【ファンタジー小説部門】『√365』│母と私の女正月
▼このお話は『√365』の一部です。「序章」を読んでいただければ、あとはどこからでも1話完結で読めます。
毎年、母が小豆のお粥を炊く朝があった。
雪が夜明けのすみれ色の空を照り返して、青白く光っているような、朝。そう考えると、ちょうど、今時分のことなのだろう。
母がお粥を炊く理由は知らない。そして私は物心ついてから、それを一度も完食したことがない。
子どものころにひと口だけ食べたそのお粥が、とにかく甘かったことは鮮烈に覚えている。それで拒絶した。
お菓子以外の甘いものは嫌いだったから。
もっというと小豆そのものが苦手なのもある。皮のざらりとした食感が苦手だった。
その朝、目を覚ますと母はもういなかった。仕事に出たのだろう。母は大学の学食でパートをしている。早朝こそが仕事時間なのだ。
父は2年前に他界した。
この家には母と私のふたりきりだ。
わたしは、昨夜勢いで買ってしまった東京行きのチケットをしばし眺め、ゴミ箱に捨てた。返金は望まない。駅に行ったら、新幹線に飛び乗りたくなってしまうから。
外に出ると鼻の奥がつんと痛んだ。吐き出す息が白く凍る。
背中をすぼめながら、小走りで車に乗り込む。
冬の朝は、真っ暗な中、雪かきからはじまる。朝食もそこそこに、いつもより早く家を出なければいけない。運転もスピードを落とさなければいけないし、渋滞しがちだ。
何より気が滅入るのはこの暗さだ。私が家を出るころは、まだ、空が少し暗い。
明けていく時間の海を眺めながら走るのも悪くはないけれど、車のエンジンをかけ、道路に滑り出すまでは「やっぱりふとんの中に戻りたい」という気持ちになってしまう。
そして、そういう思いは年を経るごとにますます強くなっている。
「あ」
車に乗ろうとして、慌てて家の裏側に走る。そこには雑木林に囲まれた古い神社があった。そして、毎朝そこに行くのが父の日課だったのだ。父は毎日祈っていた。家族が健康で無事に過ごせますように今日も努力します、と。
父は死の間際に言った。
「あそこの神さまに助けてもらったんだ。だから、俺が死んでも、お参りは続けてほしい」
母もわたしも信心深いほうではなかったので、なにをと思ったが、あまりにも鬼気迫る様子だったので、なんとなくお参りを続けている。基本は母が。でも、母がいないときは、わたしが。
わたしが高校生になる、すこし前からだろうか。家の中に大きな貯金箱が置かれるようになった。父は5円玉があったらそこに入れるようにわたしたちに告げた。
毎朝、5円玉を入れてお参りをする。
「祈ってはいけない。神頼みじゃないんだ。神さまには自分の決意を告げなければいけない。なにをどう選んで生きていくのか。それを、見ておられるのだ」
父は苦しげに汗をにじませながらそう言った。
5円玉を放る。硬貨特有の金属音はしなかった。木箱に沈むように、くぐもった音が響いた。わたしは、きっと赤くなっているだろうほおをさすった。寒すぎてほおが痛いのだ。
「あ、おはようございます」
ふと後ろに老婆が立っているのに気がついた。返事はない。彼女もいつもお参りをしているらしい。黒い裾の長いワンピースを着て、鷲鼻をした、魔女のような見た目の人だ。
雪が降りしきる中、彼女はワンピースの上になにもはおらずに歩いている。どうしても気になって、わたしは首に巻いていたチェックのストールを外した。そうして老婆の肩にそっとかけた。
彼女のぎょろりとした目がこちらに向けられる。会釈をして、雪を駆けた。とす、とすと軽い音がまだ薄暗い夜明け前の世界に消えていった。
案の定、渋滞にはまってしまった。
暖房が効きすぎているのか、頬が熱い。ラジオから「今日は小正月です、女正月とも呼ばれていて……」と由来の説明が流れてくる。母が毎年炊いているお粥は、どうやらこの日の行事食らしい。
説明を聞きながら「元日が男のための正月っていうの、なんだか嫌だな」と思った。
今の会社に入って、そろそろ7年になる。
私のあとに入った女性社員はいない。
今もまだ朝一番に出社し、社員全員の机を磨き、貼りつけた笑顔で迎え、「まだ結婚しないの?」などという軽口を受け流し、全員分のお茶を淹れて回らなければいけなかった。
最近は、役員の昼食したくという雑務まで加わった。
したくといっても、届いた仕出し弁当をそれぞれの席に並べ、指定のあった好みのインスタント味噌汁を用意することなのだけれど。でも、自分の昼休みを削ってやらなければいけない。
先週6連勤だったから、今日は午前中だけ出社して帰った。
なんとなく気が抜けて、車のシートに倒れ込み、ふう、とSNSを開く。
進学を機に東京に出たマサコの、新しい投稿が目についた。
背の高いおしゃれでスマートな男性と腕を組み、このあたりでは見たことがないような凝ったつくりのカフェの前で撮られた写真。
マサコの毎日は華やかで、うらやましくなる。
高校時代は私と同類だったのに。ぱっとしない地味なガリ勉。それが私たちのアイデンティティで、それがきっかけで仲良くなったのに。
父の反対を押し切ってでも東京の大学へ進めば、──わたしもそうなっていたのだろうか。
家に帰ると母が台所に立っていた。「今朝は作れなかったから」と出されたのは小豆粥だった。
正直なところ「またこのおかゆか......」と思った。
それなのに、どうしてだろう。吸い寄せられるようにそのひとさじを口に運んだ。
思っていたより甘くない。疲れた心に染み渡るような、潤してくれるような、優しい味。
気がつくとお椀は空っぽになっていた。
「珍しいじゃない、あんたがこれを食べるなんて」と母が目を丸くした。
(私にはむりだ)
そういう気持ちが長年頭のなかにあって、口をつけなかった。食べてみたら、おかわりしたくなった。
頭の中で文句を垂れるだけでは変わらないのだ、きっと。東京なんて、転職なんて自分には無理だと思っている、その気持ちも。
でも。洗いものをする母の背中に目をやる。グレイヘアで、小さくて丸い。──一人にはできない。
洗いものを終えると、ダイニングテーブルに、捨てたはずのチケットがある。
「ほかの場所で生きてみても、いいんじゃない?」
母は、何かをこらえるような笑顔でそう言った。
寝てしまった。おやつを食べたい。冷蔵庫の中に苺を見つけ、母のおやつを思い出した。
苺をあんこで包む。白玉粉と砂糖を水でといて加熱した大福生地で包む。熱すぎる。小さな悲鳴をあげた。これが嫌で母はあまり作ってくれなくって、特別なおやつだった。今は、私も作れる。
ひとつ頬張ると苺の酸っぱさがじゅわりと口を潤した。それからあんこの甘さが広がった。
母の分を取り分けラップをかけると、私は車のキーを持った。向かう先は駅。
チケットを払い戻してもらった。──なにかのせいにせずに、ここで、新しい私を生きていくために。
▼このお話は『√365』の一部です。じつはこれが3話目。
「序章」を読んでいただければ、あとはどこからでも1話完結で読めるようになっています。
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