這い寄る混沌:弐
闇の中から こんにちは、走燐です。
↓前回。
↓次回。
さて、突然ですが私は、スピリチュアル的なサムシングが大嫌いであります。
【補足:対スピの姿勢
たとえ科学的でなくとも 論理的整合性を持って研究されてきた分野に、私は敬意を払います。
占星術を用いた占い等は、ある程度の有意な効果が認められるのではないか とすら思っています。
私が嫌いなのは、スピリチュアルを利用する一部の人達に見られる精神の傾向であって
スピリチュアルと名の付くものを無差別に嫌っている訳ではない事を付記しておきます 】
ですが
今回取り上げる話題は、限りなくスピリチュアルに近いものの様に映るかも知れません。
私は 断じて違うと思っていますが
そこの所は、是非 皆さんでご判断下さい。
解体『信』処
まず、「考える」とは何ぞや?
単純に受け取るならば、脳内で何らかの情報を処理する事です。
脳内の情報処理は、呼吸・血流・平衡感覚などの
身体制御の為のパッシブな処理と
肉体からの要求と、自意識が干渉し合って生まれるアクティブな処理 (意思決定) の2種類があります。
脳も肉体における一器官なので、生き残る為に存在しています。
変化を知り、何かを読み取ることが
自らの生存に繋がると判断している訳ですね。
では、何を以て外界の変化を認識しているのか?
そうです、五感 ですよね。
己の肉体に標準搭載されている感覚器官から得られた情報を解析して、人間は外の世界を認識しています。
であるならば、
今我々が認識している “世界” は、脳が自ら集めた情報を元に作り上げた成果物であって
❝ 世界 ❞ そのものを鏡のように映した姿ではない
という事になります。
アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』
第1期 放送第11話 (構成第13話)「射手座の日」
に登場する、宇宙艦隊ゲームで例えると分かりやすいですかね?
コンピュータ研の部員たちが
ハルヒ達SOS団に奪われたPCを取り返す為に
自作のゲームで勝負を挑む話となります。
敵味方に分かれて、交代の手番で自前の駒のマスを進めて、攻撃範囲に入れば撃墜できる
スパロボやGジェネ等でもよく見られるシミュレーションゲームなのですが
初期状態では自軍の駒以外全てのマスが真っ黒で
斥候を飛ばす事によって、周辺を少しずつ見えるようにしていく という仕様でした。
これを人間に置き換えると
ゲームでは斥候に相当する部分が
五感に代表される感覚器官であり
長い時間を掛けて幾つかの器官を生み出し
それによって識別された情報を整理・統合して像を結んだものが、今 人間に見えてる世界となります。
言い換えれば
それを捉える感覚器官が無ければ
どんな有象無象が跋扈している世界であっても
それを認識する事すら出来ない という事です。
そういった未知に対する不安や恐怖に
本能が膨張して、自己認識というバグを内包してしまった(自我が芽生えた)生命体は耐えられないので
人間が 自分の世界を組み上げるとき
必ず生じる矛盾や齟齬の帳尻を合わせる為に
“どんな情報でも埋められてしまう”
認知のフリースペースとして設計された機能が
皆さんご存知、『信じる』気持ちであります。
決して完成しないパズルのストレスで精神が自壊しないように
認知に空いた穴を利用して雑念を排し
思考領域の内圧を調整する役割を持った
ある種の、形のない器官とも言えるでしょう。
所謂スピリチュアル勢は
この『信じる』気持ちを雑に扱って
安易に納得を得ようと、妄想捏ねくり回して認知の止まり木を探します。
一度腰を据えると楽になるので、多くの場合
商売っ気を出したり 承認欲求を満たそうとしたりと
己の欲に添った行動を取り始めるのです。
そういった人達は
普通の人に理解される下地を持っている場合が多いので、圧倒的に支持を集めやすいです。
(「楽になりたい」と思う領域や、思考の型が近いのかも知れません )
もし、今の文章をみて
「インプレッションの多さに僻んでるだけだろ?」
と思っている方が居られるならば
読む記事を間違えたかもしれません
その場合、素直に♡やフォロワー数の多いクリエイター様の記事から読んだ方が
あなたの実りになるかと思います。
本記事が、そうではない人達の目に止まる可能性を意識しつつ
『信じる』気持ちとは、一体なんなのか?
