複線型トラックをデザインしろ――日本共和制論 3/5
All eyes on 複線型トラック...
1. 勤労の義務を、個人の精神論にするな
前稿『義務教育を考え直す――日本共和制論 1/5』、以下「義務教育論」では、義務教育を、親が子どもを学校に通わせる義務だけに閉じず、国家と社会が子どもを社会参加可能な成員へ形成する責任として読み直した。
続く『教育学部はいらない――日本共和制論 2/5』、以下「教育学部論」では、その責任を教師個人の善意に丸投げしてはならない、と論じた。教師を人格者や聖職者として持ち上げるのではなく、教育、測定、評価、特別支援、福祉・医療接続を担う専門職として再設計しなければならない。教員養成も、教材も、採点基準も、教育制度も、国家責任として作り直さなければならない。
本稿では、その先を扱う。
教育された人間を、どこへ接続するのか。
憲法26条が教育を語るなら、憲法27条は勤労を語る。
憲法27条は、すべて国民に勤労の権利を認め、同時に勤労の義務を定めている。だが、この勤労の義務を、働け、努力しろ、自己責任だ、という個人への精神論として読んではならない。
働け。努力しろ。自分で仕事を探せ。自己分析しろ。やりたいことを見つけろ。将来を考えろ。社会人になれ。そういう言葉は、制度が空白のままでもいくらでも言える。だが、それは勤労の義務ではない。勤労の義務を口にするなら、国家と社会は、人が勤労可能になる制度を作らなければならない。
勤労の義務とは、国民を職業世界へ放り出す言葉ではない。
それは、国家と社会が、勤労可能性を制度として引き受けるための言葉である。
ここで言う勤労可能性とは、きれいごとではない。全員が好きな仕事に就けるという話ではない。全員が自己実現できるという話でもない。まして、国家が成人の人生を白く管理し、清潔で模範的な職業生活だけを正解として押しつける話でもない。
国家は内心に踏み込むべきではない。だが、社会参加可能性には踏み込まなければならない。
読めるのか。計算できるのか。制度を理解できるのか。身体や発達にどのような困難があるのか。どのような適性があるのか。どのような職業世界に接続できるのか。どこで支援が必要なのか。どこで福祉につなぐべきなのか。
これらは、内心の自由ではない。社会参加の条件である。
だから、教育を終えた人間を、そのまま社会へ投げ出してはならない。義務教育論で論じた測定と支援、教育学部論で論じた専門職化された教育制度は、そこで終わるものではない。その先には、学校から勤労世界へ一度だけ送り出す出口ではなく、教育と勤労世界を何度も往復できる制度がなければならない。
つまり、「back & forth / forth & back」、Lunch Time Speax “Chase” の言葉を制度的に保証することだ。
※以下の動画は、権利者による公式配信ではない。公式に視聴できる手段が見当たらないため、記録保存と参照可能性を優先してリンクする。これは権利主張ではなく、文化的資料へのアクセスを保つためのハッカー倫理に基づく判断である。
本稿の問いは、ここにある。
国家と社会は、どのように人間を教育し、どのように測定し、どのように支援し、どのように職業世界へ接続し、どのように教育へ戻すのか。
勤労の義務を、個人の精神論にするな。
勤労可能性を、制度として考えろ。
2. 18歳まで義務教育化すべきだ
15歳は出口ではない。
義務教育論では、15歳を出口ではなく、第一次接続点として扱った。小学校と中学校の九年間で、読み書き計算、基礎学力、発達、学習困難、知的能力、適性を把握する。そのうえで、15歳を教育の終点と見なすのではなく、次の接続点として扱う。
本稿では、その先を扱う。
15歳で測定しても、その後に普通科高校しかないなら、測定は制度に接続しない。学力を見た。適性を見た。発達上の困難を見た。生活条件も見た。だが、その先が全員同じ普通科高校であり、さらにその先が大学進学だけであるなら、測定はただの情報で終わる。
15歳で教育制度からこぼすな。
15歳で労働市場へ放り出すな。
15歳は、教育制度の終点ではなく、18歳までの後期中等教育へ接続する地点である。
そもそも、日本ではほとんどの子どもがすでに高校等へ進学している。文部科学省資料によれば、令和5年度の高等学校等進学率は98.7%である。社会実態として、ほとんどの子どもは18歳前後まで教育制度内にいる。
ならば、義務教育を15歳で形式的に終わらせる必要は薄い。
社会は高度化している。読み書き計算だけで、社会参加できる時代ではない。制度を理解する力、情報を扱う力、職業世界を知る力、自分の能力と適性を把握する力、必要な支援につながる力が要る。高等教育へ進む者にも、職業教育へ進む者にも、企業内教育へ進む者にも、福祉接続を必要とする者にも、15歳では早すぎる。
15歳で基礎教育終了と見るのは、もう古い。
18歳までを、国家と社会が責任を持つ教育期間として再定義してよい。
ただし、ここで誤解してはならない。
18歳まで義務教育化するとは、高校全入を唱えることではない。高校無償化だけを言うことでもない。まして、全員を同じ普通科高校へ押し込むことではない。
むしろ逆である。
18歳まで義務教育化するなら、その中身は複線化されなければならない。普通科高校だけでなく、実業高校、高専、高等専修学校、定時制、通信制、特別支援を含めた、複線的な後期中等教育を国家と社会の責任として整備する必要がある。
義務教育という言葉には、しばしば画一化の響きがある。だが、本稿で言う18歳までの義務教育化は、画一化ではない。国家と社会が18歳まで面倒を見るということであり、そのために複数の教育トラックを用意するということである。
