『すくい』 第6章 救い ─ 役員・リラ(28)
生活実用書の著者「リラ」と本作りの物語。
良い知らせと悪い知らせ
「こ、後悔するからね……!莉羅ちゃん!」
以前、木刀を持った父に追い払われたときのように、分の悪くなったDは悪態をついて、ころがるように逃げていった。
「やっばー。あれなんすか。ファン?」
手をひたいに当てて、遠くなっていくDのうしろ姿を眺めながら、夏目が訊いた。
「……高校のときのストーカーです」
「え? 年齢差やばくないっすか? 出会いなんです?」
「英会話教室ですよ。社会人も多かったので。はあー。怖かった。まさか10年経ってまた会うことになるなんて思いませんでした」
「ねえあれって……」
「昔、テレビに出てた……」
誰かの小さなささやきが、硝子のように冷たく耳に触れる。
その言葉ではじめて、Dが逃げて行った方向──駅の構内のざわめきに気がついた。
無機質に足音が床に響くなかで、天井の高い空間に反射するように話し声が響いていた。自分の名が、聞こえる。
「おーっと、リラさん、とりあえず歩きましょう」
夏目に促され、わたしはその場所をあとにした。
外の空気が頬にふれる。
鼻先に、ぽつりと冷たいものが落ちた。雪だ。
「うわー雪ー。テンション上がる。スノボ好きなんですよ、俺。リラさんやります?」
「わたしはスキーだけ。上手くもないです」
「あ、授業でやっただけの感じね。はいはい。……この時期に帰省するなんて久しぶりだなあ。雪の降りはじめって、わくわくしますよね」
夏目はうれしそうに空を見上げた。土産袋を下げた家族連れ、スーツケースを引く観光客――その中を縫うように、わたしたちは駅前広場を通り抜けた。
「なんとなく着いて来ちゃったんですけど、どこに向かってるんですか?」
わたしは足を止めた。
上を指差す。アーケードの天井からぶら下がる吊り看板に書かれているのは『成田本店』という文字。
わたしたちは柊介の職場である、書店の前にたどり着いていた。
「おー! なりほんじゃないですか! 超なつかしー。高校時代よく来ましたよ。いやあ10年ぶりくらいかもしれない。帰省してもほんと弾丸で東京戻ることが多くって」
そう言うと彼は、こちらに向き直った。
「ま、今回も帰省は帰省なんですけど。それは建前で。リラさんに、直接伝えたいことがあってきたんです」
ごくりと息を飲む。
「……なんですか」
真剣な表情の夏目を見て、覚悟を決めた。きっと、よくないことが起こったのだ。
手足のちからが抜けていく。
「重版、しました」
「え?」
「だーかーらー、重版、したんですってば」
「……なんで、今更」
わたしは驚いてきっと間抜けな顔をしていたと思う。
「リラさんの努力の成果っすよ。『mame』の連載を読んでいたNPOかなんかの代表が、お母さんのためのイベント? みたいなやつで配りたいって。似たようなはなしがいくつかあって。超絶大量に問い合わせがあったんです。レアケースだと思いますよ。……おめでとうございます」
「うそ……」
「企画は通します。だから続刊、しましょう!」
いつからだろう。いつ氷が割れるともしれない湖の上をひそやかに歩いているような心地で生きてきた。
そこには罅が入っていて、慎重に進めないともう落ちてしまう。
そういう、心地で。
「やだなー夏目さん。……やめてくださいよこんなまちなかで。しかもなんかのイベントって適当過ぎません?」
これまで見たことのない、夏目の、純粋な笑顔がどんどん滲んでいく。
熱い涙に雪が落ちてきて溶けた。はあ、と浅い呼吸がくり返しこぼれる。わたしは目頭を押さえて、鼻をすすった。
ずっと息苦しかった。胸のつかえが取れるようだった。力が抜けていく。
はらはらと決壊したとき「もうリラさんすぐ泣くー」と夏目が笑って、ポケットに手を入れた。
そのときだった。
「……莉羅!」
鋭い声がした。
ぼやけた視界の中に映ったのは柊介の背中。
夏目がさっきDからかばってくれたみたいに、深緑色のエプロン姿の柊介が、わたしと夏目のあいだに駆け込んできた。
どうして庇われているのかわからなくてしばらくぽかんとしていたが、やがて、涙のせいだと気がつく。
「あ……ちがう、シュウちゃんちがうの。この人、夏目さん。担当編集の」
「え?」
柊介は驚いて、わたしと夏目とを見比べる。
「あ……前に……」
「ちーす、工藤パイセン。3人でメシ行こうって約束してたんでね、来ちゃいましたー」
夏目は軽い感じで言った。
「にしてもなつかしー。せっかくだし、なりほん、見ていきましょうよ」
夏目はそう言うと、わたしたちを引き連れて書店に入る。
「やっぱり本屋に来たら、自分たちの分野が気になりますよねえ」
たどり着いたのは生活実用書コーナー。……もうわたしの本は置かれていない。
これまで出してきた10冊の本のうち、一部は、返本が続き、在庫を圧迫しているので処分したと出版社のひとに言われた。
あのとき泣いたことを思い出す。
「工藤さーん、お昼ですよー」
書棚の影から、柊介と同じエプロン姿の女性がひょっこりと顔を出す。
名札には、佐城真央という文字。教育係としてついてくれていると、そういえば彼から聞いた気がする。
チエさんの一件があってから女性に苦手意識を持っていたようだったので、話が合うようで少し安心していた。
「え……? え?」
赤い眼鏡をかけた彼女は、わたしの顔を見て一瞬おどろいたように目を見開いた。
