教育学部はいらない――日本共和制論 2/5

All eyes on 教育学部…


1. 教育学部はいらない、とはどういう意味か

「教育学部はいらない」と言うと、すぐに誤解される。教育学など不要だ、という話ではない。教師に、教育学、発達心理、教育心理、測定、評価、特別支援、教科指導、学級経営、保護者対応、福祉や医療との接続が不要だ、という話でもない。むしろ逆である。

前稿で述べたように、義務教育を、親の就学義務としてだけでなく、国家と社会の成員形成責任として捉えるなら、教師には、これまで以上に高度な専門性が必要になる。前稿では、義務教育を、子どもを放置しない制度として捉え直した。子どもを、家庭環境、地域差、教師の当たり外れ、学校文化、自己責任、偶然に任せてはいけない。読み書きや数理の到達、発達上の困難、学習困難、認知特性、適性を見て、必要な支援や制度へ接続する。それを国家と社会の責任として引き受けるべきだと書いた。

そうであるなら、教員養成も変わらなければならない。教師は、人格と熱意で現場を回す仕事ではない。子どもが好きな人が、善意と根性で何とかする仕事でもない。教師は、国家が最低到達を保証する制度の担い手である。

もちろん、教師にすべてを背負わせるべきではない。教師は心理職ではない。医師でもない。福祉職でもない。キャリアカウンセラーでもない。ハローワーク職員でもない。だが、教師は入口である。子どもの困難を見逃さない入口である。子どもの発達特性、学習困難、認知特性、適性、生活上の困難を、必要な専門職へつなぐ入口である。読み書きや数理の失敗を、本人の努力不足や家庭の問題だけにせず、制度の側へ戻す入口である。

その入口を担う人間が、教育学部のローカル文化と現場の善意だけで養成されてよいはずがない。

本稿の主張は、教育学をなくせ、ではない。教員養成を、教育学部という学部単位のローカル文化から切り離せ、である。教員養成を、国家責任として、専門職養成へ組み替えろ、である。

2. かけ算の順序問題――数学よりローカル規範が勝つ場所

この問題を考える入口として、かけ算の順序問題を置く。

かけ算の順序問題とは、たとえば「3個入りの袋が5袋ある」という文章題で、3×5 と書くべきか、5×3 と書いてもよいのか、という形で現れる論争である。答えはいずれも15である。自然数のかけ算には交換法則がある。にもかかわらず、式の順序が教師や教材の想定と違うという理由で、数学的には同値な式が誤答扱いされることがある。これが問題の核である。

細部に立ち入る必要はない。問題にしたいのは、個々の教師の採点でも、特定の教科書会社でも、特定の学校の逸話でもない。問題は、数学的に非合理的なローカル規範が、小学校算数の指導・採点規範として現れうるということである。

もちろん、文章題において「一つ分の数」と「いくつ分」を区別して理解させる教育的意図はありうる。数量関係をどう捉えたかを確認したい、という指導意図も理解できる。しかし、それと、式の順序が違うから不正解にすることは別である。

数学的に同じ値を表す式を、ローカルな指導規範によって誤りとして扱う。数学的な同値性よりも、指導上の型や採点慣行が優先される。ここに問題がある。

ここで、「現在も全国の教育現場で広く残っている」と断定する必要はない。そうした定量的証拠を出すのは難しい。重要なのは、少なくとも過去にその種の問題が小学校算数の現場で起き、現在もネット上で断続的に再燃するほどの論点になっていることである。

数学のように、少なくとも式と値の関係を検証できる領域でさえ、教育現場のローカル規範が、数学そのものによって十分に検証されないまま残りうる。これは単なる算数論争ではない。制度上の故障である。

社会科や道徳の話なら、価値観の対立がある。歴史認識の対立もある。政治的立場の対立もある。だから、そこでは議論が複雑になる。だが、算数は違う。少なくとも、かけ算の式と答えの関係は、数学として検証できる。そこですら、ローカルな教育規範が数学的同値性を上書きしうるなら、国語、社会、道徳、生活指導、評価、進路指導では、さらに危うい。

