小満 ― 世界に満ちる命の葉音
「小満」の季節です。
はしさんの企画にあわせて、
今回のボイスレターをひとつのエッセイとして書き直してみました。
虫たちが植物をはみ、草木が勢いよく満ちていく頃。
庭の薔薇や、切り倒されたポプラの葉音を通して、今年の小満を記録しておこうと思います。
海と同じ音がする
――小満、虫たち、そしてポプラの記憶
二十四節気は「小満(しょうまん)」に入った。
小さく満ちる、と書いて小満。
草木が勢いを増し、万物が少しずつ世界を満たしていく頃。
春の柔らかさは次第に濃さへ変わり、生命は静かに輪郭を強めていく。
七十二候では、「蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)」
蚕が目覚め、桑の葉を盛んに食べ始める頃。
私は蚕に馴染みがない。
養蚕業がかつて日本を支えた大切な産業だったことは知識として知っているけれど、実際に蚕を見たことはないし、桑の葉も身近ではない。
それでも、「虫が起きて植物をはむ季節」という感覚には深く覚えがある。
今、庭では薔薇たちが盛んに咲いている。
しかし、その華やかさのすぐ隣で、虫たちもまた活発に動き始めている。
夜になるとヨトウムシが新芽を食べ、様々な虫が花びらをかじっていく。
我が家には「エリナ」という淡い黄色の薔薇がある。
非常に丈夫な品種で、ほとんど手をかけなくても、ぐんぐん育つ。
もともとは鉢植えだった。
ところが、庭に置いているうちに鉢底から根が地面へ伸び、そのまま土に定着してしまった。
今では鉢ごと動かせない。
半分地植えのような状態で、気づけば二メートル近くまで育っている。
他の薔薇が天候不順で元気をなくしている時でも、このエリナだけは堂々としている。
中心は柔らかな黄色、外側へ向かうにつれてクリーム色に滲んでいく、美しい花を咲かせる。
けれど、その花びらを虫にかじられると、傷口だけが淡く赤く染まる。
まるで、薄紅を滲ませたように。

もちろん植物だから血ではない。
けれど、傷を塞ごうとして静かに血を滲ませているようにも見えて、
私はその姿を美しいと思いながら、同時に少し痛ましく感じる。
白薔薇には、スリップス(アザミウマ)と呼ばれる小さな虫が入り込むことがある。
1~2ミリほどの小さな黒い虫で、花びらの汁を吸う。
すると純白だった花弁が、吸われた部分だけ淡い紅色へ変わっていく。
何も知らなければ、それは美しい模様に見えるかもしれない。
けれど近づいて見ると、無数の小さな虫たちが内部でうごめいている。
知ってしまうと、もう以前と同じようには見られない。

小満とは、生命が満ちる季節だ。
けれど、それは同時に「食べるもの」と「食べられるもの」が動き始める季節でもあるのだと思う。
去年のこの季節に、私はこんな詩を書いた。
青々と満ちてゆく
見晴らしの大樹から
海と同じ音がする
街の中に、とても大きな木があった。
風が吹くたび、葉がサラサラと鳴った。
その音は、私には波の音のように聞こえていた。
冬には葉を落とす。
やがて春が訪れ、小満の頃になると、再び豊かな葉を茂らせ、
“海の音”が戻ってくる。
その葉音(波音)は、自分の生活の一部のように思えた。
だから、これは詩に残しておかなければと思った。
ところが今年、その木は突然切り倒されてしまった。
重機が入り、クレーンが入り、長い年月を生きてきた木は、たった一日でその場所から姿を消した。
私は、自分の一部を失ったような気持ちになった。
今、その場所にあるのは「空」だけである。
空――それは「そら」なのか。
それとも「から」なのか。
あるいは「くう」なのか。
去年、あの葉音を聴きながら詩を書き留めておいてよかったと思う。
あの時には、こんな未来が来るとは思っていなかった。
もちろん、街路樹には様々な事情がある。
落葉の問題、根による設備への影響、老木化や虫の被害による倒木の危険。
人間は自分の都合で木を植え、また自分の都合で撤去する。
それ自体を単純に善悪で語ることはできない。
けれど、樹木というものは、人間には作れない時間そのものでもある。
十メートルの木を、今日ここに突然生み出すことはできない。
どれほど技術が進んでも、どれほどお金を積んでも、そこに必要なのは「成長の年月」だからだ。
後から調べると、あの木はポプラだったらしい。
ポプラには、ポプラだけの葉音がある。
ユリノキとも違う。欅とも違う。
それぞれに、それぞれの気配がある。
最近、庭では今まで見たことのない虫を見かけることが増えてきた。

今年から突然現れたのか。
それとも、以前からそこにいたのに、私が見ていなかっただけなのか。
変わったのは世界なのか。
あるいは、私の視線なのか。
小満。
世界が少しずつ満ちていく季節。
その満ちていく気配を、今年も静かに見つめている。
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この記事に目をとめてくださって、ありがとうございます。そっと置かれた想いも、静かに受け取ります。