【ファンタジー小説部門】『√365』│空知る、心知る
▼このお話は『√365』の一部です。「序章」を読んでいただければ、あとはどこからでも1話完結で読めます。
空の色を知ることから、私の朝ははじまる。
カーテンを開ける瞬間が好きだ。
窓をいっぱいに開けて、空気を入れ替えると、体も心もすうっと覚醒する。
次にするのはベッドメイキング。ふとんの両端を掴んでふわりと持ち上げる。空気を含んだ布団が静かにそっと横たわるように平らになっていく。
それから身じたく。顔を洗ったら、熱々の蒸しタオルをのせる。このひと手間で目が覚める。よそ行きの顔を作り、エプロンの紐をきゅっと結んで、一日が始まるのだ。
夫のお弁当作り。
彩りに栄養バランス、食べやすさも考えてメニューを組み立てる時間が幸せ。パズルみたい。
月曜日はバイト。火曜日は内職。水曜日もバイト。木曜日もバイト。金曜日はパン教室。
その合間に、1円でも安いスーパーを探して、電動自転車で向かう。家計をやりくりして捻出した自分用にと決めたお小遣い。
そのほとんどすべてをパン教室に注ぎ込んでいる。
最近、同じ教室の御津川さんとのつき合い方に困っている。――悪い人ではない。ひとりでいると声をかけてくれる。帰りにお茶に誘ってくれる。でも……。
「そういえば、どちらの流派で茶道を習っているの? ……あら、習っていらっしゃらないの。どうして?」
御津川さんはこてりと首をかしげた。
その微笑みは、春の日だまりのようにやわらかく、悪意は微塵も感じられない。
パン教室に通うために、1ヵ月かけて夫を説得した。
決して、彼が意地悪なわけではない。私たちの家計を考えるとあまりにも贅沢だったからだ。
極めつけのひとことに打ちのめされたのは先月のこと。
その日、教室仲間の話題は、春休みの学童の、弁当作りについてだった。朝作るのが面倒だよねとか、メニューを考えるのがきらいだとか。
お弁当作りが好きだとは言い出せずにいた。
教室が終わったあと、御津川さんと2人でお茶をした。
私の1時間のアルバイト代と同じ値段のケーキ。ひと口ひとくち、ゆっくりと口に運ぶ。
「皆さんのお話、私にはよくわからなかったわ」と御津川さんが言った。
「自分で作らなければいいのに」と続けた。そう言いながら、彼女はくっと紅茶を飲み干した。もうケーキはなくなっている。
「家事をさせられているなんて、かわいそうだわ。自分の時間がなくなってしまうじゃない。すべて家政婦さんにお任せしたらいいのよ」
翌週から、御津川さんに話しかけられても、笑顔になれなくなった。それは私だけではなかった。
気がつくと、御津川さんは孤立していた。彼女は、それさえ気がつかずにいつものように、にこにことしていた。
言葉にできないもやもやした気持ちは、夫にぶつけてしまった。大学時代からのつき合いである彼は手慣れたもので、「なにがあったの?」と察したようだった。
それではじめて、自分が彼に八つ当たりをしたことに気がつき、謝り、そしてこれまでのことを打ち明けた。
話を聞き終えると、彼は、チラシの束を差し出した。裏紙をメモに使おうととっておいたものだ。
「何に怒ってるのかわからないから、いらいらするんだよ」
私が知っている彼女のことを書いた。
御津川さんは同い年の29歳。
専業主婦。
月曜日は乗馬。火曜日はヨガ。水曜日は茶道。木曜日は華道。金曜日はパン教室。
旦那さんが超高収入。都心の海が見えるタワーマンションに住んでいる。
お嬢様育ち(少女時代の話を聞くとそう感じる)。
2歳の子どもがいる。
人と話すのが好き。
涙もろい。情に厚い。困っている人を放っておけない。
通いの家政婦さんがいる。
結婚してから5年、1度も家事をしたことがない。
──そうか、私は御津川さんの言葉「だけ」に怒っていたのだ。
自分が大切にしているものを踏みにじられたような、悔しさからできた感情だ。だから、彼女を責めるような感情しか湧いてこなかった。
でも彼女は、彼女の価値観で生きている。家政婦さんにお金を払ってしてもらう家事を、同じ”妻”である私たちが無償でするのはかわいそうなことだ、と。
その考えは、彼女の環境では当然のことだったのだろう。
無神経だったと思うけれど、やはり、そこに悪意はない。純粋な気持ちで言った言葉だ。
ほっとすると、あくびが出た。気がつくと午前0時を回っていた。
もやもやした気持ちの正体がわかったら、明日、私がするべきことがわかった。私の価値観を伝えること。私が家事を好きでやっていることを彼女は知らない。かわいそうだなんて言われたら、腹が立つ。
でも、だからといって、御津川さんをきらっているわけではない。こういう考えもあるって理解してほしい。否定しないでほしい。
気持ちをひとことも告げないまま土俵を降りてしまうのは、フェアじゃない気がした。
どんなふうに切り出そうか考えているうちに、眠りに落ちていた。久しぶりに心地よい眠りだった。
そうして私が彼女と話す日の空の色は──。
(2,000字)
*あとがき*
「毎日家事をさせられているなんて、かわいそうに……」
これはわたしが実際に投げかけられた言葉です。なんのはなしかわからなくて、時間が止まりました。
自分とは住む世界が違うような、上流階級の人と友だちになったことが何度もあります。
学生なのに気軽なランチに諭吉を使ったり、別荘を持っていたり、子どものころから許嫁がいたり、都心のタワーマンションに住んでいたり、ヘリコプターを持っていたり……。
彼女もそういう人のひとりでした。
それを言われたとき、ものすごくもやもやしたんですよね。
かわいそうってなに? と。
家事の本を出していますが、家事そのものがものすごく好きというわけではありません。
毎日続けていたらやっぱりしんどいし、自分のことをやりたいです。
だから、作中の主人公とは違って、嫉妬もしていました。「ずるい!」って。
でも、それでも家事をやらなきゃ生活ができません。
だから、少しでも好きになるために、つぶさに観察しています。
綺麗になったときの達成感とか、工夫して前より早く終わるようになったときの誇らしさとか、おいしいものが作れたときのうれしさとか……。
そういうささやかなものを心の支えにして家事をなんとか続けています。
(ちなみに今、春休みは思うように進まないし、自分が散らかしていないのに家が大荒れで心も大荒れです。今は嫌い8割:好き2割です)
「お金が足りないなら、ご主人に頼めばいいのよ」
「やりたいことには投資するべき」
そんなアドバイスをくれた御婦人方もいました。でも、20代の私たちには、そもそも贅沢できるようなお金がありませんでした。
(今だって奨学金を返済し続けていますし、身を切るような思いで怯えながら旅行にいったりしています)
こうした経験から、わたしは、他人に「~すべき」というような言葉を使わないようにしています。
価値観も状況も人それぞれ。もしかしたら、宝くじが当たるような幸運に恵まれることもあるかもしれません。
でも、自分が置かれている場所でできる最善を尽くすしかないと思うのです。
▼この小説は『√365』の一部です。どのはなしから読んでも大丈夫な短編集ですが、序章と終章を読むと印象が変わると思います。
▼最近更新したのはこれ。
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