掌編小説 │ 虹を編む
虹の中で踊っているみたいだ。
娘のはじめてのダンスイベント──。その表情や動きは柊介とも妻とも違う。拍手や歓声のなかで、あの子は、親である自分たちとはまったくべつの人間なのだと、当たり前のことをぼんやりと思った。
妻の莉羅が実家の会社で働きはじめたのは、柊介のせいである。
会社で身に覚えのないセクハラの噂が立ち、居づらくなった。火のないところにも煙は立つのだと知った。神に誓ってやっていない。なんなら相手の女性のことは苦手で、近づきたくもなかった。
けれども莉羅には言えなかった。セクハラをしたのかもしれないと思われたら耐えられない。信じてくれたとしても、誰かに陥れられるほど憎まれていたという事実もまた、情けなくて口にできなかった。
莉羅は、それまでの仕事をきっぱりと辞めた。家事本の著者として、テレビや雑誌などさまざまな媒体に登場していた。どんなに辛い思いをしてもやめたくないと、生きがいにしていたはずなのに。
おっとりした性格なのに、あの時ばかりは決断がはやく、柊介がただ寝込んでいるあいだにすべてが終わっていた。
「寝坊しちゃった! ごめん、もう行ってくるね!」
「ママー、いってらっしゃい」
娘の咲羅は、パジャマ姿のままのそのそと起き出してきて、ねむたそうな顔で手を振る。
柊介は作っておいたすじこ入りのおにぎりを莉羅に持たせた。アルミホイルに包まれたおにぎりはずっしりと重たくて、まだあたたかい。
莉羅は一瞬きょとんとしたように止まり、それからとろけるような笑顔で礼を言った。
そうしてピンヒールの靴を履いて「じゃあね」と言った。
スイッチが入ったみたいに、先ほどまでは表情が違っていた。戦場に赴くような凛々しさがあった。莉羅の姿が見えなくなったあと、柊介は、貼りつけていた笑顔を消した。──情けない。
咲羅は、小さなまな板を出してくると、慣れた手つきでバナナの皮をむき、子ども用の包丁で薄切りにしていく。グラノーラの中にとぽとぽ落とし、朝のニュースを見ながら食べていた。
出かける前に、咲羅の髪の毛を結うのが柊介の日課だった。
この子には強いこだわりがあって、ハーフアップか、低い位置での三つ編みしか受け付けてくれない。せっかく習得した玉ねぎヘアも「キュート過ぎてサクには似合わないかな」と一蹴されてしまったのだ。
高いところにある窓から、金色の光が落ちてきて、娘の髪の毛をつやつやと光らせている。手に生ぬるいヘアオイルを伸ばし、細い髪に手ぐしを通すようにして伸ばすと、髪の毛が一気にしっとりとまとまった。
「パパ、結うのじょうずになったね」
「本当?」
「うん。最初ひどかった!」
咲羅は思い出したのかけらけらと笑う。
莉羅の出社時間が早いので、必然的に娘の身じたくや送迎は柊介の担当になった。家のことすべてやるくらいのつもりでいたけれど、自分もやりたいからいいのだと言う。
甘えているようで、苦しくなることがある。
「ねえパパ。今週、ダンスのイベントでしょ?」
咲羅は一年ほど前からヒップホップダンスを習っている。
自分たちが子どものころはメジャーではない習い事だったが、今ではクラスの女子の3分の1ほどがダンスを習っているのだと強く力説されて、毎日の練習を条件にはじめたものだ。
咲羅は宣言通り、毎日動画を流して練習を重ねて、みるみる上達していった。
「髪の毛、ママにやってもらいたいんだけど、いいかな」
「ああ、……うん。そうだな」
少しだけさみしい気持ちになる。
ついこの間生まれたばかりだと思っていたのに、咲羅はいつの間にか「女の子」になっていた。そのうち「キモい」とか言われるのだろうと考えると胸が痛んだ。
「ええ……ヘアアレンジ……」
咲羅の要望を伝えると、莉羅は頭を抱えた。
「わたしがそういうの苦手って知ってるでしょ」
莉羅は苦笑する。
それからネットで「ダンス ヘアアレンジ 子ども」と検索し、頭を抱えた。
「むりだ……世界が違いすぎる……」
検索結果に出てきたものは、色とりどりの髪の毛だった。
エクステのようなものをつけていたり、複雑に編み込まれていたり、キラキラしたなにか、金箔のようなものを貼りつけていたり。メイクもかなり濃い目で、顔にラメのシールのようなものまで貼っている。──なんだこれは。未知すぎる。
夫婦ふたりで頭を抱えるしかなかった。
「大学時代も、地味で通ってたんだから。多少垢抜けたのはね、メディアに出るために凌くんに地獄のダメ出しをされたから……」
「「あ」」
『あーなるほどね』
夏目凌は、妻の担当編集だが、柊介たちと同じ高校だとわかったのがきっかけで友人になった相手でもある。
電話で話すと、凌は咲羅の当日の衣装写真を所望した。送ってからほんの数分で用意するものリストが購入先のリンク付きで送られてくる。
「プライベートでも仕事早いなあ……」
莉羅が感嘆したように言う。
『ってか日曜日に法事で帰省する予定だから、土曜日なら行くわ』
ぽん、とメッセージが届く。柊介は苦笑した。胸のなかにぼんやりと黒いものがあることに気がついたから。
