【Re:write】第47話 街道の日常と、麓の村の噂
―絶望を、書き換えろ。
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王都の巨大な城門を抜けた瞬間、空気の質が変わった。
靴底に返ってくる感触が、硬い石畳から、少し湿りを含んだ土へ移る。
鼻の奥に残っていた鉄と油の匂いが薄れ、代わりに青草と土の匂いが、肺の奥まで入り込んできた。
城壁の内側で押さえつけられていた音が、背後へ遠ざかっていく。
道は、ゆるく西へ伸びていた。
両脇には草が揺れ、朝の光を受けた葉先に小さな露が残っている。遠くの丘は淡い緑にかすみ、荷馬車の轍に溜まった水が、空の色を細く映していた。
ドレイクの歩幅が、少しだけ広くなった。肩に担いだ荷の重さを確かめるように一度揺すり、首を鳴らす。
エラーラはすでに目を輝かせ、道端の石や草や虫まで、世界の秘密の破片のように見ていた。
アリアは風に乱れた髪を押さえ、白い頬に差した陽を受けて、小さく息を吸った。
ドレイクの肩の上では、ミミが両手を広げている。
「ひろーい!」
その声が、街道の上で明るく跳ねた。
「落ちるなよ」
「おちない!」
「落ちる奴は、だいたいそう言うんだ」
ドレイクがそう言うと、ミミは少しだけ彼の頭にしがみついた。ドレイクは文句を言いかけ、結局そのまま歩いた。
旅立ちの朝には、妙な軽さがあった。まだ疲労はなく、荷は整っていて、空は高い。これから先に何があるかを誰も知らないからこそ、最初の一歩だけは、どこか無責任に明るかった。
その軽さに、カイの声が平坦に差し込む。
「――観測を開始する」
ドレイクが肩を落とした。
「出たぞ」
カイは手元の羊皮紙を確認しながら、歩調を一定に保っていた。
「現時刻をもって、目的地ストーンヒルへの移動プロセスへ移行する。歩幅、休憩頻度、食料消費、日没前の到達可能距離を管理する。無駄な寄り道は許容しない」
「旅の初日くらい、もう少し景気よく言えねえのか」
「管理精度を落とす理由がない」
「景気の話をしてるんだよ」
「士気管理か」
「そうだよ。今それをしてくれ」
カイは少し考えた。
「予定通り進めば、日没前には宿に到着できる。野宿の確率は低い」
「景気が悪い」
エラーラが、そこで予定経路から外れた。
彼女は道端の岩塊へ駆け寄り、鞄から水晶レンズを取り出して表面に押し当てる。膝をつき、吐息でレンズを曇らせ、陽光の角度を変えながら岩肌の結晶を覗き込んだ。
「待って、これはすごいよ。古代の隕石片か、あるいは魔力変質を受けた堆積岩かもしれない。カイ、ウンディーネの凍結昇華で表面の水分を飛ばして断面を――」
「却下だ」
カイは歩調を緩めなかった。
「任務は廃鉱山の調査だ。石拾いではない。予定経路から三歩以上逸脱する行為は、全体の行程に無視できない遅延を生じさせる」
「たった三歩じゃないか!」
「現在、七歩逸脱している」
エラーラが足元を見た。
「……戻れば三歩になる?」
「ならない」
「ならないのか」
ミミがドレイクの肩の上で、指を折り始めた。
「いち、に、さんぽ」
「お前は数えなくていい」
「さんぽまでならいい?」
「よくねえ」
アリアが笑いをこらえながら、エラーラの袖をそっと引いた。
「エラーラさん、帰りに見ることはできませんか?」
「帰りには光の角度が変わっているかもしれないんだよ。今しか――」
「置いていく」
カイの一言で、エラーラは岩に未練を残したまま立ち上がった。歩きながら何度も振り返るので、ドレイクが呆れたように息を吐く。
「石に振られた女みてえな顔をするな」
「失礼だな。まだ告白もしていない」
「するな」
街道には、王都の中にはなかった音があった。
土を踏む音。草が靴に触れる音。遠くで鳥が羽ばたく音。荷の革紐が、歩調に合わせて小さく鳴る。ウンディーネはカイの肩で透明な羽を揺らし、時折、日差しを受けて小さな虹を散らした。
