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『開かないはずの部屋』

雨の日だった。

六月の終わり。
湿った空気が、肺の奥にまで貼り付いてくるような夜。

私は仕事帰りに、古びたアパートの前で立ち止まっていた。

築四十年以上。
外壁は灰色に変色し、二階の通路には赤茶けた錆が浮いている。

友人の大塚が、そこに住んでいた。

いや。
“住んでいた”と言った方が正しい。

三日前に、自殺したからだ。

警察から連絡が来たあと、遺族が遠方だったこともあり、私が部屋の片付けを頼まれた。

……本当は、行きたくなかった。

けれど、
最後に電話を受けたのが私だったから。

どうしても、断れなかった。



二〇三号室。

ドアの前に立つと、妙な寒気がした。

梅雨時なのに、
そこだけ冬みたいに冷えている。

鍵を差し込む。

ガチャ。

開いた瞬間。

──生臭い。

古い水槽みたいな、
湿った臭いが鼻の奥に入り込んだ。

思わず顔をしかめる。

「……大塚?」

誰もいるはずがないのに、
つい名前を呼んでしまった。

返事はない。

当然だ。

私は靴を脱ぎ、部屋へ入った。



部屋は妙に綺麗だった。

テーブル。
洗ってある食器。
畳まれた服。

“死ぬ部屋”には見えない。

テレビだけがついていた。

砂嵐。

ザー……

ザー……

古いブラウン管でもないのに、
ノイズ音だけが流れている。

私はリモコンを探した。

だが見つからない。

その時だった。

──ピシ。

奥の部屋から音がした。

小さな、
何かを踏んだような音。

私は息を止めた。

……いる?

警察は、
「発見時、室内には誰もいなかった」と言っていた。

なのに。

ピシ。

また鳴った。

私はゆっくり廊下を見る。

奥に、襖がある。

半分だけ開いている。

黒い。

その隙間だけ、
異様に暗かった。

電気はついているはずなのに、
光が届いていないみたいだった。

喉が鳴る。

心臓が、
ドクン……ドクン……と嫌な音を立て始める。

「……誰かいる?」

聞いた瞬間、
自分で後悔した。

返事が来たからだ。

「……いるよ」

男の声だった。

小さい。

掠れている。

だが確かに、
襖の向こうから聞こえた。

私は全身が凍りついた。

大塚の声に、
そっくりだった。



逃げろ。

頭ではそう思っていた。

なのに足が動かない。

人間って、本当に怖いと、
逆に確認したくなるんだ。

“見ちゃいけない”

そう思うほど、
見たくなる。

私は襖へ近づいた。

畳が軋む。

ミシ……

ミシ……

空気が冷たい。

いや、
冷たいというより、
“重い”。

水の中を歩いているみたいだった。

襖の前に立つ。

指先が震える。

ゆっくり開けた。

……誰もいない。

六畳の和室。

押し入れ。
古いカレンダー。
畳のシミ。

ただ、それだけ。

私は大きく息を吐いた。

「……なんだよ」

笑おうとした。

その時。

押し入れの下から、
白い指が見えた。



私は声にならない悲鳴を飲み込んだ。

指は、
ゆっくり動いていた。

カリ……

カリ……

まるで、
内側から掻いているみたいに。

押し入れは半開きだった。

暗い。

奥が見えない。

なのに、
“何かいる”と分かる。

本能で分かる。

人じゃない。

見たら駄目なものだ。

逃げろ。

逃げろ。

逃げろ。

頭の中で警報が鳴る。

だが。

その時、
押し入れの奥から声がした。

「……お前のせいだ」

私は凍りついた。

大塚だった。

間違いない。

電話越しに何度も聞いた声。

震える声で、私は言った。

「ち、違う……俺は……」

「助けてって言ったよな?」

心臓が止まりそうになった。

三日前。

確かに大塚から電話が来た。

深夜二時。

泣いていた。

「もう無理だ」
「消えたい」
「助けてくれ」

私は、
こう答えた。

『明日仕事早いんだ。また今度な』

……切った。

その翌朝、
大塚は死んだ。



押し入れの奥で、
何かが笑った。

グチャ……

水を踏むような音。

そして。

ゆっくり。

本当にゆっくり。

“それ”が這い出してきた。

最初に見えたのは、
濡れた髪だった。

次に、
異様に白い顔。

首が、
曲がっていた。

目だけが、
真っ黒だった。

私は叫びながら後ろへ転んだ。

逃げようとして、
廊下へ飛び出す。

だが。

玄関がない。

さっきまであったはずのドアが、
壁になっていた。

あり得ない。

息ができない。

テレビの砂嵐だけが、
ザー……ザー……と響いている。

後ろから、
畳を擦る音。

ズ……ッ……

ズ……ッ……

来る。

近づいてくる。

私は泣きながら壁を叩いた。

「開けろ!!」

その瞬間。

耳元で声がした。

「……なんで、電話切ったの?」



私はそこで気を失った。



気づいた時、
病院だった。

警察によると、
私は二〇三号室の前で倒れていたらしい。

ドアの前で、
喉を潰すほど叫び続けていたという。

部屋の中?

……入っていなかったそうだ。

鍵も開いていなかった。

警察は、
「疲れていたんでしょう」と言った。

だが。

私は見てしまった。

あの押し入れを。

あの顔を。

……そして。

退院の日。

スマホに、
録音通知が入っていた。

深夜二時十三分。

再生時間、一分四十二秒。

覚えのないデータ。

恐る恐る再生した。

最初は、
ザー……というノイズ。

その後。

私の声が入っていた。

『明日仕事早いんだ。また今度な』

通話記録だ。

そのあと、
数秒沈黙が続く。

そして最後に。

ボソッと。

小さな声が入っていた。

『……今、後ろにいるの誰?』

録音はそこで終わっていた。

私は、
まだその音声を消せていない。

……いや。

本当に怖いのは、
そこじゃない。

あの日以来。

夜中二時十三分になると。

決まって、
部屋の押し入れが

“カリ……カリ……”

と鳴るようになった。

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