しばらく固まってから「工藤さんの奥さまって、もしかして──」と続けるものだから、わたしは苦笑いした。
学生時代、この店にくるのがなにより幸せな時間だった。
柊介やわたしが暮らす外ヶ浜町に書店はない。だから夢のような場所だった。
でも、青森に戻ってきてからは一度も足を運んでいない。
ここに来ると自分が”過去の人”であることをいやでも痛感させられるとわかっていた。
夏目はぐんぐん進んでいく。わたしは渋々後を追った。
生活実用書コーナーには、ともちゃんの本が平積みされていた。
意外なことに、書籍のほうでは顔出しをしていない。あのコミカルなアイコンが前面に押し出された表紙だ。
「
あ゛ー!」
夏目が濁った声で叫んだ。
こちらを振り返った目が据わっている。
「そうそう。もう一つ。伝えたい事があったんですよ!」
「な、なんですか」
鬼気迫る勢いに気圧される。
「むしろこっちがメイン。”こういうの” はね、顔見て話さないと。──あーしくったな、最初に悪いニュースといいニュースどっちがいい?ってドラマっぽく聞こうとおもったのに」
ぶつぶつ言いながら、彼はともちゃんの本を指差す。
「この著者、やばいっすよ。リラさん、見て」
「……見たくない」
「いや、見たほういいって。買うのは俺が買うんで。ね?ね?」
夏目に押しつけられて、渋々ともちゃんの本を手に取る。憂うつな気分でページをめくる。
そして、目次を見て、言葉を失った。
「これって……」
「ね?」
泣く空
壜入りのコーヒー牛乳をくっとあおった。冷たくて甘い。
スーパー銭湯の畳敷きの待合室に、ひとりで座っていた。
わたし以外には誰もおらず、端っこの席でぼんやりと窓の外を眺める。
空が泣いているみたいに雪が降っていた。
後からあとから落ちてきた。
そうして外の街灯の、橙色の水たまりの中に藻掻きながら沈んでいく。
湯上がりのほおが熱くて、ぱたぱたと仰ぐ。そのたびに、温泉特有の曇ったにおいが肌から立ち昇った。
わたしは、自分が何年も前に書いたブログの記事のひとつを開いて、ぼうっと流し見していた。
◆1分には魔力がある
ミルク色の空が広がっている。雲の底がだんだん黒くなってきて、やがて、降り出した。マンションのベランダに出ると、目をつむりたくなるくらいの湿気が体中にまとわりついてきた。
今日は図書館に行こうと思っていたのに。
家にずっといると、動きたくない午後がある。
まぶたがくっつきそうなくらいねむい。でもきっと、このままねむってしまったら、目を覚ますのは夕方だ。──そう確信できるような日が。
今日が、まさにそんな日だった。こういうときはとっておきの”魔法”を使うことにしている。
ソファからなんとか立ち上がる。そうしてキッチンタイマーのところまでよろよろと歩いた。
手にとって「1」と押す。たったこれだけ。
眠気が吹き飛ぶわけではない。でも、このタイマーが鳴るまでのすこしの間だけならがんばれる気がした。
「たったの1分なら」
動けそう。わたしはスタートボタンを押した。
──1分後。思っていたよりずっとたくさんのことができた。
1分には、魔力がある!
これならできそうという手軽さ。そして、実際にやってみると思いのほかたくさんのことが魔法みたいに終わる、奇跡。
花瓶以外なにもなくて、ピカピカになったダイニングテーブル。1箇所がとても綺麗になったら、シンクに積み上がった皿が気になった。
2分……では終わらなそうだ。
玄関を整えるくらいなら終わるだろうか? わたしは玄関へ向かった。
こんなふうにして1分が終わったら2分、2分が終わったら3分……と続けてみた。すると驚くほどたくさんのことができた。
何度か試してみた。6分以上になるとすこし飽きてくる。セットした時間内に終わるような作業を選ぶと、きりよく次へ進めた。
つまり大事なのはきっと、リズムと緊張感なのだ。
1分。2分。3分。4分。そして5分。
集中力をしっかり保てる目安はここまで。
これが、ねむたい午後でもわたしの暮らしに魔法がかかる時間なのだ。
(東京が梅雨入りした午後に。)
💬24
読んでいたらその日の情景がふわりと浮かんできた。まるであの日にタイムスリップして、自分の身体に憑依するみたいに鮮やかに。
なんでもない一日だったのに、こうして文章に残してあるのっていいものだなあと思えた。
でも次の瞬間、夏目に見せられたともちゃんの本の目次が、ぼうっと浮かび上がる。
《1分の魔力を使いこなせ!》
《今日のバイサン(バイバイ&サンキュー)》
《窓を開けるだけで片づく秋晴れの魔法》
《手放し練習帳をつくろう》
《やる気スイッチは物理的に押せる》
目次の半分ほどだろうか。
わたしがこれまでブログや本で書いてきた言葉が、メソッドが、ほとんどそのまま使われていた。
夏目が「あーあーマジで買いたくないわあ」と言いながらレジに運んだ1冊を手に取った。「1分には魔力がある」のページを、開く。
とも活(no.12)1分の魔力を使いこなせ!
「1分しかない」じゃない。
「1分もある」んだよ。
午後の眠気がピーク。
何もやりたくない。
そういう日ってある? わかる!!!
私もそんな日、腐るほどあるよ。これを書いてる今も、実はそうw
でもさ。
「15分やろう」と思っても、だいたいむりだよね。
だって15分って、まあまあ長いから。
「どうせ無理」って心が言ってるうちは、立ち上がれないの。布団の魔力に完敗する未来しか見えないのよ。
そこで登場するのが【1分タイマー】ってわけ。
え? 1分じゃ何もできないって?
