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【Re:write】第46話 賢者の食卓と、職人の眼

―絶望を、書き換えろ。


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王都の市場は、色と匂いで膨れ上がっていた。

赤い香辛料の粉が木皿の上に山を作り、焼けた脂の甘い匂いが、乾いた香草の匂いと混じって通りを流れている。
布屋の軒先では染め抜かれた布が風を受け、果物屋の籠には黄色い果皮が積まれ、商人たちの声が屋根布の下で跳ね返っていた。

その喧騒の中を、カイたちは進んでいた。

目的は、次の廃鉱山調査に必要な物資の調達だった。
食料、燃料、縄、照明、工具。必要なものは多く、使える金と持てる重量には限界がある。
市場の匂いは豊かだったが、カイの頭の中では、すでに数字が乾いた音を立てて並んでいた。

「……計算が合わない」

干し肉と保存食を積んだ屋台の前で、カイが足を止めた。
彼は硬く縮んだ肉片を指でつまみ、断面を見ながら、重量と熱量と腐敗リスクを頭の中で並べ替えていた。

「廃鉱山までの往復、調査期間、予備日を含めると、最低でも十日分の熱量が必要だ。だが人数分を揃えれば、積載重量が限界に近づく。この加工状態では内部水分が残っている可能性もある。腐敗リスクは無視できない」
「飯を前にして、そこまで顔をしかめる奴を初めて見たぞ」

ドレイクが、カイの背中をばしりと叩いた。乾いた音が、屋台の板にまで響く。

「食い物は命の次によ、大事なもんだ。ここで金を惜しんで、腹が減って動けなくなったら元も子もねえだろうが」
「非効率な重量増加は、行動時間を削る」
「腹が減ったら、その行動時間ごと死ぬ」
「栄養密度の話をしている」
「こっちは、生きて帰るための話をしてる」

ドレイクは屋台の親父に顎をしゃくった。

「それに、ここの燻製は悪くねえ。親父の顔は胡散臭いが、肉は信用できる」
「旦那、顔は余計だ」
「肉は褒めただろ」

屋台の親父が渋い顔をし、アリアが小さく笑った。
市場の熱気の中で、その笑いだけが少し涼しく聞こえる。

「ドレイクさんの言う通りです。たまには、美味しいものも必要だと思います」
「嗜好品としてなら理解する。だが主食としては――」

そこで、カイの言葉が止まった。

視線が、屋台の干し肉から自分の肩へ移る。
そこには、水の小鳥――ウンディーネが、透明な羽を畳んで止まっていた。
身体の中に閉じ込められた小さな泡が、光を受けてゆっくり上へ昇っていく。

カイの目が、わずかに細くなった。

「……待て」
「また何か始まったぞ」

ドレイクが、半ば諦めたように言った。

保存食の本質は、腐敗の媒介となる水分をいかに抜くかにある。
熱で乾かせば肉は軽くなるが、タンパク質は変性し、風味も落ちる。
必要なのは、焼くことではない。
水だけを取り除くことだった。

