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ゆめみたは革命を起こそうとしている――冷笑を哄笑するビッグマウス

All eyes on ゆめみた

夢限大みゅーたいぷについて書くのは、これで三本目になる。

一度目は、「声優のルッキズムと、ロックの死――ゆめみた、トゲトゲ、CHAI、向井秀徳/toe」と題し、声優が見られる身体を引き受けること、ロックがすでに「本物の音楽」という特権的な位置を失っていること、その後でゆめみたが何をしているのかを書いた。

二度目は、「ゆめみたは推せる――アニメ4話までを観た感想」だった。アニメとしての演出の巧さ、D4DJを経由したメディアミックスの自由さ、声優本人とキャラクターの境界を大胆に重ねる企画設計について書いた。

同じユニットについて三本目を書くのは、ぼくとしては異例である。

しかも、正直に言えば、いまの興奮は『BanG Dream! Ave Mujica』をリアルタイムで観ていたとき以上かもしれない。

Ave Mujicaのとき、ぼくが興奮していたのは、人格の統一性を壊す物語構造、演技、音楽、アニメーションが相互に噛み合っていく過程だった。今回は少し違う。

ヒップホップ。
冷笑。
冷笑系批判批判。
ルサンチマン。
ロック。
DJ。
バンドリ。
オタクの身体。
ライブのCrowd。
そして、革命。

ぼくが長く考えてきたものが、予想していなかった場所で一度につながった。

ゆめみたは、単に新しいバンドリのユニットなのではない。

冷笑が二重、三重に捻れた時代に、冷笑される側の身体、夢、虚勢、妄想、恥、傷を全部引き受け、より大きな声で笑い返そうとしている。

これは、冷笑批判ではない。

冷笑を批判した者まで冷笑する時代に対する、冷笑系批判批判批判である。

しかも、それを道徳としてではなく、スタイルとしてやっている。


1.ブルアカの祝祭で、冷笑系批判批判に遭遇した

ぼくは『ブルーアーカイブ』が好きである。

作品についてはこれまで何本も書いてきたし、5周年生放送のクライマックスも当然見ていた。

ただし、ぼくは現地参加ではなかった。そこで、せめて誰かと一緒に見ている感覚が欲しくて、その時点で最も同時接続数の多かった同時視聴チャンネルを選んだ。

ヴァッシュという、ブルアカ攻略で大きな視聴者を集めている配信者のチャンネルだった。

これが間違いだったと言えば、間違いだった。

生放送の最後、会場の観客席が映された。

前年にもあった演出であり、現地参加者も配信視聴者も、そろそろ来るぞ、来た、と半ば恒例の祝祭として受け止めていた。

該当箇所から始まるようにしてある。3:18:10からな。
ところが、観客が映るなり、同時視聴のコメント欄には、

「顔w」
「誰得エンディング」
「やべぇのおるw」
「メガネ率の高さ」
「絵ヅラが汚い」
「ユニクロでいいからおしゃれしろ」

といったコメントが流れ始めた。

激しくヘドバンしている人に対しても、嘲笑が飛んだ。

それに対して、すぐに異論も出た。

現地の人を見て「絵面が汚い」と笑うのは冷笑ではないか。
人の容姿を汚いと馬鹿にするのはよくない。
現地勢を馬鹿にしたのは事実だ。
容姿批判はまずい。

ぼくも明確にそちらへ乗った。

ぼっちでも楽しんだ者が勝ちだ。
現地先生が羨ましい。
ヘドバンいいじゃん。気持ちは分かる。
それを突っ込む方が寒い。

別に、現地参加者が全員格好よく映っていたと言いたいわけではない。

実際の絵面がどうだったかは、この問題の核心ではない。

たとえ本当に「絵面が汚い」と感じたとしても、周年イベントへ時間と金を使って身体を運び、作品を好きな者同士で盛り上がり、その姿を公式配信に映された人間を、安全な配信席から嗤うな。

これはポリティカル・コレクトネスの問題ではない。

属性差別を禁止しましょうという話より前にある。

もっと原初的な倫理の問題だ。

他人が何かを好きで集まり、祝祭を楽しんでいる。その無防備な喜びを、安全圏から品評し、顔や服装や身体の動きを笑いの材料にするな。

現地参加者は、見た目を採点されるためにそこにいたのではない。

祝うためにいた。

ところが、配信者は、最後に実写が映ったから笑っていたら「冷笑系」と言って荒らしてくる人間がいる、意味が分からない、冷笑系と言ってくる者はNGだ、という趣旨の発言をした。