それ、マジで言ってる??
いいから一回やってみなって。
タイマーに「1」って入れて、スタートボタンを押すだけでいいの。
私も最初はどうせ意味ないって思ってたんだよ。
でも、1分でダイニングテーブルが拭けた。そしたら視界に入ったの。シンクに積まれた皿たちが。
いい。きれいになってるよ。……次は2分でやってみようか。
気づいたら、2分、3分、4分、5分って続けられてた!
6分以上になると、さすがにちょっと飽きるけど。
5分まではね、集中力が全力疾走してくれるゾーンなの。
大事なのは、完璧を目指さないこと。「終わらせられそうなことだけやる」これが必勝法だ。
例えば、
床に落ちたごみを拾うのとか、どう?
冷蔵庫の中の賞味期限切れのソースを1本捨てるのはできそ?
ゴミ箱からゴミ袋を取り出して結ぶのだっていいんだよ。
こういう「秒で終わるはずなのに後回しにしちゃう家事」ってさ、あるよね。
え? まだ「1分に意味ある?」とか思ってるの……?
この方法、マジで舐めちゃダメ。
甘く見てると、あっという間に家が整っていくから、ビビるよ?
現代人なら、タイマーで無双しろ!
「1分しかない」って思ってる人、
明日からは「1分“も”ある」って、言ってみな?
生活のクオリティが格段にかわるからさ。
今日のとも活:1分タイマーをかけて、動く
わたしが書いたものより、いいかもしれない。人気なのがわかる気がする。──そう、思ってしまった。くやしかった。
まるでともちゃんが目の前にいて、専属トレーナーみたいな感じで伴走してくれているような感覚になった。
この言葉も、やり方も、わたしのブログとあまりにも酷似していた。でもリライトされてしまったら別物なのだろうか?
そう流されそうになりつつ、夏目の、憤慨するような声が脳裏に蘇った。
「考えがかぶることはあると思うんですよ。暮らしって普遍的なものだから。同じ気づきはあってもふしぎじゃない。ぜんぜんありえます」
成田本店を出て、駅まで歩いているときのことだ。
夏目はそう前置きした。
「でもね? こんなにもすべての表現がかぶることって、ありえます? 」
夏目が据わった目をして言った。
「俺らさー、結構、いやかなりまじめに、表現を練ったじゃないですか。キャッチーで、でも伝わりやすくて、やわらかく女性にも好まれる感じで。莉羅さんのブログの表現にケチつけて、だいぶ意見戦わせたじゃないですかすじこおにぎり食いながらさー。すじこおにぎり、食いながら!!!! それを丸パクリって。超ムカつく」
ブログに書いた表現をそのまま採用された部分もあったけれど、たとえば「手放し練習帳」ははじめ、違う言葉だった。
「捨て作戦ノート」という名称を使っていた。
夏目が「リラさんの世界観に合わないんですよね」と、もきゅもきゅすじこおにぎりを食べながら言ったのを覚えている。そこから二人で類語をたくさん出していって、真っ暗になるまで考えてもしっくりこなくて、疲れて罵り合って。
最終的に生まれた表現が「手放し練習帳」だった。
「この人、ともちゃん? 相互フォローですよね? 友だちかなんかっすか?」
「……ううん。なんかわたしが書いた本を読んでアカウントを作ったって、メールくれたんです。最初のころはよくコメントをくれていたんですけど。でもなんだか、自分でもうまく言葉にならない違和感みたいなのがあって、純粋に応援できなくなった、というか……」
「違和感?」
「うまくいえないです。言葉の端々に、なんとなく、嫌な感じのものを感じるようになったっていうか」
「それって最初から?」
「そういうわけでは。彼女もブログをはじめてから、かな。毎日、記事への感想がDMで届いて…… 。それを読んで、返信しなければいけないことが辛かったです。でもそういえば、去年あたりからはぱったり何も来なくなったような」
わたしは薄目で中身をあまり見ないようにして、ともちゃんからのDMを開いた。
「あ、サイン会の前日が最後です。そこからはぱったり」
ふと思い出した。ともちゃんの新しいアイコンを見て、既視感があった。
「あれ、この人……。サイン会のとき、すごく美人な人がいて印象に残ってたんです。違うかもしれない、でも、似てる気がする……」
「あーあ、なんか焼き肉とか食いに行きたかったなあ」
はっと現実に引き戻される。
柊介と夏目が、まだ少し湿った髪のまま歩いてきた。わたしたち3人は、食事もできるスーパー銭湯にやってきていた。
一旦実家に寄った夏目とは、銭湯で待ち合わせていた。
強めのギャルの、ピンクの軽自動車で送られてきた夏目は心なしかぐったりしていた。
「年の離れた妹っす……駅前に迎えに来てもらってたんですけど、なりほん寄ってて待たせたからめちゃくちゃキレられました……爪がね、凶器」
一方、夏目と別れたあと、わたしは一旦電車で家にもどった。離れで少し昼寝をして、それから柊介の退勤後に迎えに行ったのだ。
ふたりで話したいことがあったのだけれど、タイミングを逃してしまった。
「焼肉無理。胃が痛いから無理」
「早く回復してくださいよー? リラさんには、まだまだ書いてもらわなきゃいけないんですから」
夏目が柊介を小突いた。いつの間にか仲良くなっている。
柊介が言った。見たことのない表情で、なんだかふしぎな感じがする。
そういえば、結婚してから柊介はいつもわたしを最優先にしてくれていた。わたしも彼も、ずっと二人きりの世界で生きてきたような気がした。
「あ! そうそう、アリバイ工作しないと」
夏目はそう言うと、わたしたちをぎゅっとひとまとめにするように肩を抱き、スマホを向けた。
「パイセンは顔隠しとくんでだいじょうぶですよー。リラさん、写真送るから、その内容でSNS投稿しといてください」
夏目から送られてきた文面には、こんなことが書かれていた。
《夫と担当編集とわたし、じつは同じ学校の出身なんです。きょうは前から約束してた3人での集まりがついに実現しました! #重版 》
