第二章「立華大学付属高校 写真部」Act.3「何故、哀しいの?」 学園小説relationship
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Act.3「何故、哀しいの?」
正午前、一時間近くが経過した頃。 午前の練習を終えたバスケットボール部の部員たちが、賑やかな声を響かせながら体育館の内扉から吐き出されてきた。ベンチに横たわる綾香に一瞬目を止める者もいたが、誰もが「見てはいけないもの」を見たかのように顔を背け、足早に外へ出ていく。
部員たちの波が途切れた直後、エントランスに一人の少女が姿を現した。 栗色の長い髪を揺らし、スレンダーな体躯をしたその少女は、稔之と交際している神崎裕美(かんざき ゆみ)だった。
「……あれ、水瀬さん?」
心配そうに駆け寄った裕美の目は、すぐに焦りに変わった。 綾香はベンチの上で深い眠りに落ちていたが、寝返りを打った拍子にスカートが膝上までめくれ、白い脚が露わになっていたのだ。 「水瀬さん、スカート! スカートがっ」 裕美は慌ててスカートを引っ張り下ろした。
「ん……神崎さん?」 綾香が気怠そうに目を開け、ゆっくりと起き上がる。 「水瀬さん、一体ここでどうしたの? 大丈夫?」 「ありがとう……。ちょっと気分が悪くて、ここで寝ていたんだ」 裕美から借りたタオルで、綾香は寝汗の滲んだうなじを拭った。裕美から漂うフローラル系のコロンの香りが、痺れていた感覚を穏やかに呼び覚ましていく。
「もう大丈夫だよ。いつも色々悪いね、神崎さん」 ボタンを付け直してもらったこともある裕美に対し、綾香は信頼を込めた言葉をかける。しかし、そのタオルを返そうとした時だった。

タオルを借りて汗を拭う水瀬綾香。
「……何、お前はここで寝てんだよ」
背後から、微かに怒気の混じった声が響いた。 振り返ると、内扉の入り口に稔之が立っていた。激しい練習のせいか顔を紅潮させ、切れ長の瞳をいつもより細めて綾香を睨みつけている。
「暑くて……ここで涼んでた」 裕美の前で怒鳴られた恥ずかしさから、綾香は小さな声で答えた。 「だからといって、こんな所で横になってんじゃねーよ!」 稔之は早足で近づくと、苛立ちをぶつけるように綾香の足の裏を靴ごと軽く蹴り上げた。 「痛っ!」 「稔之、ちょっとひどいんじゃないの?」 たまらず裕美が咎めるが、綾香はその腕を制して「私が悪いんだから」と無理に立ち上がろうとした。
しかし、急激な動作に立ち眩みが襲う。 「……っ」 よろめいた綾香の体は、上手くバランスが取れない。 その瞬間、稔之が背後から両腕を伸ばし、倒れそうになる綾香をしっかりと受け止めた。
裕美は、その光景を目にした途端、体に電流が走ったような衝撃を受けた。 綾香を支える稔之の「腕」にではなく、彼女を見つめるその「眼」に。 先程までの怒りは霧散していた。綾香の姿を映した彼の瞳は、まるで壊れやすい大切なものを見つめるようで――そして、何処までも哀しそうだった。
(……何故、あんなに哀しそうな顔をするの?)

関谷稔之と、その様子を見守る神崎裕美。
裕美の胸に、火をねじ込まれたような鋭い痛みが走る。
綾香は背中越しに、稔之の速い鼓動を感じていた。 姿勢を正そうと稔之の左手を掴む。その瞬間、お互いの熱が、感情や言葉を追い越す速度で二人の体を駆け巡った。
無意識の世界の一瞬。
綾香は一度きつく目を閉じ、それから大きく見開いた。不思議と体は軽くなっている。稔之の手を振り切り、一歩離れて向き直った。 「……色々、迷惑かけてごめんなさい」 頭を下げた綾香に対し、稔之の声は喉に引っかかったままだった。 「ああ……」 手に残る熱が、体の奥で微かに燻っている。
だが、綾香はもう稔之を見ていなかった。 「心配してくれてありがとう、神崎さん」 屈託のない笑顔で裕美に礼を言うと、綾香は白いキャップを深く被り直し、「じゃね、二人とも」と元気よくエントランスを駆け出していった。
「水瀬さん、大丈夫かな」 撮影機材を運びながら、西谷がぽつりと呟いた。 「体育館へ運んだ時、関谷君が中から何度も気にしていましたから。まあ、大丈夫でしょう」 堀田が淡々と答える。西谷と堀田にとって、稔之の綾香に対する態度は少し「構いすぎ」に映っていた。
「そういえば」と、西谷が思い出したように言葉を繋ぐ。 「関谷ってバスケ、相当上手いよね。何故、他校の強豪にスカウトされなかったんだろう」 「聞いた話なんですけどね」 堀田の声が少し低くなった。 「関谷君は中学の時、暴力事件を起こしたらしいんですよ。それで、あっちこっちの高校に受け入れを拒否されたんだとか」 「ふーん。まあ、色々あったんだろうね」 西谷は特に驚く様子もなく、歩みを止めない。この学校には、事情を抱えた実力者が集まることも珍しくないからだ。 「あくまでも噂ですけどね」 会話はそこで途切れ、二人の耳に元気な足音が近づいてきた。
「二人とも、さっきはごめん!」 強い日差しの中を走ってきた綾香が、二人に追いつく。 「気分はもういいの?」 「うん、大丈夫。午後からはもっと手伝うよ」 三人は穏やかな空気のまま、部室へと消えていった。
午後八時。自宅の最寄り駅。 撮影を終えた綾香は、心地よい疲れに包まれながら帰路についていた。 午後からの撮影では、自分から撮ることを西谷に申し出た。西谷は厳しくも的な指示を出し、それに応えるように綾香も夢中でシャッターを切った。
「……これから、もっとやる気を出して取り組むからね」
綾香は自宅の門の前で立ち止まり、道を隔てた稔之のアパートを見つめた。 一階の角部屋。隙間から漏れる明かりとテレビの音が、彼が帰宅していることを告げている。 綾香は、稔之が怒っていたのは自分の不甲斐なさへの叱咤だったのだと、彼女なりに解釈していた。
二週間もすれば、あの公園の樹も周囲に馴染むだろう。その時は、西谷や堀田と一緒に、必ず納得のいく一枚を撮ってみせる。

関谷稔之の部屋の明かりを見つめる水瀬綾香。
決意を込めて稔之の部屋を見つめ直してから、綾香はゆっくりと家の門扉を開けた。
第二章『立華大学付属高校 写真部』 完
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