ここで起きたのは、冷笑批判への反論ではない。

冷笑だと指摘した者を「荒らし」として処理し、排除することだった。

さらに彼は、ブルアカのファンとはああいう人たちだと思っている、冷笑系と言われるなら冷笑系でよい、自分たちも同じようなものだから笑っているだけだ、という方向へ話を持っていった。

これが、冷笑系批判批判である。

「俺ら映すなよ」と自分を笑うことと、画面に映った具体的な他人へ「顔w」「絵ヅラが汚い」「おしゃれしろ」と言うことは同じではない。

前者は、自分自身を含めた自虐として成立し得る。

後者は、他人への侮辱である。

「自分もオタクだから」は免罪符にはならない。

むしろ、

自分も同類だから、同類の醜さを判定して笑ってよい。

という、同族嫌悪の免許になっている。

そして、ぼくはその場で冷笑批判側へ乗ったため、今度は配信者側の視聴者にチャンネルを掘られた。

「冷笑系を指摘していたやつのチャンネルを見に行ったら、音楽PV無断転載マンで笑った。まず法を守れ」

というコメントが書き込まれた。

事実である。

ぼくのチャンネルには、公式には残っていない音楽PVを無許諾で公開したものがある。

別の動画で自ら紹介したLunch Time Speaxの「Chase」もそうだし、このあと論じるRHYMESTER「ウワサの真相」のPVも、現在容易に見られるものは同種の無許諾アップロードである。

権利者が自ら保存し、公式に公開するのが最善である。

それは当然だ。

しかし、この別件は、現地参加者を嗤ったことへの反論には一切ならない。

無許諾アップロードの是非は、著作権と文化的アーカイブの問題である。

現地参加者の顔や服装を笑うことは、祝祭に参加した他人を安全圏から侮辱するという問題である。

ぼくに別件の瑕疵があるからといって、現地参加者への嘲笑が正当化されるわけではない。

流れは明確だった。

現地参加者への嘲笑。
複数の視聴者による冷笑批判。
ぼくが冷笑批判側へ加勢。
配信者による批判者の「荒らし」「アンチ」認定。
NGと排除。
取り巻きによるアカウント探索と別件攻撃。

完全にファンネルが作動していた。

しかもこれは、ブルアカの外部にいる人間がブルアカファンを笑った事件ではない。

ブルアカ攻略で大きな視聴者を集めている内部者が、ブルアカの周年祝祭へ身体を運んだファンを笑った事件である。

ここに、現在の冷笑のねじれがある。

2.冷笑は、批判されたあとでさらに捻れた

昔の冷笑は分かりやすかった。

夢を語る者を「痛い」と笑う。
政治に参加する者を「必死だな」と笑う。
何かを本気で好きな者を「盲信」と笑う。
創作へ賭ける者を「才能がない」と笑う。
オタクが集団で盛り上がる姿を「きもい」と笑う。