昼近くになると、陽は高くなり、道の白い砂粒がまぶしく光り始めた。アリアの額にも薄く汗が滲み、彼女は首元に手を当てて、小さく息を吐いた。
それを見たウンディーネが、ぷるりと震える。
次の瞬間、アリアの周囲に細かな水滴が生まれた。霧よりも薄いそれは、彼女の髪や首筋に触れる前に、陽の熱でふっと消える。気化熱が空気を少しだけ冷やし、アリアは目を細めた。
「ありがとう、ウンディーネちゃん。涼しいです」
ウンディーネは得意げに胸を張った。胸がどこかは、誰にもわからなかった。
「便利だな、あいつ」
ドレイクが言う。
「生活支援能力は高い」
カイが即座に答えた。
「評価項目に追加する」
「あいつを道具みたいに評価するな」
「能力評価だ」
「言い方の問題だ」
アリアは笑いながら道端へ目を向けた。そこには、紫色の小さな花が群生していた。細い茎の先に薄い花弁が重なり、風に揺れるたび、光の加減で色が少し変わる。
「綺麗ですね」
アリアの指が、花へ伸びた。
「触れるな」
カイの声が、いつもより早く出た。
アリアの指が、花弁の数ミリ手前で止まる。彼女は驚いて、ゆっくり手を引いた。
「その花弁の腺毛には毒がある。致死性ではないが、触れれば皮膚が爛れ、数日は炎症が残る。その距離以上、近づかない方がいい」
「そ、そうなのですか……」
アリアは胸の前で手を握り、少しだけ花から距離を取った。指先がかすかに震えているのを見て、カイは花と彼女の手の間に立つ位置を、わずかに変えた。
ドレイクが大きくため息をついた。
「いいか、ミミ。ああなっちまったら、人間おしまいだ」
「どれ?」
「花を見て綺麗だと思う前に、毒性と炎症期間を言う大人だ」
「どくはだめ!」
「そこじゃねえ。いや、そこも大事だが」
アリアが困ったように笑い、カイは無表情のまま言った。
「安全情報は必要だ」
「必要だが、順番ってもんがある」
「毒に触れた後では遅い」
「正論で旅情を粉砕するな」
エラーラが横から身を乗り出した。
「でも、その毒性は興味深いね。花弁の腺毛だけに局在しているなら、採取方法を工夫すれば薬効成分を――」
「採取しない」
「まだ何もしてない!」
「する顔だった」
「ドレイクと同じことを言うな!」
ミミがドレイクの頭の上で、紫の花をじっと見つめていた。
「きれい。でも、さわらない」
「よし。お前はまともな大人になれる」
「どくはだめだから」
「理由はまあ、それでいい」
風が吹き、紫の花が一斉に揺れた。アリアは今度は触れずに、それを見ていた。カイも一瞬だけ視線を向け、すぐに前方へ戻す。
旅は、そうして進んだ。
昼の光は少しずつ傾き、街道の草の色が深くなる。王都の塔は背後で小さくなり、前方には鉱山の稜線が、低く黒く見え始めていた。笑い声はまだあったが、歩くほどに空気は乾き、道の傾斜はわずかに重くなっていく。
夕暮れが近づくころ、一行は鉱山の麓にある村、ストーンヒルへ到着した。
石造りの家が、山肌にしがみつくように並んでいる。壁は灰色で、窓は小さく、煙突から上がる煙も細い。村の入り口に立つ古い標柱は傾き、文字の半分が風雨で削れていた。
王都近郊の村にしては、音が少なかった。
子どもの声がしない。鍛冶場の槌音もない。家畜の鳴き声は遠くに一つ聞こえるだけで、すれ違う村人たちは、こちらを見るとすぐに目を伏せた。好奇心ではない。警戒とも少し違う。何かを言いかけて、喉の奥で止めるような視線だった。
アリアの歩調が、わずかに遅くなる。
「……静かですね」
「鉱山町にしては、静かすぎる」
ドレイクの声も低くなっていた。
カイは周囲を見回した。閉じられた雨戸、泥のついたまま放置された荷車、入口に立てかけられた古いツルハシ。どれも壊れてはいない。ただ、使われる途中で手を離されたように見えた。
宿屋兼酒場は、村の中央にあった。
木製の重い扉を押すと、蝶番が低く軋んだ。中は薄暗く、暖炉の火だけが赤く揺れている。客は数人いたが、誰も大きな声を出していなかった。杯を前にして座り、こちらを見て、すぐに目を逸らす。