「夏目さん、なにこれ……」
「アリバイ工作! いや、駅でさ、俺とリラさんがいるとこ目撃されたでしょ。まーた不倫だなんだって湧いてきたら困るじゃないですか。あの男とかやりかねないですよ。自衛っすよ自衛」
「あの男?……なんかあったの」
柊介が心配そうに眉根を寄せる。
わたしたちは駅前での一件──Dの話をした。
そういえば柊介にはDとのことを話したことがなかったが、驚いている様子はない。
「お義母さんから聞いてたんだ。あまりにも心配性なところがあったから前から気になってて。……怖かったな。凌もありがとう」
「りょ、凌……?」
妙に仲の良いふたりに、わたしは怪訝な顔をした。
待合室では軽食も頼むことができる。
オムライスを頬張りながらテレビに目をやっていた夏目は、りすみたいにほっぺたを膨らませたまま、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「うーわ……タイムリー」
そこに映っていたのは”ともちゃん”だった。
『今日のゲストは、いま売れてる生活実用書「100日後にミニマリストになるともちゃん」のともちゃんです。すごい人気ですね。今日はともちゃんと一緒に、片づけられない女芸人がお片づけメソッド”とも活”で部屋を綺麗にしていきます』
『皆さんこんにちはー!ともちゃんです』
どっと会場が湧く。芸能人と並んでも遜色ないくらいの華がある美人……。
『今日はみんなで”とも活”やっていこー!』
波打つような拍手の音。
『ブログの書籍化ということですが、はじめられたきっかけとかはあるんですか?』
『んー……。最初は丁寧な暮らし系のブログを読んでました! そしたらなんか自分でも書けそうだなって思ったんですよね』
胸が嫌な感じにドキドキした。
『ただ、しばらくやってみて思ったんです。私、フルタイムで働いてたんでそんな暇ないかもって。手仕事もね、いいとは思うんですよ? でも私のライフスタイルだったら買ったほうが早いんです。無理して手間暇かけなくていいかなって』
しん、と指先が冷えていった。
「あれ、パイセン? 顔色悪いっすよ」
夏目の声で振り返る。
柊介はうつろな目をテレビに向けていた。
「……智絵、さん」
ぽつりと、聞こえるか聴こえないくらいの言葉がこぼれた。
「え?」
彼の目は画面に、──ともちゃんの美しい笑顔にぐっと寄せられたテレビに、釘付けになっていた。
チエさん。
それは、夫が会社を辞めるきっかけになった女性だった。
思い出した。
サイン会のとき、どうして彼女が印象に残っていたのか。
それは既視感があったからだ。エキゾチックな雰囲気の美人。
彼女は、ともちゃんは、夫の社内旅行の写真に映っていた女性だったのではないか──。
手帳
「夏目さん、帰り送るから乗って行って」
「えーリラさん運転とかできるんだ。めっちゃ意外」
夏目はなにがおかしいのか、手を叩いてけらけらと笑った。思ったことをすぐに口に出す嫌なやつの面影が消えている。こうして見ていると、ふつうの、ちょっとチャラい青年という雰囲気だった。
「……俺が使い物にならなかったからね」
拗ねたようにぽつりと柊介がいう。
「これまでわたしが甘え過ぎてたの」
しん、と沈黙が落ちる。
「はあ……なにこの空気。ラブラブなの見せつけてる系ですかー? 独身のことも気を遣ってほしいけどなあ。パイセンも後輩もほんともう空気読めないわ」
夏目が口をとがらせるので、ふたりで笑った。
「やってらんないわぁ。あー飲も飲も」
夏目はそう言うと、ジョッキに注がれたビールをかっとあおった。そうして飲みきらないうちにさらに出来上がってしまった。
「俺飲まないからさ、運転するよ、帰り」
柊介がアルコールメニューを差し出して言った。わたしは首を振る。
なんて答えるか、迷った。
「きょうは、運転したい気分なの」
夏目の家は、わたしたちの家とは反対方向にあった。
彼自身は、コンクリート打ちっぱなしのミニマルなマンションに住んでいそうな雰囲気だから、どこにでもある、わが家と同じような”田舎の一軒家”が少し意外だった。
先ほど見たときよりいくぶんか薄い顔になった女性が「兄がスミマセン」と出てきた。
「おい起きろ! バカ兄! キモッ」
「パイセン、リラさん、せばまたねー」
辛辣に叩き起こす妹に対し、夏目はけらけら笑いながら、引きずられて行った。
「せばまたねーって。彼、本当に青森の人だったんだねえ」
車の中で柊介が言った。それは ”さよなら、またね”という意味の、方言だった。
「急に実感した。──よかったね、彼が担当で」
「うん……嫌味だし怖いけどね」
家に着いた。
エンジンを切っても、そのまま実家の離れに戻る気持ちにはなれなかった。
ドアを閉める音が夜に溶けていった。
住宅の明かりはまばらで、歩けばすぐに田んぼに出る。風が稲をなでるような、静かな音がする。近くには水路もある。
「ちょっと歩かない?」
「うん」
わたしは車に積んでいたブランケットを厳重に身体に巻きつけた。
空が深かった。
東京と違って、瞬く星の一つひとつがはっきりと目に映る。ちらちらと小さな雪のつぶも落ちてきて、見上げてみると、それがもう星なのか雪なのかわからないくらいだった。
まるで宇宙の中に立っているみたいな、白い光が無数に滲む、空。
くちびるから零れる息が、白い。
「苦労、……かけてごめん」
柊介が、ぽつりと言った。
「苦労とかじゃないよ。わたしが、柊介を支えたいんだ。──ずっとそうしてもらったでしょ?」
わたしは少し背伸びをして、彼の両頬を掴むようにふれた。
柊介は目をそらす。
「でも……。東京にいたらきっと、もっとチャンスがあった」
それは、事実だった。──ほんとうにこれでよかったのだろうか。東京にいたら、もっと本の仕事を続けられたんじゃないか……。
そんな考えも、夜の暗さといっしょに胸の奥から浮かび上がってくる。