すべての子どもを同じ場所へ押し込むな。
だが、15歳でこぼすな。
これが基本線である。
15歳までは義務教育で、そこから先は各自で何とかしろ。そういう区切りは、もう現実に合っていない。ほとんどの子どもが18歳前後まで教育制度内にいるなら、その実態を制度として引き受けるべきである。社会が高度化し、職業世界が複雑化し、大学一本線が細っているなら、なおさらである。
18歳まで義務教育化すべきだ。
ただし、それは普通科高校義務化ではない。
18歳までの複線的な後期中等教育を、国家と社会の責任として作るということである。
3. 高校を普通科一本線にするな
普通科高校から大学へ進み、ホワイトカラーになる。
この一本線は、すでに細っている。
この点は、GATB三部作、とくに『Fラン廃止で終わらせるな――ホワイトカラー幻想後の職業教育とトラック分化』、以下「Fラン廃止論」で既に論じた。普通科高校から大学へ進み、低レベルのホワイトカラー職へ流れる旧来の経路は、もはや安定した出口ではない。事務職は細り、低技能ホワイトカラーは自動化され、アウトソーシングされ、SaaS化され、生成AIにも削られていく。
だから本章では、その批判を繰り返さない。
ここで扱うのは、18歳まで義務教育化するなら、その中身をどう作るべきかである。
普通科高校は必要である。大学へ進む者がいる。大学院へ進む者がいる。研究職、高度専門職、医療、工学、教育、行政、情報、農学などへ進む者には、学問的準備のトラックが必要である。
問題は、普通科高校があることではない。
普通科高校だけを標準にし、それ以外を例外、脇道、落伍、救済として扱うことである。
18歳まで義務教育化するなら、後期中等教育は複線化されなければならない。実業高校、高専、高等専修学校、定時制、通信制、特別支援を、普通科から外れた例外としてではなく、18歳までの教育制度の中に正面から位置づける必要がある。
ただし、ここで誤解してはならない。
複線化とは、子どもを早く分類することではない。
学術系と実践系に割って、あとは自分で選べ、という話でもない。
国家と社会が、後期中等教育の中に複数の教育経路を作り、最低到達、測定、支援、再接続、往復可能性を制度として保証することである。
この点で、ドイツは参照できるが、そのまま模倣するべきではない。
ドイツには、職業教育や職業トラックが社会的に意味のあるルートとして成立しているという強みがある。普通科から大学へ進む道だけが正規ルートではなく、職業教育を通じて専門技能と職業世界へ接続する道がある。この点は、日本が学ぶべきである。
だが、早期分化は別である。
子どもが早い段階で学術系、職業系、実践系へ振り分けられ、その後の進路が強く制約されるなら、それは階層固定になりやすい。ドイツ国内でも、早期分化が家庭環境や社会階層の差を固定するという批判はある。
本稿が求めるのは、早期固定ではない。
トラック分化は必要である。だが、早すぎる分化は避けなければならない。日本には、すでに15歳という分岐点がある。ならば、その分岐を、放置された進路選択ではなく、公的な第一次接続へ作り替えるべきである。
15歳で第一次接続する。
18歳で再測定し、再接続する。
その後も、教育と勤労世界を往復できるようにする。
これが本稿の立場である。
フランスについても、同じように扱う必要がある。
フランスは、教育を私事に閉じず、共和国の成員形成として扱ってきた国である。その意味では、教育を公共的責任として見るうえで参照できる。学校は単に個人の進学や就職のためにあるのではない。共和国の成員を形成する制度でもある。
だが、グランゼコール型のエリート接続を、一般モデルにしてはならない。
エリートトラックはあってよい。高度な行政、高度専門職、研究、国家的基盤を担う領域には、それに応じた選抜と訓練が必要である。だが、それは複線化された制度全体の一部であって、国家が用意する唯一の正規ルートではない。
公共投資を受けるエリートトラックには、公共的責任が伴う。
それだけのことである。
問題は、エリートトラックがあることではない。エリートトラックだけが正規ルートになり、それ以外が敗者トラック化することである。
同じことは、職業教育にも言える。
実業高校、高専、高等専修学校、定時制、通信制、特別支援を並べれば、それで複線化が成立するわけではない。形だけ複数の進路を置いても、その先の大学、大学院、専門学校、職業訓練、企業内教育、就労支援、福祉接続へ戻れる道がなければ、それは固定された分岐でしかない。
測定は命令ではない。
トラックは身分ではない。
分化は固定ではない。
15歳での測定は、子どもを格付けするためにあるのではない。接続するためにある。18歳での再測定も同じである。学力が伸びたなら、別のルートへ進めばよい。職業教育から大学へ戻ってもよい。高専から大学・大学院へ進んでもよい。働いてから学び直してもよい。失業してから職業訓練へ戻ってもよい。福祉接続から、可能な範囲で訓練や就労支援へ進んでもよい。
複線化とは、入口を増やすことだけではない。
戻れること。
移れること。
やり直せること。
教育と勤労世界を何度も往復できること。
そこまで制度として作らなければ、複線化はただの分類になる。
そして、分類はすぐに序列になる。
普通科高校から大学へ進む者が本線で、実業高校、高専、専門学校、職業訓練へ進む者が脇道になる。学問系が上で、実践系が下になる。大学進学者が成功者で、職業教育に進む者が敗者になる。そうなれば、複線化は名ばかりである。