かけ算の順序問題は、教師個人を叩く材料ではない。教員養成と教材・採点基準の検証責任が曖昧であることを示す材料である。

3. 日本の現状――制度はあるが、責任を取り切れていない

日本には制度がないのではない。むしろ制度はある。文科省がある。学習指導要領がある。教科書検定がある。教職課程認定がある。教員免許制度がある。都道府県教育委員会がある。教員採用試験がある。教育実習もある。教員研修もある。

問題は、制度があるにもかかわらず、教員養成と教材・採点基準の妥当性を、誰が最後まで引き受けるのかが弱いことである。

文科省は、学習指導要領、教科書検定、教職課程認定、教員免許制度、教育政策を持っている。だから、本来であれば、教材、採点基準、教師用指導書、教員養成課程を検証する仕組みを設計し、誤ったローカル規範を排除し、教員養成制度へ反映する役割を担うはずである。

大学は、免許取得に必要な科目を提供する。だが、現行の教職課程は、専門職養成というより、免許取得に必要な単位取得制度に寄りやすい。

教育学部・教員養成系学部は、初等教員養成、教科教育法、教育実習、附属校文化などを担う。しかし、そこで教育学部・教科教育法の内部規範、指導案文化、採点慣行が生まれたとき、それを数学や各分野の学問的知見によって外部から検証する仕組みが弱い。

教育委員会は、採用、研修、現職教員への介入を担う。だが、採用後の再教育、不適切指導の修正、教材や採点基準の更新を、十分に制度化しているとは言いにくい。

学校現場は、ローカル規範の発生場所である。だが、現場を主犯にしても仕方がない。現場は制度設計者ではない。現場は、制度の弱さを引き受けさせられている場所でもある。だから、叩くべきは現場ではない。現場に丸投げする制度である。

日本にはすでに、他学部で専門を学びながら教職課程を履修し、教員免許を取る道がある。数学科の学生が数学を学び、教職課程を取る。文学部の学生が国語教員を目指す。理学部の学生が理科教員を目指す。そういう道はすでにある。

だが、それでは浅い。現行制度は、数学や文学や物理を学んだ上に、教職単位を横に足す構造である。専門分野の学修を前提に、教師という専門職へ進むための強い第二段階を置く制度ではない。専門分野に教職単位を足すだけでは、教師という専門職は作れない。

もちろん、現在でも優秀な教師はいる。教育学部にも、教職課程にも、現場にも、まともな人はいる。そこを否定する必要はない。しかし、制度は、優秀な個人を前提にしてはいけない。義務教育を国家責任として引き受けるなら、最低限まともな教師を、制度として保証しなければならない。

4. 比較――アメリカを反面教師に、フランス・ドイツ・シンガポールを見る

戦後日本の教育制度は、アメリカ型の民主教育を強く参照してきた。しかし、そのアメリカも、教員養成と教育内容の責任という点では、理想形ではない。

アメリカでは、教育行政の権限が州や学区に強く分散している。教員資格、教育課程、学校運営、評価基準も、州や学区によって大きく異なりうる。さらに、教育をめぐる権利紛争や政策対立が裁判を通じて制度運用に影響しやすい。教育内容と教員養成の責任は、連邦、州、学区、大学の教員養成課程、教員資格制度、裁判所、地域政治の間に分散しやすい。

もちろん、日本にも自治体差はある。だが、日本の都道府県差や自治体差は、アメリカの州・学区単位の制度分散とは性質が違う。日本が学ぶべきなのは、アメリカ型ではない。むしろ、分散が最低保証を弱めうるという反面教師として見るべきである。

では、教育内容、教員養成、実地訓練、評価を、国家と公共制度の側でどう担保するのか。

フランスでは、教育が共和国的公共制度として扱われる。国が、教育内容、試験、教員採用、教員養成、評価に強く関与する。Conseil supérieur des programmes(教育課程高等審議会、CSP)は、学校教育の構想、共通基礎、教育課程、国家試験、教員採用試験、教員の初任・継続研修について意見・提案を行う。Conseil d’évaluation de l’École(学校評価審議会、CEE)は、学校教育の組織と成果、評価方法、評価結果、学校評価の枠組みを扱う。

フランスをそのまま輸入すればよい、という話ではない。中央集権は硬直化しうる。政治的対立も生む。制度改革の混乱もある。フランス教育を理想化する必要はない。それでも、教育内容と評価を、教育学部の内輪規範や現場慣行に任せず、公共制度の側で扱う発想は重要である。