カイは踵を返し、屋台の親父に向き直った。

「生の鹿肉を一塊。できるだけ新鮮なものを」
「干し肉じゃなくてか?」
「生でいい」
「お前、今の話を聞いてたか?」

ドレイクが眉を上げる。

「聞いていた。だから生肉を買う」
「会話の接続がおかしいんだよ」

鹿肉を受け取ったカイは、そのまま市場の裏路地へ入った。
日陰の石畳は表通りより冷えていて、樽の隙間に溜まった古い水から、酸っぱい匂いが薄く立っている。

「カイさん? いったい何を……」

アリアが戸惑う横で、カイは鹿肉を石畳の上に置いた。赤い塊が、鈍い音を立てる。

「ウンディーネ。この肉塊から、水だけを奪え。凍らせて、気体に変えろ」
「言い方が物騒なんだよ、毎回」

ドレイクが腕を組む。

ウンディーネは、カイの肩からふわりと降りた。
透明な身体が薄く広がり、鹿肉の表面を包み込んでいく。肉の赤い色が、水膜の向こうで少し歪んだ。

ぱき、と細い音がした。

肉の表面に白い霜が走り、次の瞬間、冷たい霧が石畳の上へ吹き出した。熱はない。火もない。ただ、鹿肉の表面から水分だけが抜け、白い煙のように空気へほどけていく。

ドレイクの顔から、軽口が消えた。

鹿肉はみるみる縮み、赤みを濃くしていった。
表面に小さな穴が開き、繊維の奥まで乾いていく。
数秒後、そこに残ったのは、もとの三分の一ほどに縮んだ、軽石のような肉だった。

「……なんだ、こりゃ」

ドレイクが指でつつく。乾いた表面が、かすかに崩れた。

「凍結昇華だよ!」

最初に声を上げたのは、エラーラだった。彼女はいつの間にかルーペを取り出し、鹿肉の断面に顔を近づけている。近すぎる。

「熱をかけずに、水分だけを固体から気体へ移している。細胞構造の崩壊も少ない。これは干し肉じゃない。携行食の概念に穴を開けた保存食だよ。カイ、あんた今、食料保存の歴史を踏んだんだぞ!」
「踏んだ覚えはない。処理しただけだ」
「その言い方!」

アリアは鹿肉ではなく、ウンディーネの方を心配そうに覗き込んでいた。

「ウンディーネちゃん……お肉の水分を食べてしまったのですか? お腹は大丈夫ですか?」

ウンディーネは、満足そうにぷるんと震えた。

「問題なさそうだ」
「それで判断していいのでしょうか……」

ドレイクが、乾いた鹿肉をひとかじりした。最初はさくりと砕け、すぐに口の中の水分を吸って戻っていく。肉の匂いが濃く立ち、彼の眉がわずかに動いた。

「……うめえ」
「評価を続けてくれ」
「そこらの安物より、よっぽどうめえ。軽いし、腹にも溜まりそうだ。こいつは、とんでもねえ調理器具だな」

アリアが慌ててウンディーネを抱えた。

「調理器具ではありません」
「じゃあ何だ」
「……大切な子です」

ウンディーネが、またぷるんと震える。ドレイクはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。

カイは鹿肉の重量を確かめ、羊皮紙に数字を書き込んだ。
積載量、必要食数、水戻し時間、再現性。線が増えていくのを見て、ドレイクが横から覗き込む。

「おい。まさか全部それで済ませる気か」
「効率は高い」
「味の変化も要る。人間は歯車じゃねえ」
「栄養的には――」
「歯車じゃねえ」

カイは、少しだけ黙った。

「……香辛料は買う」
「よし」

ドレイクが勝った顔をした。
アリアは笑いを噛み殺し、エラーラはまだ鹿肉の断面を観察している。
こうして食料問題は、予定よりも奇妙な工程を挟みつつ、ひとまず解決した。

次に向かったのは、武具と冒険道具の区画だった。

市場の空気が変わる。
果物と布の明るい色は減り、代わりに鉄と革と油の匂いが濃くなった。
店先にはロープ、ピッケル、ハーケン、革手袋、カンテラが並び、通りを歩く者の足音も、どこか低く響いている。

ドレイクの足が、そこで止まった。

「――ここからは、俺に任せろ」

その声には、さっきまでの軽さがなかった。

ドレイクは店先のロープを一本手に取り、繊維の撚りを指の腹で押した。
曲げ、戻し、耳元で軽く鳴らす。
その仕草には無駄がなく、カイやエラーラの計算とは別の精度があった。

「ダメだ。見かけだけだな。芯の麻が死んでる。岩肌に擦れりゃ、一発で切れる」

店主の笑顔が固まる。

「いや、旦那。そいつは王都でもよく出る品で――」
「よく出る品と、死なねえ品は違う」

ドレイクの指が、店の奥へ向いた。埃をかぶった束が、棚の下段に押し込まれている。

「あれを見せろ。奥のやつだ。ドワーフ製の、本物」

店主は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに奥へ引っ込んだ。
戻ってきたロープを受け取ると、ドレイクは同じように撚りを押し、曲げ、戻し、今度は無言で頷いた。