だから、後期中等教育を複線化するなら、同時に可逆性を制度化しなければならない。
15歳でこぼさない。
18歳で固定しない。
社会に出た後も、教育へ戻れるようにする。
高校を普通科一本線にするな。
だが、ただ分けるだけでも足りない。
問題は、分けることではない。戻れるように分けることである。
4. 18歳以後の複線型トラックを設計しろ
後期中等教育を複線化するだけでは足りない。
15歳で第一次接続する。18歳まで教育制度内で面倒を見る。普通科高校だけでなく、実業高校、高専、高等専修学校、定時制、通信制、特別支援を正面から位置づける。
それは必要である。
だが、それだけでは足りない。
18歳の先が大学一本線のままなら、後期中等教育を複線化しても出口で詰まる。普通科高校から大学へ進む者だけが正規ルートとして扱われ、他の経路は例外、救済、脇道として扱われる。そうなれば、3章で論じた複線化は、制度の入口だけで終わる。
必要なのは、18歳以後の複線型トラックである。
この点について、Fラン廃止論では既に、普通科高校から大学へ進み、ホワイトカラー職へ流れる一本線の限界を論じた。実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続を、ばらばらの施策ではなく、進路接続システムとして設計しなければならない、とも論じた。
本章では、それを繰り返さない。
ここで論じるのは、その先である。
必要なのは、教育から勤労世界へ一度だけ送り出す出口ではない。教育と勤労世界を何度も往復できる制度である。つまり、「back & forth / forth & back」、Lunch Time Speax “Chase” の言葉を制度的に保証することである。
これは、進路指導の話ではない。
OSの書き換えである。
現在の教育制度は、なお強く一回型の人生を前提にしている。小学校に入る。中学校へ進む。高校へ進む。大学へ進む。新卒で会社へ入る。その後は、企業内で育てられるか、個人で何とかする。学校は前半にあり、仕事は後半にある。
この前提を壊さなければならない。
大学へ行く者は、大学へ行けばよい。大学院へ進む者は、大学院へ進めばよい。研究、高度専門職、医療、工学、教育、行政、情報、農学などには、大学と大学院が必要である。高度な知識と訓練を必要とする職業世界に、大学と大学院が接続することは当然である。
問題は、そこだけを正規ルートにすることである。
実業高校から企業へ行く者がいてよい。高専から企業へ行く者がいてよい。専門学校から資格職へ進む者がいてよい。職業訓練から現場へ入る者がいてよい。福祉接続を受けながら、可能な範囲で訓練や就労支援へ進む者がいてよい。
だが、そこで終わらせてはならない。
働いてから大学へ戻る。
働いてから大学院へ戻る。
企業内教育から専門職教育へ接続する。
職業訓練から専門学校へ進む。
専門学校から大学へ編入する。
高専から大学へ進み、大学院へ進む。
いったん就職した後に、別の職業世界へ移る。
失業した後に、職業訓練へ戻る。
福祉接続から、生活支援と訓練を経て、働ける範囲へ進む。
これらが例外であってはならない。
複線型トラックとは、最初に選んだ進路で人生を固定する仕組みではない。
むしろ、最初の接続を失敗しても、後から戻れるようにする仕組みである。
15歳や18歳での選択を、取り返しのつかない身分にしてはならない。
可逆性は、精神論ではない。編入枠、単位互換、資格の相互承認、社会人入学、夜間・通信・オンライン課程、職業訓練から高等教育への接続、企業内教育の外部評価、ハローワークや自治体による再接続支援。そうした制度部品があって初めて、「戻れること」は制度になる。
ここで必要なのは、大学の意味を狭くしないことである。
大学は、18歳の若者だけが入る場所ではない。社会に出た後に戻る場所でもある。大学院も同じである。大学院は、研究者養成だけの場ではない。高度専門職、社会人再教育、地域産業の技術更新、教員や行政職や医療職の再訓練の場でもあり得る。
専門職大学院も、ここに位置づけ直すべきである。
法科大学院だけを見て専門職大学院を失敗制度として扱うのではなく、教育、医療、福祉、行政、情報、地域産業、技術経営、公共政策を、社会人が戻れる高度職業教育として作り直す余地がある。教員養成については、教育学部論で既に、教員専門職大学院を中心とする再設計を論じた。本稿では、それをより広い複線型トラックの一部として位置づける。
企業内教育も、企業の内部だけで閉じてはならない。
企業が人を育てることは重要である。だが、それが企業の中だけで完結すれば、労働者はその会社の内部技能に閉じ込められる。企業内教育は、大学、高専、専門学校、職業訓練、資格制度と接続しなければならない。企業で得た技能が、外部でも評価される。外部で得た資格や単位が、企業内でも評価される。そうでなければ、複線型トラックは成立しない。
資格も同じである。
資格がただの紙であれば意味がない。資格が処遇、賃金、職務、昇進、転職、再教育へ接続して初めて、複線型トラックの部品になる。職業教育を受けた。資格を取った。だが、賃金も職務も変わらない。そうであれば、制度は働いていない。
職業訓練も同じである。
職業訓練は、教育制度の外に落ちた人間を後から拾うだけの制度であってはならない。18歳以後の複線型トラックの中に、最初から位置づけられるべきである。大学へ行かない者、専門学校へ行く者、企業へ入る者、失業した者、別の職業へ移る者、福祉接続を必要とする者が、必要な段階で職業訓練へ入れるようにする。
ハローワークも、単なる求人紹介機関では足りない。
