【ファンタジー小説部門】『√365』│あなたに贈る、完ぺきな。
▼この小説は『√365』の一部です。どのはなしから読んでも大丈夫な短編集ですが、序章と終章を読むと印象が変わると思います。
そして今回の話だけ、普段とかなり毛色が違います。
目を覚ますと、いつものように夫の姿はなかった。お仕事が忙しいのね。私はつぶやいた。
下に降りると、温泉行きのチケットとまだ温かい朝食と、チーズケーキがテーブルに置かれていた。横に添えられた四つ葉模様の便せんには「どうかゆっくり休んでください。いつもありがとう」と書かれている。
ピカピカに磨き上げられた古いシンク。
水を一杯飲んで、グラスを洗い、シンクの水滴も残らず拭き取った。きれいな場所は汚したくない。汚したくなくなるほどきれいだから、この家はいつでも清潔なのだ。
一人で家を出るなんて、と思ったけれども、チケットは指定席だった。
今日の14時に東京駅を出る新幹線だ。少し迷った末、押し入れの奥からスーツケースを取り出し、一泊分の荷物を詰め込んで家を出た。
駅の待合室で、魔女みたいな老婆に話しかけられた。
「この道でいいのかい? 本当に」
真っ黒な服に、鷲鼻を持つ彼女は憐れむような目でこちらを見ていた。
22のときに結婚した雅也と出会ったのは、高校の入学式だった。
隣の席になった彼に、ひと目で恋に落ちた。信じられないことに、冴えない私と彼が恋仲になるのに時間はかからなかった。
雅也はすぐに私を家族に紹介した。
義母は私のことを娘のようにかわいがってくれ、事あるごとに手作りのお菓子を彼に持たせてくれた。
そういうとき、あまり誰も来ない、4階の視聴覚室の裏に私をこっそり呼び出すと、小さな紙袋を手渡し、そっとキスをして戻っていった。
中にはいつも洒落たお菓子が入っていた。リーフパイにマカロンにアップルパイ。どれも素敵な手作りのお菓子だったけれど、でも一番好きだったのは濃厚なベイクドチーズケーキ。
お湯に身を沈める。しみるような感覚があった。
温泉に来るなんて、一体何年ぶりだろう。
小さな男の子が、私を指差している。母親は眉をひそめる。
居心地が悪くなって、大浴場から出て部屋に戻った。急いだからか、髪の毛はまだ少し湿っている。ふわふわのタオルで押さえながら、ふと窓を開ける。
太陽が海に沈んでいくところだった。熱した鉄みたいな夕日だった。じゅっと音がしそうなくらいに、赤い夕焼けだった。私は背中の辺りをさすった。
用意されていたのはチケットだけではなかった。部屋には豪勢な海鮮料理が運ばれてきた。こんなに贅沢していいのだろうか。後ろめたい思い気持ちがあったものの、欲望にさからえずに私はビールをくっと喉に流し込んだ。かっと喉の奥が熱くなる。
ビールを飲むのも結婚して以来かもしれない。
敷かれたふとんの上に寝そべって、ごろごろと転がった。駅で買った小説を何冊も読んだ。なんて、自由な時間なのだろう。思い切り伸びをして、もう一度露天風呂に入りに部屋を出た。
戻ってくると、携帯のランプがちかちかと点滅している。手に取ったとき、勘当されたはずの父親の番号が表示された。
「今どこにいるんだ」
恐る恐る電話に出ると、数年ぶりの父の声が、今までに聞いたことのないような声色で響いた。怒り、焦り、いや、安堵? なにかを早口で言ったあと、「早くテレビをつけろ」と、父は続けた。
テレビには家族の名前が表示されていた。火災……?