自分は少し離れた場所から全体を見通している。

そんな顔をする。

ところが、冷笑系という言葉が広まり、その態度自体が批判されるようになった。

すると冷笑する側も学習した。

何でも冷笑と呼ぶな。
ただの冗談だ。
自分も同じオタクだから自虐だ。
冷笑を批判する人間こそ、自分だけ正しいと思っている。
反冷笑は道徳的な同調圧力だ。

冷笑批判を理解したうえで、その批判をさらに冷笑する。

これが、冷笑系批判批判である。

「俺たちはこんなものだから」という言葉は、一見すると謙虚に見える。

しかし実際には、他人への攻撃を自虐の包装紙で包んでいる。

俺もきもい。
だから、あいつらをきもいと言ってよい。

俺もオタクだ。
だから、あのオタクの顔と服装を笑ってよい。

これは自己批判ではない

外部から向けられた侮蔑的な視線を自分の中へ取り込み、それをさらに弱い位置にいる同類へ向け直しているだけである。

また、ここで批判と冷笑を混同してはいけない

作品は批判してよい。
演出は批判してよい。
ファンダムの行動も批判してよい。
ブルアカもバンドリも全面肯定する必要はない。

ぼく自身、好きな作品ほど批判する。

だが、対象の言葉や行為を検討することと、人間が無防備に喜んでいる姿そのものを見世物にすることは違う。

「好きなものを批判するな」ではない。

喜んでいる者の身体を、安全圏から玩具にするな、である。

3.冷笑以前に、ヒップホップはビッグマウスだった

冷笑系という言葉が前景化するよりずっと前、日本語ヒップホップは、冷笑される側にいた。

日本人がラップをする。
日本語をビートへ乗せる。
アメリカの文化を模倣する。
大きな態度で自分を語る。

それ自体が、長く「寒い」「偽物」「本場の猿真似」と笑われてきた。

そこでヒップホップは、理解を求めて小さくなることを選ばなかった。

さらに大きく名乗った。

RHYMESTERは1989年、早稲田大学で宇多丸とMummy-Dが出会ったところから始まっている。

1999年の『リスペクト』を経て、2001年にはメジャー第1作『ウワサの真相』を出した。

その表題曲に、こういう一節がある。

ワケがあんだよこのデカい態度は

 「ウワサの真相」 https://www.uta-net.com/song/40118/

ここは重要である。

この時点でRHYMESTERは、昨日今日ラップを始めた若者ではない。

すでに十年以上活動し、日本語ラップの方法を自分たちで作り、シーンの内部では十分な実績を積んでいた。

しかし、それでも「そのデカい態度にはワケがある」と言わなければならなかった。

世間全体から見れば、日本語ラップはまだ周縁であり、大きな態度を取ること自体が笑われる対象だったからだ。

同じ早稲田大学周辺から生まれたゴスペラーズとは、大学時代から交友があった。

ただし、公式音源上の大きな共演は意外に遅く、2002年の「ポーカーフェイス featuring Rhymester」まで待つことになる。

つまり、「ウワサの真相」の時点では、すでにワケはあった。

しかし、そのワケをポップスの中心や世間全体が十分に認証する前に、先にデカい態度を取っていた。

2004年の『グレイゾーン』には、「BIG MOUTH」という曲が収録されている。

そこで「ウワサの真相」のフレーズが引き直される。

自分たちの過去の言葉を、自分たちで再利用する。

結成から約十五年。

かつての大口は、継続によって事実になりつつあった。

先に名乗る。
笑われる。
続ける。
実績を作る。
後から、過去の大口にワケがあったことを証明する。

これが、ヒップホップ的なビッグマウスである。

大口は、単なる虚勢ではない。

未来への約束であり、自己拘束であり、主体形成の技法である。

4.「マイク持つDJ」――役割は身分ではない

ここで、ぼくにとって重要なのがDJ OASISである。

OASISは、KGDRのDJだから後ろでトラックだけ流している人、ではない。

自らを「マイク持つDJ」と名乗った。

『東京砂漠』『Water World』というソロアルバムでは、客演を招きながらも、自分が全面的にマイクを握っている。

ぼくは彼を、普通にラッパーとして好きである。

また、

「キ・キ・チ・ガ・イ feat. 宇多丸 & K DUB SHINE」
「社会の窓」
「世界一おとなしい納税者(カモ)」

といった曲では、特に宇多丸との連携が重要だった。

K DUB SHINEが切り開いた社会派日本語ラップを引き継ぎつつ、OASISと宇多丸は、税、メディア、社会規範、政治的無関心を、より具体的かつ攻撃的な言葉で切った。