もう少し、考えてみたいと思います。
『神』を捲る
人は、何故 神を信じるのでしょう?
各人毎に、様々な解釈が存在すると思われますが
私の、現時点での解釈では
「他者の存在をある程度許容した状態で問題解決を図るとき、当事者グループより上位の存在を想定した方が都合が良いから」
ではないか、と思っています。
例え 指示系統の最上位を
個人や血筋で固定しようとしても
人間では、安定したシステムの構築が出来ない事は
かなり早い段階から、わかっていたのでしょう。
目に見えない、声を聴くことも出来ない存在であっても
認知のフリースペースを介して『信じる』ことで
ありもしない虚像に形を与える という力技が成立してしまいます。
【注意:
個人の解釈ですので、今現在 存在するあらゆる宗教に対しての批判・否定の意を示すものではありません 。思考実験のようなものとご理解下さい 】
―― 神を冒涜している?
何を仰いますか
私ほど 『神』を信じている人間も珍しいと思いますよ、自分でも。
私は、所謂 神 と呼ばれる存在を拡大解釈して
『この世界に成立している最も大きな情報の循環』
の運営において
何らかの偏向を促す意思、ないしベクトルの傾きは必ず存在する
と、確信していますよ
私にとっては、それが『神』です。
いつか、次元の壁を捲り上げて
その実体を見てみたい存在でもあります。
救世主の選択
不思議なもので
物語に登場する 「救世主」は
波乱万丈な冒険をして、その活躍を華々しく描かれている作品が多いのですが
歴史上、「救世主」と呼ばれた人達は
僅かな例外を除いて
ロクな人生を送っていないように見えます。
一定以上の処理能力を持つ人が、大きなものの見方を知った時
他の多くの人には現れない選択肢が浮かぶ事があります。
それは、人によっては「使命」とも呼ばれるもので
マクロへの貢献を求める心の比重が
人としての生を相対的に上回った時に
自己犠牲の道に舵を切りかねない程の、強烈な引力を持っています。
これを読み解くには
『愛』について、知らねばなりません。
『愛』には、余りにも多くの解釈が混在していて
これを定義する事は不可能なんじゃないかと思われがちですが
ここは一つ、順序立てて 考えてみましょう。
『愛』の出発点はどこか?
これは、生命体としての 自己保存の本能であることに、疑いの余地はないと思われます。
ドネルケバブやバウムクーヘン等
ある対象が、その物量を増やしていく時
まるで年輪を重ねるように、外側に向かって継ぎ足されていくものですよね?
