「家事支援」の資格創設に思うこと――制度の隙間を埋める“名もなき技術”を、私たちはどう守るべきか
「家事支援」に特化した国家資格が創設される。 そんなニュースが飛び込んできました。
深刻な人手不足が続く介護業界において、入職の門戸を広げ、外国人材の活用や新たな労働力を確保するという大義名分は、経営に携わる者として一定の理解はしているつもりです。
しかし、その一方で、私の中には拭いきれない「胸のザワつき」があります。 これが単なる「原点回帰」ではなく、私たちが紡いできた介護の本質的な専門性を解体する一歩になってしまうのではないか。そんな不安が消えないのです。
「生活を支える」という行為の専門性が、効率という言葉に飲み込まれ、軽視されてしまうのではないか――。 今日は、現場を預かる一人として、その想いを綴ってみたいと思います。
【現場のリアル:善意で支えられる「送り出し」の境界線】
デイサービスを運営していると、制度の「隙間」に直面することが多々あります。その最たる例が「送り出し支援」です。
本来、ご自宅での身支度や服薬確認、戸締まりはご家族の役割でした。しかし、独居世帯や老老介護(認認介護)の増加、お仕事の都合など、家族だけでは支えきれないお宅が急増しています。 通常であれば訪問介護(ヘルパーさん)の領域ですが、すでに区分支給限度額が上限で、これ以上頼めないケースも少なくありません。
すると、ケアマネジャーから切実なご相談が届きます。
「送迎のついでに、服薬の確認だけお願いできないか」
「戸締まりを一緒に見てあげてほしい」
「認知症で外出を拒まれるので、うまく促して連れ出してほしい」
これらは、現場では「はい、喜んで!」と快くお引き受けできるような、いわばお馴染みの支援です。しかし、時にその線引きは曖昧になり、戸惑うようなご要望をいただくこともあります。
「キッチンにあるカップラーメンにお湯を入れて、提供してから送迎を終えてくれない?」
「寝ている利用者様をベッドから起こし、着替えさせて車椅子へ移乗させて……」
「ご主人も腰が痛いらしいから、月に1回でいいからシーツ交換もしてくれる?」
ここまでくると、デイサービスの原則である「玄関から玄関へ(ドア to ドア)」というルールは一体どこへ行ってしまったのかと、立ち止まってしまいます。 それでも、目の前でお困りの姿を見れば、単発なら「やってきます!」と笑顔で答えてくれる、うちの優しいデイサービス職員たち。
……しかし、それが「定例」になってくると、現場を守る私の遠吠えが止まらなくなるのです。
ワォーーン!
こうした支援は現在の制度上の報酬には含まれず、多くがスタッフの「善意のボランティア」として、その肩に重くのしかかっているのが実情です。 それでも「誰かがやらねば、この方の在宅生活が壊れてしまう」という葛藤の中で、私たちは今日もその隙間を埋め続けています。
【「促し」は家事なのか、介護なのか?】
新設される「家事支援士(仮)」が、この「隙間」を埋める救世主になると期待する声もあります。しかし、私が危惧しているのは、その「質の担保」と「制度の延命のための切り捨て」です。
特に、認知症の方への「促し」は、単なる家事の延長ではありません。 拒絶する方の心に寄り添い、自尊心を傷つけず、自発的な動作を引き出す。これは、私たちが長年現場で磨き続けてきた、立派な「対人援助の専門スキル」です。これまでの介護現場では、こうした「促し」や「見守り」を、高度な専門性を伴うケアとして評価してきました。
もしこれらを「誰にでもできる安価な家事支援」として切り離してしまったら、現場はどうなるでしょうか。 家事スキルのみを持つスタッフが認知症の方の強い拒絶に直面し、対応できずに立ち尽くす。結局、その混乱を収めるのは、事情を知らずに「おはようございます!」と元気よくお迎えに行ったデイサービスの職員……。そんな情景が、容易に目に浮かびます。
上手くお連れできたとしても、デイサービス職員への支援に報酬はつかず、できて「当たり前」とされる。一方でその場に立ち会っただけに等しい(対応できなかった)スタッフへは保険内外を問わず報酬が入る…
うーん…
こうした「名もなき専門性」が正当に評価されない時代が、そんなに遠くない将来訪れてしまう気がして、私は強い危機感を抱いています。
【経営者の思惑と、守るべき誇り】
経営側から見れば、専門職(介護福祉士など)よりも安価に人員を確保できたとすれば、一見メリットに見えるかもしれません。しかし、それは裏を返せば、「生活を支えること」の価値を低く見積もることに他なりません。
「生活援助」の時間は、「ただ家事をこなす時間」ではないはずです。
掃除や調理を通じ、利用者様のわずかな歩行バランスの変化に気づく。冷蔵庫の中身(賞味期限切れの多さや偏り)から、認知機能や体調の異変を感じ取る。
そんな「気づきの技術」こそが、重度化を防ぐ介護の要でした。
正直に申し上げれば、私は訪問介護での従事経験がなく、介護資格も保有していません。(あ、無資格とカミングアウトしているわけではなく、一応、医療資格は持っているのですが…それはそれとして!)
そのため、本質を理解できていないだけなのかもしれませんし、逼迫している現場において、この新資格が打開策となる素晴らしいものになるのかもしれません。
それでも――だからこそ、現場のスタッフが日々当たり前のように発揮している、あの「専門性」とは何なのか?と悶々としてしまうのです。そこを安易に効率化して切り離すことは、介護職員の社会的評価を下げ、彼らの誇りを傷つけることになりはしないでしょうか。
【私たちが望む「将来図」とは】
新しい制度が、現場の「暗黙知」を軽視したまま進むのではなく、生活支援が持つ本来の価値を再定義するものになることを切に願います。
私が求めているのは、責任の所在が曖昧な「便利な手伝い屋」が増えることではありません。 もし新しい資格を作るのであれば、それは「身体介助ができないから家事をやる人」ではなく、「生活の中から心身の異変を捉える、生活支援のスペシャリスト」であるべきです。その定義を、丁寧に作り上げていく見通しを示してほしいのです。
「効率」や「単価」という物差しだけで、ケアを細切れにしないでほしい。 利用者様の暮らしを丸ごと支えるという、私たちの誇りを守るために。
現場を預かる者として、スタッフが持つ専門性の灯を絶やさぬよう。 そして、彼らが都合よく消費されてしまわないよう。 私はこれからも、現場の番犬としてうなり続けていきたいと考えています。
ガルゥゥゥぅぅぅ・・・・🐾