けれど、そう思ったときには、もう一度自分に言い聞かせるのだ。
わたしは、わたしにできることを……と。
「妊娠、したんだ」
「え?」
柊介はぽかんと口を開けた。
なんのはなしかわからないといった顔で、視線を左右にうろうろさせている。
「聞き間違いじゃないよ」
わたしは彼の手を取り、おなかにあてる。
まだぺたんとしたままのおなか。今朝、病院でわかった。だから、ほとんど高さのないローヒールの靴を買ったのだ。
柊介は瞬きをして、何かを言いかけてやめ、わたしの手を取った。
外気にさらされて少しずつ熱が奪われていく中で、つないだ部分だけが熱かった。
雪がひとつぶ、柊介の目に落ちた。
そうして目尻から流れて、積もりはじめた青く輝く雪へ還っていった。
翌日は土曜日だった。
駅前のカフェで夏目と今後の方針について話していた。
カフェの天井スピーカーからは洋楽が流れ、隣の席では学生らしき二人が、何かの発表資料をのぞき込みながら議論している。店内はにぎやかだったけれど、わたしたちのテーブルだけはぽっかりと静かで、時間の流れが違うような気さえした。
打ち合わせが終わったあと、夏目が「あ、リラさん」と微妙な顔をして言った。
「……なんですか?」
「ご妊娠、おめでとうございます」
夏目がほがらかに笑った。
「なんで知ってるんですか」
「パイセンから聞いて。次はさ、子育てと暮らしをネタに行きましょうよ。イベントでママ層の読者が増えるはずだから、きっと知りたいと思うんです」
次が、──ある。それがたとえ叶わなかったとしても、希望になった。まだもう少しがんばれる。
そう、思えた。
「一年、休む予定なんですけど大丈夫ですか? ブログも一旦閉鎖するんです」
夏目は、口を開けてなにか言いかけたが、微笑んだ。
「うーん。知名度落ちちゃうかもですけどいいんですか?」
わたしはうなずく。
「戻ってきたら、がんばります」
「なんか急にしたたかになりましたねえリラさん。きらいじゃないです」
──ほんとうに、なんなんだろうこの人は。
でも、不思議とイヤな気はしなかった。彼なりの励ましなのだと思った。
「まあでも、ずるいのは俺が担当してあげますよ。リラさんはそのままでいいです」
夏目の言葉は、よく聞こえなかった。
店内はずいぶん混んでいて、注文カウンターには列ができていた。背後からはラテの香りとカップが重なる音。あちこちで聞こえる話し声が、重なって溶けて、言葉としてはもう聞こえないくらいだった。
夏目はそんな喧騒のなかでも、相変わらずテンポよく、どこか面白がるように言った。
それから彼は「ちょっと気になることあるんで調べますね?」と言い残してあっという間に奥羽本線に乗り込んだ。
新青森駅から、新幹線へ乗るのだろう。
開設してから4年以上、毎日更新してきたブログ。
わたしはその日、1年間ブログを休止するという記事を書いたあと、一部の記事を除いて、非公開ボタンを押した。
◆捨て作戦ノートをつくろう
子どものころから、ものを捨てるのが苦手だ。捨てようと思っても胸がぎゅっと詰まる。
「もったいない」という当たり前で大切なはずの教えが、呪いのように絡みついているのだと思う。
去年から「捨て作戦ノート」をつくっている。
「捨て作戦ノート」は、捨てたものを書くノートじゃない。
ここに綴るのは、捨てられないものと向き合った”記録”。結果的に捨てられたら最高だし、残す場合も納得感がある。
たとえば、ゲーセンのUFOキャッチャーで取った大きなぬいぐるみ。わたしは、これがとにかく捨てられなかった。べつに好きなキャラクターというわけじゃないのに。
どうしてなのだろう? 当時の捨て作戦ノートには、こんな走り書きが残されている。
1.時間 ─ これを取るまでにはかなり時間がかかった。かけた時間ごと捨ててしまうような気がする。
2.思い出 ─ 夫との気軽なデートで、なんとなく取ってみようというはなしになった。あの夜の遊園地の雰囲気が、ぬいぐるみを見るだけで思い浮かんで捨てられない。
3.生きものみたいに見えて ─ 顔があるものは、なかなか捨てられない。かわいそうな気がしてくる。
結局わたしは、このぬいぐるみを今も捨てずに持っている。
クローゼットを開けるたび、枕棚から、ちょっと恨めしそうにわたしを見下ろしているものだから、ゲーセンで取るのはお菓子だけと決めた。
(2014年追記:書籍化にあたり「手放し練習帳」という表現に変えてみました)
💬22
◆”やる気スイッチ”は物理的に押せる
雑誌を読んでおどろいた。「やる気」という概念は、存在しないらしい。
それでもわたしは「やる気」はつくれるものだと思っている。ポイントはスイッチを押すこと。
【1分には魔力がある】という記事で書いたようなタイマーでもいい。
なにか自分のなかで、気持ちを切り替える”身体的な動き”こそがやる気をつくると思っている。
わたしがほかにしているのは、たとえば、髪の毛をくくること。エプロンをつけること。紐をきゅっと結ぶタイプだとなお効果的。
温度調節も効果的だ。以前、どうにも身体が重たくて動けないことがあった。体調は悪くない。嫌なことがあって落ち込んでいるわけでもない。それなのに、どうして。
ところが、シャワーを浴びてみたら、凍った足が溶けたみたいに、急に軽くなった。温かいお湯がしゃらしゃらと身体をほぐしていく感覚ではじめて気がついた。ああ、わたしは、寒かったんだ、と。
微細な感覚の変化だからこそ、気づかないのかもしれない。
照明をひと段階明るくする。カーテンを少し開けてみる。温かい飲みものを飲む。目に見えないスイッチは生活のなかにたくさんねむっている。
どんな方法でも、大切なのは「手間がかからない」こと。
たとえばタイマーがどこにあるかわからない。手が届きにくいところにある。こういう状況だと、押すまでにワンステップ必要になる。これが天敵。
追伸、あなたのスイッチは、なんですか?
