“パパともっと遊びたかった”が朝からかなり刺さった
朝、仕事に行く準備をしていた。
いつもより少しだけ早く娘が起きたので、出発までの短い時間、一緒に遊んだ。
絵本を読んだ。
ブロックも少し触った。
娘はまだ寝起きで、髪の毛が少し爆発していて、パジャマのまま私の横にぴったりくっついていた。
こちらとしては、
「今日は朝から少し遊べたな」
くらいの気持ちだった。
むしろ父親としては、なかなか良い朝だったと思っていた。
しかし出発の時間が来る。
玄関で靴を履く。
カバンを持つ。
「じゃあパパ行ってくるね」
そう言った瞬間、娘の顔がくしゃっとなった。
「もっと遊びたかった……」
そして泣いた。
これは効く。
普通に効く。
朝の玄関で、3歳児にそんなことを言われると、父親の心に直接ダメージが入る。
こっちは仕事に行くだけである。
別に戦地に向かうわけではない。
しかし娘の泣き方を見ると、まるで今生の別れみたいになっている。
私は内心、
「いや、パパ夕方には帰るよ?」
と思っていた。
でも同時に、ちょっと嬉しくもあった。
かなり面倒くさい感情である。
寂しがられて胸が痛い。
でも寂しがられて嬉しい。
父親の心、かなり厄介である。
娘は私の服をぎゅっと掴んで、なかなか離れなかった。
「パパと遊びたかった」
と言う。
私はしゃがんで、ぎゅっとした。
「帰ってきたらまた遊ぼうね」「今日、園で何して遊んだか教えてね」「あとで何して遊ぶか考えといて」
そう伝えると、娘は泣きながらも、
「パパ、バイバイ」
と言って手を振ってくれた。
泣きながらバイバイする3歳児。
あれはずるい。
仕事に行く父親の罪悪感を、かなり正確に突いてくる。
私は昔から、人の反応をかなり考えてしまうタイプだ。
なので当然、この朝の出来事も考えてしまう。
娘はなぜ泣いたのか。
単純に眠かったのか。
遊びが中断されたのが嫌だったのか。
パパが出ていくのが寂しかったのか。
それとも、「もう少し一緒にいたい」を、今の娘なりに言葉にしたのか。
朝の5分や10分なんて、大人からすると一瞬である。
でも子どもにとっては、その短い時間がかなり濃いのかもしれない。
絵本を1冊読む。
ブロックを少し積む。
ぎゅっとする。
ただそれだけでも、娘にとっては「パパと遊んだ時間」になる。
そして逆に、その時間が楽しかったからこそ、終わる時に泣くのかもしれない。
私はつい、時間の長さで考えてしまう。
何分遊べたか。
どれくらい一緒にいたか。
十分だったか。
でも娘はもしかすると、時間ではなく、“今パパがちゃんと自分を見てくれていたか”を感じているのかもしれない。
そう思うと、朝の短い時間も、少し違って見える。
とはいえ、毎朝そんな美しい気持ちで出勤できるわけではない。
急いでいる日は普通に焦る。
泣かれると普通に困る。
靴を履いた後に抱っこを求められると、「今かぁ……」と思う。
私は聖人ではない。
少し分析癖が強くて、娘に泣かれるとすぐ感情が揺れる父親である。
それでも、玄関で泣きながら手を振る娘を見ていると、今この時間は、かなり貴重なんだろうなと思う。
いつかきっと、私が出かける時も、
「いってらっしゃーい」
で終わる日が来る。
ゲームでもしていたら、顔も上げずに言われるかもしれない。
その時私はたぶん、今朝のこの泣き顔を思い出す。
そして勝手に少し寂しくなる。
本当に面倒くさい父親である。
もしかすると子どもの「もっと遊びたかった」は、遊びの量への不満ではなく、“あなたと一緒にいる時間が好きだった”という、かなりまっすぐな愛情表現なのかもしれない。
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