掌編小説 │ 発泡する月暈
月暈が見えた。
白い真珠のような月を閉じ込めるように、虹色の輪がある。
「明日はむりっぽいな」
夏目凌は、足を止めて、そう独りごちた。
こういう月が出た次の日は雨だって、そう言ってたのは一番上の姉だっただろうか。
できれば日課のランニングを途切れさせたくないのだが。年齢を重ねて顔がすこし丸くなったのを気にしていた夏目凌は、デスクワークでばきばきになった肩をぐるぐる回し、首にかけたタオルで汗をぬぐうと、ふたたび闇へ向かって走り出した。
23区の夜は、明るい。
真っ暗じゃなくって、少し赤みを帯びた闇が広がっているし、この遊歩道だって、不審者が隠れられないように開けている。
よく考えられていると思った。
いつも新しい企画や著者探し、スケジュールのことなどで頭がいっぱいで、数ヶ月前にはじめたこの夜のランニングは、夏目にとって唯一のぼんやりとできる時間でもあった。
家を出たときは肌寒く感じたのに、いつのまにか、半袖から出た肌が汗ばんでいる。
夏目は、自宅のマンションから少し離れた、木々が等間隔に植わった遊歩道を走っている。たん、たん、と地面を蹴って進む。以前なら疲れなかったほんの少しの距離で、足が鈍く重くなった。荒い呼吸が落ちる。
しばらく走っていくと、夜をひときわ明るく照らすまっ白な光が見えた。
通り過ぎようと思ったのだけれど、できなかった。ふらふらと引き寄せられるようにコンビニに入った夏目は、白葡萄味の缶チューハイを1つ手に取ってから、マスクをしていないことを思い出す。
ボディバッグから新品のマスクを取り出して耳にかけ、レジに向かった。
店員は怪しげな顔をして、夏目のことを上から下までじろじろ見ると「身分証を出していただけますか」と胡散臭そうな目で言った。
「は? 何の話?」
夏目は驚いてぽかんと口を開けた。店員は「皆様にお願いしておりますので」と続ける。マスクをしているので表情はわからないが、目元がぎぎ、と弓なりに動いたので、ぎこちない笑みを浮かべているように思える。
夏目はむすっとしながら、免許証を取り出した。
「しょ、昭和!?」
店員の大声が、日付が変わる少し前の、静かなコンビニを切り裂くように響いた。視線が集まるのを感じて、夏目は苛立った。
「あーあ、うっぜ」
コンビニを出るなりマスクをむしり取った夏目は、冷えた缶を手に持ったまま、自宅のほうへ歩き出した。
そのとき、後ろから吹き出すような音がして振り返る。
「年齢確認される35歳…… ウケる」
地元にいるはずの友人が、笑い転げていた。普段は物静かな彼があまりにも笑うものだから、夏目は少し恥ずかしくなる。
「は!? え? 柊さん、なんでここにいるの」
柊介はそれには答えずに「俺さ、年齢が目もとに出るタイプだと思うんだよね」と言った。目尻のあたりをとん、と指す。
「何の話?」
「凌は輪郭とかなのかな。マスクで隠れちゃえばさ、髪型もあるし、年齢不詳だよ。本当。編集者は年齢不詳な人が多いってきくけど、本当なのかも」
柊介はまだ笑い続けている。夏目は、彼が身につけているのが真っ黒なフォーマルスーツだということに気がついて、押し黙った。黒いネクタイの結び目はわずかにゆるんでいて、長くて重い一日を過ごした疲れが滲んでいるように見えた。
それから二人は、夏目の部屋で飲むことにした。
「ちょっとそこに居て」
夏目はキッチンから塩の入ったポットを持ってくると、指でつまんで、柊介に投げつけた。
「おりゃー!」
「ちょ、ちょっと! ちょっと! ……はー。何してんのさ。やめてよ、もう少しさあ、ふつうにしてくれない?」
「してるじゃん」
夏目がけらけらと笑うと「サイコパスめ」と柊介が喪服についた塩を払い落とした。その左手の薬指に光る、細身の指輪を、夏目は眩しく見つめた。
「せっかくランニングしてるのに、酒飲んだらリセットされちゃうんじゃないの」