💬156
すっかりシンプルになったブログに目をやる。
2012年……はじめての書籍を出した年。柊介に掬い上げてもらったからこそがんばらなければと燃えていた。
2013年。夏目と出会ったころだ。あのころは嫌な人だと思っていた。こんなふうに家族ぐるみで、プライベートで会うことになるなんて思ってもみなかった。
ここから1年は、目の前にあるものを大切にしようと決めている。
初心にもどる。ゼロからはじめる。
毎日、暮らしのなかにある小さな素材を探していこう。
素材同士をかけ合わせて、錬成するみたいに、日々のきらめきを作っていくのだ。
今しばらくは、どこにも載せない。
でも暮らしの記録はたしかに続けていく。
静かにページをめくるように、季節をつむぐ。
わたしの手帳の中にだけ。
クリスマスメニュー。パエリア、リースサラダ、ビーフシチュー。同じものを毎年くり返し作るのはどうだろう。少しずつうちの定番、伝統みたいなのをつくる感じ。
来年はアドベントカレンダーを用意したい
お雑煮メモ。お餅はやっぱり焼いてから入れるのが好きかも。椎茸、鶏肉、人参、大根、三つ葉。
七草のフリット。
お粥がきらいな柊介もたべられた! 七草の苦味が好きだ。一年中売ってたらいいのにと思うけど、そうしたら飽きてしまうだろうか。タイムリミットがあるからこその楽しみなのかも。鳴海さんの奥さんに教えてもらったパスタも試したい。
クリームソーダにハマる。バタフライピーシロップを甘めのサイダーで割り、レモンシャーベットをのせるのがお気に入り。ぬくぬくの部屋で雪を眺めながらのむの、なんか好き。
今年のバレンタインチョコ、覚書。
柊介:ホットチョコレート。賞味期限がたった数分しかないものを提供できるのはいっしょに暮らしているからこそだと思う。わたしの重荷になってるとかいうから、胡椒をふってやった! ちょっとならおいしいんだ。
夏目さん : うちの会社の蜜漬けりんごをチョコでコーティングしたもの
佐城さん : 友チョコは、チョコチップクッキー
寒くても3月頭に衣替えをする習慣。寒いけど。でも、春のかろやかさをひと足先にまとうと、ちょっと得した感じがする。
合浦公園で柊介と、彼の職場の人たちとお花見。佐城さんが歌を披露していた。美声だった。
お重に入れたものメモ : 筍ごはん、胡麻ごはん、ポテトサラダ(桜型に抜いたハムを添える)、エビマヨ、煮しめ、鮭の幽庵焼き、卵焼き、お惣菜のトンカツ、お惣菜のから揚げ、キャロットラペ、いちご
母の日・父の日まとめて旅行券をプレゼントした。記憶にある父より、まるくなっている気がする。
今年も梅シロップを漬ける。なんで。はじめて黴びてしまった。酢を入れ忘れたせいかも。悲しいしもったいない……。テレビでともちゃんを見て複雑な気持ちに。
最近いつでもねむたい。おなかが重くて、寝苦しいせいだろうか。
午後、どうにもがんばれなくてねむっていたら、窓の外から懐かしい音が聞こえた。ちりんちりんアイスだ! 童心に返って買いに行きたい衝動に駆られたけれど、玄関に出たときにはもうリヤカーも音は遠ざかっていた。
夏目さんに勧められて、ホテルのモーニングに出かけてみた。彼の妹が働いているのだという。
泊まらなくても食べられるんだ! ずらりと並んだビュッフェにわくわくする。家だとぜったいにできない、贅沢な食事だ。
どれもおいしかったけれど、家でも手軽に試せそうなのは林檎入りのポテトサラダ。しゃきしゃきした食感と甘酸っぱさがアクセントになっていてよかった。次にポテトサラダをつくるとき、やってみよう。
メモ : りんご×料理の可能性
掬い、巣食い、救い
ブログを休止して半年ほど経ったころのことだ。
自宅のポストの上には、葉っぱの影がしゃらしゃらと揺れている。木漏れ日とともに蝉の声も降り注いでいた。ひたいに浮かんだ汗をぬぐう。
先月、産休に入った。
平日の午前中に家で過ごすのはひさしぶりだ。
ポストの中には小包がふたつ。
ひとつは先日、オンラインで取材を受けたムック本。
そしてもうひとつは、江里からだった。パンパンにふくらんでいる。その場で開封してみる。
『ブログを休止されてから、こちらに届きました。転送しておきますね』
中に入っていたのは、たくさんの封筒だった。
江里からの手紙には、近況や、翌週青森にねぶた祭りを見に来ようと思っていることなどが綴られていた。遠く離れてしまったのに、会おうと思ってくれていることがうれしくて、涙がこぼれた。
でもねぶたはもう今週だ。
LINEしようとスマホを出したそのときだった。
「リラさん」
「え?」
振り返ると、江里が立っていた。袖のない朱色のサマーワンピースが似合っている。
「来週行こうって書いてあると思うんですけど、じつは先週書いたんです。その手紙。校了前で忙しくて発送できなかったから持ってきちゃいました」
江里はそういうと、いたずらが成功した子どもみたいに舌を出した。たしかに消印が入っていないことに気がついた。
「家にいらっしゃってよかったー。もしよかったら、お茶でもしませんか」