Fラン廃止論で論じたように、GATBのような適性測定、職業情報、訓練情報、地域の求人、福祉接続をつなぐ場所でなければならない。働く場所を探すだけでなく、どの教育へ戻るべきか、どの訓練へ進むべきか、どの支援につながるべきかを示す結節点でなければならない。
複線型トラックには、結節点が要る。
学校だけでは足りない。大学だけでも足りない。企業だけでも足りない。ハローワークだけでも足りない。福祉だけでも足りない。これらを接続する結節点がなければ、制度は並んでいるだけである。
制度が並んでいることと、トラックがあることは違う。
普通科高校。実業高校。高専。専門学校。大学。大学院。職業訓練。企業内教育。資格。ハローワーク。福祉接続。これらは、名前としては既に存在している。だが、存在しているだけでは、複線型トラックにはならない。
測定があり、支援があり、最低到達があり、再接続があり、往復可能性があり、処遇への接続がある。そこまであって初めて、複線型トラックである。
これは、教育制度の微修正ではない。
教育から勤労世界へ出て、必要なら教育へ戻り、別の勤労世界へ移る。その往復を制度として保証するために、教育制度、労働市場、企業内教育、資格制度、職業訓練、福祉接続を組み替えること。
それが、複線型トラックを設計するということである。
5. 地方大学を潰すな。ただし、ただ残すな
地方大学は、潰せばよいものではない。
いわゆる駅弁大学、つまり戦後日本が各地域に配置してきた地方国立大学は、単なる大学定員の受け皿ではない。普通科高校から大学へ進む若者の進学先であるだけでもない。地方国立大学は、地域における知識トラックの基盤である。
医療、教育、行政、工学、農学、情報、地域産業。これらは、地域の生活と産業を支える知識の束である。地方国立大学は、その知識を地域に置くための制度である。
だから、地方大学を減らすか残すか、という問いだけでは足りない。
地方大学を、何のために残すのか。
この問いを立てなければならない。
4章で論じたように、複線型トラックとは、教育と勤労世界を何度も往復できる制度である。学校から社会へ一度だけ送り出すのではない。働いてから戻る。専門学校から大学へ移る。高専から大学院へ進む。企業内教育から大学の単位へ接続する。地域産業で働きながら、大学や大学院へ戻る。失業や転職の局面で、職業訓練や高等教育へ再接続する。
このとき、地方大学は、18歳の進学先にとどまらない。
地方大学は、複線型トラックの結節点になる。
地方大学には、大学院がある。教員養成がある。医療人材の養成がある。行政人材の供給がある。工学、農学、情報、地域産業と接続する研究と教育がある。そこに、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、社会人教育、資格制度を接続すれば、地方大学は、地域の知識トラックを太くする拠点になる。
大学を、18歳の若者だけが入る場所として見てはならない。
地域で働く人間が戻る場所である。地域企業が技術更新のために接続する場所である。教員、医療職、行政職、技術職が再訓練される場所である。高専や専門学校から次へ進む場所である。社会人が大学院へ戻る場所である。地域産業の課題を、研究と教育へ接続する場所である。
ここで重要なのは、地方国立大学をそのまま温存せよ、という話ではない。
ただ残すだけでは足りない。
既存の地方国立大学が、地域の知識トラックを本当に支えているのか。地域産業と接続しているのか。高専や専門学校や職業訓練と接続しているのか。社会人が戻れる場所になっているのか。大学院が地域の高度専門職や技術更新に開かれているのか。教員、医療、行政、工学、農学、情報の供給源として機能しているのか。
そこを問わなければならない。
地方大学を潰すな。
ただし、ただ残すな。
地方大学を、複線型トラックの結節点として作り替えろ。
その構想の一つとして、拠点と衛星型の配置も考えられる。
すべての県に、すべての機能を持つ総合大学を置く必要はないかもしれない。かといって、広域圏に一つだけ大きな大学を置き、他を空白にすればよいわけでもない。中核となる地方国立大学、大学院、研究拠点を置き、その周辺に高専、専門学校、職業訓練機関、社会人教育拠点、サテライトキャンパスを接続する。そういう拠点と衛星型の構想もあり得る。
ただし、これは確定案ではない。
本稿で言いたいのは、地方大学を既存配置のまま守れ、ということではない。地方大学を財務省的に撤去せよ、ということでもない。地方大学を、地域の知識トラックと複線型トラックの結節点として考え直せ、ということである。
弱い地方私大についても同じである。
大学という看板だけを残し、普通科高校からの延長として若者を吸収するだけなら、それはホワイトカラー幻想の延命でしかない。だが、弱い地方私大を一律に撤去すれば、地域から高等教育の入口が消える。若者は都市部へ流出し、地域産業と教育の接点はさらに薄くなる。
ならば、問いは廃止か温存かではない。
機能転換である。
地域の専門職教育、職業教育、資格教育、社会人教育へ転換できるのか。地方国立大学、高専、専門学校、職業訓練、地域企業と接続できるのか。18歳の若者だけでなく、働いた後に戻る人間を受け入れられるのか。地域の勤労可能性を太くする部品になれるのか。
そのように問うべきである。
知識トラックを細らせてはならない。
地方国立大学を削り、弱い地方私大を潰し、若者を都市部の大学と大企業へ流すだけなら、地方には、教育も、産業も、再接続も残らない。地域で働く人間が学び直す場所も、地域企業が技術更新する場所も、教員や医療職や行政職が再訓練される場所も細る。