ドイツでは、州ごとの差はあるが、一般に大学での学修を第一段階とし、その後に教員試補制度・試補勤務(Referendariat / Vorbereitungsdienst)と呼ばれる実地訓練段階が置かれる。さらに第二国家試験へ進む。大学で学んだだけで教師になるのではなく、教師になる前に、職業人として訓練され、評価される段階がある。

これは、日本の教育実習とは質的に違う。日本の教育実習は、大学教職課程の一部である。もちろん、教育実習にも意味はある。現場を見ること、授業を経験すること、子どもと接することは必要である。だが、それは、職業資格としての厳格な試用・訓練・評価段階とは言いにくい。

ここで重要なのは、大学で学んだだけでは終わらず、教師になる前に実地で訓練され、評価されることである。専門分野の学修、教育方法、実地訓練、職業能力評価が接続されている。

シンガポールでは、教員養成が国家的人材育成として設計されている。National Institute of Education(国立教育学院、NIE)は、初任教員養成、現職研修、リーダー育成を一続きで扱う。教師を個々の大学や現場に任せきるのではなく、国家の人的資本形成の一部として養成する制度である。

ここで重要なのは、シンガポールをそのまま真似ることではない。国家の規模も制度文化も違う。だが、教員養成を、分散した大学任せ、現場任せ、個人の善意任せにしないという点は明確である。

フィンランドについても、教育全体を礼賛する必要はない。だが、教師を高学位・強選抜の専門職として扱う点は、教員養成を軽くするなという本稿の主張を補強する。高学位化すれば自動的によくなるわけではない。高学位化しても、教材や採点基準の公共的検証が弱ければ、ローカル規範は残る。それでも、教師を専門職として重く扱うという方向自体は重要である。

この比較から見えるのは、単純な外国礼賛ではない。問題は、国家が何を責任として持つのか、教員養成をどこまで専門職養成として重く扱うのか、教育内容と評価を誰が公共的に検証するのかである。

5. 比較から見える日本の弱点――責任の分散と検証機構の不在

かけ算の順序問題、教職課程の浅さ、教育学部ローカル文化、現場慣行、教材・採点基準の外部検証不足。これらは別々の問題ではない。日本の教員養成が抱える構造的な弱点の表れである。

日本の弱点は、単に「教育学部が駄目」ということではない。問題は、責任が分散しているうえに、どこも教員養成と教材・採点基準の妥当性を最後まで引き受けていないことである。

文科省は制度を持つ。学習指導要領、教科書検定、教職課程認定、教員免許制度を持つ。だが、教材・採点基準・教師用指導書の妥当性を継続的に検証し、誤ったローカル規範を排除し、教員養成と現職研修へ反映する強い機構が見えにくい。

大学は教職課程を持つ。だが、大学の教職課程は、職業資格としての強い専門職養成というより、免許取得に必要な単位制度に寄りやすい。

教育学部・教員養成系学部は、初等教員養成や教科教育法を担う。だが、その中で生まれるローカルな教育規範が、数学や各分野の学問的知見から外部検証される仕組みが弱い。

教育委員会は採用と研修を担う。だが、採用後の教師に対して、教材、採点基準、測定、発達、評価、特別支援、福祉・医療接続を継続的に再教育する強い仕組みが十分とは言いにくい。

学校現場は実践を担う。だが、現場は、制度上の責任を引き受ける最終処理場にされやすい。その結果、誰も全体に責任を持たない。ローカル規範が残る。指導案文化が残る。採点慣行が残る。教育学部・教科教育法の内部で温存される算数指導のローカル規範が残る。現場のローカル慣行が残る。かけ算の順序問題のようなものが、起こりうる。

ここで必要なのは、現場を叩くことではない。現場に丸投げする制度を変えることである。教師にすべてを投げてもいけない。

子どもの困難は、学校だけで処理できるものではない。境界知能、発達障害、学習障害、家庭問題、貧困、虐待、不登校、精神疾患、職業適性、進路選択、福祉接続、医療接続、就労支援。これらを、教師一人で抱え込むべきではない。