DJがビートを供給し、MCが思想を語る。

そんな単純な分業ではない。

OASISは自分で音を作り、自分で社会を見て、自分で言葉にした。

常に取る立ち位置後方
得るビジョンを

「マイク持つDJ」 https://www.joysound.com/web/search/song/48199

後方にいるから、発言主体ではないのではない。

後方にいるから、全体が見える。

そして、必要なときには自分でマイクを持つ。

DJやMCというラベルは、技能の違いを示すことはできる。

だが、人間を閉じ込める身分ではない。

ここで千石ユノが浮かぶ。

ゆめみたの「ビッグマウス」は、千石ユノをモチーフにした楽曲である。

主歌唱は、おそらく仲町あられが担っている。

しかし、サビ前の「ふざけんじゃねえよ」というセリフは明確にユノであり、第2ヴァース以降のラップにもユノの声が前へ出てくる。

ユノが一曲を丸ごとラッパーとして背負うわけではない。

したがって、DJ OASISと完全に同一視するのは正確ではない。

それでも、ユノは「マイク持つDJ」である。

DJ&マニピュレーターを後方の機材担当へ固定せず、ユニットの最も大きな態度を代表する言葉の担い手として前へ出す。

ユノの曲を、あられが歌う。

しかし、ユノ自身もマイクを持つ。

曲の主体は一人の身体に閉じない。

そこが重要だ。

5.D4DJは「つなぐ」。ゆめみたは「名乗る」

ゆめみたとD4DJの異同は、明確にしておきたい。

D4DJは、オタク文化とDJ文化を接続した。

アニソンDJという素地は、それ以前からあった。

クラブでアニメソングをかけ、作品も年代も超えて選曲し、踊る文化はすでに存在していた。

D4DJは、それをキャラクターIP、アニメ、ゲーム、ライブ、声優へ大規模に展開した。

そこで中心にあったのが、

つなぐのがDJの仕事だから

という思想である。

曲と曲をつなぐ。
人と人をつなぐ。
過去と現在をつなぐ。
世代と世代をつなぐ。

『D4DJ First Mix』では、その「つなぐ」が物語の中でも回収されていた。

さらに、古谷徹、水樹奈々といった大人、レジェンド側まで配置し、若い世代と旧世代をつないだ。

D4DJの意義は、いまも失われていない。

オタク文化とDJ文化の接続は、過去の仕事ではない。

現在進行形で続いている。

ぼく自身、テクノはもう体力的にきついが、ディープハウスは相変わらず大好物で、Blue Sixはいまだにヘビーローテーションしている。

ハウスやテクノの反復が作る身体感覚。
DJが異なる曲を滑らかにつなぐ快楽。
ジャンルや世代を横断するフロア。

D4DJは、その文化をオタク向けIPへ翻訳した。

しかし、ゆめみたは、そこからさらに一段上を狙っている。

ゆめみたがスクラッチやサンプリングを多用している、と言いたいわけではない。

音楽技法の話ではない。

アティチュードの問題である。

D4DJが「つなぐ」なら、ゆめみたは「名乗る」。

まだ何者でもない段階で、自分たちを新人類と名乗る。
ニュータイプを名乗る。
夢限大を名乗る。
ビッグマウスを叩く。

先に名称と態度を置き、現実を後から追いつかせる。

D4DJは、DJ文化の接続原理をIP化した。

ゆめみたは、ヒップホップの主体形成原理をIP化しようとしている。

6.ボーカルを固定しない――バンドではなくクルーとして

旧来のバンドリでは、基本的にボーカルがバンドの顔だった。

戸山香澄。
湊友希那。
丸山彩。
美竹蘭。
弦巻こころ。

各バンドの音楽と物語は、中心的なボーカルの人格へ強く結びついていた。

もちろん、他メンバーにも個別の物語はある。

だが、歌唱の前景は比較的固定されている。

ゆめみたには、仲町あられという明確なメインボーカルがいる。

しかし、全曲があられの人格へ回収されない。

「ビッグマウス」はユノをモチーフにし、ユノ自身がセリフとラップへ入る。

藤都子は漫画を描き、楽曲の世界を別の媒体で再構成する。

各メンバーが、演奏、歌唱、配信、漫画、映像、キャラクターを通じて、曲ごとに前景へ出る。

これは、リアルバンドの固定編成を保ちながら、D4DJ的なユニットの自由さを取り込んでいる。

さらに、ヒップホップのクルーに近い。

クルーでは、全員が同じ役をする必要はない。

MCがいる。
DJがいる。
トラックメイカーがいる。
絵を描く者がいる。
映像を作る者がいる。
現場を支える者がいる。

それぞれの技能は違う。

しかし、必要なときには誰でもクルーを代表して前へ出る。

