鏡がある限り、文字がある限り
見えるはずのないものを見ようとするとき、人は何かに魅入られている、つまり何かに取り憑かれている。その対象が存在するかしないかに関係なく――。
今回は、そういう話をします。
その「何か」の代わりに、人は「見えるもの」(たとえば時計や鏡や文字や映像です)で済ましているという仕組みについても触れます。
以上述べたことが、ネガティブな見解として受け取られるとすれば、それは本意ではありません。
人は目に見えるものだけを糧に生きているのではない、と私は言いたいのです。人は一瞬一瞬を目に見えないものを希求しながら生きている、と私は信じています。
「見えないはずのものを見ようとするとき(人のつくるものについて・05)」と「意味のある影、意味のない影」と「「代わりに」は魔法の言葉」の続編ですが、その三本の記事をお読みにならなくても読めるように書いてあります。
時計がある限り
どうして、人は時計を見つめることがあるのでしょう? どうして、時計をちらちらと何度も見るのでしょう?
時間が見えないからだと思います。時刻は見えても、時間というものは見えません。
時計は見えない時間を時刻として表示するものです。
時間から逃れられる人はいません。時間は私たちをじっと見張っている、つまり、見入っているのです。
時計がある限り、私たちは時間に「見入られている」ことになります。
「魅入られている」と言うべきでしょう。「取り憑かれている」と言っても大差はなさそうです。
目に見える時間を表示する、目に見える時計という物で、私たちは目に見えない時間をやりすごしている。そんな気がします。
鏡がある限り
どうして、私たちは鏡の前に立つのでしょう? どうして、鏡を覗きこむのでしょう?
自分が見えないからだと思います。自分の姿を直接見た人はいません。世界で一度も会ったことのない人は自分なのです。
それなのに、人は鏡に映っているのは自分だと思っています。鏡像であり虚像なのに、です。
たとえ、自分の姿が鏡に映っているとしても、目の前に見えるのは自分ではありません。
そんなふうに言葉でくり返し自分に言い聞かせても、なかなかそうだとは納得できないのが人情でしょう。
鏡がある限り、私たちは鏡に「見入られている」ことになります。
「魅入られている」と言うべきでしょう。「取り憑かれている」と言っても大差はなさそうです。
目に見える鏡像を映す、目に見える鏡という物で、私たちは目に見えない自分を見過ごし会いそびれるしかない。そんな気がします。
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いま述べた鏡を、時計、文字、映像、物語、詩歌、小説、映画、漫画、アニメ、演劇、スポーツ、ゲーム、楽曲、建築物、建造物の比喩として受けとめていただいてもかまいません。どれもが私たちを映す「影」です。
文字がある限り
どうして、人は文字が読めるのでしょう? どうして、点と線からなるインクの染みとか画素の集まりを飽きもせずに目で追えるのでしょう?
文字や文字列に意味があると思っているからです。文字や文字列に意味を見ているつもりだとも言えそうです。
(もう少し詳しく言うと、点と線からなる紙面の染みに意味のある文字を認識するのは、組織的かつ体系的な教育(主に学教教育)の結果としての「学習の成果」なのです。文字とは慣習とか制度だとも言えます。だから、言語や方言や地域によって異なった種類のものがあります。)
意味は目に見えないのにです。
たとえば、英和辞典に載っているのは、見出し語の日本語訳である文字です。それ以上でもそれ以下でもありません。
辞書で目にしているのは、文字なのです。これは国語辞典でも変わりません。あらゆる辞書に書いてあるのは意味ではなく文字です。
意味がどこにあるのかと言えば、人の頭の中かもしれません。それ以外の場所を探しても、おそらく見当たらないのではないでしょうか。
たとえ、そんなふうに言葉でくり返し自分に言い聞かせても、なかなかそうだとは納得できないのが人情というものです。
文字がある限り、私たちは文字に「見入られている」ことになります。
「魅入られている」と言うべきでしょう。「取り憑かれている」と言っても大差はなさそうです。
目に見える文字という物で、私たちは目に見えるものを見落とし、目に見えない意味を追っている。そんな気がします。
文字そのものを見ていては、文字は読めない、つまり意味を追うことができないのです。
補足:「意味は見えない」について
・辞書で言葉の意味を調べる。
・辞書に意味が書いてある。
・辞書に意味が載っている。
たとえば、上のような慣用句(決まり文句)があるために、意味は書いてあったり見えるものだと思われがちですが、意味は見えません。
辞書に書いてあったり載っているのは文字や文字列です。
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「意味が見えない」ことは「見る」に限ります。一目瞭然なのです。
手っ取り早い方法としては、たとえば「猫」(「海」でも「ウミネコ」でもかまいません)という文字をグーグルで画像検索するのをお勧めします。画像検索です。
「猫」という一文字に当てられた「猫」の画像の多さに驚かれるにちがいありません。
童話や絵本や漫画やアニメやゲームの画像もヒットしますが、間違いではありません。それも人にとっては「猫」なのです。
意味は見えませんから、「猫」の意味は見えませんが、「猫」の「意味が見えない」ということが「見える」と思います。
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意味があるとすれば、人の頭のなかにあるような気が私はします。意味とは、人の頭のなかで刻々とうつろいつつある揺らぎだとも私はイメージしています。
そのうつろいつつある揺らぎが、「猫」という文字による画像検索で「見える」はずです。
意味とは多種多様で一貫していないのです。常に揺らいでもいます。うつろいつつある揺らぎですから、視覚的にとらえられるわけでもなさそうです。だから、見えないのです。
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辞書や百科事典で、「猫」(ネコでもかまいません)という文字を見出しにして文字で記してある語義は、いわば建て前なのです。建て前と現実が食い違うことは多々あります。
語義は文字だから見えます。語義は意味ではないので、うつろうことも揺らぐこともなく、文字として固定されています。
だから、目に見えるのです。いつ見ても同じです。
意味は生きているとも言えるでしょう。ただし、見えません。おそらく人の頭のなかで生きているのです。
(生きている意味は人のなかで、うごめいている、蠢いている。そんな言い方もできるでしょう。)
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ひとさまの頭のなかを覗くことはできないので、ご自分の頭のなかで生きている意味を感じとってみてください。
見えますか? 文字のようにはっきり、すっきりしていますか? 不変だったり、普遍だったり、不偏だったりしますか?