それでは、複線型トラックは成立しない。
複線型トラックには、地域の結節点が要る。
その結節点の一つが、地方大学である。
地方大学を潰すな。
ただし、ただ残すな。
地方大学を、地域の知識トラックとして太くしろ。
6. 職業教育を学校だけで終わらせるな
5章では、地方大学を地域の知識トラックとして太くし、複線型トラックの結節点として作り替える必要を論じた。
だが、地方大学、高専、専門学校、職業訓練を整えても、それだけでは複線型トラックは成立しない。
学校側だけでは足りない。
職業教育の先には、働く場所がある。企業がある。地域産業がある。技能形成がある。企業内教育がある。資格がある。処遇がある。賃金がある。昇進経路がある。転職可能性がある。
これらが接続しなければ、職業教育は学校の中で終わる。
Fラン廃止論では、職業教育は学校だけでは完結しない、と論じた。本章では、その論点を繰り返さない。ここで見るべきなのは、学校の外側にある企業と地域産業が、複線型トラックの中でどのような位置を持つかである。
企業は、単なる採用先ではない。
もちろん、企業に学校の代わりをさせるという話ではない。企業に教育制度全体の責任を負わせる話でもない。だが、企業が受け皿として存在するだけでは、複線型トラックは成立しない。
学校で学んだことが、企業の職務につながること。
企業で身につけた技能が、資格や処遇につながること。
企業内教育が、大学、高専、専門学校、職業訓練と切断されないこと。
地域産業の需要が、教育制度の側に反映されること。
この接続が必要である。
その意味で、トヨタ工業学園は一つの強い例である。
ここで見るべきなのは、トヨタが立派な教育機関を持っているという話ではない。企業が、自社の生産、保全、品質、改善を支える人材を、教育、技能形成、雇用、職務、処遇の接点で育てているという点である。技能が学校の中で浮いていない。職務とつながっている。企業内の役割とつながっている。評価と処遇へ接続している。
この構造が重要である。
職業教育が敗者トラックになるのは、学校名が弱いからだけではない。学んだことが職務につながらず、職務が処遇につながらず、処遇が社会的評価につながらないからである。
ならば、職業教育を作るとは、カリキュラムを作ることだけではない。技能が働く場所へ接続し、働く場所で評価され、処遇に結びつく構造を作ることである。
ただし、トヨタ工業学園型は、自前で教育、雇用、技能形成、処遇を接続できる大企業の例である。これは強いが、そのまま一般化できるモデルではない。より一般化しやすいのは、むしろ諏訪、熊本・九州、北海道のように、地方大学、高専、専門学校、自治体、複数企業、地域産業が接続する地域産業集積型である。
エプソンと諏訪地域の例は、5章の地方大学論とさらに近い。
諏訪という地域産業圏には、精密機械、電子機器、ものづくりの蓄積がある。そこに地域企業があり、専門教育があり、大学があり、技術需要がある。公立諏訪東京理科大学のような地方の高等教育機関は、単なる地方大学としてではなく、地域産業の知識トラックと接続する拠点として見ることができる。
ここで重要なのは、大学だけではない。企業だけでもない。
地域企業、地方大学、専門学校、高専、職業訓練、インターン、社員教育、社会人の学び直し。これらが地域の中で接続されるとき、地方大学は5章で論じた結節点になり、企業はその接続を現実の職務と処遇へつなぐ共同設計者になる。
この構造は、他の地域でも検討されるべきである。
熊本・九州の半導体産業も、その材料になる。半導体産業に必要なのは、大学院レベルの研究者だけではない。装置を扱う人材、保全、品質管理、材料、物流、工場運営、周辺産業、高専卒、工業高校卒、専門学校卒、職業訓練を経た人材まで、厚い層が必要になる。
北海道・Rapidus周辺の動きも同じである。
最先端半導体という言葉だけを見ると、大学院、研究開発、国家プロジェクトの話に見える。だが、実際に産業を地域に置くなら、研究者だけでは足りない。工場を動かす人材、設備を保守する人材、地域で生活する人材、関連企業を支える人材、職業教育と企業内教育を行き来する人材が要る。
つまり、地域産業は、大学院研究者だけで成立しない。
そこには、地方大学、高専、専門学校、工業高校、職業訓練、企業内教育、資格、処遇をつなぐ複線型トラックが必要になる。
このとき、企業は受け身の採用先ではいられない。
どの技能が必要なのか。どの教育機関と接続するのか。どの資格を評価するのか。どの職務に置くのか。どの処遇へつなぐのか。どの段階で社会人を大学や専門教育へ戻すのか。企業は、地域産業の側からこの設計に参加しなければならない。
ただし、それは企業に公教育を任せるということではない。
公教育を企業の下請けにしてはならない。学校を企業の訓練所にしてはならない。教育制度は、個別企業の短期需要だけで動いてはならない。
だが、企業と地域産業を抜きにして職業教育を語ることもできない。
公教育は、最低到達、測定、基礎学力、専門教育、再接続を引き受ける。地方大学、高専、専門学校、職業訓練は、知識と技能のトラックを太くする。
企業と地域産業は、その知識と技能を職務、評価、処遇へ接続する。
この分担が必要である。
学校だけで職業教育を語るな。
企業だけに人材育成を丸投げするな。
地方大学、高専、専門学校、職業訓練、企業、地域産業を、複線型トラックの共同設計者として接続しろ。
そこまでやって初めて、職業教育は敗者トラックではなくなる。
7. 各省庁の部品を検品する
複線型トラックはもうあるのか?