柊介が休みだったので、青森駅まで送ってもらった。2ヵ月前に、彼の車も買った。柊介は白い軽自動車を選んだ。
青森駅からすこし歩いて、ケーキ屋さんの2階のカフェへ入る。窓ぎわの席を選んだ。
「夏目さんとはその後、どうですか?」
江里は、アイスティーのはいったグラスを置いた。からんと氷が音を立てる。
「ちょっと嫌味なことも多いですけど、でも、良い関係になってきてる気がします。じつは高校の先輩だったんですよ、夏目さん」
「え、そうなの?」
江里は拍子抜けしたように目を見開いた。けれども妙にむずかしい顔をしている。
「さ、アップルパイ。おすすめなんですよ」
わたしはハート型のアップルパイを江里にすすめた。上には薄くカットされた生の林檎がのっている。
江里はなにか言いたげにしていたが、さくりとひと口たべる。目が輝いた。
「え、おいし。甘すぎないですね……? 」
しゃきしゃきの林檎は、甘酸っぱい。隠し味のように甘みを添えているのはさつまいものクリームだという。
「ね? おいしいでしょう。この酸味がすごく好きで。家でも再現できないか、いろいろ工夫してたんです。レモン汁にりんごを漬けておいたり、焼き芋を買ってつぶして牛乳と混ぜたり」
わたしが言うと江里は「あ」とつぶやいた。
「読みました、その記事。ああ、……これが本家なんですね」
「そうそう!そうなんです」
「最後に会ったときとちがって、リラさん、元気になりましたね」
「そうですか……?」
「心配、してたんです。前に著者が自殺未遂したらしいってはなししたでしょう。……あのときの担当編集が夏目さんらしくて」
「え……」
わたしは言葉を失った。聞き間違いかと、思った。
すっかり大きくなったお腹を揺らして、家に戻る。江里のはなしが心を揺さぶり続けていた。なにも手につきそうになかったので、届いたふたつの小包を開封することにした。
まずはムック本のほうから。
できあがった書籍の献本が届いたのだ。
タイトルは『心地よさを追求する”私のおうち時間”』。「狭くても、忙しくても、自分を大切にする空間づくり」という見出しで、プロから一般人まで混在して掲載される、部屋の紹介企画だった。
かつてはこうしたムック本の表紙にわたしの名前も載り、見開き数ページの特集を組まれていた。
今そこには白石千晴やともちゃんの名が掲載されている。
わたしはメールで掲載依頼を受けたのだが、完成した本を見て驚く。
掲載されたのは一般読者からの自薦投稿ページだった。
確認しなかったわたしが悪いのだが、報酬はなく、献本をもってとのことだった。
この作業はかなりたいへんだった。
自宅まで来てもらうのではなく、メールで送られてきたWordの文章に回答を記入していく。質問内容はかなり多岐にわたり、すべて書き終えるまえには1時間以上必要だった。さらに、それを読んだ担当ライターから指定された内容で、自分で写真を30点ほど撮影し、メールで戻す。
作業時間でいえば3時間以上余裕でかかったのに。
プロフィール欄もそういえばなかった。肩書のところには会社員と書かれている。
会社員 リラ (29)
特に聞かれた覚えもないので、日中働いているというところから勝手に付け足されたのかもしれない。
思っていた以上にあっという間に、世界から”リラ”が消えていくのを感じた。
覚悟していたし、休息を終えてからまた0からスタートしようと決めた。でも、すこし虚しい。呼吸が浅くなる。
夏目との本づくりも、もう、できないのではないか。ここまで知名度が落ちてしまえば、いくら彼でも、企画を通すなんてむりなのでは。
手が当たって、江里の持ってきた包みがダイニングテーブルから落ちてしまう。花束みたいに色とりどりの封筒があふれ出した。
鼻をすすってしゃがみ、掬うようにテーブルに乗せた。
こういうときはおなかから温める。マグカップに少量の水とジャスミン茶のティーバッグを入れてレンジで温めた。それから牛乳を入れてもうすこし。きょうは、甘みはいらない。
きちんと座り直す。これは背すじを正して読むべきものだという気がした。
事前に江里が中身を精査してくれたとのことで、封筒は綺麗にカットされていた。最近、気持ちの浮き沈みがひどいからありがたい。
すでに封があいているけれど、一つひとつ、ていねいに取り出していく。読み終えた手紙が散らからないように籠も用意した。読んだら一旦、そちらへ移していこう。なるべく返事も書く。
そうしてこの間、夏目が送ってきたクッキーの缶が綺麗だから、そこに大切にしまっておこう。
最近、なにかが足りないという感覚にようやく慣れてきたところです。
リラさんのブログは唯一無二でした。“ちいさなヒント”がみずみずしい文章のなかに、きらめくように散りばめられていましたね。私は、それを生活の中の灯りのように感じていました。
まぶしくて素敵で、自分もそういうふうになりたい、暮らしを大切にしてみたいと思えるようになったんです。
リラさん。今、元気にお過ごしでしょうか。