ゆめみたも、全員が均質なアイドルとして同じ歌と踊りを担うのではない。

それぞれの専門性を保持しながら、一つの名前とスタイルを共同制作する。

だから「ぼく」ではなく、「ぼくたち」になる。

7.「夢現妄想世界」は、最初から従来のバンドリではなかった

バンドリの古参ファンの中には、MyGO!!!!!、Ave Mujica、ゆめみたを見て、

どうしてこうなった。
キラキラドキドキはどこへ行った。
これはもうバンドリではない。

と感じる人がいる。

その感覚自体は理解できる。

Poppin’Partyが始まった頃のバンドリと、ゆめみたは、見た目も音楽も活動形式も大きく違う。

だが、ゆめみたは途中から道を外れたのではない。

「夢現妄想世界」の段階で、すでに宣言していた。

これは従来型のキラキラドキドキではない。

夢は、無垢な少女の清潔な憧れとして現れない。

妄想である。

現実と空想の境界を壊し、外部へ侵入する力である。

大きな音で鳴らし、世界へ投げ返すものだ。

ゆめみたは、バンドリを捨てたのではない。

バンドリの原初的な衝動を、現在の条件下で再武装している。

かつては、「星を見つけた」「バンドをやりたい」「キラキラドキドキしたい」と、そのまま言えた。

いま同じことを言えば、

商業企画だ。
声優を売りたいだけだ。
キャラクターに夢を語らせている。
痛い。
寒い。
きもい。

と、すべてが見えてしまう。

だから、2020年代にキラキラドキドキするためには、冷笑、商品化、メタ認知を通過しなければならない。

ゆめみたは、無垢へ戻るのではない。

無垢が失われたあとで、それでも夢を鳴らす。

8.「新人類は仮想世界の夢を見るか?」――先に名乗る

「新人類は仮想世界の夢を見るか?」は、自己紹介ではない。

マニフェストである。

フリースタイル。
ステレオタイプのリメイク。
カテゴライズの拒否。
弱音を吐かず、無理をする者が偉いという規範への反発。

新人類とは、生物学的に新しい人類のことではない。

何者かが認定してくれる資格でもない。

まず自分で新人類と名乗る。

その後で、既存の活動形式では説明できないことを始める。

バンドであり、配信者であり、キャラクターであり、声優であり、漫画家であり、DJであり、アニメの登場人物でもある。

既存のラベルが追いつかない。

だから、カテゴリは後から決まる。

ここに、ヒップホップ的な自己命名がある。

先に名前を付ける。
先に立場を取る。
先に自分を大きく語る。

実績は、後から作る。

仲町あられの歌唱も、この構造に合っている。

いわゆるアニメ声を隠さない。

自然な声に寄せて「本格派」であることを証明しようとしない。

人工性、誇張、キャラクター性を前へ出し、その声でマニフェストを読む。

本物らしく見せるのではない。

自分たちで本物の条件を変える。

9.「コハク」――革命主体は最初から強くない

ゆめみたを、初めから自信満々の強者集団として読んではいけない。

「コハク」がある。

この曲は「ボーカルの仲町あられが初めて作詞にチャレンジした楽曲で、本ライブ前に自分の心の内と向き合って『今ここにいる理由』を綴ったロックナンバー。」と公式に発表されている。したがってコハクとはまずはあられのメンバーカラーである琥珀色を指すと思われる。だが、それだけではない。

「コハク」のMVでは、「虚白」という文字が現れる。題名はカタカナで「コハク」と書かれているため、その音は一つの漢字表記に固定されない。「琥珀」と読めば、時間や記憶を内部に封じ込めるものになる。「告白」に近い響きとしては、言葉にできなかった自己を他者へ差し出す運動を含む。そして、孤独を主題とする曲である以上、「独白」にも通じる。

「コハク」は、虚白であり、琥珀であり、告白であり、独白である。何もない空白、保存された時間、他者へ向けられる言葉、誰にも届かない声が、一つの音の中で重なっている。

クリーンなギター。乾いた都市感。言葉を拍へ押し込むような譜割り。整然としすぎないリズム。そこには、NUMBER GIRLやZAZEN BOYS、向井秀徳の感触がある。

「透明少女」
「半透明少女関係」
「永遠少女」

向井秀徳が繰り返し描いてきた、都市の中で半透明になる少女たち。

ただし、「コハク」は都市的孤独の描写だけでは終わらない。MVに現れる「虚白」は、自己の内部に何もないという感覚を示すが、その空白には、他者と接触した時間が残っていく。独白だった声は告白へ近づき、虚白には琥珀のように記憶が封じ込められる。