学校は、医療、福祉、心理職、スクールソーシャルワーカー、ハローワーク、職業訓練、キャリア支援と接続しなければならない。進路指導を学校内で完結させないという意味では、GATB論で書いた学校とハローワークの接続もここに関わる。もちろん、そのためにはハローワーク側やキャリア支援側の体制も強くしなければならない。

だが、それは別制度の話だから教師は知らなくてよい、とはならない。教師は、どの兆候を見たら誰につなぐべきかを知らなければならない。どこまでは学校で見るべきか。どこから先は心理職、医療、福祉、職業支援へつなぐべきか。どの測定が何を意味するのか。どの教育言説が疑似科学なのか。たとえば、多重知能理論のような、教育におけるスピを、測定や支援の制度設計と取り違えないためにも、教師には基礎的な測定リテラシーが必要である。

だから、教員養成を軽くしてはいけない。国家責任として、専門職養成へ組み替えなければならない。

6. 制度案の全体像――教員養成OSをアップデートする

必要なのは、現行制度の微修正ではない。前稿で義務教育を国家と社会の成員形成責任として読み替えた以上、教員養成もまた、制度の前提から組み替える必要がある。教員養成の制度設計を土台から書き換えること。つまり、教員養成OSのアップデートである。

組み替えるべき点は明確である。

第一に、学部では専門分野そのものを学ぶ。その後、専門職大学院で教師としての訓練を受ける。

法科大学院制度を美化するのではない。参照するのは、学部教育と専門職養成を二段階化する発想である。法学部で法を学び、法科大学院で法曹としての専門職養成を受けるように、まず専門分野を学んだ者が、その後に専門職大学院で教師として鍛えられる。

ただし、専門職大学院化は、看板を増やせばよいという話ではない。認可校数を絞る。定員を絞る。入学段階で選抜する。修了段階でも到達を確認する。専門職大学院の質を、独立検証機関が継続的に検証する。これをしなければ、教育学部を教職大学院に看板替えしただけになる。

必要なのは、専門職大学院化と強選抜の組み合わせである。教員不足を理由に入口を緩めれば、義務教育の最低保証は崩れる。教師の待遇、定員、配置、研修制度を同時に設計しなければならないが、それは「だから選抜を緩めろ」という話にはならない。国家責任として義務教育を引き受けるなら、国家は教師の数だけでなく、教師の質も保証しなければならない。

第二に、専門職大学院の中核に、教育心理学、発達、統計、測定、評価、特別支援、認知科学、教材研究、授業設計、学級経営を置く。教師に必要なのは、ふんわりした教育愛ではない。多重知能理論のような気持ちのよい教育スピでもない。測れるものを測り、測れないものを測れないものとして扱い、子どもの困難、発達、認知特性、学習困難、適性を、支援と接続へつなぐ冷たい知識である。

第三に、独立検証機関を置く。専門職大学院化だけでは足りない。専門職大学院の中身を、教育学部のローカル文化がそのまま支配すれば、看板が変わるだけである。だから、教材、採点基準、教師用指導書、教員採用試験、教員研修、教職大学院カリキュラムを、公共的に検証する機関が必要である。

この三つは、互いに分離した提案ではない。専門職大学院化は、教師養成の入口を作る。実地訓練と多職種連携は、その専門性を現場に接続する。独立検証機関は、その養成内容と教材・採点基準が、再びローカル文化へ閉じることを防ぐ。

つまり、必要なのは、大学名や学部名の看板替えではない。入口、訓練、接続、検証を一体化した、教員養成OSのアップデートである。

7. 専門職大学院――専門分野の学修を前提に、教師を養成する

まず、学部では専門分野そのものを学ぶ。

これは、教師になるための予備的な教材研究ではない。数学教師になるなら、まず数学科や理学部で数学を学ぶ。国語教師になるなら、文学部や言語系の学部で、文学、日本語学、言語学を学ぶ。理科教師になるなら、物理、化学、生物、地学のいずれか、あるいは関連する自然科学を学ぶ。社会科教師になるなら、歴史学、法学、政治学、経済学などを学ぶ。

教師になる前に、まず学問分野そのものを学ぶ。ここが出発点である。

教育学部的な発想では、最初から「どう教えるか」が前に出やすい。だが、それでは順序が逆である。教える以前に、学問分野そのものを学ばなければならない。教師は、教育技法だけで作られる職業ではない。教える対象について、大学教育としての専門的訓練を受けていなければならない。