莉羅にプロポーズをしたのは、就職活動で受けたすべての会社に落ちてしまい、莉羅が絶望していたときだった。もしかすると、彼女の選択肢を狭めてしまったのではないかという思いが、ずっと心のなかにあった。
彼女が苦しんでいるのが見ていられなくて出した提案ではあったが、五つ年下の彼女と、早く結婚したいという気持ちがあったことも否めない。
あのタイミングで結婚したのが正解だったのかどうか、柊介はずっとわからずにいた。自分のような弱い人間じゃないほうが、彼女にはよかったのではないか──。
「咲羅ー、髪の毛やるから後ろ向いて」
イベント当日。ちょうど帰省する予定だったという凌は、新幹線を降りてそのまま会場までやってきた。いつも通り、兄を罵倒しながら送ってきた凌の妹は、小さな花束を持っている。
咲羅は莉羅と凌の顔を交互に見ると、なんだか泣きそうな顔をした。「どうして」とつぶやいたのが聞こえた。
「サクちゃん大丈夫だよ。兄貴、編集者じゃなかったらたぶん美容師になってたと思うから」
妹がフォローするものの、凌は「あー違うって」と困ったように笑う。
「だいじょうぶ、ママがやってくれるからさ。俺は、ママのアシスタントなわけ」
「え?」
莉羅が困惑する。柊介はその耳元で「莉羅にやってほしかったんだよ」と囁いた。
準備が終わると、咲羅は友だちに手を引かれて楽屋へ走っていった。羽が生えたみたいに軽々と跳ぶ。あっという間に姿が見えなくなった。
「付き添い、ないの?」
凌が驚いたように尋ねる。
「うん。終わったら楽屋に迎えにいくけど、あとは客席で見るだけみたい」
「なんか……でかくなったねえ」
やがて、両家の母親や、同じ職場の佐城さんなどほかの身内もやってきて、開演時間を迎えた。
東北地区のさまざまなキッズダンスチームが集まって、一位のチームを決めるという催しのようだ。同じチームのなかでもだれでも出られるわけではなく、選抜メンバーだけがこの舞台に立っているのだと知って驚く。
やがて、咲羅の番が回ってきた。
舞台に立つのははじめてのはずだが、咲羅はまっすぐに前を向いて、曲に合わせて走りながら入場してきた。真っ暗ななかでシルエットだけだった子どもたちに、突然スポットライトが当たる。
全員が同じ衣装に身を包んでいた。
まず目を引かれるのはサングラス。丈の短い黒いトップスを着ているので、お腹が見えている。寒そうだ。だぼっとしたパンツは銀色で、会場の照明をてらてらと反映していた。
「あ、咲羅」
莉羅が小声でつぶやいた。左端に立っている咲羅は、チームのなかでも一番小柄だった。その髪の毛には、赤いエクステが編み込まれている。普段しない高いツインテールを、3:1くらいに分けて、太いほうを玉ねぎヘアに。細いほうを三つ編みにした。
凌のダメ出しで何度もやり直させられたので、時間が足りなくなって、片側は柊介が編んでいる。咲羅は嫌がるかと思ったが「いいアイディア」とにかっと笑った。
「ふたりでやってくれるのうれしいなあ」
その言葉は、本心に思えた。
「ひまりーっ!」
客席から声が飛ぶ。自分のピアノの発表会にしか出たことのなかった柊介は驚いた。ここでは、踊っているメンバーを、まるでアイドルのように呼びかけることができるのだ。
「さくらーっ!」
凌と凌の妹の声が重なる。凌はじろりとこちらを睨むと「早く」と言う。莉羅と柊介は「さ、さくらー!」と小さな声で言い、再度やり直しをさせられた。
柊介がふだんは聴かないテイストの音楽に合わせて、咲羅が身体を沈ませるように動かしている。手の動きにも表情にも自信が満ち溢れている。そこに何色ものスポットライトが、会場じゅうをうごめくように動きまわる。時々眩しくって思わず目をつむった。
赤、青、緑……。さまざまな色が照らし出されるなかで、周りの子どもたちがしゃがみ、中央にひとりで立った咲羅だけにスポットライトが当たった。
「マジ? ソロとかあんの? すげえ」
凌がぶつぶつと呟く。
虹の中で踊っているみたいだ。
その表情や動きは柊介とも妻とも違う。
拍手や歓声のなかで、あの子は、親である自分たちとはまったくべつの人間なのだと、当たり前のことをぼんやりと思った。
ついこの間生まれたばかりだと思っていたのに、もうこんなにも大きくなっている。あとどれくらいの時間、いっしょに過ごしてくれるのだろう?
ふと気がつくと視界が滲んでいた。
「うわ、なんだこれ」
声にならない小さなつぶやきが、たぶん妻には聞こえていたのだろう。莉羅はこちらを見ずに、口もとだけ笑みのかたちにしながら、柊介の膝にそっとハンカチを置いた。
Inktoberで書いたイラストから、掌編小説を仕上げるという練習をしています。せっかくなので『すくい』という小説のスピンオフをやってみようと思って。
▼前回のお話はこちら。
今回は「編む」というお題から父子の話を書いてみました。
▼本編はこちら。
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