呆然としていたら、仲居さんが現れ、「21時になったら渡すようにと言われていました」と、白い封筒を差し出した。
「めがねをはずして。ごめんなさい。あなたに、完ぺきなアリバイを」
義母の文字だった。
泣き崩れた。後からあとから涙がせり上がってきた。泣いたのは久しぶりだった。泣いては、いけないから。
この7年間かけていた『情』という名の、曇った、ぼろぼろの眼鏡がついに割れた。
雅也とのはじめてのデート。
待ち合わせはいつも、カラオケボックスの中だった。誰にも見つかってはいけないのが私たちのデートだった。
帰りだって外に出たら離れる。ふつうの恋人同士のように手をつなぐものだと期待して、どきどきしていたのに、「クラスメートには知られたくないから」と、外でも雅也は私から数十メートル距離をあけて歩いていた。
付き合って3ヵ月目に振られた。
理由は「勉強に集中したいから」だった。数日後、「やっぱり別れるのはよそう」と言われた。私たちの事情を知らないクラスメートが「雅也は隣のクラスの子にふられたらしいよ」と話しているのにも耳をふさいだ。
バレンタインの夜、バス停でようやく捕まえた雅也にチョコレートを渡すと、どんなにたくさんのチョコをもらったか自慢された。我慢の限界だと「あなたは人のことを考えられないのね」と言ったら、彼は激高し、別れ話になった。
いつもは泣いてすがっていたけれど「いいよ」と私が言うと、途端に雅也が泣き出した。根負けした私が「やっぱり別れるのはよそう」と告げると、今度は「いや、一度切り出したことを取り消すなよ」と、今度は私が泣く番だった。
数日後、彼に呼び出された。私は復縁できるのだと喜んだが、そうではなかった。彼は言った。
「おまえのことは結婚相手として考えてるんだ。清楚で家庭的で、まさに結婚したい相手だと。でもさ、俺はまだまだ遊びたいんだよね。25歳を過ぎたら、そのとき、結婚しよう」
何を言っているのか、意味がわからなかった。
そして翌日、雅也はクラスの女子とつき合い始めた。どうどうと手を繋いで帰っていくふたりを、引きちぎられそうな気持ちで見つめた。
数ヶ月後、二人は別れ、雅也はまた別な女の子と付き合った。そういうことが卒業まで何度もくり返し続いた。
数年後、久しぶりに再会した雅也は私にプロポーズをした。
どうして、ほだされてしまったのだろう。落ち着いて考えればわかったのに。両親には勘当されたが彼についていくことを決めた。
あの家に雅也が帰ってくることはほとんどなかった。私は一日のほとんどを義母と過ごした。それはとても楽しい時間だった。一緒に料理を作り、分担して掃除を行い、チーズケーキの作り方も教えてもらった。私たちが自由に使えるお金はほとんどなかったけれど、工夫して楽しむ方法を探すのが生きがいだった。
雅也の父は暴力を振るう人で、浮気性で、事故でなくなるまで義母は苦労しっぱなしだったと聞いた。
そして、雅也はどうやら父親の遺伝子を色濃く受け継いでいたらしい。いつからか雅也がいない夜に安堵を覚えるようになっていた。
雅也が亡くなったとテレビで報道されている。画面の向こうでわが家がもくもくと黒い煙を出している。
でも、それは遠い世界のことのように思えた。めがねをはずした私の心には、悲しさのかけらも見当たらなかった。
だって私は彼の、ただの「家政婦」だったのだから。彼がつきあう、ともすれば軽そうに見える女の子たちと違った「地味で堅実な世間体の良い妻」だったのだから。
私は、もう一度手紙に視線を落とす。「自由になってね」という義母の、震える手で書いたであろう、みみずのような文字に。
それから昨晩殴られたおなかをさすった。
目頭は燃えるように熱く、視界はまっ白だ。悲しさはない。あの人がいなくなったって、私はなんとも思えない。でも、あのチーズケーキを焼いてくれた優しい義母はもういない。私たちは2人きりの同志だった。
私がしっかりしていたら、きっと、別な道があったはずなのだ。足元が崩れ落ちるような、そんな感覚に陥った──。
(3,000字)
*あとがき*
お付き合いしたわけでも、好きでもない男性から「付き合うなら◯◯さん、結婚するなら凛花」と言われてかなりもやもやした記憶があります。しかも、複数あります。
そんな会話から生まれたおはなしです。
ちなみに地味で貞淑な妻みたいに思ったのか知らないですが、結婚当初のわが家は汚部屋ですよ……。無害=家事ができるってわけじゃない、と言いたい!
▼前回更新したのはこれ。
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