ここまで書くと、こう言われるかもしれない。
高校改革もある。高専もある。専門高校もある。専修学校もある。大学改革もある。産業人材政策もある。職業訓練もある。リスキリングもある。地方大学と地域産業の連携もある。
たしかに、部品はある。
しかも、それぞれの文書は、個別に見ればかなり真面目に書かれている。高校改革も、人材育成も、産業需要も、職業能力開発も、地方大学と地域産業の接続も、何も考えられていないわけではない。
だが、ぼくの問題意識からすれば、問題は部品がないことではない。部品が、15歳から18歳、18歳以後、教育、勤労世界、職業訓練、企業内教育、福祉接続を貫く複線型トラックとして組まれていないことである。
文科省ネクストハイスクール構想
まず、文科省『高校教育改革に関する基本方針(グランドデザイン)――2040年に向けた「N-E.X.T.(ネクスト)ハイスクール構想」』(令和8年2月13日公表)を見よう。
これは、高校教育改革としてはかなり重要な文書である。専門高校の機能強化・高度化、普通科改革を通じた高校の特色化・魅力化、地理的アクセスや多様な学びの確保が掲げられている。
ここまではよい。
専門高校を強化する。普通科を改革する。地域人材育成の中心として高校を位置づける。高校教育を全国一律の普通科モデルに閉じない。これは、本稿の「高校を普通科一本線にするな」という主張と重なる部分がある。
だが、そこで止まる。
N-E.X.T.ハイスクール構想は、あくまで高校教育改革である。15歳から18歳までを義務教育化する構想ではない。18歳以後の大学、大学院、専門学校、高専、職業訓練、企業内教育、就労支援、福祉接続までを貫く複線型トラックでもない。
専門高校を強化しても、その先の職業世界、処遇、企業内教育、大学・大学院への再接続が弱ければ、専門高校はまた敗者トラックになる。普通科を魅力化しても、その先が大学進学一本線なら、普通科改革は普通科の延命にすぎない。多様な学びを確保しても、18歳以後の往復可能性が制度化されていなければ、複線型トラックには届かない。
日本成長戦略会議/文科省
次に、日本成長戦略会議/文科省『高校から大学・大学院等を通した人材育成システム改革ビジョン』(令和8年4月27日取りまとめ)を見よう。文科省は、このビジョンについて「人への投資の好循環による強い経済の実現を目指す」と説明している。
この文書は、題名からしてかなり近い。高校から大学・大学院までを通した人材育成を語っている。理工系、デジタル、成長分野の人材育成、科学技術人材の確保、高校改革と大学・大学院改革の連動を扱っている。普通科高校から文系大学へ流れ、低レベルホワイトカラーへ進む旧来の一本線が限界を迎えていることも、背景としては見えている。
ここまではよい。
だが、これも本稿の答えではない。
この文書の中心は、高校から大学・大学院等を通した人材育成である。つまり、上へ進む知識トラックを太くする文書である。理工系、デジタル、大学院、研究力、高度人材には強い。だが、大学に進まない者、大学から外れた者、専門学校から働く者、企業内教育から大学へ戻る者、失業後に職業訓練へ戻る者、福祉接続を必要とする者まで含む複線型トラックではない。
もちろん、この種の文書にも、内閣官房、経産省、厚労省、国交省、農水省などと情報共有し、連携するという記述はある。だが、情報共有と省庁横断の統合設計は違う。各省庁が連携すると書いていることと、15歳から18歳、18歳以後、教育、勤労世界、職業訓練、企業内教育、福祉接続を貫く複線型トラックが制度として設計されていることは別である。
高校から大学・大学院へ進む線は太くなる。
しかし、教育と勤労世界を何度も往復する線は、まだ十分に描かれていない。
内閣官房・教育未来創造会議
次に、内閣官房・教育未来創造会議『我が国の未来をけん引する大学等と社会の在り方について(第一次提言)』(令和4年5月取りまとめ)を見よう。
この文書は、大学等と社会の関係を扱う。成長分野、大学改革、高専、リカレント教育、リスキリング、社会人の学び直しなど、複線型トラックに接続し得る語彙は多い。大学を社会から切り離された場所として見ない点は重要である。高等教育と社会を接続するという方向は、本稿とも重なる。
だが、ここでも中心は大学等である。
大学、高専、高等教育、成長分野、社会人の学び直し。これらは重要である。だが、15歳から18歳までの後期中等教育、18歳以後の職業訓練、企業内教育、資格、ハローワーク、福祉接続までを、ひとつの可逆的な制度として束ねてはいない。
リカレント教育やリスキリングという言葉があるだけでは足りない。社会人が学び直せるということと、教育と勤労世界を何度も往復できる複線型トラックが制度化されていることは違う。
経産省
次に、経産省『産業人材育成に向けた取組について』(令和8年2月25日資料)を見よう。この資料は、「2040年の就業構造推計(改訂版)」を含み、産業人材の需給ミスマッチを扱っている。
ここには、産業側から見た重要な問題認識がある。2040年に向けた就業構造の変化、デジタル、グリーン、半導体、成長分野、地域産業、人材不足、職種ミスマッチ、文系事務職偏重の限界。こうした問題意識は、本稿の背景認識とかなり重なる。
ここまではよい。
経産省は、産業側から見た人材需要を言える。どの産業に人材が足りないのか。どの職種が伸びるのか。どの技能が必要なのか。どの地域に産業を置くのか。そこを見る力はある。
だが、経産省は学校制度を持っていない。
産業需要は語れる。だが、15歳から18歳までの教育制度を設計する主体ではない。後期中等教育をどう複線化するか、地方大学や高専や専門学校をどう接続するか、職業訓練や福祉接続をどう組み込むかを、経産省だけで処理することはできない。
経産省の資料は、複線型トラックにとって必要な需要側の地図である。
だが、それ自体は複線型トラックではない。
厚労省
次に、厚労省『第12次職業能力開発基本計画』(令和8年3月31日策定)を見よう。これは、令和8年度から令和12年度までの5年間にわたる職業能力開発の基本方針である。
この計画は、産業構造の変化、人口減少に伴う労働供給制約、成長分野に必要な人材育成、労働市場の見える化、個人の自律的・主体的なキャリア形成支援、企業における職業能力開発の充実を掲げている。