小学校教師も例外ではない。小学校では全科担任制が採られてきた。しかし、文科省自身も小学校高学年については教科担任制を推進している。これは、全科担任制を当然の前提としてよいわけではないことを、制度の側も認めつつあるということである。

もちろん、教科担任制そのものは方向としてはよい。全教科をそれなりにマスターする負荷を個々の教師に課すより、教科内容に強い教師をそのまま使う方が合理的である。だが、それだけでは足りない。教科担任制を部分的に導入しても、専科教員の養成、教員養成課程、教材・採点基準の検証、中学以降の接続まで含めた全体設計がなければ、よい部品が一つ増えるだけである。

問題は、全科担任制か教科担任制かという名前ではない。誰が、どの専門性を持って、どの教材を使い、どの基準で評価し、子どもの困難をどこへ接続するのかである。小学校についても、専門分野の学修、専門職大学院、専科教師、教科担任制、チーム・ティーチングを含めて再設計すべきである。

そのうえで、専門職大学院で教師になる。そこでは、発達心理、教育心理、教育測定、統計、評価、特別支援、認知科学、授業設計、教材研究、学級経営、保護者対応、福祉・医療接続を扱う。

特に重要なのは、教育心理学、統計、測定、評価である。教育は、人間相手だから数値化できない。そう言って逃げてはいけない。もちろん、人間は数値だけで理解できない。子どもの人生を、テストの数値だけで決めてはいけない。そんなことは当然である。だが、それは測定を避ける理由にはならない。

測れるものを測る。測れないものを測れないものとして扱う。測定の限界を理解する。統計の意味を理解する。認知特性を理解する。学習困難を理解する。発達障害を理解する。境界知能を理解する。高い能力を持ちながら学校に適応できない子どもも理解する。これが教師の専門性である。

ここで切るべきなのは、教育におけるスピである。多重知能理論のような、能力は多様です、人間にはいろいろな知性があります、という気持ちのよい言葉は、測定と支援と制度設計に降りなければ意味がない。多様性を語るだけなら簡単である。問題は、その多様性をどう見つけ、どう支援し、どう接続するかである。

測定しない多様性論は、やさしい顔をした放置である。

教師は心理職ではない。医師でもない。福祉職でもない。キャリアカウンセラーでもない。だが、教師は、どの兆候を見たら誰につなぐべきかを知らなければならない。どの検査が何を測るのかを知らなければならない。どの説明が疑似科学なのかを知らなければならない。どこから先は自分で抱え込んではいけないのかを知らなければならない。

専門職大学院化とは、教師にすべてを背負わせることではない。教師が抱え込まないために、専門知と接続先を理解させることである。

8. 実地訓練と多職種連携――教育実習では足りない

現行制度にも教育実習はある。だから、「日本には実地訓練がない」と言うのは正確ではない。

しかし、日本の教育実習は、大学教職課程の一部である。期間も限られ、評価も実習校と大学側の関係に依存しやすい。職業資格としての厳格な試用・訓練・評価段階とは言いにくい。

ドイツの教員試補制度・試補勤務は、大学での学修後に置かれる第二段階であり、実地訓練、セミナー、指導、試験授業、第二国家試験を含む。教師になる前に、職業人として訓練され、評価される段階である。

日本で必要なのは、教育実習を少し長くすることではない。専門職養成の中で、授業を組み立て、実施し、評価され、子どもの困難を見立て、必要な専門職へ接続する訓練を行うことである。

現場で学ぶことは必要である。だが、現場に丸投げしてはいけない。実地訓練は、国家責任の専門職養成の中に置かれなければならない。

さらに、多職種連携を制度に入れる必要がある。学校は、福祉、医療、心理職、スクールソーシャルワーカー、ハローワーク、職業訓練、キャリア支援と接続しなければならない。子どもの問題は、学校だけで完結しない。

進路指導を学校内で完結させないという意味では、学校がハローワークと連携することも必要になる。職業適性、職業情報、職業訓練、就労支援への接続は、学校だけで抱え込むべきではない。ただし、そのためにはハローワーク側やキャリア支援側の体制も強くしなければならない。