本当の自分を発見するのではない。何もないと思っていた場所へ、他者と活動し、傷つき、笑い、演奏し、配信した履歴が堆積し、その履歴が自分になる。

主体は、内側から純粋に湧き出すのではない。

関係の痕跡によって形成される。

ここで安易に「実存主義」と呼ぶと、かえって弱くなる。

実存とは何か。
主体性を取り戻すとは何か。
本当の自分とは何か。

そうした上位概念を貼れば、分かった気にはなれる。

だが、ゆめみたが描くのはもっと具体的だ。

何もない者が、誰かと何かをした結果として、後から何者かになる。

10.「ビッグマウス」――ワケができる前に、デカい態度を取る

そこで再度「ビッグマウス」へ行く。

この曲を、単なる自己肯定ソングとして聞いてはいけない。

「自分を信じよう」ではない。

根拠ができる前に、大きく名乗れ。

という歌である。

実績ができたら自信を持つ。

それでは遅い。

実績のない者が実績を作るには、まず自分を過大に語り、その言葉に自分を拘束しなければならない。

RHYMESTERの「ウワサの真相」では、「ワケがあんだよこのデカい態度は」と歌われた。

そこにはすでに、十年以上の活動というワケがあった。

しかし、世間全体がそのワケを認める前に、先にデカい態度を取っていた。

そして「BIG MOUTH」では、その言葉が再び引かれる。

過去の大口を、現在の実績によって回収する。

ゆめみたの「ビッグマウス」も、同じ構造を持つ。

まだ何者でもない。

数字が足りない。
模倣もする。
焦る。
格好悪い。
虚勢を張る。

それでも、先に名乗る。

都子の漫画やミニアニメが見せるのも、成功した者が後から美しく整理した神話ではない。

恥ずかしい試行錯誤である。

自信があるから大きく出るのではない。

大きく出ることで、後から自信と実績を作る。

だから、ユノの「ふざけんじゃねえよ」が効く。

これは、余裕のある勝者の言葉ではない。

いまの自分に対する苛立ちであり、外からの評価に対する反発であり、それでも前へ出るための自己命令である。

ワケがあるから、デカい態度を取るのではない。

デカい態度を取った者が、その後でワケを作る。

11.ルサンチマンを捨てずに、スタイルへ変形する

ゆめみたの哄笑は、かなりニーチェ的である。

ただし、ここで俗流のニーチェを持ち出してはいけない。

弱者のルサンチマンを捨てて、強者になれ。

ニーチェをその程度にまとめると、全部外れる。

ニーチェは、人間がルサンチマンから簡単に抜け出せると考えたわけではない。

人間の価値評価は、傷、記憶、否定、反動によって作られる。

侮辱されたこと。
報われなかったこと。
敗北したこと。
他人に先を越されたこと。
自分が醜く見えたこと。

それらを、なかったことにはできない。

問題は、ルサンチマンが存在することではない。

それが、他人を引き下ろす価値体系として固定されることである。

ブルアカ同時視聴で起きたことは、その典型だった。

自分もオタクだ。
自分も外から見ればきもい。
だから、自分より無防備に楽しんでいるオタクを先に嗤う。

自分の羞恥を、他人への侮辱へ変える。

これは、ルサンチマンを克服していない。

自己卑下の形で保存し、同類へ放出している。

ゆめみたは逆である。

「これはぼくたちの生存のあらすじ」は、

いい子にしていても損をする。
障害が必ず人を強くするわけではない。
賛辞はすぐ消える。
現実の矢は人を穿つ。

という事実を消さない。

努力すれば報われる、とも言わない。

傷ついたことを忘れろ、とも言わない。

純粋な強者になれ、とも言わない。

傷、恥、嫉妬、虚勢、怒りを、夢、大口、かわいさ、演奏、クルー、哄笑へ変形する。

ルサンチマンから無垢に脱出するのではない。

ルサンチマンを素材としてスタイルを作る。

それが、ゆめみたの革命である。

12.白と黒は、杜撰な論理でポジションを取った

白と黒は杜撰な論理で
ポジションをとった

「これはぼくたちの生存のあらすじ」 https://genius.com/Mugendai-mewtype-our-survival-lyrics

この歌詞も、単純な相対主義として読んではいけない。

白黒をつけるな。
どちらも間違っている。
正解はない。

という話ではない。

むしろ、既成の白と黒へ雑に乗るな、である。

すでに用意された陣営へ所属し、借り物の正義で発言する。

それは簡単だ。

だが、自分で選び、その結果を引き受けることとは違う。

須原一秀が批判した、弱腰の高学歴男性にもつながる。

すべてを相対化する。
どの立場にも問題があると言う。
断言する人間を粗雑だと笑う。
自分は留保を重ね、最後までポジションを取らない。

知的には見える。

しかし、何も引き受けていない。

ゆめみたは、白か黒かを選ぶなと言っているのではない。

杜撰な白黒へ乗るな。

そのうえで、自分たちの選択からは逃げるな、と言っている。

正解が見つかるまで待つのではない。

Ready, set, and find out.

まず動く。

結果は、その後で知る。

世直しのすべてを知っているわけではない。

アムロに「世直しのこと、知らないんだな」と言われれば、その通りだろう。

それでも、何も知らないことを理由に、何もしない側へ逃げない。

13.「これはぼくたちの生存のあらすじ」――冷笑を哄笑する革命

この曲の中心は、ここである。

見えすぎるから純粋が
また滑稽に見える、ふざけるな!

「これはぼくたちの生存のあらすじ」 https://genius.com/Mugendai-mewtype-our-survival-lyrics

まさに、ブルアカの周年会場で起きていたことだった。

オタクが集団で喜ぶ姿が、外からどう見えるか。

一般人にはどう見えるか。

配信の画面ではどう切り取られるか。

顔がどう映るか。

服装がどう見えるか。

ヘドバンがどれだけ滑稽に見えるか。

見えすぎた人間が、その外部視線を自分の知性だと思い込み、純粋に楽しむ者を滑稽として処理する。

ゆめみたは、そこへ「ふざけるな」と返す。

商業企画であることも見えている。

声優の顔や脚が選ばれていることも見えている。

キャラクターが設計され、歌詞が発注され、アニメが宣伝になることも見えている。

アニメ声も、バーチャル人格も、リアルライブも、全部作られたものである。

オタクがその仕組みに熱狂する姿が、外から見れば滑稽に見えることも分かっている。

そのメタ認知を捨てるのではない。

全部見えたまま、

ふざけるな。

と言う。

だから、これは単純な反冷笑ではない。

冷笑するな、と道徳的に命令するのではない。

冷笑される要素を、さらに増幅する。

大きな夢を語る。
ニュータイプを名乗る。
アニメ声で歌う。
身体を見せる。
脚を出す。
DJがマイクを持つ。
漫画を描く。
革命と言う。
生存の物語を自分たち中心に回す。