ここまではよい。
職業能力開発は、複線型トラックに不可欠である。職業訓練、職業能力評価、キャリア形成支援、企業内の能力開発、労働市場の見える化。これらがなければ、教育と勤労世界の往復は成立しない。
だが、厚労省の制度は、基本的には教育制度の後に来る。
労働者になった後。求職者になった後。失業した後。無業になった後。職業能力開発の対象になった後。そこから支える制度である。もちろん、それは必要である。だが、本稿が求めているのは、こぼれた後に拾う制度だけではない。
15歳から18歳までをどう設計するのか。
18歳でどう再測定し、再接続するのか。
大学、大学院、専門学校、高専、職業訓練、企業内教育、資格、福祉接続をどう往復可能にするのか。
教育制度の失敗後ではなく、失敗前にどう接続するのか。
そこは、厚労省だけでは届かない。
内閣府
最後に、内閣府『地方大学・地域産業創生交付金』(令和6年度資料/令和6年6月資料)を見よう。これは、「地方大学・産業創生法」に基づく、地方公共団体主導の産学官連携事業である。地方公共団体が先導し、産学官で地域産業の創出と特定分野に強みを持つ大学づくりに取り組む事業として説明されている。
これは、かなり近い部品である。
地方大学と地域産業を接続し、若者雇用を創出し、地域の大学振興と中核的産業の振興を結びつける。地方大学を、地域から切り離された教育機関としてではなく、地域産業と人材育成の拠点として見る発想は、本稿の5章・6章と重なる。
ここまではよい。
地方大学と地域産業を接続する。地域の若者雇用を作る。大学、自治体、企業を組ませる。これは、地方大学を複線型トラックの結節点として作り替えるうえで、重要な部品である。
だが、これも本稿の答えではない。
地方大学・地域産業創生交付金は、地方大学と地域産業の接続支援である。15歳から18歳までの義務教育化ではない。後期中等教育の複線化でもない。18歳以後の大学、大学院、専門学校、高専、職業訓練、企業内教育、就労支援、福祉接続を、往復可能な制度として束ねるものでもない。
地域産業と大学の接続はある。
だが、教育と勤労世界の全体設計はない。
まとめ
ここまで見れば、構図は明らかである。
文科省『高校教育改革に関する基本方針(グランドデザイン)――2040年に向けた「N.E.X.T.(ネクスト)ハイスクール構想」』は、高校改革で止まる。
日本成長戦略会議/文科省『高校から大学・大学院等を通した人材育成システム改革ビジョン』は、大学・大学院へ進む知識トラックに寄る。
内閣官房・教育未来創造会議『我が国の未来をけん引する大学等と社会の在り方について(第一次提言)』は、高等教育と社会の接続に寄る。
経産省『産業人材育成に向けた取組について』は、産業需要の地図を描くが、教育制度を持たない。
厚労省『第12次職業能力開発基本計画』は、教育制度後の職業能力開発に寄る。
内閣府『地方大学・地域産業創生交付金』は、地方大学と地域産業の接続には近いが、15歳からの複線型トラック全体ではない。
どれも部品である。
どれも必要である。
だが、どれも全体ではない。
本稿が求めているのは、高校改革でも、高大接続でも、大学改革でも、産業人材政策でも、職業訓練でも、地方大学振興でもない。それらを否定するのではない。それらを、複線型トラックとして束ねることである。
15歳で第一次接続する。
18歳までを教育制度内で面倒を見る。
18歳で再測定し、再接続する。
その後、大学、大学院、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、資格、ハローワーク、福祉接続を、教育と勤労世界を何度も往復できる制度としてつなぐ。
ここまで書いている文書は、まだない。
だから、部品はあるが、設計図はない。
政策はあるが、複線型トラックはまだない。
8. 政治はグランドデザインを示せ
第7章で確認したのは、政策部品がないということではない。
むしろ、部品はある。
高校改革はある。大学改革はある。大学院改革はある。高専もある。専門学校もある。職業訓練もある。リスキリングもある。産業人材政策もある。地方大学と地域産業の接続もある。
だが、それぞれが別の省庁、別の文脈、別の政策目的の中で動いている。
文科省は高校改革と高等教育改革を見る。経産省は産業需要を見る。厚労省は職業能力開発と労働市場を見る。内閣府や内閣官房は、地方大学、成長戦略、教育未来創造会議のような横断的な枠組みを作る。
それぞれは必要である。
だが、省庁ごとのサイロの中で部品が並んでいるだけでは、複線型トラックにはならない。
15歳で第一次接続する。18歳までを教育制度内で面倒を見る。18歳で再測定し、再接続する。その後、大学、大学院、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、資格、ハローワーク、福祉接続を、教育と勤労世界を何度も往復できる制度としてつなぐ。
これは、一省庁の仕事ではない。
文科省だけではできない。
経産省だけではできない。
厚労省だけではできない。
内閣府だけでもできない。
だから、政治が要る。
ここで言う政治とは、選挙のスローガンではない。政局でもない。省庁の部品を束ね、制度全体の設計図を示す責任のことである。
では、現在の政党政治は、この問題をどう扱っているのか。
まず、自民党である。
自民党は、実践的な職業教育を行う専門高校の整備、高等専修学校への支援、地域産業界や大学との連携による専門高校の機能強化を掲げている。ここには、本稿に近い部品がある。普通高校以外の進路を整備し、専門高校を地域産業と接続し、高等専修学校も支援する。これは、後期中等教育を普通科一本線にしないという点では、本稿と重なる。
だが、そこには、まだ全体設計がない。
18歳までの義務教育化。最低到達保証。15歳での第一次接続。18歳での再測定。大学、大学院、職業訓練、企業内教育、福祉接続への往復可能性。そこまでを貫く複線型トラックとしては、まだ書かれていない。
自民党は、部品に近い。
だが、グランドデザインではない。
維新は、別の方向である。
維新は、高校無償化、個別最適化、多様な教育機会、選択の最大化、自己選択・自己決定、自立した高校生という方向を強く打ち出している。これは、教育を供給者側からではなく、学習者側、需要者側から見直すという意味では一つの方向である。
