第九章「深層心理」Act.1「稔之の過去(幼少編)」 学園小説relationship
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Act.1「稔之の過去(幼少編)」
六月上旬、肌にまとわりつくような蒸し暑い日の夜。 亮哉と西谷は、稔之の親友である中田伸道から、これまで誰も踏み込むことのなかった綾香と稔之の過去について耳を傾けていた。

関谷稔之と水瀬綾香の凄絶な過去を、
鋭い知性で分析する彩賀亮哉と西谷武久。
父親同士が大学時代からの親友で、勤務先も同じだった。稔之の両親が共働きだったため、幼い頃の稔之は頻繁に水瀬家に預けられることが多かった。そこで、稔之と綾香は出会ったのだ。 綾香の両親は稔之を本当の息子のように接することを決め、他の友達を呼ぶときとは違い、綾香と稔之には幼い頃から名前で呼び合うように教えた。
家庭的な綾香の母親とは対照的に、稔之の母親は才色兼備のキャリアウーマンだった。若い頃から眩いほどの美しさを放っていたが、三十歳を過ぎた頃には知性の輝きも加わり、その魅力は一層増していた。 しかし、稔之の母親が持つその美しさは、家庭の幸せを崩すきっかけとなった。ちょうど稔之の父親も仕事が一番軌道に乗っていた時期で、家庭をあまり顧みなかったことも、不幸な歯車となってしまった。
(……なんで、いつもこいつがいるんだ?)
もうすぐ五歳になろうとする稔之は、保育園から帰宅するたびに、不愉快な気分になるのが日課となっていた。 リビングには稔之の母親と、そして母親の横には、質の良さそうなメンズカジュアルを身に纏った男がソファに座っていた。 仕事先で知り合った大切なお客様だと紹介された記憶がある。しかし、子供心にも、その「お客様」が父親の不在時にばかり家にいる不自然さには気づいていた。
だが、稔之はあえて疑問を口には出さなかった。いや、出せなかったという方が正しい。稔之の母親から、言葉にできない無言の圧迫を感じ取っていたからだ。 そして、稔之も男と一緒にいる時の母親は好きではなかった。その男の隣にいる時の母親は、稔之が見た中でも一番美しかったが、反面、自分を突き放すような鋭い拒絶の雰囲気があった。
稔之は二人と目を合わせないように横をすり抜け、部屋の隅にある玩具箱に手を突っ込むと、ラジコンカーを取り出した。 「おっ、SVなんとかの最新モデルじゃないか。なかなかセンスの良いのを持ってるね」 稔之の機嫌を取ろうとして立ち上がった男を無視して、稔之はリモコンを操作した。ラジコンカーは急発進し、そのまま勢いよく男の爪先に激突した。 「っ……」 思わぬ痛みに顔をしかめた男の瞳が、一転して大変困惑した色に染まる。 「稔之! 謝りなさい」 母親の制止する声を振り切って、稔之はラジコンカーを素早く拾い上げると、外へと飛び出した。
そのまま空き地へと向かった稔之は、一人でラジコンカーを無我夢中に操っていた。 車は自由に空き地を駆け巡る。しかし、稔之の意識はそこにはなかった。喉の奥に熱い塊がつっかえ、視界は涙で曇る。 両親に甘えたくても甘えられない寂しさと、母親を男に取られたような悔しさが、五歳の稔之の心を支配していた。 涙が目から零れそうになった、その時だった。

ラジコンカーを手に、
孤独の中で涙を流す五歳の関谷稔之。
「あ、いた! としゆきー」
少し間の抜けた、でも明るい声が道路の方から聞こえた。両親が不在の時に世話になっている家の娘、綾香だ。いつもワンピースと揃いの色のリボンで長い髪を結わえている。
綾香は稔之を見かけるなり、まだ覚束ない足取りで駆け寄ってきた。 「さっき家の前を通り過ぎたの、やっぱ稔之だったんだー。お母さんがね、ホットケーキを焼いたから、おいでってー」 こっちが恥ずかしくなるような大声で話し掛けてくる。稔之は慌てて涙を手の甲で拭った。 表情を急に大人びたものに作り替える。走ると危ない、と稔之が言い出す前に、綾香は空き地の中央で見事にずっこけた。 「うう、服が汚れちゃったよ」 声は困っているようだが、綾香自身はそれほど気にしていない様子だ。座り込んでいる綾香の前に稔之は歩み寄り、手を差し出した。 「ほら、起きろよ。おばさんには、俺が一緒に謝ってやる」 綾香は迷うことなく、稔之の手を握った。稔之の掌に、柔らかい温かさが伝わる。 「ありがと。稔之はいつも優しいね」 屈託のない笑顔で礼を言う綾香。

笑顔を絶やさず、稔之の差し出す手を
見る幼い頃の水瀬綾香。
しかし、本当は稔之の方が救われているのだ。 (この子は、俺を必要としてくれているんだ) 二人は並んで水瀬家へと向かった。稔之にとって、安らぎの場はそこにしかなかった。
「なるほど。母親から得られなかった愛情を、水瀬さんに求めているのか……。実によくある話だ。そりゃ、水瀬さんも次第に重く感じてくるだろうな」
亮哉は腕を組んだまま、感情を排した冷静な口調で呟いた。それは相手を突き放すための言葉ではなく、状況を正確に把握し、綾香を救うための出口を探り当てるための、亮哉なりの誠実な姿勢だった。
(……じ、自分から頼んで話を聞いておいて、その態度かよぅ!)
亮哉のあまりに平然とした分析に、西谷は愕然とした。西谷は、密かに買っておいたペットボトルのジュースを中田に手渡しつつ、亮哉の態度に冷や汗をかく。緊迫した空気のなか、西谷はあえて少し大袈裟に中田へ苦笑いを向けることで、場の緊張を和らげようとした。
中田は気にした様子もなく、話を続けた。 「それから間もなく、稔の両親は離婚したらしい。稔は父親と一緒に水瀬さんの家の近くのマンションに移り住んで、その頃から食事は水瀬家で摂るようになった。小学校でのプールの一件は、大体水瀬さんの話と一緒だな。……稔は、中学に入ってからも、その事件を相当引きずったみたいだ」
中田の話は、稔之の中学時代へと移っていった。
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