OBSERVER(オブザーバー)|第6話 欠落
▼ログ履歴参照
LOG 05 空白
閲覧権限:承認済
LOG 06 欠落
雨だった。予報にはなかった。
降水確率:0%
監査局の予測は外れない。外れるはずがない。
なのに、雨が降っている。
窓ガラスを叩く音を聞きながら、久瀬は端末を見ていた。
表示されているのは宮坂直人。
【死亡案件No.1142】
そして、削除済みログ。本来なら存在しない領域。
七海が隣で身を乗り出す。
「ありました?」
「見つからない」
久瀬は答える。
削除日時。改ざん履歴。閲覧権限。
すべて正常。完璧だった。
だから異常だった。
「消そうと思っても消し忘れることもありますよね。死人のデータだけ綺麗すぎる」
七海が呟く。
写真。
通話。
未送信メッセージ。
閲覧履歴。
検索履歴。
最初から存在しなかったみたいに、宮坂の記録には何も残っていない。
七海が言う。
「誰かが消したんじゃなくて、消える前提で作られてたみたい」
その言葉が妙に残った。
久瀬は画面を閉じる。
同時に通知。
【異常案件発生】
会議室へ向かう。廊下は静かだった。
誰も走らない。誰も慌てない。
監査局の人間は感情を表に出さない。
合理的。効率的。
それが普通。
会議室の扉が開く。上席の山城がいた。
背筋を一切曲げない。五十代には全く見えない。
鋭い黒い瞳だけが会議室全体を射抜いていた。
「着席」
短い命令。全員が座る。
空間投影。
【新規死亡案件】
No.1148
No.1149
No.1150
部屋が静まる。また増えた。
山城が言う。
「共通点は既報と同じ」
幸福度高値。
将来予測安定。
犯罪傾向なし。
自殺リスクなし。
「全員が二十四時間以内に死亡した」
七海が小さく舌打ちする。
感情を捨てるべき監査官として、それは明確なノイズだった。だが、周囲の誰もが数字の変動として死を受け入れる中で、七海のその小さな憤りだけが、久瀬には酷くまともなものに思えた。
山城の鋭い視線が向く。
「何か」
「いいえ」
嘘だった。七海の琥珀色の瞳は、まだ諦めていない。
会議終了。人が散っていく。
上席の山城が久瀬を呼び止めた。
「久瀬」
振り返る。
「少し話がある」
七海がこちらを見る。久瀬は頷いた。
執務室。扉が閉まる。
静寂。
山城は机の上に一枚の紙を置いた。
紙。今どき珍しい。
「御影恒一を知っているか」
「はい」
「大学の研究者です」
「それだけか」
山城はしばらく黙った。
「君は彼に近づきすぎるな」
久瀬は眉をひそめる。
「理由を聞いても?」
「聞かなくていい。命令だ」
違和感。
監査局は理由を重視する。
だが今の返答は違った。命令だった。
久瀬は聞く。
「御影教授は容疑者ですか?」
山城は答えない。そして代わりに言う。
「御影は、知りすぎた。君は同じ轍を踏むな」
久瀬は納得できなかった。
「覚えておきます」
執務室を出る。
七海が前髪を気にしながら待っていた。七海が無理やり昼食に誘う。
「久瀬さん、一人で食べる派ですか?」
「そうだ」
「今日から違います」
七海は唐揚げ定食。久瀬は栄養効率だけ考えてA定食。
七海が箸をつけるたび、サクッとした軽い音と共に、香ばしい脂の匂いがテーブルに広がる。そのあまりにも生々しい生活の匂いに、久瀬の指先がわずかに強張った。
「絶対人生損してます」
「損得は数値化できる」
「じゃあ笑う回数も数値化するんですか?」
久瀬は少し笑う。
七海が久瀬を見つめる。
「宮坂さんって、きっと久瀬さんにとって大事な人だったんですね」
なぜ今、宮坂が出てくるのか。けれど、宮坂なら迷わずあの脂っこい唐揚げ定食を選んで、久瀬のA定食を馬鹿にしていただろう。そんな何の意味もないことを考えながら、栄養計算だけで選ばれたA定食を口に運ぶ。
そして久瀬は浮かない顔で言う。
「さっき、御影教授に近づくなと言われた」
七海の表情が変わる。
「それ、ますます怪しいですね」
「……ああ」
久瀬も同意した。
「そういえば、情報管理室の神谷管理官って、山城上席と仲が悪いって噂ですよね。最近見ませんね」
「三年前から地下勤務だ」
その時だった。視界の端に人影。
彼がまたいた。窓際で外の雨を見ている。
誰も気づいていない。久瀬は立ち上がって近づく。
彼は振り向かない。
「今度は教えろ。お前は何だ」
彼が笑った。聞き覚えのある声。だが思い出せない。
「君は監査官だろ。なら逆に聞く」
雨音。
「どうして雨が降っていると思う?」
彼が静かに言う。
久瀬は答える。
「気象予測の誤差」
「本当に?」
彼が笑う。嫌な笑い方だった。
「君はそういうことにしているだけじゃない?」
沈黙。
その瞬間、背後から七海。
「久瀬さん?誰と話していたんですか?」
振り返る。そこにはもう誰もいなかった。
七海が首を傾げる。七海は言いかけて、少しだけためらった。
「……またですか?」
「……」
また。
という言葉が引っかかった。
「前もあった?」
七海は少し迷った。
「……前にもありました」
久瀬の灰色の瞳をのぞき込む七海の顔に、明らかな困惑と心配の色が混じる。
「誰もいない廊下で、壁に向かって話してましたよね」
食堂の喧騒が、一瞬にして遠のいた。久瀬の心臓の音だけが、耳の奥で耳鳴りのように大きく鳴り響く。
背筋に冷たいものが走る。
彼は、本当に存在していないのか。
追っているのは世界の異常なのか、それとも、久瀬自身の脳が壊れ始めているのか。
その底知れない孤立感の中で、目の前で久瀬を心配そうに見つめる七海の視線だけが、辛うじて久瀬の輪郭をこの世界に繋ぎ止めていた。
雨音が、さらに激しく窓を叩き始めた。
久瀬は窓の外を見る。予報外の雨。
削除された記録。そして、山城の警告。
全部が繋がりそうで、まだ繋がらない。
その夜、久瀬は一人で監査局に残った。
宮坂直人のファイル。削除領域。
もう一度調べる。何時間も。
成果はない。
午前二時。一つだけ見つけた。
【K-001】
アクセス権限:不存在
完全消去領域の中で、唯一フォルダだけが残っている。
中身はない。名前だけが存在していた。
意味は分からない。
宮坂のデータの奥。最も深い場所。
そこにだけ存在していた。
開こうとする。
権限エラー。
再試行。
エラー。
その瞬間、画面が一瞬だけ乱れる。
ノイズ。
そして文字。ほんの一秒。いや、もっと短い。
それでも見えた。
《お前は、そっちへ行くな》
久瀬は凍りつく。誰の言葉か分からない。
しかしその言葉を、ずっと前から知っている気がした。
画面は元に戻る。
ログなし。
記録なし。
痕跡なし。
まるで幻覚。しかし、心臓だけが速かった。
窓の外、雨はまだ降っている。雨は朝まで止まなかった。
翌日の予報履歴には、《降雨記録なし》とだけ表示されていた。
そしてその頃。監査局最上階。
誰も立ち入らない部屋の明かりだけが、静かに灯っていた。
【観測ログ No.06】
欠落データ:検出
▼ログ更新
LOG 07 違和感
▼観測ログ一覧