だが、本稿とはメカニズムが違う。
維新的な発想は、個人に選ばせる方向へ寄る。学校を選ばせる。教育機会を選ばせる。自己決定できる生徒を育てる。制度側は選択肢を増やし、個人が選ぶ。
本稿が求めているのは、それだけではない。
もちろん、選択肢は必要である。だが、選択肢を並べて、あとは選べ、では足りない。測定、支援、最低到達、再接続、往復可能性、処遇への接続がなければ、選択は自己責任へ崩れる。
しかも、選択の前に測定がなければ、自由選択は家庭格差の別名になる。
読み書き計算、基礎学力、知的能力、適性、発達上の困難、生活上の困難を測定せず、支援にもつながず、ただ選べと言えば、選べる者だけが選ぶ。選べない者は、自由競争の中で疲弊する。
複線型トラックは、自由競争の別名ではない。
学校を競争させる仕組みでもない。
選ばれなかった学校を退場させる仕組みでもない。
選んだ子どもだけが成功し、選べなかった子どもが沈む仕組みでもない。
維新は、選択と競争に寄る。
本稿は、測定、支援、制度設計、可逆性に寄る。
国民民主党は、さらに別の方向である。
国民民主党は、「人づくり」こそ国づくりとし、教育国債、幼稚園・保育園から高校までの教育完全無償化、教育・科学技術予算の倍増を掲げている。
これは、教育投資としては重要である。教育に金を出す。科学技術に金を出す。人への投資を増やす。そこには、本稿と重なる部分がある。
だが、投資を増やすだけでは、複線型トラックにはならない。
教育予算を増やすことは必要である。高校無償化も必要である。科学技術投資も必要である。だが、どこに、どの順序で、どの制度として投資するのか。15歳から18歳、18歳以後、大学、大学院、職業訓練、企業内教育、福祉接続をどうつなぐのか。そこがなければ、投資は部品に流れる。
国民民主党は、投資拡大に寄る。
本稿は、投資の前に制度設計を問う。
参政党は、表面的には最も近く見えるかもしれない。
普通科高校から大学へ進む一本線への批判。大学進学偏重への批判。職業教育系高校の再構築。地域人材の育成。自然体験や生活体験の重視。これらの語彙は、本稿と似て見える部分がある。
だが、似ているのは診断のレトリックであって、メカニズムではない。
参政党の政策は、学習者中心、自律教育、多様な教育環境、教育バウチャー的な予算配分、伝統・郷土・国家への方向づけを含んでいる。そこでは、国家が複線型トラックを制度として設計するというより、学校以外の教育環境を含めて、個人や家庭が選ぶ方向へ寄る。
本稿が求めているのは、個人に財布を渡して選ばせることではない。
国家と社会が、最低到達、測定、支援、再接続、往復可能性を制度として作ることである。後期中等教育、高専、専門学校、大学、大学院、職業訓練、企業内教育、就労支援、福祉接続を、教育と勤労世界を何度も往復できる仕組みとして設計することである。
本稿は、自然体験や自律教育から出発しない。
出発点は、測定である。
読み書き計算、基礎学力、知的能力、適性、発達上の困難、生活上の困難を見る。そのうえで、必要な教育、支援、職業世界への接続を設計する。体験を置くとしても、それは伝統や郷土への情緒的回帰のためではない。家庭格差を補正し、社会と職業世界への接続可能性を作るためである。
ここが、参政党型の自律教育・多様な教育環境論との大きな違いである。
参政党は、診断の言葉では近く見える。
だが、本稿とは制度原理が違う。
左派についても触れておく必要がある。
共産党やれいわ系の政策は、平等、無償化、反競争、学校条件整備という点では、本稿と重なる部分がある。学校を競争にさらすな。地域の教育条件を守れ。教育費を下げろ。公的責任を強めろ。これらは、重要な主張である。
だが、左派には、能力・適性・トラック分化そのものへの警戒が強い。
トラック分化は、形式的には可逆的でも、実質的には階層を固定するのではないか。測定は格付けになるのではないか。職業教育は、結局、下層の子どもを大学進学から遠ざける装置になるのではないか。
この批判は軽く扱ってはならない。
実際、分化はすぐに序列になる。測定はすぐに格付けになる。職業教育はすぐに敗者トラックになる。だからこそ、本稿は、ただ分けろとは言っていない。
分化は固定ではない。
測定は格付けではない。
トラックは身分ではない。
もちろん、測定を重視することは、数字を信仰することではない。数字は制度設計の道具であって、政治的断言を飾るための小道具ではない。
複線型トラックは、敗者トラックを作るための制度ではない。戻れる制度を作るための制度である。15歳でこぼさない。18歳で固定しない。働いた後も教育へ戻れるようにする。福祉接続からも、可能な範囲で訓練や就労支援へ進めるようにする。
左派は、平等と反競争では近い。
だが、本稿は、画一化によって平等を守るのではない。可逆性によって分化を制度化する。
ここまで見れば、政治の課題は明らかである。
自民党は、部品に近いが、全体設計がない。
維新は、選択と競争に寄る。
国民民主党は、投資拡大に寄る。
参政党は、診断のレトリックが近く見えるが、制度原理が違う。
左派は、平等と反競争では近いが、トラック分化への警戒が強い。
どれも、本稿の立場とは一致しない。
だからこそ、政治はグランドデザインを示さなければならない。
高校無償化を叫ぶだけでは足りない。
バウチャーを配るだけでは足りない。
学校を競争させるだけでは足りない。
大学を潰すだけでは足りない。
地方大学を守るだけでも足りない。
職業教育を美談にするだけでも足りない。
必要なのは、省庁の部品を束ねることである。
高校改革、大学改革、大学院改革、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、資格、ハローワーク、福祉接続、地域産業、地方大学を、教育と勤労世界を何度も往復できる制度として設計することである。
勤労の義務を、個人の精神論にするな。
教育を、学校の中だけで終わらせるな。
職業教育を、敗者トラックにするな。
地方大学を、ただ残すな。ただ潰すな。
省庁の部品を束ねろ。
複線型トラックを、政治としてデザインしろ。
Word up.
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。