線を引く、線を消す
書くこと=消すこと
蓮實重彥「Ⅰ 批評と夢」「言葉の夢と「批評」『表層批評宣言』(ちくま文庫)所収・p.11)
今回は「線を引く」の続きです。まず、「線を引く」から「まとめ」を引用します。
・線は人に見せるために引く。引いた線は人に見せて、なんぼ。
・いったん引かれた線は、共有されてしまう。
・線は線を呼んで増えるし、のびる。
・線はのびることによって、ひいては網状や織物状のシステムに発展していく。
・線は力であり、方向性を持って進む力の流れ。
今回のタイトルは「線を引く、線を消す」ですが、「線は線を消しながら引かれる」という話をします。昨日の「何かの代わりに別のものを用いる」とも緩やかにつなげてあります。
線は線を消しながら引かれる
ここでは線を引くという行為とその結果をかなり広く取っています。
・境界線
・点と線で絵を描く
・分類という名の線引き
・点と線からなる文字を書いて文章を綴る
・線状に進む言葉(音声)を話す
始まりと途中と終わりがあって線状に進む単位(パーツ)からなるものであれば、それは線であるとイメージしているのです。
大切なのは、始まり(点)と途中(点の連続である線状の進行)と終わり(点)があるということです。
*
人は一度に二つの言葉を口にできないし、音を発音できない、ひょっとすると、人は一度に二つの言葉を書けないし、文字を書けない、だったかもしれませんが、そんな意味のフレーズを蓮實重彥がどこかで書いていた気がします。
あちこち本を見ながら、ときおり探してはいるのですが、その「どこか」が「どこ」なのか皆目見当がつかないのです。そこで、それにかなり近いと思われる一節を以下に引用します。
言葉と向いあった作家は、書くというその一点において、言語の総体を自分のものとする試みを放棄することから始めねばならない。すでに主題の決定の時点から、書き手は多から一を選びとり、ある積極的な貧しさをうけいれねばならぬ。
(蓮實重彥「川=木=家系」「Ⅳ 分岐するものたち」「藤枝静男論 分岐と彷徨」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.152)
*
「書き手は多から一を選びとり」の「多」というのは、言葉以前のごちゃごちゃぐちゃぐちゃ(自分の頭の中のことです)であると私は勝手に理解しています(私は誤解と曲解が得意です)。
話しつつあるとき、そして書きつつあるとき、私たちは最終的に一つの音や文字や語を「いまここ」という現在で選択しなければならない状況に置かれます。
私たちはその選びそうになっている「一つ」(すっきり)と「多=他」(ごちゃごちゃ)の二択での選択を余儀されているとも言えそうです。
その二択の結果が、発話によって外に出た言葉(音声)であり、書くという行為によって外に線として引かれた文字なのです。
*
ここからは文字に話を絞ります。
文字は人の引く線の中で最も洗練された線だ、と私は考えています。
文字を書く行為は、蓮實の言葉を借りると、「多から一を選びとる」ことにほかなりません。
私なりの言い方をすると、執筆とは書かれつつある文字(言葉)だけを選んで記し、それ以外の無数の文字(言葉)をすべて取捨する作業にほかなりません。
さらに言うなら、目の前にある文字を書きながら、同時にそれ以外の文字を消しているのです。
具体的に目に見えるかたちで書かれた文字は、それ以外の可能性としての文字を消した結果として、目の前にあるとも言えます。
ゆっくりと紙面にペンで文字を書いてみる。一文字だけでもいい。どんな文でも文字列でもいい。ゆっくりと書いていく。その書かれつつある文字と文字列の下には、書かれなかった文字と文字列があるはず。無数にあるはず――。
「線は線を消しながら引かれる」という、この章の見出しはそういう意味です。
線は、他に引かれる可能性の線を消しながら、引かれる――とも言えます。
他の可能性を消しながら引かれる線
ここからは、話を文字以外の線にも広げます。
冒頭で述べたように、ここでは線を引くという行為をかなり広く取っています。
・境界線
・点と線で絵を描く
・分類という名の線引き
・点と線からなる文字を書いて文章を綴る
・線状に進む言葉(音声)を話す
あらゆる線は、他の線(他の線の可能性)を消すことと同時に引かれるのです。
・境界線は、他の境界線の可能性を捨てながら引かれる。
・点と線からなる絵は、他の点と線の可能性を捨てながら描かれる。
・分類という名の線引きは、他の線引きの可能性を捨てながら分類されていく。
・点と線からなる文字を単位(パーツ)として綴られる文章は、他の文字列の可能性を消しながら書かれる。
・線状に進む音声である言葉は、一瞬一瞬における他の発話の可能性を消しつつ話される。
ひょっとすると、始まりと途中と終わりがあり、線状に進行していく楽曲もまた、一瞬一瞬において他の演奏の可能性を捨てて消しながら作曲されるのであり、演奏されるのかもしれません。
「自由」と錯覚されがちな「不自由」