冷笑される要素を減らして安全になるのではない。

全部前へ出し、冷笑より大きな声で笑う。

冷笑が口元だけの笑いなら、ゆめみたは哄笑である。

14.アニメじゃない、実存でもない

アニメじゃない
実存でもない
カテゴリは後から決まる

「これはぼくたちの生存のあらすじ」 https://genius.com/Mugendai-mewtype-our-survival-lyrics

この言葉は、かなりよくできている。

ゆめみたを哲学的に説明しようとすれば、

実存主義。
主体性の回復。
自己実現。
承認論。
ポストヒューマン。
バーチャル身体論。

いくらでも上位概念を貼れる。

しかし、それで説明したつもりになると、活動の具体性が消える。

キャラクターか、演者か。
バーチャルか、リアルか。
バンドか、配信者か。
声優か、ミュージシャンか。
ロックか、ヒップホップか。
商品か、主体か。

先にどれかへ分類しない。

まず活動する。

曲を出す。
配信する。
漫画を描く。
ライブをする。
アニメになる。
他人と関係する。

カテゴリは、その履歴を見た後で決まる。

これは「本当の自分を探す」思想とは逆である。

本当の自分を見つけてから生き始めるのではない。

生きた結果として、自分が形成される。

15.ビオラの虜から、ゆめみたの虜へ

アニメでは、敵役のビオラに本渡楓を置いた。

これは小細工である。

もちろん褒めている。

知名度も演技力もある声優を、ゆめみたの存在感を一度奪う側へ置く。

視聴者は当然、ビオラを見る。

4話、5話までで、みんなビオラの虜になっている。

『Ave Mujica』の終盤、にゃむが祥子へ、

「みんなAve Mujicaの虜」

と言った。

『ゆめ∞みた』は、まずビオラに観客を奪わせる。

そこから、ゆめみたが物語を取り返す。

ビオラの虜になった視聴者を、今度はゆめみたの虜にする。

本渡楓の起用は、企画の思想そのものではない。

だが、その思想をアニメとして届けるための導線として、完璧に効いている。

上等な小細工である。

そして、たとえこの後、アニメが失速しても構わない。

ここまでで十分ですらある。

「夢現妄想世界」
「新人類は仮想世界の夢を見るか?」
「コハク」
「ビッグマウス」
「これはぼくたちの生存のあらすじ」

これらはすでに存在している。

ゆめみたが引き受けたスタイルは、アニメの最終評価に左右されない。

あるいは、ぼくの批評能力なら、どんな失敗だろうと成功として描いてみせる。

これくらいは言っておく。

ビッグマウスの論考なのだから。

16.バンドリではないのではない。バンドリがここまで来た

ゆめみたを見て、「これはもうバンドリではない」と言う人はいる。

だが、バンドリは最初から越境する企画だった。

声優がキャラクターを背負い、実際に楽器を演奏する。

アニメの中のバンドが、現実のライブへ出てくる。

演者の身体とキャラクターの身体が重なる。

そこから始まった。

ゆめみたは、その原理を捨てていない。

さらに進めただけだ。

DJを入れる。
ラップをする。
漫画を描く。
配信人格とキャラクターを重ねる。
実写の身体を前へ出す。
それをアニメへ戻す。

「バンドリではない」のではない。

いまバンドリを続けるなら、こうなる。

その一方で、MyGO!!!!!とAve Mujicaが大きな注目を集めていた時期に、立ち上げ直後のゆめみたへ賭けた人々がいる。

まだ企画全体の形が見えていない。

曲、配信、漫画、DJ、リアルバンドが、ばらばらに見えていた時期である。

その段階から推していたゆめみた古参は、普通にすごい。

見る目があった。

いまになって、アニメと「これはぼくたちの生存のあらすじ」によって、企画全体の思想が一気に可視化された。

古参は、後方腕組み彼氏面をしてよい。

だから言っただろ、と言ってよい。

彼ら自身が、まだワケの見えなかったビッグマウスへ先に賭けたCrowdだからである。

17.Crowdは背景ではない

ヒップホップやDJカルチャーでは、観客は受動的な消費者ではない。

Crowdである。

ステージ上のMCが音楽を提供し、客が静かに受け取る。

それでは現場は完成しない。

声を返す。
身体を揺らす。
手を上げる。
サビを歌う。
名前を呼ぶ。
空気を増幅する。

Crowdまで含めて、初めてその夜の音楽が成立する。

RHYMESTERがKing of Stageを名乗るとき、その王権は客を黙って従わせる権力ではない。

客席を巻き込み、その場全体を一つの出来事にする力である。

宇多丸とMummy-Dの客煽りは、サービスとして観客を気持ちよくするだけではない。