カウンターの奥では、年老いた主人が木のカップを拭いていた。
擦り切れた麻布が、木肌をこする。
キュッ、キュッ。
乾いた音が、妙にはっきり聞こえた。
アリアが一歩前に出た。旅の埃を払うように服の裾を軽く整え、できるだけ柔らかい声で話しかける。
「あの。冒険者ギルドの依頼で、ロスト・アンヴィル鉱山の調査に参りました。何か、ご存じのことはありませんか」
主人の手が止まった。
布はカップに当てられたまま、少しだけ形を歪めている。彼はしばらくアリアを見て、それからカイたち一行を順に見た。ミミのところで一瞬だけ目が止まり、深い皺の奥の瞳が、さらに暗くなる。
「……また来たのか。ギルドの連中が」
声は、長く使われた戸板のように乾いていた。
「また、ということは、他にも調査隊が?」
カイが尋ねる。
主人は答える前に、カップを置いた。音は小さかったが、酒場の中ではよく響いた。
「やめておけ。あの山は、もう駄目だ」
ドレイクが腕を組む。
「駄目、ってのは?」
「呪われてる」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
アリアが息を呑む。エラーラは目を細めたが、いつものようにすぐには口を挟まなかった。
「呪い、か」
カイの声は平坦だった。
「昔は、ゴブリンが出るくらいだった。厄介ではあったが、分かりやすい厄介さだ。足跡が残る。糞も残る。盗まれたものも分かる」
主人は、そこまで言って喉を鳴らした。
「だが、一月ほど前から様子がおかしい。夜になると、鉱山の奥から歌が聞こえてくる」
「歌……?」
アリアの声が小さくなる。
「ああ。人間の歌じゃない。獣でもない。耳の奥を細い針でかくような音だ。聞いていると、頭の中に知らない言葉が増えていく気がする」
酒場の客の一人が、杯を持つ手を止めていた。もう一人は、目を伏せたまま指で机の傷をなぞっている。誰も笑わない。誰も否定しない。
主人は続けた。
「山に入ったまま、帰ってこねえ奴もいる。先月も、銀等級の連中が来た。あんたらより慣れて見えたよ。装備もよかった。笑っていた。朝に入って、それっきりだ」
ミミが、ドレイクの上着の裾をつかんだ。
ドレイクは何も言わず、その小さな手の上に自分の手を重ねた。
「ギルドには?」
カイが聞いた。
「伝えたさ。だが、山は山だ。鉱山は金になる。誰かが確かめなきゃならねえ。だから、こうしてまた来る」
主人は布を取り上げ、再びカップを拭き始めた。
キュッ、キュッ。
「忠告はした。行くってんなら止めねえ。だが、命が惜しけりゃ、あの山の歌には耳を貸すな」
その言葉の後、酒場に沈黙が落ちた。
カイは、建付けの悪い窓の前に立っていた。細く開いた木枠の隙間から、夕闇に沈む山の稜線が見える。黒い輪郭は、空の色が失われるにつれて、少しずつ大きく見えた。
(歌。未知の音波。精神干渉。銀等級の未帰還。事前情報と現地証言が、大きく乖離している、か。)
窓枠が、がたついた。
隙間から冷たい風が入り、ランプの火がわずかに揺れる。その音はただの風のはずだった。だが、歪んだ木枠を通るせいで、どこか声に似ていた。
アリアが、無意識に胸元で手を重ねた。エラーラは唇に指を当て、何かを考えている。ドレイクは暖炉の方を見たまま、ミミの手を離さなかった。
窓の外で、村の灯りが一つ、また一つと点いていく。
あいだを開けて並ぶ、灯りは小さかった。
石造りの家々は黒い山の影に押し込まれ、細い道は暗がりに沈んでいく。酒場の窓から漏れる光も、外へ出るとすぐに薄くなり、冷たい風の中で頼りなく揺れた。
視線は村の屋根を越え、古い標柱を越え、乾いた畑を越えて、さらに奥へ引いていく。
ロスト・アンヴィル鉱山は、夜の底に口を開けていた。
その上にかかる黒い山だけが、歌を呑み込んだまま、黙って村を見下ろしていた。
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