線を引いているさなかの人の頭の中には、必ず「消しゴム」(もちろん比喩です)があります。消しゴムがないと一本化された線が外に出てこないからです。
そのほぼ一本化されつつある線を懸命に追いかけ、頭の中で必死になぞる。そうやって、搾り出すようにして、人は自分の外に線を引いていくのではないでしょうか。
すらすら書く人もいますが、頭の中で一本化という消す作業をしているはずです。さもなければ、一本以上の線(文字列)を同時に書いていくという曲芸になるでしょう。
人は一度に二つの言葉を口にできないし、音を発音できない。人は一度に二つの言葉を書けないし、文字を書けない――。
上のフレーズは偽の記憶である可能性の高いものなのですが、以下のいわば<「自由」と錯覚されがちな「不自由」>と呼応しているのではないかと、私は勝手に理解しています(私は誤解と曲解が得意です)。
だから、あらゆる分節化の試みは、「不自由」への馴致を前提としている。そして、その「不自由」を「自由」と錯覚することで、人は「知」と呼ばれる抽象と折合いをつける。存在を分節化することで二義的な分節化をうけいれるかにふるまうこの抽象的な「知」に対して、ここでは、距離も、方向も、深さも、中心も欠いた表層の体験が顕揚される。だが、それは、できればそうであることが望ましいと夢想されるが故に顕揚されるのではなく、日常的に体験されていながらもその生なましい存在感があっさりと虚構化されてしまっているので、その虚構化の運動に抗うべく顕揚されねばならないのだ。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)p.6・太文字は引用者による・以下同様)
その、表層と呼ばれるどこでもない場所で、言葉は、はじめて「物語」の分節「装置」から「自由」になるだろう。その「自由」は、「不自由」ととり違えられることのない荒唐無稽な「自由」であり、距離の意識と方向の感覚とを欠落させた何ものかの生なましい到来と呼ぶべきものだ。この生なましいもあつかましい何ものかの荒唐無稽な浮上ぶりを、人は誰もが体験的に知っているはずだ。それでいながら、その過剰、その過剰なる何ものかは、たえずころあいの「記号」に還元されて、遭遇というあの単調な「物語」を再生産することで終わってしまう。そのことに、もっと苛立とうではないか。(pp.7-8)
線は引いてみないと見えない
さらに言うなら、自分の中にあった線は、外に出して引いてみないと見えません。頭の中でなぞっただけでは見えていないのです。
線は自分の外で引いてみて、はじめてどんな線なのかが分かる。そんなふうに思います。
線を引くという行為もまた、誰もが楽々と引けてしまうという意味で、「自由」と錯覚されがちな「不自由」ではないか、と私は感じないではいられません。
*
なお、いったん引いた線を消す行為については、いつか「線を取り消す」というタイトルで書く予定です。
一本化されてすっきりとした線
一本化された線はすっきりしています。整然としていたり、美しかったりすることもあるでしょう。
この「すっきり」というのは、一本化される前の多様や多義や多岐や多層や多重といったものの豊かさを捨てた結果なのです。その意味で、一本化された「すっきり」とは単純さであり、「貧しさ」(上で引用した蓮實重彥の藤枝静男論にある言葉)であるとも言えます。
「すっきり」が正解であったり真実や真理であったりする保証はありません。正解や真実や真理がシンプルなものとして言葉や文字で記述されなければならない理由はないのです。
【※そもそも記述とは他の可能性を取捨した一本化という操作でしかありません。記述とは、人という限界のある存在のつくりだした有限な言葉と文字の組み合わせの可能性から、かつて誰かが既に記述した組み合わせの反復であるという意味で既述であり、豊かな対象を掬えない(すかすかしたザルなのです)という意味で救いがたく、奇術どころか詭術なのです。
数式や記号をふくむ、どんな言語もローカルなものだと言えます。言語が特定の存在に向けたものである以上、普遍的ではありえないからです。宛先が書かれていても万物に届く郵便はありません。そもそも宛先の記述法が適切だという保証がありません。】
*
自然界に一本化されてすっきりしたものがあるでしょうか。一本化された線があるでしょうか。
一本化という操作自体が不自然であり、反自然ではないかと私は思います。一本化されてすっきりした線とは、抽象なのです(点、線、図形という概念に似ています)。それも、人の頭の中にしかないという意味での抽象にほかなりません。
頭の中で描いたまぼろしをなぞり、すっきりとした線として紙面や地面に引いてみるといいでしょう。
すっきりと引かれた線も、よく見れば豊かであることに気づくはずです。線が人の外にある外だからにほかなりません。たとえ人が引いたものであっても、引かれた線は人から離れてしまいます。
すっきりというのは、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃした頭の中に一瞬だけぼんやりと輪郭の見えるまぼろしなのかもしれません。