ここで重要なのは、学校を社会から切り離さないことである。小学校高学年の教科担任制、社会科見学、職業体験、地域の仕事への接触、社会人や専門職の学校参加。そうした部品は、すでに世の中にある。方向としてはよいものも多い。だが、それらが、教員養成、小中高の接続、職業教育、公共的経験、家庭格差の補正まで含む全体設計に接続されなければ、よい部品がバラバラに増えるだけである。

教師は、子どもをすべて救う人ではない。教師は、子どもを適切な専門職へ接続する入口である。入口が入口として機能しなければ、子どもは制度に接続されない。

9. 独立検証機関――教材、採点基準、教員養成を公共的に検証する

専門職大学院化だけでは足りない。独立検証機関が必要である。

文科省内部の審議会、教育学部中心の学会、現場経験の共有だけでは足りない。教材、採点基準、教師用指導書、教員採用試験、教員研修、教職大学院カリキュラムを検証する機関が必要である。

数学教育なら、数学者、数学教育研究者、認知心理学者、測定専門家、現場教師を入れる。現場教師を入れるのは、現場慣行を正当化するためではない。実装可能性を確認するためである。

かけ算の順序問題は、この独立検証機関の必要性を示す試金石である。数学的に根拠の弱いローカル採点規範が出たとき、それを「現場の工夫」として放置してはならない。教育学部・教科教育法の内部で温存される算数指導のローカル規範が、数学そのものに照らして妥当なのかを検証しなければならない。

数学のように正誤を検証しやすい領域でさえ、ローカル規範を公共的に検証できないなら、価値判断や歴史認識が絡む領域では、なおさら慎重な制度設計が必要になる。

ただし、ここで言っているのは、国家が道徳的感情や歴史認識を一つに統一せよ、という話ではない。前稿で確認したように、国家は子どもの内心を支配してはならない。独立検証機関がまず扱うべきなのは、数学、言語学、自然科学、歴史学、法学などの学問的知見に照らして検証可能な教材、採点基準、評価方法、教員養成内容である。

算数であれば、数学的に根拠の弱い採点規範を検証する。国語であれば、読解や言語教育としての妥当性を検証する。理科であれば、自然科学としての正確さを検証する。社会科や道徳については、国家が価値内容を統一するのではなく、事実誤認、憲法上の問題、評価方法の恣意性、教員による内心評価への逸脱を防ぐという限界線を明確にしなければならない。

この機関は、単なる権威付け機関であってはならない。公開された検証を行う必要がある。どの教材が何を根拠に妥当なのか。どの採点基準が何を根拠に妥当なのか。どの教え方が、どの学習効果を狙い、どの限界を持つのか。どの教師用指導書が、各分野の学問的知見に照らして問題を持つのか。どの教員研修が、実際に教師の実践を改善しているのか。これを検証する。

文科省が制度を持つだけでは足りない。教育学部が研究しているだけでも足りない。教育委員会が研修するだけでも足りない。現場教師が経験を積むだけでも足りない。

教材、採点基準、教員養成の内容を、教育学部や現場の内輪で閉じず、公共的に検証しなければならない。

10. 教育学部を守るな、教師を専門職にしろ

本稿の結論は、教育学部を憎むことではない。教育学を軽視することでもない。むしろ、教育学を、教育学部のローカル文化から救い出すことである。

教師を信じるな、という話でもない。教師を信じるために、教師を現場の個人技に依存する仕事にしておくな、という話である。

義務教育を国家と社会の責任として引き受けるなら、国家は最低到達を保証しなければならない。最低到達を保証するなら、教師の質を、教育学部のローカル文化や現場の善意に任せてはならない。

教師は、現場の個人技に依存する仕事ではない。教師は、測定、発達、心理、評価、教材、採点基準、特別支援、福祉・医療接続を扱う専門職である。

教員養成を、学部ローカルの文化に閉じ込めるな。

教職課程の単位取得で済ませるな。

教育実習だけで現場を知ったことにするな。

教育心理学、統計、測定、評価を中核に置け。

教材、採点基準、教員養成を公共的に検証しろ。

教師に全部を背負わせるな。

だが、教師を、接続先も測定も知らない入口にするな。

教育学部を守るな。

教師を専門職にしろ。

教員養成を、国家責任として引き受けろ。

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