近況がわからなくて不安に思っています。
私はリラさんのファン1号だと自負しています。
リラさんのブログを初期から読んでいたので、”あの本”の内容に違和感を持っています。あの中には、読者を見下すような蔑みの目が、リラさんたちほかの著者さんたちが生み出したものを軽く扱うような無意識の悪意が、静かに巣食っているように感じたのです。
それがブログを閉鎖された理由じゃないかと想像し、心苦しいです。
いつでも帰ってきてください。──ずっと待ってます。
この4年、毎朝、リラさんのブログを読むのが日課でした。
なにも否定せずに、ただあるがままを書いてくれる。そのことにどれだけ救われたでしょう。私は母親らしくない自分のことがずっときらいでした。だからこそ、リラさんのブログは、押しつけがましくなく、そっと心に寄り添ってくれるものだと思いました。
新しい記事の更新がないのはさみしいです。でも代わりに、これまでに購入した本の中から、毎朝、その日の気分でぱっとページを選んで、書いてあることを一つずつ掬うように取り組んでいるんです。
数ヵ月続けました。生活にちょっとだけ余白ができたような気がしています。
じつはサイン会でお会いしたことがあります。あのころ中学生だった娘も、もう高校生です。時の流れはあっという間ですね。
時々、残念に思うことがあります。娘がもっと小さなころに、暮らしが整っていたら。そうしたらもっと機嫌よくあの子と向き合ってあげられたんじゃないか、と。
大げさかもしれませんが、リラさんは私の“暮らしの先生”です。もっと若いときにあなたに出会いたかった。
追伸、最近、片づけの資格を取りました。個人宅でお手伝いするサービスをはじめてみたいなと思っています。
リラちゃん、大丈夫ですか。いま、笑えていますか。
おひさしぶりです。”イヴ”のアカウントを消したあとも、ずっと、リラちゃんのブログを読んでいました。
私はもともと向いていなかったなと思ってるんです。だから、もう復活はしません。これからずっと読み専です。
3兄弟も少し大きくなって手が離れたので、今は毎日フルタイムで働いてます。たのしいです。合ってる気がします。
でもリラちゃんはたぶん、──違いますよね。リラちゃんは、書くために生まれてきた人だと思います。リラちゃんが描く日常はみずみずしくて、まぶしいです。きっとたくさんの人の救いになります。
いつか戻ってきてくれることを信じています。
手紙のなかに詰まっていたのは、愛情だった。
はらはらと涙が落ちてきた。
ただの、名もなき莉羅だったわたしの書いたものが、誰かの毎日に寄り添っていた。それを見て動いてくれた人がいる。新しい生き方を選んだ人がいる。
それってすごいことだ。
奇跡みたいだ。
そのとき、お腹がひどく痛みはじめた。わたしは陣痛間隔アプリを開いた。それから、書店の正社員として再就職した柊介にメールだけ入れて、母を呼んだ──。
1年後──。
もうすぐ1歳になる娘が、ようやくねむった。娘におおいかぶさるような体勢のままフリーズしていたけれど、そっとおしりの下に添えた手を引き抜く。1、2、3、4、5……。
起きない。ようやく息を吐いた。
娘は最近、あまり昼寝をしてくれなくなっていた。
ふくふくの頬をそっとなぞる。目や薄いくちびるはわたしにそっくりで、耳のかたちは柊介に似ている。まつ毛がふるふると揺れたので、わたしは慌てて退散した。
2年近い生活のなかで、離れからは祖父母の気配が少しずつ消えていた。
つやつやと磨き上げられた食器棚は黒くペイントしてシックな雰囲気に。障子は外してグレーのレースカーテンをかけた。
少しずつ自分たちのちからで、好みの雰囲気に改造されていく家を、愛おしく思えるようになってきた。将棋盤や、刺繍枠、蔵書の一部など、そのまま大事に引き継いでいるものもある。
食器棚から白い繊細なレース模様の皿を取り出し、さっき焼いておいたレモンケーキをのせる。白いアイシングがつやつやと照り、甘酸っぱい匂いが立ち昇っていておいしそうだ。
窓ぎわのレースのカーテン越しに下には手作りのランチョンマットを敷いて、皿を置く。
スモーキーな青の一輪挿しに、庭で摘んできたコスモスを生けた。
逆光になるように撮るとふんわりする。
ブログを休んでいる1年のあいだに、わたしは通信講座に申し込み、写真を本格的に学んでいた。オンラインではあるが、ライタースクールにも通った。
夏目に「素人の主婦が撮った写真」とか「素人の主婦が書いた文章」と言われたことを根に持っていたのだ。
パソコンの前にすわる。大きく深呼吸をした。
きょう、わたしはずっと閉じていたブログを再開する。
自分が綺麗だと思うもの、素敵だと思うもの、ひらめき、気づいたこと……。だれにも響かないかもしれないけれど、写真とともにそっとWebの海に流す。
もしかしたら、べつな誰かを救うかもしれないそれを──。
→ 終章に続く
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