『愛』は単語ではありますが
その実体は、構造体(ストラクチャー)としての性質を持った概念である と仮定するならば
現時点において、積み重ねられた構造の全景が
各々が思う『愛』の姿という事になりますので
人によって『愛』の解釈が異なるというのも
納得しやすいのではないでしょうか。
他者の存在を認め、その価値を肯定する
( 無論、遺伝子や本能の干渉はありますが )
その個々人毎の積み重ねを『愛』と呼ぶならば
対象を認識して、肯定的な印象を積み重ねた経験が多い人ほど
『愛』が強い、その総量が多い と解釈する事ができます。
その解釈で、思い返してみて下さい
「救世主」と呼ばれる、能力の高い人達の事を。
彼らは、より多くの対象を見、その存在を肯定し
常人よりも遥かに広い、世界全体の調和を願い
場合によっては、それを行動に移します。
そこに
一体どれだけの『愛』が込められているのか。
自身が破滅し、死後もその尊厳を陵辱され続ける未来を幻視したとしても
そこに、人として生きる己の絶望を見たとしても
多くの人が集まって (結果として) 文明が進む
ただそれだけの為に、それを選び取ってしまう
そんな「救世主」の姿を思うたび
私は、猛烈な尊敬の念を抱くと同時に
少し、かなしくなってしまうのです。
“虚”と“実” の相補性
『信じる』気持ち とは
心の中の、何でも有りのドリームエリアによって創造されたオブジェクトが
その存在を担保する為に、現実を上書きするように
リアリティを補正する仕組みの事です。
言わば、“虚” を “実” に変換するプロセスです。
『信じる』気持ちは、『愛』と同じように
構造体(ストラクチャー)の性質を持っていますが
認知の穴と不可分であるので
そこには、幾つかの段階が存在します。
第一に、「認知のフリースペース内で完結している段階」
『信じる』気持ちを、萌芽したてのまま留めている状態となります。
理性から何の干渉もないので
言うなれば “完全フリーライド状態”
自身の欲望に従って、いかようにも現実を上書き可能で、ストレスも少なく納得も容易です。
しかし、ブレーキのない状態では感情が暴走して論理破綻しやすく
加えて、他者からの思考誘導に対しても無防備となってしまう、とても危険な状態と言えるでしょう。
ですが 悲しい事に、世の中の多くの人が
この段階で、何かを『信じ』続けています。
第二に、「フリースペース内の創造物を、理性によって検証する段階」
『信じた』ものに対して、自らの思考体系と致命的な乖離が存在しないか
外の理性から小突いて 検証を試みている段階です。
「『信じる』にしても、何か根拠が欲しい」
「盲目的になることに 一抹の不安を覚えてしまう」
リスク管理のフィルターを掛ける事によって
“精神の均衡を保っている状態” となります。
この状態は、深刻な乖離を見つけた場合
内的葛藤が生まれ、行動選択の機会が生じますが
見当たらなかった場合、『信じる』気持ちはより強化されていきます。
第三に、「理性によって、創造物が掌握されている段階」
認知のフリースペースを、「池」
創造物を、「ボート」
理性を、「周囲の陸地」と例えるなら
「ボートが護岸に係留されている」段階です。
理性が、創造物を固定して
世界と未来の不完全性を理解しながら
それでも、「己が選択によって生じるあらゆる因果に対して責任を持つ」と、腹を括った状態となります。
この段階において
『信じる』気持ちは、単なる思考の安全弁ではなく
己の信念と密接に繋がる相棒として
相互に影響し合って、自意識の強度を高めていきます。
・ ・ ・
『信じる』気持ちは
それが正しいか、分からない事が前提の機能です。
そこに生じる違和感を
見なかった事にするか
諦めずに手繰り寄せるかで
目の前に広がる世界が変わっていく
『積極的分離』においても
精神の自壊の起点となり得る
極めて重要な、それでいて 決して無くならない隣人のような存在ですので
上手く付き合って
心の柔らかさを 保っていきたいですね。
あとがき
今回は、『信じる』気持ちがテーマでした。
相も変わらず、内省ベースの癖に構造偏重で
感情の発信が希薄な文ではありますが
そこは、皆さんの価値観によって
上手い具合に補完して、受け取って頂こうと
楽観的な心持ちでいこうと思います。
( 苦手な事をやろうとしても、上手く行きませんし )
私は、自分の記事を 結構読み返すんですね。
(この垢自体、自分の思考メモ的な側面があります)
途中まで書いて、大幅に削除する なんて事もよくやるんです。
私が自分の記事にGOサインを出す条件は
「自分で記事を読み返した時に、脳が “発火” していること」
【補足:発火
脳の神経細胞が電気信号を発すること。
(私の体感になりますが) 思考のエンジンが掛かった時の、頭がぼわっとするアレです 】
なので、本記事を読んで
あなたの頭が、ちょっとでも “発火” したり
演繹の樹状展開が発生したのなら
今日のところは
私の目論見は、成功したと言えるでしょう。
どんなもんでしょ?
今回は、ここまで
読んでくださり、ありがとうございます。