二学年上の柊介は、どこか余裕のある笑みを見せて言った。
彼はとくに運動もしていなさそうなのに、出会ったときから変わらず、すらりとした体型を維持している。
「今日はとくべつー。飲みたい気分だったんだって」
夏目は餃子の皮にマヨネーズで和えたツナとコーン、それからとろけるチーズを乗せると、魚焼きグリルに入れた。
使ったスプーンを即座に洗って水けを拭き取り、定位置に入れた。
「それよりなんで東京に? 一人?」
「じつはさ」
「まさか離婚!?」
夏目は被せるように尋ねた。
「オイ! 聞けって。……明るい話じゃないんだけど。大学の同期の、葬儀でさ」
しん、と沈黙が落ちる。
「この年齢で死ぬって、……きっと考えてなかっただろうな。遺された奥さんはさ、顔が真っ青で、今にも倒れそうで……。しかもたぶん、臨月くらいでさ」
「うわ……」
夏目は言葉を失った。
「はー……」
それきり柊介は口を開かなくなってしまった。
「午前しか休み取ってないから、明日の朝イチの新幹線で帰るわ。今日だけ泊めて?」
「もっちろん」
夏目は、皿に出来上がった小さなピザもどきを乗せながら答えた。
チューハイは一本しかなかったので、透明なグラスに、半分ずつ注ぐ。しゅわっと軽い音がして、葡萄のみずみずしい──けれども少し人工的な香りが広がった。
ふたりは、ミニピザをつまみに、どうでもいい話に花を咲かせた。
ぱりっと軽い音とともに、小さく割れてこぼれる。
「ん、味噌入れてもよかったかもな」
「確かに」
柊介はビールをくっとあおった。珍しい飲み方だと思った。
「あーあ、俺、髭生やそうかなあ」
夏目はざらつきはじめた顎をさすりながら言った。
「凌には似合わないよ」
また何かつぼに入ったらしく、柊介が笑い出す。
「子ども顔っていうのかな。そのままでいいって。若く見られるならいいじゃん」
「けどさあ、信頼? が生まれないわけ。舐められやすいっていうかね。女の人ならいいかもしれないけど、男だとさ、ぶっちゃけ童顔って困りものだわ」
「いいと思うけどね。童顔で油断させておいて、腹黒さでぐさっといくでしょう、凌は」
「オイ!」
柊介は手を叩いてけらけらと笑った。
「……笑い上戸かよ」
普段は夏目が先に潰れてしまうので、柊介が酔った姿を見るのは初めてだった。
灯りを落とす。
柊介はとなりの客間でねむっているようで、夏目はひとり、窓辺に腰かけて、大事に取っておいた白葡萄味のチューハイを、ちびりちびりと飲んでいた。
グラスの底に2センチほどの高さだけ残った液体のなかには、まだ泡がゆるやかに残っている。だれに乾杯するでもなくそっと持ち上げると、しゅわしゅわ生まれては弾ける泡のなかに、暈をかぶった月が溶けていくみたいに見えた。
先ほどの柊介の言葉を思い出していた。
「時々、怖くなるんだよね」
「なにが」
「……今、家族三人でさ、仲良くやってるわけだけど……。事故とか災害とか。怖い。大事な人が増えたら、ただただ幸せになるものだと思ってたんだけどなあ」
そんなふうにぽちりとこぼすと、柊介のまぶたがとろとろと重くなり、いつの間にか眠ってしまっていたのだった。
「独身貴族も悪くねえのかもなあ」
夏目はそんなことを思いながら、わずかなチューハイを一気に飲み干した。喉がぱちぱちと熱くなる。それからグラスをすぐに洗って片づけ、翌朝のためにフレンチトーストの仕込みをはじめたのだった。
10月は、 #インクトーバー に挑戦中。


絵を描いていたら頭のなかにぶわっとストーリーが浮かんできて……。
3月に応募した公募たちが全滅で落ち込んでいたので、もっといくらでも、無尽蔵に書けるようになりたいと思い、できるものをショートストーリー化していこうと思っています。
今日は1日目の「髭」がテーマでした。
▼インクトーバーについてはこちら。
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