「これだ」

それから先は、ほとんど選別だった。

ピッケルは柄の重心と刃の根元を見て、硬すぎるものを弾いた。
ハーケンは金属の密度と先端の食いつきを確かめ、カンテラ用の油は粘度と匂いで選んだ。
革紐は引き、ねじり、戻りを見る。
留め具は爪で弾き、音の濁りを聞く。

理論では届かない場所を、ドレイクの指と耳が通過していく。

カイは羊皮紙の端を押さえたまま、その手元を見ていた。任せられる判断がある。その事実が、肩の奥に残っていた力をわずかに抜いた。

「おい、カイ」

ドレイクが振り返る。

「何を見てる」
「選定基準を観察していた」
「真似できるか?」
「今は無理だ」
「正直でよろしい」

ドレイクは鼻を鳴らし、選んだロープを肩にかけた。

「道具はな、壊れる前に声を出す。そいつを聞けねえ奴が持つと、道具も人間も死ぬ」

エラーラが腕を組んだ。

「経験知の蓄積か。面白いね。理論化できれば――」
「するな」
「まだ何も言ってないだろう」
「顔が言ってる」

アリアは選ばれたロープにそっと触れた。指先で撚りをなぞり、その丈夫さを確かめるように、少しだけ力を込める。

「これなら、みんなで帰ってこられますか?」

ドレイクは、少しだけ間を置いた。

「帰るために選んでる」

その言葉の後、誰もすぐには喋らなかった。
店先の奥で、鍛冶場の槌音が一度だけ響き、鉄の匂いが冷えた風に混じった。

その夜、エラーラの工房で、旅の荷は整えられた。

机の上には、乾いた鹿肉の袋、香辛料、ロープ、ピッケル、ハーケン、油壺が並び、羊皮紙にはカイの細かい字が隙間なく走っている。
エラーラの工具は、その隙間を当然のように占領していた。

「だから、その試験片は食料袋の上に置くな」
「大丈夫だよ。まだ爆発しない」
「まだ、という副詞を撤回しろ」
「細かいなあ」
「爆発物管理において、細かさは最低条件だ」

工房の片隅では、ミミがウンディーネの作った干し肉を両手で持ち、小さな歯でさくさくとかじっていた。
ひとかじりするたびに目が丸くなり、次のひとかじりまでの間が、少しずつ短くなっていく。

「おいしー!」

アリアの膝の上で満足そうに目を細めたあと、ミミはふと思い出したように顔を上げた。

「……アリアおねえちゃん。こんどは、おさかな、ほしいな」

カイのペン先が止まった。

一拍置いて、彼は羊皮紙の余白に新しい項目を書き加える。

「魚介類の保存試験」

ドレイクがそれを見た。

「やる気か」
「要求が出た」
「子どものおねだりを研究項目にするな」
「需要調査だ」

アリアが困ったように笑い、ミミは干し肉をもう一口かじった。ウンディーネはテーブルの端で、透明な身体を丸くしている。

ランプの火が揺れた。

五人の影が工房の壁に伸び、数式の書かれた紙や吊るされた歯車、天井でゆっくり回る惑星模型の上を横切っていく。
油の匂い、乾いた肉の匂い、冷えた鉄の匂いが混じり、誰かの笑い声が小さく残って、それから静かに消えた。

窓が鳴った。

夜風が木枠を軽く叩いている。工房の外には、王都の夜が沈んでいた。石造りの建物は黒い塊になって重なり、路地は細く、屋根は暗い。

その中で、エラーラの工房の窓だけが光っていた。

薄い硝子の向こうで、影が動く。やがて、その動きも小さくなる。

風が通る。

灯りは消えない。

さらに遠く、城壁の線は夜に溶け、王都の屋根が黒い波のように連なっている。
その上で、星だけが音もなく瞬いていた。


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