客だと思っているな。

お前も盛り上げる側へ参加しろ。

ステージだけに現場を作らせるな。

そう要求する。

Lunch Time Speaxの『Going Over』の最後、「M.T.C.」という水戸のクルーを集めた曲では、サビで、

揺れろ Crowd

Lunch Time Speax「M.T.C.」

と呼びかける。

丁寧なお願いではない。

Crowdは、曲の外にいる消費者ではない。

曲を完成させる身体である。

そして、「ウワサの真相」には、もう一つ重要な言葉がある。

この現場以外には本場なんてのは存在しない

「ウワサの真相」 https://www.uta-net.com/song/40118/

本場は、遠くのアメリカにだけあるのではない。

権威ある業界が認定する場所にあるのでもない。

いまマイクが回り、ビートが鳴り、Crowdが応答しているこの場所が、そのまま本場になる。

ここからブルアカの周年会場へ戻る。

現地参加者は、公式映像の背景ではない。

時間と金を使って会場へ行った。

声を上げた。
ペンライトを振った。
ヘドバンした。
周年生放送のクライマックスを作った。

彼らはCrowdである。

画面越しに、

「顔w」
「絵ヅラが汚い」
「おしゃれしろ」

と嗤うことは、単に個人の容姿を侮辱するだけではない。

作品の祝祭を共同制作したCrowdを、後から背景へ格下げすることである。

しかも、同時視聴側は、そのCrowdが作った熱を享受している。

歓声。
照明。
ペンライト。
会場映像。
興奮。

すべて現地が作ったものを受け取りながら、その現地を作った身体だけを切り離して笑う。

現場が作った祝祭は欲しい。

だが、自分もあのオタクと同類に見られるのは嫌だ。

だから、先に笑う。

ここに、同族嫌悪とルサンチマンの転嫁がある。

「共感性羞恥だった」という説明も、免責にはならない。

現地の人間は、必ずしも恥じていない。

楽しんでいる。

恥じているのは、画面越しに見ている側である。

自分も外から見れば、あれと同類ではないか。

その羞恥を処理するために、楽しんでいる側を「痛い人」「汚い絵面」に変換する。

共感性羞恥という感情が発生することまでは止められない。

しかし、その感情を他人への嘲笑として放出する権利はない。

お前が汚い絵面と呼んだ者たちは、お前が見ていた祝祭を作った当事者である。

現場へ行った者を、画面越しに嗤うな。

彼らは見苦しい背景ではない。

お前が見ている祝祭を作ったCrowdである。

18.人の心の光は、参加した身体から生まれる

「これはぼくたちの生存のあらすじ」の、

ストーリーはいつでも
ぼくたちを中心に回ってる

「これはぼくたちの生存のあらすじ」 https://genius.com/Mugendai-mewtype-our-survival-lyrics

という言葉は、幼児的な万能感ではない。

自分の生を、外部評価の脇役へ落とすなという宣言である。

しかも、中心は一つではない。

一人一人が、自分の生の中心へ戻る。

中心がCrowdの人数だけ増殖する。

その複数の中心が、同じ現場で一時的に同期する。

それが、人の心の光である。

アクシズ・ショックも、一人の英雄の精神だけで起きたのではない。

名も知られない多数の人間が、自分の位置から力を加えた。

一人一人は小さい。

しかし、小さい光が集まったのではない。

一人一人が、自分でそこへ身体を運び、自分で力を出した。

ライブのペンライトも同じである。

客席の一人一人が、自分の腕で掲げる。

Crowdとは、単なる人数ではない。

参加する複数の身体である。

だから、ゆめみたの「ぼくたち」は、ステージ上の五人だけではない。

立ち上げ期から曲を聴いた者。

配信を見た者。

現場へ行った者。

まだ根拠の足りなかったビッグマウスへ声を返した者。

彼らも、ゆめみたという出来事を作っている。

先に名乗る者がいる。

後方からマイクを持つDJがいる。

その声へ応答し、揺れるCrowdがいる。

そのとき初めて、そこが現場になる。

この現場以外に、本場なんてものは存在しない

冷笑されることは分かっている。

夢が滑稽に見えることも分かっている。

革命という言葉が大げさに見えることも分かっている。

それでも、名乗る。

身体を出す。

仲間と音を鳴らす。

Crowdへ呼びかける。

冷笑より大きく笑う。

ゆめみたは、革命を起こそうとしている。

ワケがあんだよ、このデカい態度は。

Word up.

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