ひょっとすると、それは「猫」という一文字で画像検索して垣間見た数知れない画像たちの揺らぎに似ているかもしれません。
映像がある限り
どうして、私たちはわざわざ電力を消費する機器で映像を撮って、それをまた電力を消費しないと作動しない再生装置の画面に映して見ているのでしょう?
簡単に言うと、どうして、私たちは映像を毎日長時間見ているのでしょう?
画面に「世界が映っている」からです。世界を見た人など一人もいないのにです。
世界は一望するには大きすぎます。身体という「限界」のなかで生きている人間は、空間的にも時間的にも世界を俯瞰できません。
「限界」(枠・境)とは、「現界」(うつつ・現実)であり「言界」(言葉・文字)であり「幻界」(思い・夢)でもあるにちがいありません。
人は一度に、複数、多数、無数の地点にも時点にもいることはできません。二つの地点と時点にさえ、存在することは叶わないのです。
人が世界を見ることができないというのは、そういう意味です。
その見えるはずのない世界を見ているような気分にさせるのが、画面に映っている映像だと言えるでしょう。
見えているのは世界ではなく、ローカルな局所なのです。一部であり一瞬を切り取った断片にしかすぎません。空間的にも、時間的にも。
人はとても小さな生き物です。短命でもあります。いまのままだと薄命な運命をたどるかもしれません。私は不安でなりません。
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世界を見た人などいないのです。それなのに、見ていると錯覚させるのが映像ではないでしょうか?
とりわけネット上で、ほぼ瞬時にほぼ同時に、投稿=配信=拡散=複製=保存されつつある映像のことです。
大切なことなので、くり返します。
ほぼ瞬時にほぼ同時に、投稿=配信=拡散=複製=保存されつつある映像――。こんな映像に見入っていれば、世界を見ていると錯覚しても無理はありません。
錯覚するのが人情というものでしょう。ここにも錯覚しまくっている者がひとりいます。
今や、映像は映っているのではなく、移っているのです。乗り移っていると言うべきでしょう。取り憑いているのです。
自分を観察しているとつくづくそう感じます。
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映像がある限り、私たちは見えないはずの世界に「見入られている」ことになります。
私たちが見入っている世界では主役は私たち人間なのです。ほかの生物や無生物たちは、そっちのけの世界です。
「見入っている」のではなく「魅入られている」と言うべきでしょう。「取り憑かれている」と言っても大差はなさそうです。
見えない「何か」の代わりに
見えないものがあれば、見えるようにすればいい。見える化すればいい――。見えないものがあれば、見えることにすればいい――。見えないものはないと考えればいい――。見えるものをつくって、それを見ることで見えない「何か」を見る――。
時計、時刻、時間。
鏡、影、自分。
文字、紙面、意味。
映像、画面、世界。
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以上のように考えたり、対策を講じることには代償があります。見えないということを棚上げして、とりあえず見えるとした代償です。
見えるはずのないものを見ようとするとき、人は何かに魅入られている、つまり何かに取り憑かれている。その対象が存在するかしないかに関係なく――。
というか、この状態が先にあって、その結果として見えるものをつくったというべきなのかもしれません。
いずれにせよ、見えないものを見えるものとするというのは、驚くべき仕組みであり仕掛けだと私は思います。
これが仕組みであり仕掛けであるとするなら、ひょっとすると、仕組まれ仕掛けられているのかもしれません。
人は人のつくるものに似ていく
人は人に似ているものをつくる、人は人のつくるものに似ていく――。
これは、私のなかでオブセッションと化している思いです。
人のつくるものは、人のなかにそなわっているものをなぞっているのではないか、とも言えます。脳をふくむ身体にそなわっているものです。
人のなかにある仕組みとか仕掛けと言い換えることもできるでしょう。もしも、そんな仕組みや仕掛けがそなわっているとするなら、人は仕組まれ仕掛けられているとも言えそうです。
何が仕組み仕掛けているのかはここでは問いません。大切なのはそうなっているかもしれないということですから。
人は自分の外に自分に似たものをつくっているかのようです。自分の外にある自分のつくったものを相手にしながら、今度は自分をその似たものに合わせていく。似せていく。
そんな気がしてなりません。
いま述べた鏡を、時計、文字、映像、物語、詩歌、小説、映画、漫画、アニメ、演劇、スポーツ、ゲーム、楽曲、建築物、建造物の比喩として受けとめていただいてもかまいません。どれもが私たちを映す「影」です。
(「鏡がある限り」より)
私たちは鏡の国に住んでいるのかもしれませんね。そこでは、あらゆるものが影なのです。
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自分を見つめてくれている見たこともない人、自分を見まもってくれている見たこともない何か、自分を抱いてくれているとてつもなく大きな何か、自分が属しているはるか遠くにある土地と遠い昔にあったにちがない時代――。
人はそうした「何か」の眼差しとぬくもりを常に感じ、そうした「何か」と確かにつながっているという思いを糧に、この一瞬一瞬を生き延びているのかもしれませんね。少なくとも、私はそうした糧を支えにして、いまここにいます。
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長い文章をここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
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