、そのときだった。左腕に痛みが走った。強く引かれ、強引に振り向かされるかたちになる。
「はは! 莉羅ちゃん! ……やっぱり莉羅ちゃんだ」
目の前に立っていたのは、50代半ばくらいの男性。見上げるほど背が高く、細い目がにんまりと三日月型になると、溶けてなくなるみたいに一本の細い線になった。わたしは硬直した。
いつか、新幹線でいわれた母の言葉が、頭に蘇る。
《大学生になったからって、だれにでも愛想を振りまいちゃだめ。前にこわい目に遭ったでしょう。お父さんもお母さんも、東京じゃあ駆けつけてあげられないんだからね……》
高校生のとき、ストーカーに遭ったことがある。
ストーカーといっていいのかもわからない。ただ追いかけられたり、待ち伏せされたり、家を突き止められたりした、だけ。それが、この人だった。
「莉羅ちゃん、有名になったねえ」
彼はDと呼ばれていた。同じ英会話教室の生徒だ。
生徒といっても、わたしを除く全員が社会人だった。Dは公務員だったと聞いた気がする。
どうしてDかというと、空き教室の予約表に自分の名前を書くのだけれど、決まって「D」と書き残すから──。
「莉羅ちゃん、テレビ出てたねえ。本も全部買ったよ。今も持ってるよ。ほら、サインして」
彼の手には、表紙の角がめくれた本。表紙に映るわたしの顔は、切り刻まれている。
彼が鞄から本を取り出す一瞬で、腕を振りほどいて離れた。けれども後ろは壁だった。駅と駅ビルとをつなぐ連絡通路。浅い呼吸が止まらない。
「りーらちゃん」
Dは湿った声で笑った。ぐふぐふと喉の奥で転がすような、粘り気のある笑いだった。
「ちょっと会わないうちに、若くなくなっちゃったねえ。でもいいよ。ゆるしてあげる」
笑っているのに、目だけが動いていなかった。氷のように濁って、わたしだけを視線に絡め取っている。
高校生のとき、Dに家まで尾けられたことがあった。
家の前で腕を掴まれた。ちょうどこんなふうに。家のすぐそばには、ほかの民家がなかった。すこし離れたところに車が停められていて、そこに向かって引きずられていく。
驚きすぎて声が出なかったが、ちょうど日課の素振りのために玄関を出た父が、わたしの異変に気づいた。木刀を持ったまま、「貴様あ!」と太い声で叫びながら矢のように飛んでくるのを見て、Dは尻もちをついて逃げていった。
父に連れられて警察にも行った。けれども「ストーカーというほどではない」と言われた。
それからというものの、ポストに何通もの、消印のついていない手紙が届くようになった。最後には両親がDの職場に乗り込んで……。
──そのあとすぐに卒業して進学したものだから、彼のその後は知らなかった。大事にせずそれで終わったのか、それとも警察に行ったのか。
ずっとわたしの東京行きを反対していた両親が、てのひらを返したように賛成したのは、この出来事のせいだった。同時に、ふたりが異常に過保護になるきっかけでもあった。
「莉羅ちゃんのせいで仕事がなくなったんだよ。だから、莉羅ちゃんに責任を取ってもらわないとね」
Dはにたにたと笑いながら近づいてきた。わたしは声を出すこともできずに、ただ氷のように固まっていた。
太い指が、わたしに向かって伸びてくる。ぎゅっと目をつぶった。
「な、なんだよお前はよぅ」
恐る恐る目を開けると、わたしの前には広い背中が、壁になるように見えた。
どうしてここに……。うそみたいで、目を瞬かせた。
長身の彼に見下ろされたDは、わたしに対峙していたときとは違い、急に焦りだす。
「んーと、……担当編集?」
首をかしげたのは、夏目だった。
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